第13話 エピローグ

  ※

 こんなことを思い出したのには訳があった。昨日のニュースは、テレビも、新聞も、日本人のピアニスト、相原奏子がグラミー賞を受賞したという話題で持ち切りだった。

 編集部内でもその話題が飛び交う中、僕は密かに喜びを噛みしめている。奏子さん、おめでとう……と。

 最近は東京オリンピックを来年に控えて、記事はそのネタばかりだったから、変わり種にはすぐに食いつく。僕は今、そんな話題のニュースや、有名人のゴシップを書いた週刊誌の編集部で、デスクを任されている。

 あの日、コンクールの翌日、僕は奏子さんに誕生日を祝う意味で、『オメデトウ』と、ポケベルにメッセージを送ったが、返信は無かった。

 そして、その数日後、彼女からの郵便小包が届き、中には奏子さんに渡していたPHSと、その充電器、あと、『ありがとう、元気でね。』と書かれた、メッセージカードが入っていた。

 奏子さんがイギリスへ行くことに決めたのを彩乃から聞いたが、そのメッセージカードに書かれたことが彼女の答えだと思い、僕は連絡することも、見送りに行くこともなく奏子さんと別れた。

 あの《ラ・カンパネルラ》を聴いたら、僕の独占欲は彼女の未来を潰してしまうと思ったし、だからと言って、彼女のことを想いながら、会えない日々を耐える自信もなかった。

「あーあ、奏子もイギリス行っちゃったし、私も彼と別れたし、いっそ私と付き合っちゃう?」なんて、彩乃から言われた時、「嫌ですよ、友達の姉さんなんて。」と言っていたが、その十五年後、バッタリ再開した僕達は、独身同士の寂しさ紛らわしから交際が始まり、その後、結婚した。子供は六歳になる男の子が一人、東京オリンピックを前にして、僕は四十歳を迎えた。

 姉さん女房の彩乃は、子供にピアノを習わせると言ってきかないが、僕は絶対にサッカー選手にすると言っているような夫婦仲。

 奏子さんはイギリスでの留学を終えてからも、世界中を飛び回りピアニストとして活躍しているから、自分の仕事柄、彼女の話題はいつも耳にする。彩乃もその活躍は知っているはずだし、もしかすると連絡を取り合っているかもしれないが、僕に気を使っているのか、それとも自分が嫉妬しているのか、彼女の名前を口に出すことはない。

 彼女のことを想っていた日々や一緒に過ごした時間は、今思えば若い頃の淡い恋だ。淡いと言っても、あの時の感情が薄っぺらな物だとは、今でも思わない。

 彩乃のことは愛している、子供のことも、もちろん。けれど、あの時のように眠れぬ夜があるだとか、自分では抑えきれない気持ちがあるとかのものではない。彩乃と息子に対する愛は、あの時の僕に足りなかった、大切な人を守りたいと思う気持ちだ。

「高山さん、ピアノ好きなんですよね?奥さんもピアノやってたらしいし、どう思います?相原奏子のグラミー賞、受賞。」

「あぁ、まぁ取って当然の人じゃないか。彼女はきっと、偉人になるような人だよ。」

 僕は心の中でにやけている。後輩よ、その相原奏子と僕は、高校生の時に付き合っていたんだよ……なんてことを話したら、たちまち噂は出版社中に流れて、そんなことが記事になれば、いくら同じ時代を過ごした彩乃だって、亭主の晩飯を作らなくなる日が続くようになるだろう。だから僕は、目の前にいる後輩に心の中で自慢をするだけ。

「偉人?ベートーヴェンとか?」

「そう、学校の音楽室に、額に入れられて飾られるみたいな。」

 週刊誌でも彼女のことを話題に取り上げたことは度々ある。その時に写真を見て驚いた。三十歳を過ぎた奏子さんは、あの時の面影も残っているが、綺麗なドレスを纏い、サラサラと風に靡きそうな美しい髪と淡い化粧が、彼女をとても美しく魅せていた。こんな写真が音楽室に飾っていたら、思春期の中学生なら授業なんかそっちのけで見とれてしまうと思うほどだ。

