俺と大雨
雨に濡れた靴で歩くせいかキュッキュッと音がする。外はものすごい大雨でいつもは見えるビルが見えなくなっていた。
俺は普段、雨が降れば折り畳み傘をカバンに入れて仕事に出るが今回は16年ぶりの記録的な大雨というので大きめのビニール傘を持ってきたがあまり意味はなかったようだ。
早歩きで急いでいたのもあるがこの大雨でズボンの裾が濡れているのは足の感触だけでわかった。
多少イライラはしていたが遅刻気味ということもあり、それを態度に出す余裕もない。
今はただ、電車に乗り、会社に行くことだけを考えているのだ。
俺はハンカチを取り出すためにカバンの中を探りながら階段を上り終え、改札前に来るとそこにはいつもと違う風景があるのに顔を歪ませた。
「ん? なんだ?」
改札前には人だかりがある。少し立ち止まってからまさかと思い、その人だかりに俺も入っていくと案の定「電車遅延のお知らせ」という張り紙とその下に小さな字で形式的な謝罪の文が10行程度で書かれているのが見えた。
「まじかよ……」
俺はその人だかりの
職場に電話をかけていると見られるOL。
何も言わずにただ駅から出て行く男子高校生。
甲高い声で騒ぎ立てる女子高生たち。
大雨という自然現象に怒りをぶつけることはできないと駅員に罵声を浴びせる白髪の男もいた。
その群衆から少し離れイスに腰をかけた俺は
「エサに群がる鯉だな」
と鼻で笑いながら悪態を突き、2分ほど頭を抱えてから、職場に電車が遅れていると電話することを思い出した。
携帯をポケットから取り出し電話帳にある"職場"という欄を探す。
「江本くん……だよね?」
携帯と睨み合っていた俺の横から男の低い声がした。
そちらを見てみると少し肉のついた自分と同年代とみられる男が立っている。
「えっと……」
どちら様ですかと言いたげな顔で見る俺にその男は頬を照れ臭そうに掻き出した。
「杉下だよ。ほら、高校の時の。……3年の時に同じクラスだった」
「杉下……」
小さく呟き俺は頭の引き出しをひたすら開けていく。高校といっても俺からしてみれば16年前の話だ。
16年分の記憶を通り越して高校生という昔の記憶を取り出す。
「あー! あの杉下?!」
「ああ。あの杉下だよ」
確かに彼は3年の頃一緒のクラスだった。俺は単純に嬉しくなり、大きく頷くがそれにはあまり意味は込められてなかった。
「あれ? 東京に行ってたんじゃなかったっけ?」
「もう、こっちに戻ってきたんだよ」
「へー! 連絡くれたら呑みにでも誘ったのに!」
「いやいや、一応転職とかなんやかんやで忙しかったんだよ」
久しぶりに会った友人との再会があまりにも嬉しく俺は会社に電話するために出した携帯をポケットにしまっていた。
「なんで杉下はこっちに帰ってきたんだよ。東京でバンド上手くいかなかったのか?」
俺は間をあけずに杉下との会話を続ける。
「バンド? バンドは高校卒業してからやってないよ」
「え? てっきりバンドするために東京に出たのかと。ほら、あの……なんだっけ……名前は忘れたけどミントの香りがすげえする奴いたじゃん! ボーカルの! あいつも東京に行ったって聞いたから……。なんだ違うのか」
「違う違う。あいつとはたまたま時期が被っただけであってだな」
そう言いながら杉下はなにがいると俺に聞きながら自販機の方へと財布を片手に向かって行く。無糖の缶コーヒーを両手に持ち、こちらに走ってきた。そんな杉下を、終始俺は足から頭までと舐め回す様に見ていた。
「お前、ちょっと太ったな」
と言うと杉下は、また照れ臭そうに頬をかきながら笑った。
「いやー、ドラムやってた時は身体全体で叩いてたから痩せてたんだな。やめてからは肉がつく一方だよ」
「杉下は太らない体質だとら思ってたけどそういうことな」
「江本くんは変わらずスタイルがいいね」
「いや、そんなことないよ。こないだまで俺も肉がついてきたことに悩んでたから、最近、近所のボクシングジムに通い始めたよ」
