第24話 諸葛孔明の北伐前夜

 敗走を続け、劉備は白帝城に入った。

 だが劉備はそこから更に成都へ退却する事はなかった。もちろん、何の面目あって、という意識もあっただろう。だが益州と荊州の境にあたる白帝城に留まることで、彼は自ら呉への牽制となったのである。


 事実、孫権はそれ以上の追撃を断念した。魏の曹丕が呉の隙を狙っていたという事はあるにせよ、劉備の執念はかなえられたと言っていい。

 夷陵の敗北は消せないが、たしかに劉備は、最後まで蜀漢の皇帝だった。


 そして漢朝復興は劉備の息子、劉禅に託されることになる。


 ☆


 南蛮から運び込まれた珍しい物産が、次々と船から降ろされている。


 先年、丞相 諸葛孔明は反乱を起こした南方の豪族を平定する事に成功した。


 これは近く行われるであろう北伐のために後方を安定させる、というのが最大の目的ではあったが、こうして南方の物産によって軍費調達を行うという意味もあった。


 この南方の珍宝の類はあらためて船積みされ、呉や、敵国であるはずの魏にも輸出される。こうして蜀は再び力を蓄える事ができたのだ。



「ふにゃ……」

 港を見下ろす監視台で向寵は昼寝していた。

 そこへ一人の男が音も無く歩み寄り、彼女の頬のヒゲを引っ張った。


「ゔにゃあーっ!」

 向寵は飛び起きるなり、監視所の細い手摺りの上に飛び乗った。

 背中を丸め、ふしゃーっ、と唸り声をあげる。


「おお。すまん、向寵。あまり気持ちよさそうだったから、つい」

 その男は屈託なく笑う。向寵は警戒を解き、手摺りから飛び降りた。


「もう、張嶷ちょうぎさま。変な起こし方しないで下さい。ああそうだ、雍闓ようがいの討伐ではご活躍だったとか」

 それは南方征伐本来の目的だった。


「なんの。あれは相手が勝手に仲間割れしただけだったからな」

 急に張嶷の表情が曇った。そして港の方を見やる。


「そなたは、馬良どのと親交があったと聞く。不快であれば聞かなかった事にして欲しいのだが」

「もしかして馬謖さまの事ですか」


 うむ、と張嶷は唸った。馬謖は亡き馬良の末弟だ。参謀として諸葛孔明やこの張嶷と共に南方へ赴いていた。


 反乱の首謀者だった雍闓とその同調者は、蜀軍の進攻を聞いただけであっけなく分裂し、同士討ちした結果亡んだ。


「なのに奴はさらに奥地まで軍を進め、無関係の者たちまで手に掛けてしまった。おれは恥ずべき暴挙に手を貸したことを悔やんでいる」

「蛮族の心を折ったのだとか、自慢しておられました」


 ああ。張嶷は肩を落とした。

「おれは、これからその南方へ戻る。あの連中のために、せめて善政を敷くつもりだ。詫びのつもりでな」

 向寵は黙って頭を下げた。

 

 馬謖の発案になる強引な南蛮制圧と、その後の容赦ない搾取によって不安定になった蜀の南方だったが、張嶷とその上官である馬忠の赴任によって落ち着きを取り戻した。

 馬忠は張嶷の数々の進言を全て聞き入れ、彼の在任中に南方が叛くことは一度として無かったのである。


 ☆


 蜀が夷陵の戦いで失ったものは数多いが、その中で最も孔明を悩ませたのは将軍クラスの人材だった。

 開戦までに関羽、張飛、馬超、黄忠、法正という文武の超一流どころを亡くしていた蜀軍だったが、更に馮習、張南、傅彫、程畿そして馬良といった次世代の蜀を担う人材を失ったのは悔やんでも悔やみきれなかった。


 この年、陳到は永安都督となった。永安とはかつての白帝城である。併せて征西将軍に任ぜられ、呉領となった荊州との国境防衛の任に就いた。それまでこの方面を担当していた向朗は一旦、成都へ戻ることになった。


 これにより南方は馬忠、張嶷。呉との境は陳到。北方の漢中は魏延が守護するという体勢が確立した。


 ここにおいて、諸葛孔明は北伐を決意した。


 諸葛孔明は拠点を最前線である漢中に移すことにした。随行し補佐するのは馬謖。成都に残された丞相府の事務は蔣琬しょうえんがとり行う。


「あとは、宮中の事だ」

 新皇帝である劉禅の補佐に誰を充てるべきか。


 文官は問題ない。費禕ひいは人並み外れた事務処理能力を持ち、董允とういんはその剛直さによって皇帝に対しても直言してくれるだろう。


 問題は親衛隊長だった。劉禅が最も信頼しているのは趙雲だが、もはや趙雲を残しておけるほど蜀軍に余裕はなかった。他に思い当たる者といえば文官としての経歴しか持たないか、皇帝の側近とするには心許ない者ばかりだった。

 

「誰かいないか」

 諸葛孔明は頭を悩ませた。





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