進退つかず

Giret Avest

第1話

僕の前にはドアがある。いつだったかそんな歌詞を聴いたことがある。


まさに今の状況と言っても過言じゃないのは確かだ。いや、僕の前にドアがあるのではなく、もしかするとドアが僕の前にあるという表現が正しいのかもしれない。


ちらちらと自分の腕時計を見る。思っていたよりも時間が進んでいないことに安心と焦燥を覚える。斜陽は廊下を照らし、窓の影が僕の影と並ぶ。いくら窓の影が伸びようとも、僕の影には追い付かない。それが自然の摂理。


いやいや、抒情的な気持ちになっている余裕なんてない。今は目の前の扉を開けるか否かを決めることだけが重要かつ優先の課題である。伸るか反るか、推すか敲くか。そんなレベルの課題である。たかがそれだけと嘲笑う者もいるだろう。嗤いたければ嗤うがいい。しかし、今の僕にとってはかつてないほどの至上命題。この一撃に人生がかかっているというのは決して誇張表現ではなく、ただの事実。ああ、一撃ではなかったな、三撃だ。三回叩くだけの簡単な行動。そう、そのためだけにわたしはここにいるというのは相違ない。


過去に僕は彼らを調べた。とても穏やかそうな人たちだった。あの輪の中に入れたらどれだけいいだろうと思ったこともあった。僕はただのオブザーバー。観るだけ、干渉はしない、できなかったのだ。しかし、もう限界。これ以上の観察は僕の心を狂わせる。量子力学的に観察が干渉に含まれるというのは通説と化しているが、人間関係を量子力学的に捉えることは果たして正しい行為と言えるだろうか。僕の答は否だ。人間関係に超ひも理論やトンネル効果は必要ない。そう考えるとやはり量子力学を対人関係に持ち込むというのは野暮という熟語にふさわしい行為そのものである。


果たして私はいつから量子力学の話をしているのだろう。私の喫緊の課題は目の前のドアではなかろうか。ああ、そうだった。目の前のドアの向こうへ行くか行くまいか、そのことだけに執心していればよかったのだ。なんとまあ余裕なことよ。しかし、こうして思考するだけではは進まない。右手を振り上げ、勢いをつけて振り下ろす。哀れ、右手さんは空を切って太ももの横へと帰っていった。意気地なし。僕はいつだってそうだ。この右手の軌跡は僕の人生そのものだ。色んな事に手を出すけど、いつだって目標に届かない。そう、誰も僕を愛さないのだ。


いつの間にか自己嫌悪に陥っていた。腕時計をちらりと見る。三分の距離しか長針は進んでいない。ああ、本当に参った。膝をつけ項を垂れる。握った拳が扉の横の壁にそっと触れる。この調子で三回扉を叩けたらよかったのに。いったん頭を冷やそう。立ち上がってトビラから離れる。このまま帰っていいかもしれない。しかしそう思えば思うほどに、ささやかな反骨精神だろうか、あの扉を叩きたくなる。情けない自分を変えてくれる場所があそこにはあるような気がするんだ。誇れるものがほとんどない自分でも、勘の良さだけは最後の誇りとしてとっておいているつもりだ。そんな勘を無駄にしないために、僕はもう一度赴く。


もはやテンプレートのようにドアの前で萎びる。さっきまでの気概はどこに行ったのか。迷子の気概ちゃんは今頃犬のおまわりさんのお世話になっているかもしれない。おうちという名の帰る場所のない気概はいつになれば僕が帰る宛先であることに気付くのか。思わず扉の前で屈伸運動をする。こんな時は血行を良くして思考速度を上げるに限る。そして屈伸に飽き足らず、僕は再びドアに背を向け歩き出す。


ダメだと脳内の良心が悲鳴を上げ、僕は正気に戻った。何を考えていたのだろう。無意識に逃走を考えていたのか。再び時計をちらと見る。長針の進みは相変わらず遅く、まださっきの二分後の時間を指している。そうだ、こういう時のための神頼み。秒針が偶数なら叩く、奇数なら叩かない。


一度目、奇数。いや、ここは三番勝負と行こうではないか。一回の結果で判断するのはあまりにも短絡的すぎる。



二度目、偶数。よしよし。これで次の結果で僕の身の振り方が決まる。偶数なら叩き、奇数なら引き返す。泣いても笑っても恨みっこなしの賭け。




賭け。賭け? 人生を天の神に賭けていいのか。人生は自分で決めるべきではないのか。神は死んだはずでは。あらゆる疑問が湧いてくる。一体だれが天使でだれが悪魔なのか。今の自分には分からない。たしかなことは今の自分は扉を叩くか否かを決めなければいけないということだ。


大きく深呼吸をする。時計を見る。秒針は偶数。






コンコンコン

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