第22話 夷陵の戦い、はじまる
陸遜を迎えたのは宿将たちの冷たい視線だった。
(こんな若造が何をしに来た)
皆、言外にそんな表情をしている。この新しい総司令官は、呂蒙の下で最前線に出た事はあるらしいが、自ら軍を率いた事は無く、実戦経験はほぼ皆無だという。
「孫権さまも
聞こえよがしに放言する将軍さえ居た。
そんな中で甘寧だけは面白そうに陸遜の挨拶を聞いている。彼は陸遜の才能を認める数少ない一人だった。
だがその甘寧でさえ、陸遜が発した命令には眉を吊り上げた。
「当面は戦線を維持し、大規模な攻勢には出ません。こちらから手出しをすることも固く禁じます」
柔らかな笑みを浮かべたままで、陸遜は言い渡した。
現在、蜀軍、呉軍ともに強固な防柵を構築し、対峙する状況が長く続いている。その膠着状態を打破するために新たな大将軍が任命されたのではなかったのか。将軍たちの不満が渦巻いた。
「つまり、何の策もないという事か」
居並ぶ武将たちの間から、怒りを押し殺した声があがった。
「素人が気負ってしゃしゃり出て来たが、結局無能を晒しただけだったようだな」
「まあ、無謀な突撃をさせられるよりはマシと思うべきだろう」
前線を担当する部将たちは半ば諦めたような冷笑を浮かべる。
各地の豪族連合ともいうべき呉軍は、こんな場合まとまりが良いとは決していえない。皆あきれ果てた様子でそれぞれの持ち場に戻っていった。
☆
「新たに派遣された呉の大将軍ですが、守勢に徹する方針のようです」
馬謖は間諜からの報告を劉備に伝える。
「そうか。では少し挑発してみようか」
劉備は馬謖に策を伝えた。
蜀の陣営から突出した
「決して手出ししてはなりません」
怒り狂う諸将に陸遜は厳命した。彼の背後には
やがて何の反応もない事に諦めた蜀軍は、三々五々引き上げ始めた。
追撃を進言した部将に陸遜は彼方の山地を指差した。目をこらすと、多くの騎馬が移動していくのが見えた。
「伏兵です。あの小部隊を攻撃したら側面を衝かれていたでしょう」
見え透いた古くさい作戦だった。
「それは分かるが、逆に好機でもあったのではないか」
甘寧は不満げに言った。このまま対陣を続けても決着はつかないのだ。
「小競り合いで勝利を得ても意味はありません。お任せ下さい、わたしには蜀軍を一気に覆滅する策があります」
陸遜は何かに憑りつかれたような目つきで、薄笑いを浮かべた。
こいつは、こんな大言壮語する奴だったかな、甘寧は薄気味悪い思いで陸遜を見た。
もしや総司令官という重責に追い詰められ、妄想の世界に逃げ込んでいるのではないだろうか。才能があると思われた者ほど、往々にしてこういう状態に陥ることがある。
「だとしたら、こんな危険な状況は無い」
甘寧は首筋に冷たいものを感じた。
☆
ある夜、突如暴風が吹き荒れた。一晩中長江の水面は激しく波打ち、船のぶつかり合う鋭い軋み音と兵士の悲鳴が、蜀の陣営に響いた。
夜が明け、川岸に立った劉備は目を疑った。
多くの軍船は転覆するか、沈没寸前の惨状を呈している。一方彼方に布陣する呉の水軍は、さほどの損害を被っているようには見えなかった。
蜀とは段違いに高度な造船技術による堅牢さもあるだろうが、それよりも各軍船の位置取りの違いが大きかったろう。つまり蜀の水軍は密集しすぎていたのだ。
こんな処に、呉と蜀の水軍運用の経験の差が如実に表れていた。
「後退しましょう」
言い出したのは陸遜だった。
「蜀の方針は水陸併進だったはず。それが水軍を失ったのですから、陸上から総攻撃をかけてくるのは必定。ですから少しずつ陣を下げるのです」
「つまりは逃げるという事ではないか!」
老将の韓当が激高する。無意識のうちに剣の柄に手を掛けていた。
「呉の誇りにかけて、そんな事はできぬ」
陣営は騒然となった。多くの将が韓当に賛同の声をあげる。
甘寧はすっと前に出た。
「大将軍どの、これが蜀を一気に覆滅する策なのか」
ざわめきが急速に静まった。
将官たちの視線が甘寧に集中する。
「ずっとこの機会を待っていたのだろう?」
視線が今度は陸遜に向いた。
長期にわたる滞陣で精悍さを加えた若き大将軍は、微かに笑みをうかべ頷いた。
☆
「ああ、この平和な時が続けばいいんだけどにゃ」
丸くなって眠る巨大な豹、杜路のお腹に頭を預け、向寵は大きなあくびをした。
彼女の周りには訓練を終えた少数民族の兵士たちが集まって夕食を摂っている。焚火を囲み、戦場とは思えないのどかな光景だった。
「そう云えば、今日はあの嫌味な男の姿を見ませんな」
一人の兵士が辺りを見回した。いつもこの陣営にやって来てはネチネチと文句を言う奴がいるのだ。
「ああ、馬謖さんなら成都に帰ったらしいです」
向寵は半分目を閉じて言った。
船団が壊滅したことから、その報告と、増援を求める為に蜀へ戻ったのだ。
「わざわざですか。暇なんですなぁ、参謀というのは」
「いやいや、そろそろ戦闘が始まりそうだから、前もって逃げたのだろう」
「ははは、それは有りそうだな」
「駄目ですよ、そんな失礼な事を言っては」
爆笑する兵士たちを、向寵自身も苦笑しながらたしなめた。確かに馬謖について、何かと口出しする割に決して前線には出ない、という悪評は聞いていた。
馬謖の、横柄なくせにどこか落ち着かない目付きを思い出し、向寵はひげを震わせた。急に理由の分からない不安を感じたのだ。
蜀軍の侵攻が再開された。
夷陵付近では長江沿岸に山が迫り、大軍の展開には不向きな地形が続く。劉備は前線に近い位置に本陣を置き、督戦に務めているため、自然と蜀軍は縦長の隊列になっていく。
「長蛇の陣はこれを忌む、と言います」
さすがに馬良はこの陣形の危険性に気付いた。縦方向はともかく、側面からは全く厚みの無い布陣なのだ。しかもせり出した山裾によって宿営地が限られているために、さしもの大軍も小部隊ごとに分断されている形になった。
「もう少しだ。もう少しでこの峡谷を抜ける。そうすれば呉と決戦だ」
劉備もこの陣形が危険な事は気付いていた。だが先を急ぐことだけに気を取られていた。もう一押しで荊州の平野に出ることができるのだ。
しかし、ここに来て呉軍の頑強な抵抗に遭い、再びその進軍は停止せざるを得なくなっていた。
焦りが歴戦の劉備の判断を狂わせたのだろう。ついに蜀軍は陸遜が設けた陥穽におちた。
☆
長江の暗い水面にぽつりと灯りが点った。
「なんだろう」
山沿いの高地に布陣していた向寵はいち早くそれを見つけた。ぞわっと首筋の毛が逆立つ。すごく嫌な予感がした。
見る間に、灯りは次々に数を増やし、長江を埋め尽くしていった。向寵はそれが呉軍の船の掲げる篝火だと気付いた。
「呉軍の夜襲にゃっ!」
夜陰に紛れ侵攻してきた呉の水軍が蜀軍の側面を急襲してきたのだった。
向寵は手勢を集めると、劉備の本陣へ駆け下りていった。
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