ウミとツキ
瀬戸美鈴
ウミとツキ
俺は海に潜む魔物を見たことがある。まるで竜のような顔をしているそいつは海面から姿を現すや否や人を飲み込んでしまうんだ。
あれは今から十年前、俺が七歳の時の事だった。あの日は確か八月で、大型の台風が島に接近していた。
「海斗、ちょっと船の様子を見てきてくれないか」
魚の出荷作業に追われた父は慌ただしくそう言った。俺の父は、魚や貝などを捕っては市場に出荷している。地元ではわりと名の知れている漁師だ。夢中になっていたゲームを中断した俺は、傘を手に父の船が置かれている海へと向かった。
俺が家を出た時、外は台風が来ているなんて嘘であるかのように、空は雲一つない青空で風もなく不気味なくらいに静かだった。家から歩いて数分の場所に船を置いている海がある。海に着いた俺は父の船を確認した。
「異常なし!」
やはり海も静かで、とても台風が来る様子なんてなかった。無数の宝石のようにキラキラと光り輝く海は俺の心を虜にした。
しばらく見ていると、綺麗な海の真ん中に一点、大きな黒い影が現れた。
「あれ、なんだろう」
すると今まで晴天だった空が険悪な空模様に変わり、暴風がビュウビュウと音を立ててやってきたのだ。
「うわっ」
呆然としていた俺は持っていた傘を風に奪い取られてしまった。傘はカラコロと地面を転がっていく。
「待て!」
あと少しで海に落ちる寸前で傘を捕まえた俺は安堵し、その場に座り込んだ。風に吹かれ飛んできた海水が俺の頬に当たる。我に返った俺は顔を上げる。
すると、そこにはなんと竜がいた。黒々と光る巨大な竜は尖った牙を剥き出し、こちらを睨んでいる。
「ねえ、竜がいるよー!」
俺は大きな声で叫んだが、人は誰一人いない。
「ぎゃあああぁぁ」
竜は大きく口を開くと、俺をその中に入れるや否やあっという間に飲み込んだ。竜に飲み込まれた俺はそのままそいつと共に海の中へと沈んでいった。
そこから先の記憶ははっきりとはないが、気がつくと俺は船の上に横たわっていた。全身びしょ濡れだったが、なぜか無傷だった。
まもなくして、父がやってきた。どうやらいつまでたっても帰ってこない俺を心配して駆けつけたようだった。
「怪我はないか?」
俺が頷くと父は胸を撫で下ろした。俺が海にやってきた頃、島に台風による特別警報が発令されたらしいが、その後台風は予想外に進路を変え、日本海へ抜けたとのことだった。
「僕、竜を見たんだ」
俺がそう言うと、父は一瞬驚いたがそれからはずっと神妙な顔をしていた。俺はさっき起きた一連の出来事を話した。信じてもらえるか不安だったが、意外にも父は俺の話を受け入れている様子だった。
「そうか。もしかしたらそいつは海竜の祟りかもしれん」
「海竜?」
父は昔からこの島に語り継がれる〝海竜〟の伝説について話した。この島の海には海竜という魔物が住み着いているという。海竜は滅多に人前に姿を現すことはないが、夏の台風の日に現れることがあるらしい。海竜に見つかると、必ず丸呑みされてしまうのだと父は語った。
「海斗、お前は島の守り神に守られたのかもしれないな」
守り神というのは、近所にある神社の神様で、天災から人々を守っているといわれている。
俺は家に帰る途中、守り神に礼を言うため神社へと向かった。鳥居をくぐり、息を切らしながら長い階段を上ると、そこには小さな祠と石碑があった。石碑にはカタカナで文字が書かれていた。
「ヒトノココロウミニアラハル」
文字を読んでみたが、さっぱり意味がわからない。解読を諦めた俺は、祠の前で手を合わせ神様に礼を言い、その場を後にした。神社に参拝したご利益があったのかはわからないが、それからしばらく海竜が現れることはなかった。
あれからもう十年が経つが、海竜は依然として姿を見せていない。だけど、ここ最近何だか海の様子がおかしい。海は黒く濁り、波は荒れている。
「最近魚が釣れねえなぁ」
「あぁ、殆ど稚魚だ」
漁師のおじさん達はこんな風な会話をしては溜息ばかりついている。そういえば俺の父も最近魚が獲れないと頭を抱えていた。きっと海が荒れていて不漁続きなのだろう。俺は豊漁を祈るため神社へと向かった。
