第21話 陸遜、最前線へ発つ
彼らは、長江沿岸の深く分け入った渓谷に身をひそめるように住んでいる。
中央政府に
中華文明に浴してこそいないが、彼らはみな独自の文化を持っているのだ。
もちろん向寵の属する
「ふん。小汚い難民が集まっているのかと思ったぞ」
異民族で編成された陣の前に立った馬謖は顔をしかめ、唾を吐いた。色とりどりの衣装を身に纏った兵士たちを見て、あからさまに嫌悪の表情を浮かべる。
「貴様らはもっと山の中に布陣しろ。目障りだ、ゴミどもが」
言葉が通じないのをいいことに罵詈雑言を浴びせている。
軍監として劉備の側近く仕える馬謖は、表面上は異民族との融和を唱えていた。それが劉備や諸葛孔明から評価を受けていた理由なのだが、現場での態度は全く違っていた。
異民族の隊長相手に居丈高に怒鳴り散らし、困惑する相手の顔を見ては更に言葉を荒げた。
「まったく、だから蛮族と云う奴は使い物にならないのだ。この馬鹿が」
「あ、馬謖さま。危ないですよ」
背後から向寵の声がした。
はあん? と眉を吊り上げたまま振り返った馬謖に、斑点を持った黄色い巨体が飛び掛かった。沙摩柯大王の飼っている巨大な豹、杜路だ。
「ぐわっっ」
地面に押し倒された馬謖の顔を、杜路が巨大な舌で舐めまわす。
「や、止めんかっ!」
半分爪が出た前足でのしかかっているので、馬謖の服はすぐにあちこち破られた。
「あら、馬謖さま。杜路さんに気に入られたみたいで良かったですね」
のんびりとした声で向寵は言った。
だがそこで表情がすっと冷たくなった。
「でもあまり暴れると嚙みつかれますよ。人の首くらい簡単にもいじゃいますから気をつけて下さいね」
☆
肩まで届く耳たぶと、ひざ下まで届く両腕を揺らしながら、その男は陣中を視察している。
妖怪ではない。蜀漢の皇帝、劉備である。
「何度見ても慣れないな……」
向寵は呟いた。
「おお、向寵。どうだな、訓練は進んでいるかな?」
にこやかな表情で劉備は片手をあげる。
「何やら表情がすぐれないな。どうしたんだね」
向寵の顔を見るなり、心配げに劉備は眉を寄せた。こういった心配りはさすが劉備というべきだろう。
「なるほど、馬謖がな……」
腕組みをして劉備は考え込んだ。
「それは、わしも考えていたところだ。あの男は才子だからな」
才子、と向寵は口の中で繰り返した。
「いい意味、ではないですよね、それ」
才能はあるが、それだけ。劉備は言外にそう言っているのだと向寵は感じた。
「もちろん、期待はしているのだぞ。龐統や法正の亡き今、文武ともに優れた逸材といえば、諸葛丞相を除くと馬謖が一頭地を抜いているのは確かだからな」
……だが、今のままでは危うい。
劉備は表情を曇らせた。
「あの男は、何を焦っているのだろうな」
☆
「劉備は戦下手というのが定説ではなかったのか!」
長江下流、建業の王宮で孫権は喚き散らしていた。確かにこれまでの人生、劉備は敗け続けていた。それが今回、破竹の勢いで呉への侵攻をしてきたのだ。
先鋒の孫桓は大敗し、急派した宿将たちも辛うじて前線を維持するのみだった。
「この戦局を変えるためにはどうすればいい」
孫権は左右に居並ぶ百官に問う。
だが、誰も答えるものはいなかった。みな俯き、小声で隣とささやき合うだけだ。孫権は歯ぎしりした。
「そうだ、思い出したぞ。呂蒙が言っていたではないか」
孫権は急に顔をほころばせた。
「対外的に困難が訪れた際には、あの男を登用すべきだと」
思わず立ち上がっている。
「周瑜、魯粛の後を継ぐのはあの者だと、呂蒙が絶賛していたのだ」
「それは一体、誰の事でございます」
文官の最長老、張昭が歯の抜けた口を開いた。
「この呉にそんな、まだ世に知られておらぬ者が居ると云うのでしょうか」
「陸遜だ。陸遜を呼べ。今どこにいるのだ」
孫権は叫んだ。
「陸遜……ですか、その者は」
人事担当の官僚が名簿をめくりながら、小さな声で言った。
「荊州で県令をやっています。たいした功績はあげておりませんが」
広間はまた静まり返った。
「残念だが、それは無理でございましょう」
やっと、張昭がため息交じりに言った。
「そのような軽輩を登用など出来ません」
孫権はしばらく唸っていたが、決然と頭をあげた。
「構わん。儂は呂蒙の眼を信じよう」
こうして一介の県令だった男は、呉の大将軍に抜擢された。
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