「へぇー。ボクシングかー」
「聞いてくれよ杉下。俺が通ってるところにはだな腕が超ムキムキな女がいてよ。俺より身長低いくせして俺より強いってきたもんだ。困っちゃうよ」
「江本くんが女の子に負けるところ見てみたいなー」
「よせよ。俺だってプライドくらいはあるんだ。今日だって家からここまで来るのに濡れてやるかって意気揚々と来たのにこのザマと来たもんだ」
杉下に濡れたズボンの裾をつまみ、まるで自慢でもするかの様にクイクイッと見せつけた。
俺と杉下は高校時代、こんなには話さなかったのだが、2人の談笑は、なぜかこの日の大雨のように終わりがないように思えた。
「話を戻すけど、なんで東京に行ってたんだよ」
この一言で杉下の様子は急変し、露骨に表情を曇らせた後に右側の口角だけ上げ、なにもないと言った。
「いや、なんかあったんだろ。話してくれよ」
そう言ってから今日初めての沈黙が訪れた。
外の雨は一層と強くなり音が大きくなった。遠くの方から雷も鳴り出した時、杉下はその重い口を開いた。
「……リハビリ」
遠雷の音にも負けてしまうほどのか細い声に俺は眉をひそめながら顔を少し近づける。
「なに?」
「……母さんが事故にあって、その治療とリハビリのために東京の病院に通ってたんだ」
「……事故?」
杉下の母親が東京の病院にいたなんて、ましてや事故にあっていたなんて俺は知らなかった。
「それは……知らなかった」
「そりゃあね。誰にも言ってなかったし。……言いたくもなかったから」
杉下は遠くを見るような目でそう言った。
「そっか。それは大変だったな」
俺も杉下のように遠くをみるような目で言った。
「でも、上手くいったんだろ? こっちに帰ってきたってことは今は母親と2人暮らしか?」
少しでも場を盛り上げようと俺は無理やり明るい声で聞いた。
「死んだよ」
今度ははっきりと冷たい声で杉下が言う。
「え?」
今度ばかりは俺も無理やりこの場を盛り上げようなんて事は思えなかった。
2度目の沈黙が訪れ、さっきまでズボンの裾が濡れて苛立っていた俺も、全身がこの大雨に打たれてでも、この場から逃げたいとさえ思っていた。
しかし、こんな空気と状況においても俺の好奇心は収まらない。自分でも嫌になるほどに。沈黙が続けば続くほど、なぜ母親が死んだのかと聞きたくなってしまうのだ。
ついに俺は好奇心に押しつぶされ沈黙を破ってしまう。
「なんで……なんで死んだんだ?」
おそるおそる聞くが、杉下はピクリともしない。ずっとどこか遠くを見ている。
自分の声は彼に届いているのかと心配になるほどにじっとしていた。
「自殺だよ」
口をほとんど動かさず言った。今までにないほど低い声で。
俺は何も言えずにただそうかそうかと頷くことしかできなかった。それ以上聞くのは友人として、人間としてダメな気がしてならなかった。
だが、それでも杉下は真実というナイフを突きつけてくる。
「終わりのないリハビリが苦になったんだろうね。車椅子だったにも関わらず、最後の力を振り絞って、病室の窓から落ちてったよ。よほど苦しかったんだな」
その言葉の一つ一つが俺の心をえぐる。
3度目の沈黙。
駅構内のアナウンスの声も、もはや耳に入ってこない。
雨と遠雷の音がよく聞こえる。
体温で微妙に裾も乾いてきたのも感じ取れた。
意味もなく、缶コーヒーに書いてある文字を読んでみたりもしてみたが全く意味がわからなかった。
「16年前のさ」
「え」
あまりにも唐突な切り出しに俺もつい反応してしまった。
「16年前の大雨もさ。こんな感じだったよね」
なんの話だと俺は思った。16年前? 大雨? なぜ今そんな話をし始めるんだ。
全く意図のわからない切り出し方に俺は杉下が得体の知れないなにかに見えてきた。
それでも何かリアクションを取らなければ変に間を空けてしまえば、4度目の沈黙が来てしまう。
「あ……16年前って俺たちが高校生の頃かな?」
