第25話 出師の表
「静かだなぁ」
部屋の中で一人、向寵は膝を抱えて座っていた。
この屋敷の主、向朗はすでに漢中へ進発していった。
「では行ってくるからな。身体には気をつけるのだぞ。手紙を書くから、すぐに返事をくれよ。そうだ、火の元には十分注意してな、それから、それから」
「分かりましたから。早くしないと置いていかれますよ」
見送る向寵がやきもきするほど、向朗は残していく向寵を心配していた。
「そうだ、向寵。最後にあれをたのむ」
向朗は両手を合わせ、彼女に頼み込んだ。
仕方ないですねぇもう、と向寵は苦笑いする。実はちょっと恥ずかしいのだが。
「いいですか、いきますよ。……、頑張って下さいね、おじさま」
向寵は胸の前で両手の握りこぶしを揃え、上目遣いで向朗を見詰める。
「おう、おう。おじさん、頑張ってくるからね……うううっ」
服の胸のあたりまで涙で濡らし、やっと向朗は出発して行ったのだった。
向寵が座っているのは、いつも向朗が仕事をしている場所だった。
はあっ、とひとつため息をつく。
「寂しいと……お腹が空くんだな」
よし、
向寵は家を出ると、大通りに向かって歩き出した。
☆
「おや?」
道端に大きな布で包まれた荷物が落ちている。よく見ると袋状になった布の端からは、何やら機械のようなものがはみだしている。
しかも、その包みの下敷きになるように人が倒れていた。
「にゃっ!!」
「だ、大丈夫かにゃ?」
慌てて、その包みを持ち上げようとするが、結構重い。よくこんなのを背負っていたものだ。向寵は呆れた。
「ああ、すみません。助かりました」
その女性はやっとの事で起き上がり、ずれたメガネを直した。
「ちょっと買い物をし過ぎました」
そう言って頭をかいた。
「ん、あなたは、向寵さん?」
ぐい、と顔を近づけてきた。
ああ、やっぱり向寵さんだ、そう言って彼女はにっこり笑った。
「失礼しました。わたし、諸葛孔明の妻で黄
※黄氏の名前は京劇などでは月英が一般的ですが、本名は伝わっていません。
「ごめんなさいね。荷物まで持ってもらって」
あまりにも大きな荷物を二つに分け、一つを向寵が担いでいるのだった。
「これはいったい、何をするんですか?」
「わたしって、料理が苦手なんですよ」
照れたように蓮理さんが答えた。
「はあ」
それがどういう関係があるのだろう。
「これでね、おうどんを打つ機械を、もう一度造ろうかなと思ってるんです」
うどん製造機、通称『
その初号機は荊州に置いてきたので、今回弐号機をつくるのだという。これで打つうどんは絶品だというのだが。
「完成したら、向寵さんも食べにきて下さいね」
「ええ、もちろん」
きゅるるる、と向寵のお腹が鳴った。
「あら」
蓮理さんもその音に気付いた。
「よし、じゃあわたしが腕によりをかけてご飯をつくりますから。ぜひ食べていってください」
向寵は曖昧に頷いた。なんだか嫌な予感がする。さっき自分で料理が苦手だと言ってた筈だけど……。
「いいから義姉さんは座っていてください。食事なら、ぼくが作ります」
孔明をちっちゃくして、インチキ臭さを抜いたような好青年が諸葛均だった。一時期、関羽の下に出仕していたが、またこうして専業主夫みたいになっていた。
「ぶー」
むくれる蓮理さんを無視して台所に入っていく。
「さあ、どうぞ」
「うおお」
待つ程もなく、何皿もの料理が卓上に並んだ。湯気とともに芳しい香りが部屋中に広がる。まるで料理店そのものだ。
「こ、これ全部、均さまが?」
「ええ。でも均さまは止めてください」
「そうです。こんな人、均くんで十分です」
蓮理さんはまだご機嫌斜めだった。よっぽど自分で料理を作って、褒めてもらいたかったらしい。
「もちろん義姉さんの料理は美味しいんですけど、その……後片付けが大変で」
どうやら気が向いた時にだけ作る、男の手料理、みたいな感じらしい。
諸葛均のつくる料理は絶品だった。何度もお代わりをする向寵を彼は嬉しそうに眺めている。だがふと、何かに気付き首をかしげた。
「そういえば向寵さんって、猫舌じゃないんですね。料理、熱くないですか?」
「にゃ?」
これはしまった。
「あ、熱いですにゃ……ふー、ふー」
「いえ。今更、ネコっぽくされる理由も分かりませんけども」
「あぁ、久しぶりにいい匂いがする。という事は今日は均が作ってくれたのか?」
そう言って、やたらと背の高い男が部屋に入ってきた。
白い道服に変な形の冠を被り、手には白羽扇を持っている。
諸葛孔明。蜀漢の丞相である。
「なんですか、久しぶりにいい匂いって……」
あう、孔明は蓮理さんの視線を受けて石のように固まった。
「あ、いやその。で、この女の子は誰ですか蓮理さん」
あからさまに誤魔化しにかかっている。
「ほら。こんな人なんですよ、うちの旦那さまって。ひどいと思いませんか?」
え、まあ、……はい。向寵は蓮理さんに肩を抱きかかえられ、頷いた。
「分かったよ。明日までに反省文を書くので、許してください」
「はい。前回の分と合わせて20枚ですよ」
一体、何をやらかしたのだろう、向寵はうなだれる彼をみて思った。
「この方は、道で困っているわたしを助けて下さったんです。って、ご存じの筈でしょ、向寵将軍ですよ?」
「お、おう。あの
だけど、へー、そうか、こんな娘だったっけ。とか小声で言っているところを見ると、すっかり忘れていたようだ。そうか向寵、向寵……と、何度も呟いている。
「え、なにっ、向寵!!」
突然、孔明は大声で叫んだ。
「そうか、向寵、お前だったのか。わたしが探し求めていたのは」
「はい?」
また蓮理さんの眼が冷たくなった。
「旦那さま。今なにか不穏な発言をなさいませんでしたか」
事と次第によっては……。しゅーっと息を吐く。
「待て、勘違いするな。わしは劉禅さまの身辺をお守りする禁軍の将を探しておったのだ。能力はもちろんだが、陛下から信頼される者でなくてはならん」
孔明は両手を向寵の肩に置いた。
「夷陵の戦いでのそなたの働きは、劉備さまから聞いている。白帝城まで撤退できたのも向寵のおかげだと」
「は、はあ」
「もうこれは、そなたしかおらんではないか!」
孔明は立ち上がると、紙を拡げ筆を手にとった。そのまま顔さえ上げず、すさまじい勢いで文章を連ねていく。
その中で、向寵についてはこう記述されている。
将軍向寵 性行淑均 暁暢軍事
試用於昔日 先帝称之曰能
営中之事 悉以諮之
必能使行陣和穆 優劣得所也。
将軍の向寵は、その性格や行いに偏りがなく、軍事にも通暁しています。
先帝(劉備)が試みに用いてみた結果、有能だと仰いました。
軍に関わる事は何であれこの者に諮って下さい。
必ずや軍内を仲睦まじくし、個々の能力に応じた役割を与えるでしょう。
おおよそ、こんな意味になる。
予定された戦場は
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