風の王国の物語

彩あかね

試し読み

 息子よ。

 自身が心身共に強靱であり、勤勉であり、周囲には慈愛を以て接し、多大な支持を得ているその時こそ足下を見よ。照らす光が烈しければすなわち、影が濃くなるということだ。浮き足立っている時こそ、思い出してほしい。

 息子よ。ゆめゆめ忘れるな。

 影の国は常に、自身につきまとっているということを。


   一 風の王国ランクン


 深呼吸をすると、ほのかに土埃を感じる。周囲を見回すと、風に晒され腐食した岩肌が彼方に見えた。ファージスの絶壁が北からの侵攻を防いでくれている。それは逆に我が国が北との交流を隔てているのと同等だ。

 馬上から見下ろすと、民衆から耳をつんざくほどの歓声を浴びた。彼らは痩せ細ってはいたがその目に宿る光は猛々しさすら感じる。手を振って応えるとさらに歓声が大きくなった。皆が一斉に「メイヤー! メイヤー! メイヤー万歳!」と拳を振り上げる。昔は闇のような漆黒の髪、細い目がまるで狡猾さを出しているようで自分の容姿を好きになれなかったのだが、徐々に民衆が注目し賞賛を浴びるようになってから気にならなくなった。時折強い風が土埃を舞い上がらせ反射的に目を細める。隣に気配を感じて視線を巡らせるとザウァーがにこやかに民衆からの賛美を受け止めていた。彼が手を振ると今度は「ザウァー将軍、万歳!」と湧き上がる。背はメイヤーよりやや高く金茶の髪をそよがせ、左頬に深い傷跡を持ち、深い碧の瞳を輝かせ――左上腕に巻かれた包帯からは血がにじみ出ていた。

「やれやれ。笑顔を続けるのもけっこうキツいな」

 ザウァーは言うほど辛くもなさそうに愛想を振りまき、時折こちらを見てくる。

「すまないな、私のために」

 腕の怪我を顎で示すと、ザウァーは「なんの」と豪快に笑った。

「ラッセルの当主はオレの父に等しいからな。これくらいで済めば安いものだ」

 屈託のない笑顔につられて口元がほころんだ。これくらいとザウァーは言うが、深手であるのは承知していた。発熱もして軍医に薬をもらっているのも知っている。それなのに彼はメイヤーの前では弱音を吐いたことがない。

「国王陛下へ挨拶をしたら、久しぶりにふたりで飲まないか」

 その言葉に軽く首を振った。

「まずはその傷を癒やせ。妻や子の顔も見たいだろう……と言いたいが、今宵は城塞に泊まり込むであろうな。陛下は出征から戻るといつも夜通し宴をする」

 ザウァーは空を仰ぎ見た。

「あー……なかなか平穏に戻れないな」

「陛下のお気持ちも汲まねばな」

 城塞へ続く門が開かれた。木製の門は城塞の姿を認められぬほど高く、開かれぬ限り全てを遮断してしまう印象を持つ。数百年前からの戦乱の証だった。馬を進めると民衆の歓声を背中で受ける。メイヤーたちが中へ入り、背後で門が閉じられても声は暫く響いていた。正門から城塞への入り口は更に馬を進めねばならない。ここには王家やメイヤーやザウァーのラッセル家の居館はもとより、武器を扱う鍛冶職人、建築に携わる石工などが仕事場を構えている。敵国に攻め入られても技術は最後まで手放さない、ランクンらしい考えだ。職人たちが仕事をする手を止めてメイヤーたちにひれ伏している。メイヤーはそれを尻目に城門を目指した。

 石造りの城門前で下馬すると世話係に後を任せ、家臣たちの労をねぎらい、解散する。ザウァーとふたりになると、お互いにうなずきあって城へ入った。

「お父様!」

 最初に飛び出してきたのは幼女だった。明るい金髪をなびかせ、紅色の頬に碧色の瞳が大きく愛くるしい。その子はまっすぐにザウァーの元へ駆け寄ると彼に飛びついた。

「カチュア!」

 ザウァーも驚きを隠せないようで狼狽え、辺りを見回した。まずは王子に伴われた国王が穏やかな笑みを含ませ杖をついて立っていた。その付近にザウァーの家族がいる。彼の妻にカチュアの兄、ローランド。そして――メイヤーの妻、カーラ。

