M.A.W.C

アノニ〼

第0話

 俺こと榊祐二の生活は標的であるシキミを起こすことから始まる。


 無駄であると知りつつも一応扉をノックもするが、もちろん返事はなし。それぐらいで起きるようなら、わざわざ俺が行くまでもない。

 仕方なくいつもと同じように、高価そうなドアノブへと手をかける。

 扉を開けると、北向きの窓にかけられた真っ白なカーテンが静かに朝の風に揺れていた。無駄に広いこの部屋の家具は三つのみ。中央付近に置いてある真っ白な机と真っ白な椅子。そして同じく真っ白な天蓋付きのベッド。白を基調とした無音の部屋は生活臭をまるで感じさせなかった。


 この部屋の主はベッドの上で静かに寝ていた。ぶかぶかのパジャマに包まれた雪のように白い肢体。影ができるほど長い睫毛、つんとした小さな鼻、薔薇のように紅い唇。一瞬死体かと見まがうほどその姿は美しく、時折聞こえてくる小さな寝息だけがこいつが生きていることを証明していた。


「おい、起きろ」


 こいつも寝ていれば年相応に見えるものを。起こすのがもったいない。


「起きろ」


 体を強くゆすってやると、ようやくシキミは目を覚ました。


「あぁ……、おはよう祐二」


 目をこすりつつにっこりと微笑む様子はまるで童話の中のお姫様のようだったが、後に続く言葉がすべてを破壊する。


「いつも言ってるでしょう。起こすときは首を絞めてって」


 この変態が。俺は寝ている人間を襲うほど、外道なつもりはない。いや、襲ったことがないわけじゃないが。


「いつものやつは、どこ」

「そこの机」


 いつものやつ。それは砂糖と蜂蜜がこれでもかというくらい入った甘々な液体、もといミルクティだ。こいつの猫舌に合わせ温度は人肌程度。


「うん、おいしい」


 そんなものをおいしいと言えるこいつの味覚が俺には分からないが、依頼人が喜んでいるならよしとする。


「毒でも淹れてくれればよかったのに」


 首を絞めて起こせ、の次に言うことが、毒を淹れろ。明らかに普通じゃない。悪いが毒殺なんて野蛮なもの、俺はするつもりはない。いや、過去に毒殺をしたことはあるが。


 さて、勘違いしないでほしいのだが、俺は別に好きでこんな異常者と暮らしているわけではない。仕事の都合上仕方なく一緒にいるだけなのだ。

 俺の職業は何でも屋。人探しや浮気調査という探偵じみたことから、密輸や殺人など裏社会的な仕事も、報酬にもよるが依頼人に頼まれれば何だってやる。やってくる客はそれこそどこにでもいるような一般的な人から、俺と同じような裏の人間、そして依頼したことが明るみに出ることは決して許されない世界に名を轟かしているあの人まで。ありとあらゆる人がやってくる。

 こんな仕事をしていると嫌でも有名になってくるもので、俺を殺そうと狙ってくる輩も少なくない。もちろん依頼人共々返り討ちにしてやるが。

 いつしか俺の名前は一人歩きして、携帯一つ持っていれば勝手に仕事が舞い込んでくるようになった。


 今回の依頼内容はある一人の人物を殺すこと。その人物こそが依頼人であり、標的であるシキミだった。自殺でもすればいいのに、おかしな奴だ。

 まぁ、俺からしてみればこんな奴いつでも殺すことはできるし、一人殺すというだけの仕事にしては破格の報酬だし、いいことづくしってわけだ。こいつがこんな性格でさえなければ。


□■□


「ねぇ、いつになったら祐二は僕を殺してくれるのかなあ」


 いつものようにシキミの部屋で愛機(回転式拳銃、俗に言うリボルバーだ。弾数こそ六発と少ないが、俺にはそれで充分だし、万が一疑われたときも護身用として言い訳に出来る優れものだ)の整備でもしながらのんびりと午後のひと時を過ごしていると、そんなことを言い出した。