鳥居をくぐり階段を上ると、そこには一人の少女の姿があった。俺と同い年くらいにみえる彼女は榊や神饌を供えている最中だったようだが、俺に気がつくと手を止めた。初めて会ったはずなのに、なぜか彼女を知っている気がした。
「最近なんだか海の様子がおかしくて」
「そうみたいね」
こんな風なやり取りを一つ二つ交わした後、彼女はここから下に見える海をジッと見つめていた。
「人の心、海に現る──」
「え?」
突然発した彼女の言葉の意味がわからず戸惑っている俺に、彼女は言った。
「石碑に書いてある言葉よ」
「あぁ、なるほど……」
彼女は俺の方をチラっと見て視線を逸らしたが、しばらくして口を開いた。
「荒れているのは海だけなのかしらね。私には人間の心の方がよっぽど荒れているように思えるの」
「と言うと?」
「あの海はもうすぐ消えてなくなるわ」
そういえば、最近父や漁師のおじさん達がそんな話をしていたのを思い出した。彼女の話によると国が島の都市開発の一環として海を埋め立てる計画を発表したらしい。この島を開発出来れば、他国からやってくる船が増え、貿易が活発になるのだという。その代わりに島の漁師や市場には国から多額の資金が支払われるらしい。俺はそれを聞いてやっと彼女の発言や石碑に書かれている言葉の意味が分かった気がした。
「俺、竜を見たことがあるんだ」
俺は幼少期に体験した出来事を話した。彼女は海竜の伝説を知っていたようで興味津々に聞いていたが、俺が話し終わるとまた海を見つめていた。
「不思議なことに十年前にも一度埋め立てが行われているの」
彼女はそう言うと今度は俺の方を見た。十年前の埋め立てと海竜の出現が重なったのが偶然だったのか必然だったのかは定かではないが、彼女の言いたいことは自然と理解出来た。
「あなたを待ってた」
「俺を?」
彼女は強く頷いた。
「私は海竜を倒すためにここに来た。海竜は放っておくとどんどん威力を増し、そのうち島を丸ごと飲み込んでしまう程に成長してしまう。だからそうなる前に海竜を倒さなければならない。でも私だけの力じゃ海竜を倒すことはできない。海竜を倒すには美しい心を持っている人間の力が必要なの」
「でもそれだったら俺じゃなくても──」
「神様が教えてくれたの。一番最初にここにやって来た人が選ばれし勇者だって。そしたらあなたが来たんだもの。それにあなたは一度海竜を見たことがある。だから他の人より海竜のこと、知ってるでしょ?」
正直俺は海竜を倒せるという見込みや自信など全くなかったが、話を聞いた手前知らぬふりは出来なかった。彼女の頼みを引き受けた俺は、これから戦友になるであろう彼女の名前を聞いた。
「俺、三船海斗。君は?」
「私は宍戸七海。よろしく」
そう言って微笑んだ彼女の笑顔はキラキラと輝く海のように美しい。
「で、海竜を倒すって話なんだけど──」
すっかり彼女に見惚れてしまっていた俺は、その一言により一瞬で現実へと引き戻された。
「海竜はただの竜じゃないわ。あれは人間の悪い心が生み出した魔物よ。だから海竜を倒すには純真な心で立ち向かわなければならない」
彼女はそう言って祠の中から古く錆びついた剣を取り出した。
「ここに一本の剣があるわ。前に母から貰ったの。これをあなたに渡すわ。私が海竜の
「俺にそんなこと……」
「あなたなら出来るわ、海斗」
彼女の言葉は俺に勇気を与えた。
海竜が現れるのは三日後の正午だと予想できた。何故ならその時島に台風が上陸するという予報が発表されていたからだ。このタイミングで台風が来るなんて、海竜の出現を示唆しているようにしか思えない。
俺たちは三日後の戦闘に備え、無我夢中で剣の練習に励んだ。
「あれ、剣ってどう持つんだっけ……」
剣を握るのが初めての俺は戸惑った。なんとか振り下ろしてみるが、体が剣の重さに引っ張られ、俺が剣に振り回される始末である。
「この十字鍔に人差し指を引っ掛けるのよ」
何もわからない俺に七海は基礎から教えた。俺は徐々に剣の使い方を習得していった。
