第26話 街亭を占拠せよ

 この頃、魏でも大きな出来事が起きていた。

 初代皇帝 曹丕そうひが歿し、その嫡子 曹叡そうえいが第二代魏国皇帝となったのだ。曹丕は文帝と諡され、魏王であった曹操にも武帝の名が贈られた。

 後世、曹操が『魏武』と称されるのはこの事による。


 ☆


「諸葛孔明が長安を狙って進軍している!」

 その噂が雷撃の様に魏の朝廷を駆け抜けた。


「まさか、劉備を失った蜀にそんな力が残っている筈がないであろう」

 魏の多くの廷臣がそう考えたのも無理はない。国外に伝わる諸葛亮とは、厳正な法の執行に基づいて国政を過たず運用する能吏、という印象しかなかったのだ。


 稀代の天才軍師 諸葛亮孔明、というのは後の世に造られた偶像に過ぎない。


 だが北上する蜀軍の先陣は、かの趙雲だという。かつて曹操率いる大軍の中から単騎で劉禅を救い出した、その恐るべき武勇は未だに語り継がれている。

「やつらは本気だ」

 魏の大将軍、曹真そうしんはそれを聞いて顔色を失った。


「どうやら蜀軍は二手に別れ、進軍している模様です」

 曹真はその声に振り返った。

「なんだ、司馬懿ではないか。だからどうしたと云うのだ」


「一軍は直接長安へ向かい、もう一軍は涼州へ向かっております」

 年齢以上に老けて見えるこの男は、静かな口調で報告する。涼州とは、中華の西の果て、西域に接した地方をいう。

「つまり、どちらかが陽動でございましょう」


「ならば決まっておる。長安へ向かっている方が本隊よ。この方面はわしが防ごう。西涼の辺境は司馬懿、お主が行け」

 司馬懿は黙って頭を下げた。

「では張郃どのの軍をお借りしたい」

 ふん、と曹真は笑った。

「あの老いぼれか。好きにしろ」


 元来、張郃は袁紹の配下として、曹操とも戦ってきた歴戦の武将である。袁紹の敗死後は曹操に帰属し、以来、赫々たる戦功を積み重ねていた。

 曹操軍の中核的な武将としての地位を確立した張郃だったが、漢中の定軍山の戦いで主将の夏侯淵を蜀の黄忠に討たれるという、思わぬ失策を犯してしまった。更には若手武将の台頭もあり、しばらく一線から遠ざかっていた。


「この私を、……なんと、かたじけない事にござる」

 だがその言葉とは裏腹に、張郃の眼光には衰えは見られなかった。

「これは、長安に向かった軍がおとりですな」

 蜀軍の布陣を聞いただけで張郃は断言した。


「これは困ったことになりました。主力を引き受ける事になりますぞ、司馬懿どの」

「ふふ。まったく困っているようには見えませんが、張郃将軍」

 さて、どうでしょうな、張郃も司馬懿と共に笑みをみせた。


 ☆


「私が、ですか」

 緊張した声で馬謖が言った。

「そうだ。貴公は先行し、街亭を押えるのだ。ここは長安への街道上にある最も重要な地点である。ここを確保出来るか否かが、この戦いの帰趨を決めるといってもよい」

 

 趙雲の軍が長安を襲うと見せかけ、魏の主力軍を引き付ける。その間に諸葛孔明の本隊は西へ迂回しながら関中平野に進軍するのだ。馬謖の軍はその足掛かりとなる拠点を確保するのが目的だった。


「お、お任せくだい。必ずやり遂げてみせます」

 顔を紅潮させている馬謖を見ながら、孔明はまた劉備の言葉を思い出した。


「馬謖には重要な仕事を任せてはならん。やつの才には実態が伴っていない」

 劉備は何度も孔明に言ったものだ。


 孔明もそれは分かっていた。だが、ここは馬謖に任せてみたかった。これをきっかけにして、馬謖がその才能を本当に開花させたなら……。自分の後任として、蜀を任せられるのではないか。

 孔明をして、そう期待させるものが馬謖にはあったのだろう。


 馬謖は王平を副将として街亭へ急行する。

 一方、魏軍も街亭の重要さに気付かぬ訳がない。張郃もこの要衝を奪うべく急遽、長安を発していた。


 ☆


「これはネコどの。これから、よろしくお願いいたしますぞ」

 粘りつくような視線と、陰湿な含み笑いに向寵は髪の毛が逆立った。


(これは……妖怪ではにゃいのか)


 半人半猫の向寵でさえ、この者の持つ異様さには、おぞ気が走った。

 たるみきった顔の皮膚に埋もれるように細められた双眸は、時折、向寵の心の内を覗き込むかのような鋭い光を放った。


 これこそ宮中に巣食う人妖と言っても良いかもしれない。

 名前を黄晧こうこうという。劉禅の最も側に仕える、いわゆる宦官かんがんである。

 劉禅の後宮は、この黄皓によって仕切られているのだった。

 



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