 カーラは海のように深い青色の瞳でメイヤーを見つめ、にっこりと微笑んだ。長い黒髪を束ねて緋色の宝石がちりばめられたネットにまとめている。胸が大きく開いた暗赤色のドレスをまとっていた。白い胸元には紅玉髄カーネリアンをあしらったネックレスをつけている。他の婦女子のたたずまいが楚々としている反面、開放的だ。

「そなたらが戻ると知らせを受けてな。急遽家族を呼んだまで。今宵は饗宴を用意させた。無礼講にいたす。家族も共に過ごすが良かろう」

 メイヤーとザウァーは国王の前にひざまずいて頭を下げた。

「メイヤー・ラッセル、ザウァー・ラッセル。これにポートワンドを攻略、ボッシュ族を撃破しここに帰還しましてございます」

 ラッセル家の家長であるメイヤーが報告し、国王から労いをもらう。褒賞などはまた後日与える、というのが通常のやりとりだ。

「ラッセルのメイヤー、ご苦労であった。ザウァーとの共闘の勇猛さも聞こえに及んでいる。サガンもさぞかし煮え湯を飲んだことだろう」

 ボッシュ族のサガン将軍は毒を含ませた武器を用い、大打撃を与えた。解毒が思うようにいかず、いまだに生死をさまよっている兵士たちもいる。メイヤーは深く頭を下げた。

「サガンは新しい毒薬を開発したようです。意識が朦朧とし、やがてこんこんと眠りにつき解毒が間に合わねば衰弱が続き――落命すると」

「従来の解毒薬でこれといった効果は」

 ザウァーが苦々しい表情で呟いた。サガンは勇猛というより毒使いの異名が有名だったが持ち合わせの解毒薬が効かないのは想定外だった。国王があごひげを撫で、低くうなる。「詳細は治療院に伝え、解毒を試みさせる。ラッセルよ、まずは身体を癒やせ。……メイヤー・ラッセル・ポートワンド大公」

 メイヤーは思わず王を見上げ、彼の穏やかな笑みを見るやザウァーへ視線を移した。彼がうなずくと慌てて王に更に頭を下げる。

「陛下の恩賜、謹んでお受けします。……わが忠誠は永遠に陛下のものに」

 膝を折り、深く頭を下げたその後頭部に王は軽く触れると踵を返して奥へと歩き去った。 メイヤーは身体が震えた。ポートワンドはボッシュの侵攻を食い止めた地であるが、代々王家が管理してきた土地だ。面積こそ広大ではないものの、ラッセルが王位に食い込める可能性を秘めている。ラッセル家は古くから王や王后を輩出している家柄ゆえに過去も領地を賜るようなことはなくはなかった。だがそれはポートワンド以外の土地である。ランクンは自然の苛烈さにて他国の侵攻を妨げてはいるが、ポートワンドは今回のみならず過去、何度も攻略された土地で国の防衛線だ。ここを下賜するということは……。

「いつまでそうしてるつもりだ」

 我に返って頭を上げると国王の姿はすでになく、ザウァーの元に妻子が集まってきていた。カーラはさっきの位置から動く気配を見せず、まっすぐこちらを見つめている。

「まさかポートワンドをくださるとは思わなかった。わが一族は安泰かもな」

「……狸だよ、わからぬかザウァー」

 メイヤーは立ち上がるとふっと息をついた。彼の地はいついかなる侵攻からも死守する義務を背負うことになる。ランクンを狙うのはボッシュだけではない。これからはラッセルが率先して防衛にあたれ、ということだろう。

