第23話 蜀軍の壊滅

 喊声と炎が長江の岸を包む。

 火を掛けられ逃げ惑う蜀兵を、上陸した呉軍が包囲し殲滅せんめつしていった。


 総兵力ではまさる蜀だったが、陸遜の計により少数の部隊単位に分断されていた。

急遽、集結しようとするが、狭隘かつ複雑な地形に阻まれ、迅速な行軍は不可能だった。

 夷陵の岸辺は一方的な殺戮の場となった。


「とにかく劉備さまを捜すのにゃ!」

 向寵率いる、少数民族で編成した部隊は狭い山道を駆け抜け、蜀軍の先頭付近にある劉備の本営を目指した。


 目的地の辺りも赤々と炎が上がっている。蜀兵の死体が転がり、その中に首を打たれた沙摩柯大王の特徴的な長身もあった。

 向寵は走りながら唇を噛んだ。


 劉備の本営も呉軍の襲撃を受け、すでに大きく崩れ立っていた。

 馮習の他、わずか数人が劉備を守り、呉軍の包囲を突破しようと奮戦している。その馮習は長身の武将と切り結んでいた。だが全身に傷を負い、疲労の色は明らかだった。ついに斬撃を受け馮習も倒れた。


 呉軍の指揮官と思しきその武将は、戦場としては異様な風体だった。まったく甲冑を身につけていないのだ。そしてその顔、腕、脚すべてに刺青が施されている。


 駆け付けた向寵と、その男の眼が合った。


「甘寧!」

 しゃーっ、と向寵は唸り声をあげた。

「げっ、ネコ娘かっ」

 一瞬ひるんだ表情になった甘寧。その顔が苦悶に歪んだ。腹部から剣の切っ先が突き出ていた。甘寧は信じられないといった風に、それに手をやった。そしてゆっくりと背後を振り返る。


「おのれ……まだ、くたばっていなかったのか……」

 そのまま、剣を握りしめた馮習と共に、地に倒れ絶命した。


 向寵の部隊は呉兵を追い散らし、劉備を守りながら山道へ逃げ込んだ。

「向寵、早く!」

 族長のひとりが叫ぶ。まだ彼女は蜀の本営だった場所に茫然と立ち尽くしていた。

「どうした、向寵?!」


 向寵の足元には一人の男がこと切れていた。

 白い眉毛。それは彼女の師匠であり憧れの人でもあった、馬良だった。


「にゃああああああっ!!!!」


 ☆


 陸遜の本隊は劉備を追撃すべく軍を進めたが、ついにその姿を見失った。

「山に入られては厄介ですな。いかがしましょう」

 韓当が陸遜の指示を仰ぐ。

「劉備の目的地はおそらく白帝城。我らはこのまま長江沿いを進みましょう」

 陸遜は軍を集め、西へ向け進発した。


 山間をゆく劉備の許へも徐々に敗兵が集まってきた。だが皆、大小の傷を負い、武器すら失っているという惨憺たる有様である。

 ただ向寵の部隊のみが唯一の戦力として数えられるだけだった。


 平地へ出たところで別動隊だった張南の部隊が合流した。こちらは孫桓を包囲していたのだが、蜀本隊の壊滅によって逆に打ち破られ、張南も戦死していた。

 同時に、恐れていた情報が届いた。

 呉軍が迫って来ている、というのだ。


「わたしが殿軍を務めます」

 向寵は劉備に申し出た。漢人の兵卒で比較的軽傷な者を集め一軍を編成すると、最後尾に回った。

 少数民族の部隊も彼女に続いた。向寵は慌てて部族長たちを呼び集める。


「あなた方にこれ以上迷惑は掛けられません。どうか、ここでご自分の渓へお帰り下さい」

 族長は、さも意外そうに首を振った。

「我らは向寵と共に戦うと決めたのだ。たとえお前が用は無いと言っても、勝手に付いていくぞ」

「そうだとも。向寵は、わしらが守ってやる。心配するな」


「仕方ない、にゃ。……分かりました。行きましょう」

 族長たちは不敵に笑った。

「いいですか、目的はあくまでも時間稼ぎです。死んだりしたら許しませんよ!」

「応!」


 ☆


 蜀との州境に近い、長江沿いの平原に呉の大軍が姿を現した。

 その先頭を進む陸遜は少数の部隊が待ち構えているのを見て足を停めた。


「あれは、向寵か」

 陸遜は泣きそうな顔になった。よりによって、こんな場所で出会うとは。

「例の約束があるから……困ったな」

 それは向寵に助命してもらった代わりに、戦場で出会ったら陸遜は三舎(軍の三日分の行程)、軍を退くというものだ。


 だが、まさか劉備を追い詰めたこの状況でそれはできないだろう。何より配下の将軍たちが納得すまい。

「どうしたのだ、大将軍。あんな小勢、一息に揉み潰しましょうぞ」

 韓当が不思議そうに問いかけた。


「いえ、その……あ、そうだ。ここで食事にしましょう」

「はあ?」

「きっと皆さん、お腹が空いていると思うのですよ。ほら、もう我らは勝ったも同然ですし」

「何を言われる。じゃあゆっくり飯にしますか、とか言う訳がないであろうが!」

 顔色を変えて韓当は陸遜に詰め寄った。

「いや、まあそうなんですけど」


「さあ、早く出発の命令を」

「さあ」

「さあ」

 周囲から責められ、陸遜は進退に窮する。とことん律儀な男だった。


 そんな陸遜を救ったのは皮肉にも蜀軍だった。

 新たな大軍が現れ、向寵の殿軍を援護するよう展開したのだ。

 その先頭に立つ二人の将軍。


「ま、まさかあれは?!」

 呉軍に動揺が走った。

「趙子龍!」

 白い鎧姿で白馬に跨ったのは趙雲だった。

 そしてもう一人、黒い鎧で漆黒の馬に跨った男。

「陳到か!」

 劉備が荊州へ入る以前から共に戦い続けた二人が、揃って同じ戦場に立っていた。


 向寵の両側に、白と黒の将軍は駒を進めた。

「劉備さまは?」

 陳到は問いかける彼女を馬上から見下ろした。

「大丈夫。もう白帝城に入られた頃だ」

 ふう、と向寵は息をついた。


 趙雲が一歩前に出た。

「呉の者ども、ひとつ良い事を教えてやろう。魏の曹丕がこの荊州を目指して南下している。さっさと迎撃に向かった方がいいのではないか」

 戦場で鍛えた大音声で告げる。


 時を同じくして、陸遜の元にも呉からの急使が駆け込んできた。

 陸遜はどこかほっとした表情で、全軍に撤収を命じた。


 こうして夷陵の戦いは若き俊英の将軍たちと、数万人に上る兵卒をわずか一夜にして失った蜀の敗北で終結した。かつて前例の無いほどの大敗だった。

 白帝城に辿り着いた劉備はそのまま病の床につく。


 蜀は建国早々にして滅亡の危機に立たされたのだった。



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