僕と朱色の羊雲
僕は今誰もいない教室にいる。
高校三年生になってから放課後が暇な時はこうして教室に残って考え事をするのが日課になっていた。
窓から見える景色はお気に入りなのだが今日はいまいちに感じる。
それも僕の精神状態が悪いせいからかもしれない。
今日の昼休みに同級生の女の子からいきなり告白されたのだ。
急な告白に僕もどうしていいかわからなくなり『時間をくれ』と言ったものの未だに答えが出ずにいる。
夕焼けに照らされて滑らかに光を纏う雲の列は昨日見ていれば綺麗と思えたかもしれないと何かもったいない気持ちになった。
僕しかいない教室は静かでグラウンドにいる野球部の声がよく通っていた。吹奏楽部の疎らな楽器音もそれと共に聞こえてくる。
そんな時、教室のドアが開く音がした。
僕は素早く後ろを振り向いてそちらを見る。
「びっくりしたー」
僕はドアを開けた担任の先生である島田先生を見て呟く。
先生も僕がいるとは知らずに入ってきたらしく目を見開いたまま固まっていた。
「なにやってんだお前。こんな誰もいない教室で」
先生は持っていた書類を教卓に置き、僕の方へ寄ってきた。
「いや、なんにもないですよ」
「なんにもないやつが窓から外眺めて黄昏る訳がないだろうよ」
先生は少し馬鹿にするようにニヤつきながら僕の隣に来た。
「まあ、たしかに何もないけど眺めてるって言われても納得はできる景色だな。──この景色はどこまで広がってるんだろうな」
「なんすかそれ」
僕は笑いながら先生の芝居がかった発言に突っ掛かった。
「いやいや、なんでもねぇよ。そんでなんかあったんだろ。なにがあったよ」
「──強いて言うなら……悩みっすかね」
僕は先生にならと話を切り出してみた。
「お、なんだ? 聞いてやるぞ」
先生は僕と同じように窓の縁に両肘をつけて外を眺め始めた。
「名前は一応伏せますけど……僕、ある女の子に告白されたんです」
それを聞いた先生はフッと笑って良かったじゃないかと言った風に背中をポンと叩いてきた。
「なんでそれで悩んでいるんだ? からかわれているのか?」
「いや、からかわれてはないです。そういうのは僕わかるんで。──人の気持ちはわかるから……多分相手は本気で僕の事を好きなんです」
「『人の気持ちはわかる』ね〜。じゃあ尚更、なんで悩んでいるんだ?」
「その……付き合っていいのかなって……もちろん僕もその子の事好きですよ? でも、後から付き合って後悔するとか絶対嫌だし……向こうは進学で僕は就職。お互い違う道を歩み出したらすぐに別れるかもだし」
「──ほうほう」
僕と先生の会話はここで一旦途切れ、沈黙が流れ出した。
またもや教室は野球部の声と吹奏楽部の音色が支配する。
チラリと先生の方を見ると鮮やかな朱色の雲を見つめていた。
そして、先生は沈黙を破る。
「よし、じゃあ授業をしよう!」
「は!?」
先生の提案に食い気味で反応してしまう僕。
「俺とお前で一対一の授業を今からしよう! はい、座って座って」
先生はどうやら本気で言っているみたいで僕の両肩を掴んで無理やり席に着かせた。
「今から俺とお前の『愛の授業』を始める! 礼!」
愛の授業って……。先生は礼をした後真っ先に自身の携帯を取り出した。
「えっなにしてるんですか」
呆れるように聞く僕を尻目に先生は携帯をいじり続ける。
「これを見てごらん」
そう言って先生は携帯にある一枚の写真を見せてきた。
「──集合写真ですか?」
そこには僕が着ている制服と同じ制服を着た生徒たちが列に並んで撮った写真があった。
僕の見覚えのない人たちばかりが写っている。
「これはだな、俺が高校一年生になった時のクラスの集合写真だ」
先生はなぜか自慢げにしている。
「へぇー。先生ここの卒業生だったんですね。……んで何を見せたいんですか?」
「あーそうだな。──えっと……ここ……ほら、ここ」
先生は写真に写っている一人の女子生徒を指で差した。
その女子生徒はまだ幼かった。だが、それでもとても綺麗な顔だった。
「この人がどうかしたんですか?」
懐かしそうに先生は写真を眺めている。
「──俺の彼女だった人だ」
「だった、か。別れちゃったんですか?」
「いや、いずれ嫁になるから彼女だったって過去形にしたんだよ」
先生はまた自慢げに言いながら鼻を擦った。
「授業っていうから何かと思えば自慢ですか先生」
苦笑いを浮かべながる僕に先生はその口を開けた。
ここからは少し俺の話をしよう。
俺は『島田 陸』。俺が彼女を初めて見たのは高校の入学式が終わった直後だ。
「陸ー! 早くお前も乗れよ!」
俺はまだ固くて着慣れない制服を纏って席に着いていた。
