スノードロップ

成宮 拍撫

スノードロップ

1


小指の先からぽつりぽつり、不機嫌なカーペットは赤く汚される。


窓越しに見える空には、幾つもの星が輝いていて、大きめの月が静かに私を照らしていた。


綺麗だと思った。世界はとっくに終わりを告げているのに。


「会いたいよ……」


そっと呟いた言葉は大きすぎる部屋に吸い込まれて消える。


流れていた血はいつの間にか止まって、かわりに涙が溢れてきた。


ゆっくりと窓を開けて、問いかける。


零れた涙は夜風に溶けて、いつかは君に届くのかな。


瞼を閉じると、冬の冷たい空気が頬を撫でているのを感じた。


充電の切れた携帯電話。君からの最後のメールを思い出す。


――僕たち二人が初めて出会った場所で待ってる――


私は行かなきゃならない。君に会うために。君に会いたいから。


……しばらく、落ち着くまでじっとしていたと思う。その後は、そのまま部屋にあったソファで眠ってしまった。






2


朝。重い瞼を開けて音を聞く。


『ドンッドンッドンッ……』


近くの家の扉をたたく音。いつも通りに聞こえてきた。


珍しく、深く眠っていたみたいだ。いつもなら、音で眠れないのに。


起き上がって、そばに置いていた小さなリュックサックを背負う。


玄関には行かずに、窓のほうを見る。天気は晴れ。庭に何もいないのを確認して、窓から外に出た。


外に出ても強烈な腐敗臭が気にならなくなったのは、慣れてしまったからなのだろうか。


本当に、嫌になるくらいの晴天だった。


近くに落ちていた少し大きめの石を拾って、できるだけ遠くに投げる。


少し時間を空けてから、石を投げたのと逆の方向に走った。できる限り足音がしないように走った。


振り返ると、さっき石を投げた方向に、右足の腐り落ちた老人がふらふらと歩いて行っているのが見えた。


世界は終わった。唐突に、無感情に、終わってしまった。






3


公園の滑り台の上で座り込んで、思い出に浸っていた。


小さい頃の私は滑り台が好きだったよね。あの頃の私はいつも笑っていたっけ。


訳も分からず、特に意味もなく笑っていたっけ。


こんなことになるなんて思わなかったな。


あの頃私の周りにいた人たちは、みんな死んじゃったよ。


そこまで考えて、そっと道路の方を見る。


さっきまでそこにいた虚ろな存在は姿を消していた。点々と、ただ生々しい肉の欠片がくねくね蛇行して落ちているだけだった。


やっと進める……。さーっと滑り降りて、駆け足で先へ向かう。


すぐに息が上がってしまったけれど、そんなことどうでも良かった。


苦しかった。この苦しさが現実を消してくれればいいと思った。


君が隣にいてくれたら、こんなに苦しくないのに。悲しくないのに。


潮の香りがだんだんと強くなってくる。今日は海沿いの道。なんとなく、海が見たかったから。


速度を緩めて、息を整える。


耳を澄ませると、微かにラジオの音が聞こえてくる。


数日前からずっと繰り返し流されている不思議な音楽だろうか。


きっと聴いているのは死人だろう。彼らは、アレらは……生前の行動を繰り返すみたいだから。


何も映らないテレビをぼーっとみているのもいたし。家の前の椅子にずっと座っているのもいた。


そしてアレらは、夜になると各々の家に帰るのだ。


海の見えるところまできて、足を止める。


船が出ていた。乗っているのは、腐った人間。必死に海の中を覗き込もうとしている。


目を逸らして、もう一度歩き始める。もう少し、進まなきゃ。


君が待っていてくれると信じて。






4


隣町。それなりに大きい港のある町。海の近くの古めかしい小さな平屋。


数回ノック。物音はしない。引き戸に手をかける。開かない。


夕焼けが眩しくて、他の家を回る気力もなくて、出来る限り静かに窓を割る。


侵入して最初に、窓の穴を近くの箪笥で塞いで、じっと音を聞く。


やっぱり音はしなかった。


温かみのある部屋だと思った。ちょっと埃っぽい、古い本のようなにおい。


でも、机の上に良くないものを見つけてしまった。


遺書。どうやらこの家の主人は、人でなくなった妻を殺して、自分も死んでしまったようだ。


この家に住んでいたのは、恐らくは仲のいい老夫婦。部屋の中にいくつか写真がある。


しわくちゃの顔で、微笑みあっている夫婦。


腐敗臭もしないし、こことは違う場所で自害したのだろうか。


あんまり動く気も、何かを見る気にもなれなかったから、部屋の出入り口だけ全部塞いで、遺書の置かれている机に突っ伏した。


君は今、何をしてるかな。早く会いたいよ。






5


夜、玄関をたたく音に目を覚ました。