「肉を切らせて骨を断つ、とはこのことかもしれぬ」

「自分の君主にそのような物言いをするのは君くらいだ」

 ザウァーは冗談だと受け取ったようだが本心だった。

 ポートワンドは高さを誇る砦があり、国境付近にあるためそこを拠点にするしかない。落ちれば蹂躙されるのは時間の問題なのだ。要所ではあるが弱点でもあった。

「こんな荒野ばかりの国を欲しがっても仕方ないが。鉱山狙いなら納得だ」

「それより呼ばないのか、彼女を。君が手招きしないと来ないぞ」

 カーラはまだそこにたたずんでいる。意志の強そうな強い光を宿した目、きりっとした眉、紅を塗った唇はきゅっと引き締めたように真一文字を描いていた。

「メイヤーよ。彼女を娶ったのは君の勝手だが……オレはどうもあの女は好かぬ」

 ザウァーはカーラの血筋を気にしているようだ。貴賤の類いではない。ボッシュの血が入っているからだろう。

「そうか。だがあれはいい女だ。私の中の焔が燃え上がる気がする」

 そう言ってもザウァーは納得しておらず、苦々しい表情でカーラを一瞥した。

「カーラ」

 メイヤーが手を挙げると、彼女はやや表情を明るくして足早に彼の元へ駆け寄った。まずメイヤーにドレスの裾をつまみ上げて礼をし、ザウァーに向かっても同じことをする。それを合図のようにザウァーは眉をひそめつつ「後でな」とメイヤーに言い置いて家族と共にその場から去って行った。彼を見送ると再びカーラに向き直った。彼女が側に居ると身体にくすぶる焔が燃え上がる、というのは本当だ。彼女が魅力的だということだけでなく、武人として鼓舞してくれるところも他の女ではかなうまい。

「戦が終わる前からご無事を信じて疑いはしませんでした」

 案の定、彼女の強気は変わらなかった。

「あたくしは、強い方に嫁ぎましたから」

 いつもと変わらぬ彼女の態度にほころんだ。

「健勝だったか」

 彼女の腰に手を回した。

「ご覧の通り」

 紅を引いた唇に接吻するとにっこりした。

「汚れた鎧」

 人差し指で鎧の胸部を撫で、血や埃にまみれた指を見て眉をひそめると思ったが彼女は満足げに微笑んだ。

「あたくしの夫は猛将ですから。これは勝利の証でございます。ランクンの豪傑、ラッセルの主、はては――この国の君主」

 ザウァーに言ったことは本心だ。カーラがいなければメイヤーがここまでのし上がることはなかっただろう。猛将が多い同族の血が流れてもメイヤーはどちらかというと内向的だ。カーラはメイヤーにとって陰に日向に生涯必要な人間には違いない。この――持て余すばかりの野心がなければ。

「滅多なことを。ここをどこだと」

「いずれ旦那様の居城となる場でございます」

「いいかげんにせよ。その口を閉じねば――」

「閉じねば――どうなさいます? 旦那様はそれ相応の力をお持ちです。あたくしは真実を申し上げたまで」

 カーラの笑みは不遜にも見えた。彼女は血埃で汚れた細い指でメイヤーの頬に触れる。

「あたくしはラッセルのものです。我が同族の流血は旦那様の栄誉への贄でございます」

 背伸びをして再びメイヤーに接吻した。

「……お召し替えを。用意してございます。その伸び放題の髭も整えてくださいませ」

 カーラが先導を切って歩き出した。小柄で華奢であるのにその後ろ姿はメイヤーが立ち向かったどの英傑よりも巨大に見えた。メイヤーは巨漢でありながらその様子は幼少の子のごとく妻の後をついてゆく。

 時折吹き抜けていく冷たい風をその身に受け、メイヤーは考える。ランクンは風の国。不毛の大地を抱きそれでも大地の恩恵を受け繁栄してきた。それはいい風が吹いているからだと言われてきた。ラッセルの家督を継ぐ時もザウァーと争うことになるかと思ったが彼から身を引いてくれた。彼も本家筋であったから十分資格はあった。どういう思惑があったかは未だにわかっていないが、いい風が吹いたからメイヤーが家督を継ぐことができた、それで解決している。

 全てにおいて風の導きが絡んでいるのなら、カーラとの出会いも然りであろう。貴族でもない、商家の養女にすぎなかった彼女はよく「旦那様と一緒になれたことは風の導き」と言っていた。風の導き。いい風が吹く。カーラと出会いはメイヤーにとってもそうであった。子宝には恵まれないが彼女は物静かで教養深くあった。ただし、夫の出世に関しては本人よりも能動的ではあった。