初日は剣の持ち方さえままならなかったのが、次の日にはまともに剣を振り下ろせるまでに上達した。
「上手くなったわね! これなら海竜を倒せるかもしれないわ」
七海は俺の上達ぶりに喜んだ。俺は彼女の期待に応えたくて、懸命に努力した。
練習の最終日になり、今まで元気だった七海は何故か暗い表情をしていた。ずっと冷静に見えた彼女だったが、本当は怖かったのだろう。俺は剣を置き、彼女の肩を抱き寄せた。
「大丈夫、どんな時だって俺が七海の側にいて、海竜だろうが台風だろうがどんな強い敵が来たって絶対に守るよ」
俺がそう言うと彼女に笑顔が戻った。その時この笑顔を失いたくない、ずっと守りたい、そう思った。
戦い当日、俺は船の様子を見てくると言って家を出た。父は心配していたが、俺の強い意思を尊重してくれた。今日もあの日と同じようにいい天気だった。台風の前というのは如何してこうも晴れ渡るのだろう。
俺は海岸に着くとあの時と同じように海を眺めていた。しばらくして七海がやってきた。
「いよいよだな」
七海は俺を見ると、視線を海の方へとやった。
「私、海斗に言わなければいけないことがあるの」
「何のことだ?」
「海竜に纏わる伝説の真相について──」
俺と七海は海竜が現れるまで海岸で語り合った。この時七海が語った真実は何とも衝撃的な内容だった。
七海は幼い頃、海の中に住む人魚だったという。彼女は海の世界で幸せに暮らしていた。
だが、そんなある日人間たちが海を埋め立てようとしているという噂が海の町に広まった。それから間もなくして埋め立て工事が開始された。
その時必死に海を守ろうとしていたのが、七海の祖母だった。最後まで抗ったものの、彼女の願いが人間に届くことはなかった。人間の自分勝手な考えで海の町の一部が破壊されたことを彼女は嘆き悲しんだ。
十年前俺を襲ったあの海竜は、七海の祖母だったらしい。彼女も元々人魚であったが、人間たちの自分勝手な心が彼女を海竜という魔物にしたのだ。
それを倒したのが七海の母だった。彼女もまた人魚であった。彼女は、海竜と戦う前に我が子の危険を考え、地上へ逃がした。その時七海は初めて人間の姿になったのだ。そして、七海の母は海竜を倒し、俺を助けたのだ。
それで事態は収束したように思われたが、実はまだ序章に過ぎなかったのだ。祖母に憑いていた魔物は消滅したのではなく、母に取り憑いてしまっていたのだ。だから今俺たちが倒そうとしてる海竜は七海の母親なのである。
「俺は命の恩人と戦わなければいけないのか……」
彼女は返す言葉が見つからなかったのか、困惑の表情を浮かべた。
「それに海竜を倒したら次は七海に取り憑いてしまうんじゃ──」
俺がそう言うと、彼女はすかさず言葉を返した。
「その心配はないわ。だって海竜を倒すのは私じゃなくて海斗なんだから。海斗は人間だから大丈夫よ!」
彼女はそう言って笑ったが、俺は何だか不安で仕方なかった。彼女はまだ何か俺に隠しているように思われたが、上手くはぐらかされてしまった。
正午を回った頃、今まで快晴だった空はあっという間に雨雲に覆われ、冷たい風がビュウと吹いた。同時に海の中に黒い影がゆらゆらと現れた。
「あれは……!」
「現れたわね」
俺はゆっくりと剣を抜き、自分の前に構えた。あれだけ何度も練習したが、いざ本番前になると緊張と不安が俺を襲った。両手に握った剣が異様に重く感じた。汗ばんだ手から滑り落ちそうになる剣を必死に掴む。
「あなたなら大丈夫」
七海はそう言って、海の方へと近づいた。
まもなくしてゴオゴオという物凄い音と共に黒い影が海面から姿を現した。海竜は十年前に俺が見た時よりも段違いに大きくなっていた。
「お母さん……」
七海はすっかり変わり果ててしまった母親の姿を悲しい瞳で見つめた。 海竜は鋭い牙を剥き出し彼女を睨んでいる。
「私のせいでこんな姿に……本当にごめんなさい。あの時私と海斗を助けてくれてありがとう。本当に感謝してるわ」
海竜と化した母親にもう七海の言葉は通じない。海竜は大きく口を開け、七海を飲み込もうとする。
「今だ!」