 飲み会の席で編集長が、『歳を取ると、男は老いて、女は化ける。』なんて言っていたが、まさにその通り。

 そして、今年で四十一歳になる奏子さんの写真を見ると、グラミー賞の受賞に笑顔を見せていて、一段と綺麗だった。

 そんな奏子さんの栄誉を自分のことのように思いながら喜びに浸っていると、不意打ちを食らうような言葉が耳に刺さった。

「大変だ!速報入った!相原奏子が死んだ!父親と一緒に親子心中だって!」

 編集長が張り上げた大声を聞いて、皆が一斉に騒めいている。だが、僕は頭の中が真っ白になった。

 今、何て言った?相原奏子って、あの奏子さんのことだよな……

 今朝、奏子さんと父親の遺体を乗せた車が、海から引きあげられたと言っている。状況からして事故などではなく、自殺だと推測されているらしい。

 普通では理解できない話だろう。彼女は名誉ある賞を受賞して、他人が羨むような人生を歩んでいる真っ最中なんだ……けれど変わり者の奏子さんなら、僕には思い当たる節もある。

 早く偉人になりたいだとか、モーツァルトより長生きしたから、もういいだとか、そんなことを考えそうなのが奏子さんだ。

 付き合いだした頃に少し女らしく振舞っていた奏子さんの記憶は薄くて、負けん気で、気が強くて、変わり者で、お世辞にも美人とはいえない奏子さんばかりを思い出す。僕が、そんな彼女に魅力を感じていたからだろう。

 二十年以上も前の記憶だから、美化されていることもある。それに、奏子さんと過ごした時間は短く、これまでに過ぎた日々の一時にすぎない。

 けれど、あの時の僕は、確かに彼女を愛していた。その一日、一日は風のように過ぎ去るのが早く、過ぎ去れば物凄く長かった出来事に思える。その彼女が人生の幕を下ろした。僕は今、そのことが受け止めきれずにいる。

 感情に身をまかせて、後輩たちの前で涙を流すような歳でもなくなってしまった。それに、彼女が父親と一緒に自殺する理由までは分からなかった。

 生きていれば死を選びたくなるほどの苦労もあったのだろう。二十年以上も会っていない人の気持ちなんて、分かるわけがない。

 人は時折、愛の表現を死と並べることがある。『あなたの為なら死んでもいい。』とか、『死ぬまで愛している。』とか。

 その愛が恋愛ではないとしても、人は誰でも誰かを愛する。それが、奏子さんは父親だったのだろうか……僕が知っているかぎりの相原奏子では、その位の理由しか思いつかなかった。

「高山さん、僕、相原奏子の取材、行ってきますね。」

「待ってくれ!」

 後輩を呼び止めた時、僕はあの時のような嫉妬を覚えた。奏子さんを他の誰かに取られたくない。それが今は愛や恋ではないが、奏子さんの死を記事にするならば、彼女のことをよく知らない人間に、自殺の理由を噂や想像だけのゴシップ記事として書かれるのが、たまらなく嫌だった。

「その記事、僕が引き受ける。」

「え、なんで高山さんが?」

「頼む、僕にやらせてほしい……いいですよね?編集長。」


 彩乃に電話を掛けて、僕が奏子さんの記事を書くことを話した。

 それは、彼女が自殺した理由や真相を暴く記事ではなく、ピアニスト相原奏子の生涯を世間に伝えたいからだと話したら、彩乃はただ、「そう……辛いかもしれないけど、頑張って。」と言うだけだった。

 あの時の奏子さんに、僕は何もしてあげれなかった。そして、あの時も、今度も別れを言うことができなかった。だから今の僕が彼女にできること、生きていた彼女を知っている僕ができること。