「あたくし、幼き頃に呪術師に未来を視ていただいたんですの」

 カーラを娶り、初めての夜を過ごした後、己の胸の中で呟いた言葉をメイヤーは一言一句違えずに覚えている。それはまだ大貴族とはいえ一介の若造にすぎない彼には衝撃的だった。

 

 ラッセルのメイヤー、家督を継ぐ。

 ラッセルのメイヤー、百戦百勝の英雄。

 ラッセルのメイヤー、ポートワンドの領主。大公様。

 ラッセルのメイヤー、美しく穢れた王。

 ラッセルのザウァー、非凡の才。

 ラッセルのザウァー、それなのに王になれぬ哀れな男。

 ラッセルのザウァー、最後の後継者。王家の血筋を後世まで広げる者。


「あたくしは、王の妻になりとうございました」

 カーラはメイヤーの黒髪を指で梳き、胸毛に頬ずりをしてくすくすと笑った。当時、王位など彼本人も夢にすら描いておらず、新妻の言葉に戸惑うばかりだった。それにカーラ本人の予言ではなくメイヤーや、なぜかザウァーのことまで言及していることに気味が悪いと思ったものだ。

 だが現在、その世迷い言が現実になってきている。現にメイヤーは家督を継ぎ、戦では負け知らず、ポートワンドを得て大公となり王位に王手がかかっていると言っても過言ではない。あの土地はそれほどの意味を持っている。

「王にだと……ばかばかしい」

 独り言がカーラに届いたのかどうか。彼女は首を巡らせ目線だけこちらを向けて――また歩き出した。カーラは最奥にある金銀で縁取られた重々しい扉の前で立ち止まると、扉を開けてメイヤーを招いた。

「侍女の説明ですと国王陛下に次いで良い部屋だそうです」

 メイヤーは黙って部屋に入った。そこには天蓋付きの寝台に複雑な飾りがついた卓子、窓には暗赤色をした光沢ある遮光幕がかかっていた。

「暗いな」

 メイヤーが眉をひそめるとカーラは遮光幕をゆっくりと開ける。窓には――様々な色の硝子が填め込んだ意匠で大輪の花を思わせた。他は目立った華美な調度はなく、質素といえば質素だった。

「支度がお済みになりましたら、饗宴の前に陛下の私室へ参じるよう承っております」

「なに」

 驚いて振り返るとカーラは悠然と微笑んでいた。

「王位のことでございましょう」

「莫迦な」

「なぜです。大公とおなりになった旦那様と秘密裏にお話なさるのかと」

「そんな話はよせ」

 汚れたマントを脱ぐとカーラはやや憮然とした様子でそれを受け取り、着替えを手伝う。頃合いを見計らったかのように侍女たちが入室し、無駄口ひとつなくてきぱきと風呂の用意をし、彼女たちに促されてカーラは寝台の隅に腰掛けた。

 王はなぜ密かに自分を? カーラからすり込まれるように言われた「王位」という言葉を頭の隅に追いやって細密な模様に彩られた風呂桶に身を沈めた。やや熱めの湯が全身の疲れを溶かしていくようだ。侍女たちが入浴の世話をしている間、カーラはこちらを見ているものの唇をぎゅっと引き結んでいる。なにか言いたいことがあるようだ。そうは思ってもメイヤーも久しぶりの入浴でゆっくりと湯を楽しみたい。時折侍女に話しかけてみるが彼女たちはカーラを気にして一言のみの返事しかしなかった。

 風呂を済ませると、侍女たちはメイヤーの髪と髭を整えてそそくさと退出してしまった。「そんなににらみつけてやるな。かわいそうに、すっかり萎縮してしまって」

 カーラにため息をついてみせると彼女は首を振った。

「使用人は使用人の仕事をすればいいだけのこと。旦那様に触れるのを許しているだけでも褒めてほしいくらいですのに」

 メイヤーが妙齢の女性と話すのも、カーラは心静かではいられないらしい。すさまじい悋気をむき出しにするでもなく、心の底でひっそりと熱く冷たい焔を燃やしているようだ。かわいいと思う反面、その情熱に戦慄することもあった。

