第27話 馬謖、遁走する

「お言葉ですが、丞相のご命令は本隊が到着するまで、ここ街亭を保持することであった筈です」

 馬謖の副将となった王平は、頑迷とさえ思える態度で主将の命令を拒否した。


 ちっ、と舌打ちした馬謖は絵図面の一点を指差した。街亭よりも更に長安へ向かった辺りだった。


「これを見ろ。この丘は大軍を迎え撃つに絶好の地形ではないか。ここに拠れば魏軍を逆落としに攻撃出来るのに、なぜそれが分からぬ。お主は兵法書を読んだことがないのか。おおそうか、王平どのは字が読めないのだったな」


「…………」


 王平は沈黙した。彼はもともと口が達者な方ではない。こんな、口から先に生まれたような男に対抗できる訳もなかった。


 馬謖はそれを見て得意げに唇の端をゆがめた。

「よいか。もし、おれの方針に異議があるなら書面で申し出ろ。いや。今ここで、なぜおれの命令に従えないのか文章にするがいい。おれを納得させる事ができたなら、それに従ってやってもいいぞ」


 戦地で生まれ、戦場で育った王平は自分の名前の他には僅かしか文字を知らない。文章を書き記すなど不可能だった。

「文字も書けないような蛮人が、偉そうにおれに意見するなど片腹痛い。さっさと戻って陣を移す準備をするがいい」


 王平は青ざめた顔で馬謖を見返す。

「だが、あなたの作戦は間違っている。……わたしは街亭に陣を構えます」

 きっぱりと言い切った。


 おのれ、馬謖は身体を震わせた。

「よかろう、好きにするがいい。だが、必ず軍法違反の咎で獄に入れてやるからな。覚悟しておけ」

 王平は黙って本陣を出た。


 文字を知らないと云われる王平だが、彼は『史記』や『漢書』そして『孫氏』『呉氏』までそらんじることができた。これは、典籍に詳しい者を身近に置き、常にそれらの書物を音読させていたからだった。


「今から文字を憶えるより、この方が早いだろう」

 王平は真面目な顔で向寵に言った事がある。

「それは、そうですよね」

 これには向寵も納得するしかなかった。文字を憶え、それから兵書を学んだのでは、一体いつになったら蜀のために働けるようになるのか分からない。


 これより後の事になるが、王平は傾きかける蜀を最後まで支え戦い続ける、まさに柱石というべき名将となった。


 彼については、几帳面な性格であったが、その割にどこか抜けている、という評が残っている。真面目なだけに、やたらと思い込みが激しいところがあったのかもしれない。


 ☆


 報告を受けた張郃と司馬懿は、しばらく無言だった。


「街亭には小部隊を残し、本隊は山に登っているだと」

 うーん、と張郃は図面を睨みつけ、呻いた。蜀軍の意図が分からなかった。

「どう思われる、司馬懿どの」


「これは、分かりませんなぁ」

 司馬懿も無意識に眉毛を抜きながら首をかしげた。普通に考えたら、これは兵書に云う『死地』なのである。


「おそらく、罠ということだろうな」

 そういう結論になった。

「あのー、恐れながら。意見を述べてもよろしいでしょうか」

 そこへ新人参謀の郭淮かくわいが口をはさんだ。


「これって、つまり……バカと煙は高い所を好む、という事ではありませんか?」

「なんだと!!」

 司馬懿と張郃は同時に声をあげた。

「いやいや。あの堅実な諸葛亮が、あり得ないだろう」

 司馬懿は泣き顔とも笑い顔ともつかない表情をしている。


「ですが、わたしは、あの将軍が勝手に行動しているのではないかという気がします」

 郭淮は自信ありげに言った。

「ご覧ください、ここは一見絶好の布陣場所に思えるではありませんか」


 そこでやっと司馬懿と張郃も気付いた。

「なるほど。兵書のことばをそのまま受け取れば、ここに布陣するのも理解できなくはない」

「ですが、張郃将軍。本当にそんな事があり得るのですか」

 司馬懿はまだ半信半疑だった。

 だとしたら、どんな間抜けだ。司馬懿は蜀のために腹立たしく思った。


「さては、お前もここに布陣すべきと思っていたのではあるまいな、郭淮」

 張郃の言葉に郭淮はあからさまに目を逸らした。

「ま、まさか。そんな。私だって素人じゃないんですから。まあ、……最初だけ、ちょっと、いいかなー、とか思いましたけど」

 司馬懿と張郃は同時にため息をついた。


「どこも人材が払底しているらしいな」

 張郃は老将らしく嘆いた。


 ☆


 蜀軍の意図を読み取った魏軍は、迷わず馬謖の拠る丘を囲んだ。


「ふん、思ったとおりだ。よし、攻め込め!」

 馬謖は全軍に攻撃の指示を下した。蜀軍は猛然と魏軍に向けて逆落としをかけた。人馬共に、急勾配の坂を一気に駆け下りる。


 普通であれば山を駆け下る勢いで攻め上って来る敵軍を圧倒できる筈だった。しかし、魏軍はそこに居なかった。

 「あ、あれ?」

 平野に降り立った蜀の将兵は辺りを見回した。

 いつの間にか魏軍は陣を引き、山裾から距離をとっていたのだ。


 全力で山を駆け下ってきた蜀の将兵は、自分達がただ単に平地で大軍に囲まれているだけだという事に気付いた。

「て、撤退!」

 指揮官が絶叫する。

 兵士たちは絶望的な悲鳴をあげ、今下って来たばかりの急斜面を這いあがり始めた。そこへ魏軍の弩弓から放たれた矢が雨の様に襲う。

 次々に蜀兵は倒れた。


「なぜだ。兵書の通りに布陣した筈なのに」

 馬謖は虚ろな顔で、その場に崩れ落ちた。その彼に、さらに致命的な事実が馬謖に告げられた。

「この山には水場がありません」

 馬謖率いる蜀の先陣は、兵糧も水もない山の上に孤立する事になった。


 王平は残された少数の兵で街亭を固めていたが、数倍もの魏軍に迫られ、ついに撤退を決意する。

 もし戦っても貴重な戦力を無駄に失うだけだと冷静に判断を下したのだ。

 だが、簡単に撤退する王平ではなかった。漢中へ向かう峡谷の入り口になる、両側から山裾が迫った狭隘な地に陣を移し諸葛孔明の本軍を待つことにした。


「丞相が来るまで、絶対にここを守りぬくのだ」


 馬謖と王平。それぞれが持久戦に入った。

 どちらも勝ち目のない戦いだった。だがそれは全く目的を異にしていた。


 最初に崩れたのは馬謖の陣だった。

 白旗を掲げ、軍をあげて魏に投降した。


 だがその中に馬謖はいなかった。彼は配下の将兵を残したまま、夜陰に紛れひとり逃亡したのだった。




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