「……おまえは何でそんなに死にたいんだ。そんなに死にたいならさっさと飛び降りでも何でもすればいいだろ」


 それはずっと思っていたことだった。


「祐二それはちがうよ。僕は死にたいんじゃなくて殺されたいんだ」

「だったら外に行け。夜にそこら辺を歩いとけば変態野郎が誘拐ついでに殺してくれると思うぞ」


 口さえ開かなければ一応見た目はいいわけだし、こいつも。


「えー、そんなの嫌だよ。見ず知らずの奴に殺されたくない」


 なんて我儘な奴。これだからボンボンの子供っていうのは。


「だったらあいつはどうだ。ほら、お前の代理人の……」

「あぁ、黒木のこと?」


 詳しく説明すると長くなるが、一番最初に俺に接触を図ってきたのはシキミではなく、シキミの代理人だとかいう黒のスーツに黒のサングラスをかけた、いかにも胡散臭い野郎だった。

 まぁ、だからこそ俺は引き受けたわけだが。シキミとは携帯越しに二言、三言会話を交わしただけだったが、もし奴本人が直接来ていたら、間違いなく断っていただろう。


「黒木も嫌。僕別に黒木のこと好きじゃないもの」

「殺されるのに、好きとか嫌いとか関係ないだろ」


 それは違うよ、とシキミ。


「だって、どうせ死ぬんだったら愛する人に殺されたいでしょう」


 金持ちの考えることはよく分からない。それが大金を積んで俺に依頼した理由だとしたら、世の中を舐めきっているとしか思えない。


「じゃあ、お前は俺のことが好きなんだ?」


 意地悪そうに聞く俺の質問に


「そうだよ。大好きだよ、愛しちゃってるよ」


 生憎、俺はいくら見た目がよかろうが、男に好かれて喜ぶ嗜好は持っていない。


「はいはい。俺とお前、知り合ってからまだそんなに経ってないのに、何でそこまで想えるんだよ」

「実は知り合ってからそんなに短いってわけでもないんだけどね」

「は、お前何言ってんの」

「ううん、こっちの話ー」


 結局にやにや笑いを顔に貼り付けたまま、それ以上シキミは依頼理由を話すこともなかった。俺はこいつのことだからどうせくだらない理由だろうと、突っ込んで聞くことはせず、愛機の手入れに専念したのだった。





 ――この奇妙な生活に慣れてしまって、俺はすっかりシキミという人間を警戒することを忘れていた。こいつがただ俺に殺されるのを待つだけの、大人しい奴じゃないと分かっていたのに。あの笑顔と態度にすっかり騙されていたんだ……。





 ある夜のこと。

 真夜中を過ぎた頃だろうか。息苦しさに目覚めると、俺の体の上にシキミがのしかかっていた。明かりは微かに差し込む月の光のみ。暗闇の中、奴の白い肌が目に焼きつく。その白い手は、今にも絞殺さんとばかりに俺の首にかかっていた。


「お前っ! 何してんだよ……っ」


 俺としたことがすっかりと寝入ってしまったらしい。この家に住むようになって以来、人の気配に鈍感になっていた。以前の俺ならシキミがこの部屋に忍び込んだ時点で飛び起きただろうに。


「何って、見て分かんないの? 祐二が僕のこと殺してくれないなら、僕が先に殺しちゃおうかなぁって」


 天使のような微笑みでさらりと殺人を告白する。


「ふざけんな……っ」


 この細く小さい体のどこにそんな力があるのか、首にかかった手をほどこうとするもびくとも動かなかった。徐々に息が苦しくなっていく。

 やばい。シキミは本気だ。人を殺すことをなんとも思っちゃいねえ。それどころか楽しんでやがる。それと同時に、初めて出逢ったときにこいつから感じた禍々しい空気を思い出していた。普通ではありえないほどのどろどろと濁った空気を。可愛らしい見た目とは裏腹に奴はそんな雰囲気を醸し出していたのだ。


「あぁ、祐二キミの顔最高。もっと苦しんでよ」


 俺は悟った。こいつはただ殺されたいだけのマゾヒストなんかじゃない。マゾヒストの皮をかぶったサディストだ……っ。


「くそっ」


 それでもなんとか一瞬の隙を突いてシキミの拘束を解き、ベッドに押し付ける。形勢逆転。だが、それすらも予想していたかのように


「うん、やっぱり祐二はそうでなくちゃね」

「く……っ」

「ねぇ、今僕の上に祐二が乗ってるんだよね。なんか変な気分になっちゃうなぁ」


 くすくすと忍び笑いを漏らす。

 つい、かっとなってシキミの首に手をかけ力をこめる。


「嬉しいなぁ。愛してやまないキミが僕を殺してくれるなんて」


 首を絞められているのに苦しむどころか恍惚とした表情すら浮かべて、彼は微笑む。

 紅い唇から零れ落ちる涎、快楽に細められた目から流れる涙、次第に色を失っていく肌。それはまるでよく出来た人形のように現実味がなく、このまま透明な棺にでもいれて飾っておきたくなるほどの造形美だった。