 カーラはかいがいしくメイヤーの服を手に取った。謁見用の礼装ではなく、かといって領地で着るものでもない――暗赤色の無地で羊毛素材の準礼装にあたる。

「ここは王城でございます。無礼講と伺ってますから正装は仰々しすぎますし、かといって領地でお過ごしになる服では無礼ですから」

 大公となったからには身だしなみにも隙を見せるな、ということだろう。ここは素直に妻の言いなりになる。

「なかなか休憩もできぬな」

 思わず愚痴るとカーラは初めて愉快そうに笑った。

「今宵はゆるりと眠れますわ」

 カーラが剣を取ると、メイヤーはそれを制した。「不要だ」

「武人なら帯剣するもの。旦那様の口癖ではありませんか。大公殿下となられても変わらないのでは?」

「それを言うな……」

 仕方なく、飾り紐を帯に結びつけた。

「用事が済んだら戻るが。君はどうする?」

「ここでお戻りを待ちます。ここはいささか――いえ、なんでも」

 カーラを怪訝な目で見るのはザウァーだけではない。王城にいる者――使用人を含めてカーラにとっては遠ざけておきたい者たちだろう。ボッシュと険悪であってもその血はわが国民にも浸透しており、憎むべきは民ではないのだが。やはり王城ではカーラを良く思っていない者が少なからず居る。

「すぐ戻る」

 妻の頬に軽く接吻するとメイヤーは部屋を後にした。

 建物の構造上ここの位置は最奥だというのに、風が吹き込んできた。

「これはいい風か……どうなのか」

 ひとりごちて、ゆっくりと王の私室へと足を運んだ。途中でザウァーと会うかと思ったが、衛兵や使用人たちとすれ違ったくらいで、彼らは目が合うと最敬礼して道を譲った。

 王の私室はメイヤーにあてがわれた部屋と変わりない意匠の扉だった。衛兵がいたが顔を見るやまた最敬礼してくる。

「メイヤー・ラッセル・ポートワンドである。陛下にお取り次ぎを」

「大公殿下。お待ちしておりました。しばしお待ちください」

 衛兵が中へ入っていく。メイヤーは小さくため息をついた。

「ラッセル・ポートワンド大公、か……ご大層な名前だ」

 さて、次はなにをさせるつもりか。取り次がれている時間は些少なものだったろうが、長く待たされているような感覚に陥り、明かり取りの窓に留まっている蜘蛛が巣をつくる様をじっと見つめていた。

「殿下。お待たせいたしました」

 衛兵に招かれて中へ入ると、そこは与えられた部屋よりも若干広めではあるが調度などはほとんど同じであった。天蓋付きの寝台は大きな房飾りが下がっており、窓の色硝子は青を基調としたものである。

「大公。急がせたようだ、もう少しゆっくりしてくるものだと」

 王は椅子に座り、なにやら書類を書いている様子だった。こちらからはどんなものかはわからない。

「饗宴の前に参じるようにとのことでしたので」

 膝を折り、最敬礼をする。

「もうよい、もとの配置へ戻れ」

 王が後ろで控えていた衛兵に指示をすると、彼は頭を下げて出て行った。

 王子がいるかと思ったが、なぜか王ひとりきりである。表情は窓からの逆行のせいで確認ができない。

「頭を上げるが良い。大公」

 メイヤーが立ち上がると、王も席を立った。

「サガンの毒だが、なんとかなりそうだ」

「まことですか」

「まだ色々試しているが。戦場では薬が足りなかったとか」

 王の口調は責めている風ではないが、状況判断の甘さを指摘しているのだと捉えた。だがもしポートワンドで戦があれば今度は出兵可能な王直属の軍の数はかなり削減されよう。薬もラッセルで調達せねばならない。

「特効薬を突き止めたら処方を配布するよう手配しよう」

 やはり当家でなんとかしろと言われている。ポートワンドを護らせ、目立った支援はしない。報奨と言いながらこれは厄介な領地を押しつけ私有地のみならず国そのものをラッセルが護れと言っているものだ。これは褒賞とは言わない――これは。