『後世に名を遺すべきピアニスト、相原奏子。』

 今の僕の心を借りて、あの時の僕に戻ろう……あの時上手く言えなかった気持ちを、今の言葉で書き記す。それが僕にできることだ。


  ♢

 こんなことを思い出したのには、訳があった。

「大丈夫お父さん、寒くない?」

 私の声など聞こえてもない様子で、父は車の後部座席に座りながら眠っていた。

 私は車を運転しながら、きらきら星を口ずさんでいた。崇君が亡くなった時、彩乃が悲しまないようにと思いながら、私はモーツアルトの《きらきら星変奏曲》をピアノで弾いた。

 そんな私のことを怒り出した彰君に、私は『崇君は悪い事をしたから地獄に行く。』なんて、酷いことを言っていたのを思い出している。

 だからきっと、私も地獄にいくのだろう……私はこれから、父を殺そうとしている。父がこのまま目を覚まさなければ、いつものように眠りについたと思うまま、自分の最期に気付かずに死んでゆく……

 年を取った父は、私を見ても誰なのか分からないほどになっていた。

 ホームヘルパーに世話をしてもらいながら、毎日を寝たきりのままベッドの上で過ごし、ヘルパーを私だと勘違いしたり、私をヘルパーだと思っていたり。

『お手伝いさん、奏子がね、大変だからね、もう私を殺しちゃってくださいな。』

 なんて言っていた時、「馬鹿ね!大変なんかじゃないわよ。」と父を叱ったが、グラミー賞を受賞したことを報告すると、父は『百合子、百合子……』と、母の名前を呟くだけだった。

 それを聞いて、『お父さんは早くお母さんの所に逝きたいのに、私を心配して逝けないんだ。』と思った。

 ならば、父の願いを叶えてあげたいが、父を殺して私だけ生きているわけにはいかない。

 私は地獄でその罪を償うことになる。その時に父だけは、ちゃんと天国へ行けるように、この曲を口ずさんでいた。


 彰君と過ごした時のことを思い出すと、思わず笑ってしまうようなことばかり。

 ショパンの《別れの曲》を弾いて聴かせた時に、むきになって怒っていたこと。

 誰もいない朝の竹下通りを一生懸命案内してくれたことや、クレープじゃなくてコンビニのバナナボートを買ってきてくれたこと。

 バナナと言えば、コンクールの日、彼はバナナの束を丁寧にラッピングして持って来てくれたらしい。

 受付の人から、『これ、誰だか分からない男の子が渡してほしいって……断ろうと思ったのに、どっか行っちゃって……』と、困った顔をしていたのを見て、あの会場で大笑いをしてしまった。

『来てたんだ。しかも、本気で私がバナナを好きだと思ってるのかしら。』と思ったら、可笑しくてたまらなくて、それまで悩んでいたことが一遍に吹き飛んでしまった。

 そんな彼だから、あんなことも思いついたのだろう。

『僕の心では、いつもオクターヴ上げた音が鳴っている。』なんて言っていた時、素直じゃない私は、『この人の将来は、売れっ子のホストか何かか。』なんて思っていたが、今はその言葉が大切な思い出になっている。これが私の最期に思い出す言葉。


 海が見えてきた……天国に昇るには、あそこからピアノの鍵盤のような階段が現れて、それを上って向かうのだろう。

 その階段は上る度に、ポロン、ポロンと音を鳴らしながら、天国の入り口へ導いてくれる。

 私は天国へ行けないから、神様が許してくれるのなら父を入口へ見届けるまで、その音を聴いていたい。

 父が迷わずに母のいる天国へたどり着けるように、私は父の手を取りながら階段を上る。

 一歩一歩、天国に向かって、その音を彼の言うように、オクターヴ上げて奏でながら。


『オクターヴ上げて奏でる』  完

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オクターヴ上げて奏でる 堀切政人 @horikiri

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