俺が一つ一つ言葉を選ぶ様に言ったが、すぐになぜ自分がここまで気を使った言葉選びなんかしなきゃいけないんだと思い、頭を掻きむしった。
「高3の夏休み前日のことだよ。学校から帰宅する前に降りだしたから傘を持っていない生徒は放課後も学校に取り残されたじゃない。覚えてない?」
俺はそれを聞いた途端に断片的に記憶が蘇る。自分も真っ白なベールに包まれた学校に取り残されたことを。
「あー覚えてる。その日にさ、見たいテレビの番組あったから、わざわざ他人の傘盗んでまで帰ったんだよな。まあ、結局は電線に異常があったかなんかで停電してたんだけどな」
俺は今思えばいい思い出といった風にゆったりとした口調で言った。
ふと杉下の方を見ると同じように微笑んでいる。
場が和んだことに少しばかりの達成感と
4度目の沈黙。
ただし、今回の沈黙は1番心地の良い沈黙だった。いや、沈黙というよりかは余韻であった。
その時、外の大きな雷鳴と同時に駅構内の電気が消えた。
停電かと再度騒ぎ出す女子高生たち。
「こりゃ、今日は出勤も無理かな」
呟きながら俺は、職場に電話し忘れていた事を思い出しポケットの携帯を急いで出した時だ。
「俺もさ。あの時取り残されたんだよ」
一瞬なんの話をしているかわからなかったが俺は手元の携帯を握りしめたまま、杉下の方を何も言わずに見つめていた。
「母さんを電話で呼んだんだ。車で迎えにきてもらうために。でも、待っても待っても母さんは来なかったよ。
結局、最後まで僕は学校で待つハメになってね。仕方がないから走って帰ることにしたんだ。ビショビショになったね。
そしたら帰り道の途中で見覚えのある車が横転していたんだよ。トラックとの衝突が原因だった。
あんなに視界も悪い中で運転したら、事故のリスクが上がるのも当たり前だよね。僕は横たわる車と母さんが待っても来なかった理由がわかって泣いていたかもしれない。
雨で濡れていて泣いているのかもわからなかったよ」
何もいえずに見つめる俺に杉下は続けた。
「でもね、傘は持っていってたんだよ。でも、傘をささなかったんだ」
俺はとても小さく掠れた声で聞いてみた。
「なんで傘をささなかったんだ?」
杉下はゆっくりと顔をこちらに向けて言った。
「盗られたんだよ。僕の傘」
その時、なにかが俺の心臓を突いた。杉下と目をそらしたかったが、そらせば何かが崩れてしまう気がして、そらせなかった。
認めたくない。俺のちっぽけなプライドは自分が盗んだ傘は別人の物かもしれないというわずかな逃げ道で守る事を心のどこかでかき鳴らしていた。
しかし、俺はそこまでの人でなしではない。
「杉下。すまない。その傘は俺が盗ったのかもしれない。悪い…本当に悪かった」
頭を下げた俺には杉下がどんな顔をしているのかわからない。ある種の恐怖だった。顔を上げれば殴られるかもしれない。それならまだマシだ。もしかしたら冷たい眼差しで自分の心を生殺しにするかもしれない。
だが、杉下は俺が思うものとは違う反応をした。
「ふっふっふっふっ」
笑っている? 杉下だよな? なんで笑っているんだ? 俺が頭を下げているからか? 滑稽だからか? それとも怒りのあまりおかしくなったか?
そっと、俺は下げていた頭を上げると杉下は笑いながら頬を照れ臭そうに掻いていた。
「いやいや、ゴメンゴメン。そんなつもりじゃなかったんだ。謝罪なんてして欲しいわけじゃないから大丈夫だよ。第一、江本くんが僕の傘を盗んだとは限らないだろ?そんな不確かな情報だけで君を責めたりなんかしないよ」
そういって杉下は俺の肩をポンポンと叩いた。
「そっか。そっかそっか。よかった」
力が抜けたように俺は項垂れる。
すると、杉下は握手を求めるように右手を差し出してきた。
俺はそれに応えるように右手を差し出す。
握り合う2つの手。
俺はもう一度杉下の顔を見た。
杉下は右側の口角だけを上げて笑っていた。
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