 俺が今まで殺してきた中で、こんなにも美しい死に顔があっただろうか。


「……」


 ふ、とシキミの首にかけていた手から力を抜き、奴を解放した。

 唐突になだれ込んできた空気でむせるシキミ。


「なんだ、つまらない。僕のこと殺してくれないんだ」


 涙で潤んだ瞳で睨みつけるが、その眼光にいつものような鋭さはない。


「今は殺さなねぇよ。今お前を殺しちまったら、俺はまた元の暮らしに戻っちまうからな」


 いっそこのまま殺してしまおうかと考えた。けれども、寝込みを襲えば俺がどんな行動を取るか分かっていて、こいつはあえてそれを仕掛けたのだ。もしここで俺がシキミを殺してしまえば、奴が望んだとおりの結果になるだろう。

 誰かの思い通りに生きるなど、まっ平ごめんだ。そんなの何でも屋、いや榊祐二としてのプライドが許さない。


「ちぇ、だ」


 簡単には殺してやらない。シキミの望みが愛する人、つまり俺に殺されることだとしたら、俺はその逆をしよう。このくだらない世界で、お前を生かし続けてやる。


「お前何でこんなことしたんだよ」


 そんなことをシキミに告げられる筈もなく、話をすりかえる。


「だってこうでもしないと祐二は僕のこと殺してくれないでしょう」


 分かっていたが、なんて奴だ。こいつはもし俺が目覚めなかったら、きっと本当に殺していたに違いない。

 それから、今までのふざけた態度はどこへやら、空気をがらりと変えまじめな声色で彼は告げる。


「今日は諦めてあげるけど、次こそはちゃんと殺してよね」


 シキミはにやりと唇を歪ませて笑った。


「僕を殺していいのは祐二だけなんだから」

 

□■□


 次の朝、鏡に映る俺の首にはくっきりとシキミの手の跡が残っていた。


「なんてばか力だ……」


 子供だと思って油断していた。まさかこれほどの力があるとは。

 一方シキミはというと、俺に殺されかけたというのに何も変わらなかった。それどころか、いつもより上機嫌でにこにこしてやがる。


「なぁ、お前俺に殺されかけたんだぞ。なんだってそんなに嬉しそうなんだ」

「だって祐二が僕を殺そうとしてくれたんだよ? 今まででこんなに嬉しかったことないよ」


 あぁ、そうだこいつはこういう奴だった。そもそも俺とこいつの関係は標的と殺人者。俺が首を絞めようが毒を盛ろうが、こいつは喜ぶだけで、俺が後ろめたい気持ちになる理由がないんだった。


「それにね、ほら」


 シキミの首にもくっきりと残る俺の手の跡。


「お揃いの跡」


 絞め殺しの跡を見て言うことがそれかよ。


「なんか僕が祐二のものになったみたいで愛を感じるんだよねえ」


 鏡を見つめながら愛おしそうに跡を撫でるシキミ。


「お前狂ってるよ」


 俺はこいつに出逢ってから何度思っただろう、既に口癖になりつつある台詞を呟く。


 俺は自分が狂っていると思っていた。機械のように何の感情も抱かず、金さえ積まれれば人を殺していた日々。だが、それは思い違いだったのかもしれない。狂っていくことは別にどうでもよかったが、それでもこいつを見ていると、やっぱり俺は普通の人間なのだということを実感させられた。格が違いすぎる。


「うふふふ」


 シキミは俺からすれば気味の悪い、何も知らない人が見たらとろけるような甘い笑顔で、同じく甘々な液体を飲む。


「……はぁ」


 溜息をひとつつくと俺はこれからからのことを思った。

 大金につられて軽い気持ちでこの仕事を引き受けた俺が悪いのか。どうやらこの生活はまだまだ当分続くようだ。


 ……まぁ、たまにはこんな依頼人や標的も悪くないかもしれない。そんなことを思いつつも俺は日課である愛機を磨き始めたのだった

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