この家の人は、いないはずなのに。


ゆっくり、気づかれないように、窓から覗いてみる。


腐り、落ちかけた頬の肉。眼球を一つなくしてしまった空洞。服には赤黒く固まった誰かの血がべったりついていた。


二人。一方は腹部に刺身包丁を突き刺したままの女性。もう一方は首に頑丈そうな縄を巻いた男性。


私は、やっぱり怖くなって、後退ってぺたんと力なく座る。手のひらを見る。血なんてついていない綺麗な手。


君は死んでないよね。生きててくれるよね。待っててくれるよね。


不安になる。私はまだ生きているのだろうか。とっくに死んじゃってるのかもしれない。


会いたい。


震える手のひらに、一雫……涙が零れて消えた。






6


昨日入った時と同じ窓から外に出る。


曇り空。なんだか不安な気持ちでいっぱいになっていた。


体の調子を確かめながら、玄関を見る。


『グチャ……グ……チャ……』


共食い。空腹に耐えられなくなったのだろうか。二人の写真の笑顔を思い出し、苦しくなった。


リュックから食べかけのチョコレートを取り出して、すっと投げてみる。


地面に落ちて小さな音を出すそれを、老夫婦の死体が拾い上げる。


二人で分け合って食べる。


少し怯えている私をちらっと見て口をパクパクさせるその姿は、まるでお礼をしているように見えた。


そういえば、私が最後に何かを口にしたのは何時だったかな。思い出せない。


ただ食欲がないだけなのか。それとも……。


私は速足で、その場を離れた。


今日は線路を目指そう。もう少しでたどり着くから……。線路に沿って、君のところまで。






7


線路。一度上を歩いてみたかったんだ。


歩いていると楽しくなってきて、くるくる回ってみたり、バランスを崩しながらも走ってみたりした。


曇り空なのが少し残念だった。


このままのペースでいけば、遅くても夕方には駅につける筈。


君の待っている小さな駅。二人が初めて出会った場所。


また楽しくなってきて、胸が高鳴って、少しだけペースを上げた。


しばらくすると、電車が見えてきた。線路の途中で止まってしまった、誰も乗っていない電車。


中に入って少し休憩。もうあと少しでたどり着く。君に会えたら、何て言おうかな。






8


やっと着いた。君はいなかった。疲れた。


もう日が沈もうとしていた。


駅前の長椅子に腰を下ろす。毛布を出して、足にかける。


もうすぐ春。君は死んじゃったのかな。どこにいちゃったのかな。


駅の花壇では、スノードロップが花を咲かせていた。


小さくて白い花の下に、一冊のノートを見つけた。


手を伸ばして、拾い上げる。


日記だった。私にはわかる。君の書いた字だった。女の子の字みたいな、丸くて薄い字。日付は昨日で止まってしまっていた。


君は、毎日ここにきて、私を待っていてくれたんだね。






9


――ずっと待ってるから――


目を覚ますと、君が肩に寄りかかって眠っていた。


嬉しくて泣いていると、君が目を覚ました。


首をかしげて、どうしたのって言いたそうに見えた。


君の頭を撫でて、何でもないよって言ってみる。


待っててくれてありがとうって言ってみる。


君がまだ眠そうだったから。二人でもう一度、瞼を閉じた。


君の日記の内容なんて、記憶から消えていた。






10


「ソレは感染している」


私の知らない人たちは、君に向かって銃を向ける。


私の知らない人たちは、私の大切な人に向かって殺意を向ける。


ふと、君の日記の内容が脳裏に浮かぶ。


――この町でも、生存者の救助が始まったんだって――


嬉しそうに書かれていた君の文字が、脳裏に浮かぶ。


頭の中がいっぱいになった。やっと君に会えたのに。どうして……。


遠くで声が聞こえた気がした。君の声が聞こえた気がした。


ありがとうって聞こえた気がした。


銃声が鳴った。繋いでいた手は強制的に引き離されて、君は頭に銃弾を受けて倒れた。


どうして……。


「脅威排除。あなたを保護します。さぁこちらに……」


スノードロップの花が、風で静かに揺れていた。


涙が一筋、頬を流れて……。


私は走り出していた。


驚いている人たちの、腰の拳銃を抜き取って、自分の頭に突き立てる。


さよなら……。


銃声が鳴った。私を止めようとして誰かが撃った弾、狙いが逸れて胸に当たった。


私は死ねなかった。そんなことでは死ねなかった。私はとっくに、死んでしまっていたから。


さよなら……。ありがとう。


銃声が鳴った。君の声が聞こえた気がした。




…end

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