入学式も一通り終わり、担任の先生を待つ俺は中学からの友達三人が一つの机の上で戯れあいながら立っているのを眺めていた。
「ほら、あそこ! 角の席!」
「どれだよ! 見えねえよ」
「あれか! 確かに可愛いな」
机でドタバタとしながら一人が指差す方を他の二人が見ていた。
「何やってんだよ」
「陸! お前も早く乗れって」
言われるがままに俺は机の上に立つ。四人でぎゅうぎゅう詰めになりながらもお互いの身体を掴んでバランスを取る俺たちは入学式直後のクラスでは浮いていたに違いない。
「陸! あそこの角の席の女の子! めっちゃ可愛くねぇか!?」
指差す方を見る。
角に位置する席には一人の女子生徒が座っていた。
髪は肩の長さまで伸ばし、幼さが残る女の子だった。
緊張しているのか俺たちが机に乗っている事すら気付いていない。
俺は彼女から目が離せなくなった。彼女以外の景色が見えなくなる。時が止まったように。
初めて俺は一目惚れをしたんだ。
「一目惚れするのも無理はないですね」
僕は先生の携帯を手に取りながら彼女の顔を見る。そして、もう一度写真に写る全員の顔を端から眺めていった。
「そういえば先生はどこにいるんですか?」
先生の携帯にしかめっ面で近づくがどこに先生がいるかはわからない。
そして、先生の指を指す男子生徒を見る。とても今の先生とは信じられない姿だった。
「え、これ先生!? ……なんというか……太ってますね」
「まあな。部活もしてなかったしな」
「なるほどね」
そんな太った先生の少年時代をまじまじと見てやろうと写真をアップしようとするが、指があたり先生の携帯は待ち受け画面へ戻ってしまった。
先生の携帯の待ち受け画面には今日のような朱色の羊雲が写っている。
先生は写真フォルダのアイコンをタップしてまた違う写真を見せてくれた。
次の写真は何やら体育祭の時の写真らしく、体操服を着た先生と彼女のツーショットだった。
「これはいつの写真ですか?」
「この写真は高三の時のだね。友達として撮るのは最後の写真だ。この一ヶ月後に俺たちは付き合い始めたんだよ」
「へぇ〜。さっきのは入学式でしたけどその二年後ですね。──うわ! 痩せてる!」
写真に写る高校三年生の先生は今と変わらず、スリムで目は大きく、鼻が高めだった。
先生の横でピースをしている彼女も相変わらずの愛らしさでいい笑顔をしている。
「実はこの子に高一の冬、告白してな。フラれてんだよ。原因は見た目にあるって思ってな。死ぬ気で痩せたよ」
「何ダイエットしたんですか」
「高一の冬から高二の冬の一年間にかけて毎晩三キロのランニングだよ。まあ、それで痩せたのは十キロぽっちだったけどな」
先生はそう言いながら照れたように鼻頭をかいていた。
「でも、十キロでこんなに変わるんですね」
「おいおい、そんな訳ないだろ! ランニングのしすぎで扁桃炎になってな。そっから二週間はゼリー以外の食べ物が喉通らなかったおかげで五キロ痩せたよ。必死に一年間走ってやっと十キロ痩せたのに二週間で五キロだぜ!? ひどい話だよ」
僕は思わず吹き出してしまったけど先生も同じように笑っていた。
また、静寂が流れる。
窓の向こうではランニングをしている女子テニス部の部員たちが先生に気付いて手を振っている。
それに応えるように手を振り返しながら先生は言った。
「あっ次の写真だな」
「え〜まだあるんすか〜。あと何枚あるんですか」
「なんなら携帯一日貸すぞ?」
「いらないっすよ」
次に見せてくれた写真には間違いなく一番幸せな瞬間が撮られていた。
涙を流しながら笑っている先生とその女性がスポットライトを浴びながらナイフを握っている。
人前でタキシードを着るのは恥ずかしいと思っていたが、スポットライトが上手く逆光となって会場にいる人たちは見えないから少し気が楽だった。
「ほらほら、陸くん立たないと」
隣にいる純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁は優しく囁く。
明かりに照らされ輝く肌、赤く染まった唇、透き通った瞳、その姿はまるで地上に舞い降りた天使のようだった。
一緒に立ち上がり、用意されたウェディングケーキへと歩み寄る。
ケーキ入刀に使うナイフを手渡され俺は緊張で手が震えた。感動もあったかもしれない。
それでも彼女は俺の震える手にそっと右手を添えて、微笑んだ。
その瞬間、俺の胸は熱くなり出した。謎の熱を帯び始めた胸はやがて目から涙となって流れ落ちた。
どうやら彼女も同じようだ。俺を見つめながら涙をポロポロと流している。
まだ始まったばかりなのに泣き出す俺たちはお互いが面白くて笑い出してしまう。
そして、司会の声が聞こえてきた。
