その後

 泉藩主、湯長谷藩主、そして磐城平藩の老公は共に仙台に居た。これは言わば人質であった。故に各藩の藩士たちは守るべき土地を失っても戦い続けなくてはならなかった。


 列藩同盟の兵が北へと転戦を続ける最中、相馬の鬼将監こと相馬将監胤眞そうましょうげんかずまは平より北、相馬より南の広野の地で散った。三十五歳だった。彼の言葉で命長らえた上坂助太夫よりも若くしてこの世を去った。


 相馬中村藩は度重なる戦闘で疲弊しながら戦い抜くも、新政府軍と交渉を行い八月六日には降伏している。この動きに仙台藩では相馬討つべしの声も上がったが、これまでの戦功を思えば先に無血開城した三春藩や松前藩などと同様に考えるべきではないと言う意見が大半だったようだ。それ程までに相馬中村藩は戦い抜いたと言える。


 米沢藩は九月の四日に、仙台藩十二日に降伏したため、磐城平の老公、安藤信正も新政府軍に降伏。一二月に永蟄居の沙汰を申しつけられる。永蟄居とは改易一歩手前の終身刑のようなもので、自らの屋敷の一室に閉じこもる事である。この際には、便所以外の外出を禁じられるのだ。翌年には解かれるも、明治四年の十月に享年五十二歳で亡くなっている。


 では、磐城平の藩士たちはどうだったか。多くの者については、明治二年に磐城平に戻った事が分かっている程度で、それ以降について知る術はない。上坂助太夫が一八九五年まで生きて居た事と、今一人、鍋田治左衛門なべたじざえもんが七十二まで生きた事だけは伝わっている。治左衛門の戦後の生活は家財道具を一切焼かれて困窮した様だ。


 戊辰戦争で唯一改易を喰らったのが、請西じょうざい藩。その藩主であったが脱藩した林忠崇はやしただたかは昭和十六年まで生きた。やはり困窮した生活であった様だが、晩年は娘と同居しながら悠々自適な暮らしを送ったと言う。最後の大名としてインタビューを受けるなどして暮らしていたが、次女のミツが経営するアパートの一室で病死した。その際に辞世の句を求められると。


「それは明治元年にやった。今は無い」


 そう答えたと言う。


 戊辰戦争から既に百五十一年、まだ百五十一年。


 小さな地方の戦いの足跡をたどるだけで、微かに、しかし確かにその時代を生きて居た人々の証が残っているのである。


<了>

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磐城平城の戦い キロール @kiloul

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