俺の体は反射的に動き出していた。海竜がいる方へ全速力で走った。ただ七海を助けたい一心だった。俺は海竜の左目を目掛けて剣を突き刺そうとした。だが、その瞬間、七海が泣いているのを見た俺はそれを躊躇してしまった。その隙に海竜は七海を飲み込み、あっという間に海の中へと消えていった。
「七海!」
俺は海の中に飛び込んだ。ジタバタと足掻いたが、只でさえ泳げない上に誤って剣を持ったまま飛び込んでしまったため、その重さに抵抗できず沈んでいく。
気がつくと俺は船の上に横たわっていた。
「大丈夫?」
俺の横には見たことのない少女の姿があった。少女は心配そうに俺を見つめている。俺が頷くと、彼女は安心しフウと息を漏らした。
少女の名は黒沢美月といった。彼女は数日前この島に引っ越してきたばかりだという。彼女の話を聞くには、台風の警報が解除された後、島を探索しようとこの辺を通りがかったところ、偶々海に浮かぶ俺を見つけたため船に引き上げたという。
「何かあったの?」
俺はさっき起きたこと、海竜のこと、人魚のこと全てを話した。 話している中で、自分の過ちのせいで七海が犠牲になってしまったことを改めて認識した。何か喋るたびにぽろぽろと涙が溢れ落ちる。
「そんなことが……」
涙ながらに話す俺の姿を見た彼女は、俺の言葉を信じた様子だった。彼女は愕然とし、言葉を失った。
「海竜から島を救うには、海の埋め立てを中止させなければいけない。美月、俺に手を貸してくれないか?」
協力を依頼すると、彼女は快く引き受けた。この日から俺たちの埋め立て反対運動が幕を開けた。
早速俺たちは、島中を回っては島の大人たちに事情を説明し、埋め立て反対の抗議をした。
だが、海竜や人魚などという話をしても信じる人などいるわけもなく、誰にも相手にしてもらえなかった。それでも俺らは不屈の精神で、立ち向かった。
埋め立て反対の活動を始めてから一週間が経った頃だった。
「最近めっきりいなくなっちまったなぁ」
「魚がいねぇんじゃ船出しても無駄だ」
海に魚がいなくなってしまったという話が漁師たちから流れた。島の市場やスーパーには魚介類が殆ど並ばなくなっていた。それと同時に海辺にいた鳥たちが忽然と姿を消した。
さらに数日後、島の海岸で鯨の死体が打ち上げられているのが発見された。今までかつて島に鯨が打ち上げられたことは一度もなく、初めて見る光景に人々は呆然としていた。
「こんなことが立て続けに起こるっておかしくねぇか」
「もしかして、本当に人間のせいで海が狂っちまったのか?」
「そんなことあってたまるか」
不可解な現象に、漁師たちは俺たちの言葉を信じ始めた。
ある日の朝、俺は美月と神社にお供え物を持って参拝しに行った。こうしていると七海と初めて会った日のことを思い出す。神社に来る度、俺は守り神に彼女の無事を祈っていた。
「ねぇ、海斗くんってやっぱり七海さんのことが好きなの?」
突拍子もないことを聞かれた俺は困惑した。
「……わからない。でも──七海が俺にとって大事な存在なのは確かだ」
俺がそう言うと、美月はしばらく海を見つめて言った。
「七海さん、戻って来るといいね」
神社からの帰り道、海岸で船の手入れをしていた島の長老の漁師が話しかけてきた。島の公民館で話があるから一緒に来るよう言われ、俺らは言われた通り付いていった。公民館に入ると、漁師のおじさんたちとその家族が大勢集まっていた。
「この前言っとった埋め立て反対の活動の話なんだが、俺らも力になりたいって思ってな」
「魚がいなくなっちまっちゃあ困るしな」
「島が竜なんかに食われてみろ、たまったもんじゃねぇ」
この前まで俺らの話を全く信じてもらえなかったのが嘘であるかのように、多くの人の賛同が得られた。みんなが島を思う気持ちで一つに繋がったような一体感を感じた。
「俺は反対だ」
みんなが賛同する中で一人、気に食わなそうな態度を取っていた男が口を開いた。
「そんな小僧の言うこと一々真に受けてどうする。大体ちゃんとした証拠もねえのに協力なんかできるか。せっかく国から金が貰えるってんだ。受け取らねえ理由なんかねえよ」
男はそう言うとそそくさと公民館を出ようとした。俺が引き止めようとした時、美月が声をあげた。
「待ってください!」
みんなの視線が一気に美月に注目した。彼女は緊張で押しつぶされそうになりながらも必死に訴えた。
「島のみんなが心を一つにしなきゃ、魔物は倒せません。あなたの力が必要です。どうか私たちに力を貸してください。お願いします」
そう言って頭を下げる美月に、俺も一緒になって頭を下げた。
すると俺たちの真剣さが伝わったのか、男はこちらを振り返り言った。
「一旦荷物を取りに帰るだけだ。仕方ねえからあんたらの熱意を買ってやるよ」
きっと七海がいなくなる前に、島の危機を訴えても誰も信じてくれなかっただろう。
やがて島の他の人々の参加者も増え、俺たちの反対運動は徐々に規模を拡大していった。みんなが書いた署名を国に送り、海岸にはみんなの思いを書いたポスターを貼った。俺たちは一丸となって埋め立て反対を訴えた。
すると不思議なことに、荒れていた島の海は少しずつ元に戻り、全く姿を見せなくなっていた魚や鳥たちが次第に戻ってきた。島の人々にも笑顔が戻った。
国も初めは支給する額を増やすだとか、代わりに住む場所を提供するだとか言っていたが、俺たちの強い意志を見て取ると、遂に埋め立て計画の中止を発表した。それは全国放送のニュース番組で大々的に報道され、新聞の一面にも大きく掲載された。
驚くことに、この発表の後、島の海で海竜を見たという人が何人も続出した。彼らの話によると、海の中から現れた海竜は人を襲うことはなかったという。それは海の上に浮かび上がると、閃光を放った。すると、体を覆っていた黒い鱗がパラパラと剥がれ落ち、中から人魚の女が現れたというのだ。その話を聞いた俺は、七海の母親に取り憑いていた魔物が消え去ったのだとすぐに確信した。
気がつくと俺は走り出していた。何故だかわからないが、七海が戻ってきた気がしたのだ。俺が向かった先は神社だった。
「七海!」
そこいたのは紛れもなく七海だった。俺は嬉しさのあまり、涙ながらに力強く抱きしめた。ずっと海の中にいたせいか、彼女の体は冷え切っていた。俺は彼女を両手で包み込み温めた。
「あの時俺、海竜を倒せなくて、そのせいで七海を怖い目に合わせてしまって、本当に悪かった」
俺は頭を下げて謝った。彼女は別にいいのよと答えた。そして、俺は海の埋め立てが中止になったこと、海が戻ったこと、七海の母親が生きていることを伝えた。てっきり彼女は喜ぶはずだと思っていたが、意外にも彼女は冷然としていた。何を話しても抑揚のない声で返事をするばかりなのである。
俺は七海を連れて美月の元へと向かった。
「七海さん、戻ってよかったね」
「あぁ。でも何か様子がおかしいんだ」
美月も話しかけたりしてみたが、七海は一度も笑顔を見せることはなかった。
俺たちは神社へと向かった。そして祠の前で手を合わせ、七海が感情を取り戻すよう祈った。そして島や海、七海を守ってくれた礼を言った。
「人の心、海に現る……か」
「……え?」
俺が呟いた言葉の意味がわからなかったのか、美月は困惑の表情を浮かべた。
「石碑に書かれてる言葉だよ。前に七海が教えてくれたんだ。人が変われば海も変わる、本当にその通りだよな」
「……そうだね」
神社への参拝を終えた俺たちは、島のみんなに礼を言うため、島を回った。島の人々は七海が無事だったことを知ると大層喜んだ。みんなには心配をかけないよう、七海が感情を失くしてしまったことは黙っていた。
それから何日か過ぎたが、相変わらず七海に感情が戻ることはなかった。何をしても笑うこともなければ怒ることもない。そんな七海を見ていると、俺の心も次第に薄れていくようだったが、彼女を思う気持ちだけは依然としてなくなることはなかった。
ある日の夜、俺が一人で神社に行くと、そこには偶然美月の姿があった。一緒に祠の前で手を合わせた後、俺が目を開けると彼女は隣で泣いていた。
「おい、どうしたんだよ」
いきなりのことで困惑した俺は彼女に尋ねた。
「こんなになるんだったら、いっそのこと私の感情がなくなればよかったのに」
彼女は涙を流しながらそう言った。その時、俺は彼女がどう言う心境でそう言ったのか全く理解していなかった。
「そんなこと言うなよ」
「感情なんてなくていい。ううん、もういっそなくなってほしい。私の感情がなくなって、七海さんに感情が戻ればみんな幸せになれるのに」
俺がそんなことはないと言うと、美月は今だけでいいから抱きしめてほしいと言った。その瞬間、やっと彼女の気持ちがわかった気がした。俺は泣いている彼女をそっと抱き寄せた。
暫くして、美月は落ち着きを取り戻した様子で俺の腕からゆっくりと離れた。
「海斗くんに渡さなきゃいけないものがあるの」
そう言って彼女はポケットから何やら光る小さな石のようなものを取り出した。
「それは?」
「海で海斗くんを助けた時、拾ったの。きれいでしょ」
彼女は石をぎゅっと握りしめる。
「その時はこれが何かわからなかった。でも、七海さんが戻ってきて、三人で神社に来た時、これが何なのかわかった」
そう言って美月は石碑の方に目をやった。
「この石碑に書いてある言葉。〝ヒトノココロウミニアラハル〟これには二つの意味があると思うの。一つは海は人の心の状態を投影しているということ。もう一つは──〝失くした心は海の中に現れる〟ということ」
彼女はそう言うと俺の手に石を渡した。
「それは七海さんの心。七海さんの涙の結晶で出来た石。そこに海斗くんの思いを強く込めてここに祀れば、きっと七海さんは感情を取り戻すと思う」
彼女から話を聞くと、俺は祠の前に立ち、目を瞑った。そして石を握りしめ、七海に心が戻るよう全身全霊で願った。すると、石の光がみるみる強くなり、指の隙間から漏れ出した。それとほぼ同時に、今まで暗くて見えなかった海が七色に光り出した。
「すごい──」
「あぁ」
神々しく光る海は島全体を照らした。それはまるで海に住む人々からの感謝の気持ちのようだった。
やがて海の光が消えていき、気がつくと俺の手の中にあった石からも光がなくなっていた。そして、それは七海に心が戻ったことを意味していた。
「美月、ありがとう。お前が俺の側にいてくれて本当に助かった。みんなを助けることができたのは美月の力があったからだ。心から感謝してる」
俺がそう言うと、美月はシクシクと子供のように泣いていたが、少しすると彼女の顔に笑顔が戻った。
「やっぱり私、感情があってよかった。こんなに素敵な気持ちを教えてくれてありがとう」
再び溢れてくる涙を抑えながら、彼女はそう言った。
神社の階段を降りたところで美月と別れると、俺は海の方へと向かった。海岸に着くと、そこには七海の姿があった。
「七海!」
「海斗!」
俺たちは自然と抱き合っていた。会えなかった時間を埋めるように、言葉では言い表せないほどの愛を伝え合うように──。七海の体はとても温かかった。俺は不思議と涙が止まらなかった。
「七海、俺ずっとお前に会いたかった……」
「私も……」
気がつくと七海も泣いていた。彼女の涙を見たのは久しぶりだった。
「そういえば、海にいる間海竜に何かされたりしなかったか?」
「えぇ、何も。海竜が私を口の中に閉じ込めてくれていたおかげで海の中でも息をすることができたの。きっと海竜は最初から人を襲う気なんてなかったのよ」
ふと足元に俺が海に落としたはずの剣が打ち上げられていた。それは七海の母親が返しに来たに違いなかった。俺はそっと剣を拾った。
「……ねぇ、見て!」
七海の視線の先に目を向けると、ゆらゆらと静かに揺れる海面に、きらきらと輝く満月が浮かんでいた。それはまるで一本の輝く道のようだった。
「水清ければ月宿る──」
彼女は小さく呟いた。俺たちは手を繋ぎ、光の先を見つめていた。
翌日、俺と七海は守り神に礼を言うため、神社へと向かった。俺たちは神饌を供え、手を合わせて拝んだ。そして、俺は結局使うことのなかった剣を祠の中にしまった。
「やっぱり神のお告げは間違ってなかったわね」
そう言って彼女は笑った。今日も海は光り輝いている。
ウミとツキ 瀬戸美鈴 @seto_mi
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