「王位」

 カーラの言葉を思い出した。ポートワンドの大公が王位につけば周囲は納得がいく。メイヤーを王太子にするつもりなのか。カーラのあの世迷い言のように。だが。王にはすでに王子がいる。彼が継ぐのが定石ではないだろうか。メイヤーから見ても特に問題ある者とも思えない。

「後日、わしは立太子の指名をする」

 無意識に生唾を飲み込んだ。なぜそんなことを自分に聞かせる。なぜ王子はここにいない。そんな大事なことを言うのなら宰相や他の大臣も居てしかるべきだ。

 これは――試されている。カーラの言葉はこの際忘れよう。ポートワンド拝領で王位を狙わせてラッセルに二心ありと冤罪をでっちあげる算段かもしれない。

「ここにわたくしが居て、良いのでしょうか。かようなことは」

「非公式だ。大公個人としての意見が聞きたい」

「陛下の決定にわたくしは異存はありませぬ」

「そうかな。ラッセルという名家にボッシュの穢れた血を入れた。そなたは父親とは違う。価値観も、戦い方も」

 ――そう来たか。ラッセルは名家だがカーラとは情炎だけで妻にしたわけではない。それに彼女は純粋なボッシュの女ではない。それにランクンの大商家へ養女として迎えているので表向きはれっきとしたランクンの人間だ。王からしてこの価値観を持っているから、カーラを敵国の女と認識しているから、彼女はその空気を敏感に察知して極力部屋の外へ出て行かない。

「ボッシュの血をおっしゃるなら、この国の民にも相当数おりますぞ」

「ラッセルを凡常の民と同じに考えるな」

 メイヤーが苦り切った表情を見せると王は咳払いした。

「子がいないのが幸いだがな。まぁこんなことを言うために呼んだのではない。次期王だが」

 誰でもいい。どうせ自分は指名されまい。王子かあるいは――。

「ザウァーに継いでもらうことにする」

「?!」

 意外だった。彼はラッセルの家督からも外れ、侯爵という地位はあるものの完全に王の家臣になっている。

「畏れながら。王子殿下はいかがなさいます。陛下はまだまだご健勝です。皆、殿下の成長を楽しみにしておりますでしょうに」

 窺い見ると、王は冷めた視線を向けていた。反応を見ただけかもしれない。こういう試すようなことさえしなければこの王はそこそこ名君とも言えるのだが。

「健勝? どこをどう見たら健康に見えるのだ。足腰も弱り、目もかすみがちで耳も遠くなった。なのにいまだ立太子すらしていないのは逆に不安というもの。近隣諸国の脅威に立ち向かう強い王が必要なのだ」

 それでザウァーを指名するというのか。彼は正義感は確かだが気性がまっすぐすぎて統治には向かない。この人選は誤っている。だがそれを宰相でもないメイヤーが王に言える立場でもない。

「ご決心が固ければ。ただ、王子殿下を差し置いて皆が納得しますかどうか」

 そう言うのが精一杯だった。

「わしにもラッセルの血が流れている。だからそなたには要所を与えた。外戚筋とはいえ王子より優秀な男がいれば検討する。こう見えて最近体調も不良なのだ。わしなりに国を案じてのこと」

 最早なにも言うことはなかった。

「先程も申し上げましたが、陛下の言葉に異存はありません。御用がそれだけなら下がらせていただきます」

 一瞬、王が意外そうな表情を見せた。この話はでまかせかもしれない、そう思えてきた。が、油断はならない。彼は領地を下賜すると同時に首を絞めに来ているのだから。この一件は宰相あたりの入れ知恵かもしれないが。

 退出するために扉に触れ、ふと王を振り返った。王が横目でこちらを見ている。

「陛下」

「なんだね」

「その宣言は、いつなさるおつもりですか」

「三日後だ。宰相も大臣たちも集まる」

 挨拶をして、私室を出た。さっき取り次いでくれた衛兵がメイヤーに敬礼する。

 ザウァーが王に。その姿を思い浮かべて首を振った。

 風がメイヤーを取り巻く。やけにぬるく、まとわりつくような風だった。


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風の王国の物語 彩あかね @T_Morimoto

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