「それでは、お二人の初めての共同作業です! どうぞ!」
「結婚式ですよね。先生も奥さんもいい笑顔してるじゃないですか」
「そうだろ? いや〜でもあの時は泣いたな」
僕が持っている先生の携帯を覗き込むようにしながら先生は言った。
しばらく、その写真から目を離せなくなった僕に先生は横から携帯を操作して次の写真を見せてくれた。
一人の少女が満面の笑みで浜辺を走っている。
「これは……奥さんの小さい時の写真……ですか?」
「何言ってんだよ。俺の娘だ。今年から小学生だよ」
「え!? 先生にお子さんいたんですか!?」
先生に子供がいると知らなかった僕は素で驚いてしまった。
「なんでそんな驚くんだよ。いい笑顔してるだろ? 真波っていうんだ。嫁に似たいい笑顔するんだよ! ──あいつもこんな笑顔してたっけな」
最後の一言と共に窓から見えていた太陽は雲に隠れてしまった。
「こんな笑顔してたって……今は……」
僕は先生の顔を恐る恐る見た。
「──今は……いないよ。娘を出産すると同時にね」
僕は何もいえなかった。なんて言ったらいいかわからなかった。
先生はもう気にしていないという風に笑顔を保とうとしているが目の奥は潤んでいる。
「娘を抱く事もなくそのまま眠るようにいってしまってな」
こんな話を生徒である僕にしていいのか。僕は何か言わなきゃいけないと口を開いた。その時、それに被せるように先生は話し出した。
「でもな。…………でもな。娘を抱く事はできなかったけどな。──娘の顔は見れたんだよ。シワクチャになって産声を必死に上げている娘の顔を見て、あいつも泣いてさ。そんで笑って娘に向かって『ありがとう』って。たった一言『ありがとう』って言ってよ。……最後の言葉が『ありがとう』って……。
俺の台詞だよな。命懸けで真波産んでよ。
本当、俺がありがとうだよ」
先生は堪えていた涙を袖で拭いながらそう言った。先生の鼻をすする音だけが教室に響く。
「情けないな。生徒の前でこんな泣いちまってよ。本当、情けないよ。
真波だってちゃんとあいつの納得いくように育てられてるかわかんねぇしさ。あいつにもう一回『ありがとう』って言ってもらえるかもわかんねぇよ」
先生はまた窓へと歩み寄っていって外を眺め出した。
太陽はすっかり雲から顔を出し、次は沈んでいこうとしていた。
「いつ人が死ぬかわからねぇもんだぞ。だからさ、一緒にいれる時くらい一緒にいろよ。お前とその子がそれを望んでるんなら悩む必要ないだろ」
先生は僕に背を向けて窓の向こうに広がる朱色の空を眺めながらそう言った。
「僕……好きです。告白してくれたあの子の事。悩んでいたのも怖かっただけなんです。僕は自分に正直になる事ができていなかっただけかもしれない。
怖くてそのあと一歩を踏み出せなかっただけなのかもしれない。
だから……だから! 一日でも一秒でもその子と一緒にいれるように! 先生が僕に話してくれたように! 勇気を出します!」
席から立ち上がった僕を教室に入ってきた時みたいに驚いて固まったまま先生は聞いていた。
「おう。幸せにしてやれ。そんでもってお前も幸せになれよ。
よし! んじゃこれで愛の授業を終わります。礼!」
先生と僕は深くお辞儀をしてから照れ臭そうに笑い合った。
僕は帰る為にカバンを持ってドアに手を掛けた。
もう一度先生の方に振り返ると先生は窓の外を机に浅く腰を掛けながら黄昏ていた。
「先生!」
「ん?」
振り返る先生に僕は言った。
「きっと『ありがとう』って奥さんも言ってますよ! 娘さんを大事に育ててくれてありがとうって! 絶対言ってますよ! 僕、人の気持ちはわかるんで」
それを聞いた先生は僕の方に振り返って優しく微笑んだ。そして、もう一度窓から見える景色を眺め、僕に言った。
「俺の携帯の待ち受け見たか? 今日みたいな朱色の羊雲の写真。あれは俺が中三の時に撮った写真なんだよ。まだ、あいつと出会ってない時に撮った写真。でも、その空をあいつも知ってたんだよ。あいつも俺と同じようにその空を撮ってたんだ」
「陸ー。何すべり台なんか乗ってんだよー。俺腹減ったよ。そろそろ帰ろうぜ」
「いや、ちょっと待って。お前も見てみろよ。こっからだと綺麗に見えるから!」
「なにに携帯のカメラ向けてんのさ」
「空だよ。この朱色に染まったでっかい空! ──綺麗だ。
この景色はどこまで広がってるんだろ」
僕と私とあなたの話 佐藤チアキ @satou_tihiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。僕と私とあなたの話の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます