第12話 オクターヴ

  ※

 一二月二十五日はイエス・キリストの誕生日で、世間はクリスマス。

家ではチキンやケーキを食べて、恋人同士は原宿のイルミネーションでも観に行って、プレゼントを渡して……

 けれど、今年から僕にとって一二月二十五日は、相原奏子の誕生日。デートもプレゼントも、僕と世間は理由が違う。

 しかし問題なのは、奏子さんにとって、お母さんの命日でもあること。

 彼女の母は、二年前のクリスマスに行われたコンサートの最中に事故に遭い、この世を去った。そんな日に、『誕生日おめでとう』なんて言ってよいものなのか、僕は戸惑っている。

 単純に考えれば、僕にとって大切なのは彼女自身だから、誕生日を優先して祝うべきだ。しかし、彼女は自分が生まれた日を、母親の命日ということで打ち消している。しかも前日はピアノのコンクールだから、今のところ僕の気持ちが入り込む隙間がない。

 僕にとって大切なのは奏子さんだけだ。それ以外の何もない。今の僕から、奏子さんを愛する気持ちを取り除けば、本当に何もない男だ。

敬うような親もいなければ、彼女より大切な友達もいない。今、熱中していることや、将来の夢、進みたい大学などもない。これからの自分は相原奏子だけのためにある。大きな目標といえば、早く自立して彼女と結婚することだ。

 彼女の幸せを望んでいる。だが、それは僕が与える幸せであり、彼女自身で見つけた幸せには嫉妬を覚える。

 きっと彼女は、ピアノと僕ならピアノを選ぶだろう……家族と僕でも、家族を選ぶだろう。

 秋には公園を真っ赤に染めていた紅葉も、今は黄色くなって足元に散らばり、その上を歩く度にサクサクと音を立てる。自動販売機には温かい飲み物を赤色の札で表記した商品が増えて、その中から選んだミルクティーを彩乃さんに手渡した。

「やっぱり誕生日だからって、そっとしておいた方がいいんですかね……」

 僕は、寒さしのぎの缶コーヒーを両手でこすりながら、彩乃さんに問い掛ける。こういう話をできるのは、この人しか思い当たらないから、放課後に相談したいことがあると言って呼び出した。

「どうかな……コンクールの結果にもよるし。だって、優勝したら暫く会えないんだから、お祝いしときたいもんね。」

「えっ、暫く会えないって、何のことですか?」

 それを聞いて面食らっているのは僕の方なのに、彩乃さんは驚いた顔をして、「何も知らないの?」と言ってきた。

 奏子さんは、コンクールで優勝したらイギリスに留学することを、ピアノの先生と約束しているらしい。そんなことも知らずに、僕は誕生日に何をしようなんて、的外れな悩みを彩乃さんにしていた。

 素っ頓狂なことを言っている自分が恥ずかしくなると、彼女に対する怒りがふつふつと込み上げてきた点……何故、そんなに大事なことを話してくれないのだろうと。

「奏子は別れないって言ってたから、てっきり遠距離で付き合うのかと思ってた。」

「別れないって、だってイギリスでしょ?それに、いつまで行ってるんですか?」

「うーん……分からないけど、向こうに行って、いつから大学に通うかにもよるし……四、五年じゃない?」

 一度頭に上った血が、青ざめて足元まで流れ落ちるような話だ。奏子さんが別れないと言っていたって、そんなに長い間を待っているのは気が遠くなる。

 僕達は、まともに付き合い始めて一ヶ月と経っていない。十代の恋なんて淡いものだと笑う大人もいるが、流石にこれは同情するだろう。

「四、五年って……生きているかも分からないよ。」

「ちょっと、そういう口のきき方、私の前では怒るわよ。」

 頭の中が混乱している。問題を整理しようとして積み上げると、だるま落としのように弾かれて、崩れ落ちて、また積み上げて……頭の中では、その繰り返し。

 奏子さんが遠くへ行ってしまう実感はない。だから僕の感情を序列させると、辛いとか悲しいとかを押しのけて、怒りが先立っていた。


 彩乃さんと別れた僕は、すぐさまに公衆電話から、奏子さんの持つPHSに電話を掛けた。

「はい……」受話器から聞こえる奏子さんの声が、憎らしく思えた。考えてみれば、この人はいつも隠し事ばかりだ。男に襲われたことも、今回のことも、お母さんの事故の件だって、奏子さんの口から聞いたことがない。それでよくも、愛しているなんて易々と言えるなと思うと、僕の感情は怒りに食いつぶされていた。

「あのさ、イギリスに行くことなんて聞いてないんだけど。」

「……ごめん。」

「あのさぁ……ごめん、とかいいからさぁ、何で、そんな大切なこと言ってくれなかったの?」

 奏子さんは僕の質問に答えず、黙っているだけ。その対応には苛立ちが増すばかり。

 思い起こせば、付き合ってからは妙に女性らしくなったが、そもそもは、気が強くて、負けん気で、少し変わり者なのが相原奏子。だから、何で黙っていたのかを訊いたって、『何で私のことを、いちいち話さなきゃいけないのよ。』なんて思っているのが、きっと彼女の胸の内だと思えば余計に腹正しい。

「今から会える?今日は僕が行くよ。」


 僕が生きてきた中で、無理だと思っても諦めなかったことは相原奏子だけだ。奏子さんを初めて抱きしめた時は、天にも昇る気持ちだったが、やがて不安ばかりが心に募った。

 奏子さんが別の男に抱かれた時のことを考えると、心に煙が立ち込めた。

 奏子さんに会えない時間を過ごす時、心が霧に包まれた。

 そして今、奏子さんに会えなくなることを考えると、暗闇の心には雨が降り注いでいる。

 奏子さんは自分に芯が通っている人だ。だから、これから会って話したところで、気持ちが変わることはないだろう。きっと僕なんて、彼女にとってはおまけのカードにすぎなかったんだ。

 僕の周りから、一人、また一人と、人が離れていく……母親が消えて、崇が死んで、今度は奏子さんが遠くへ行ってしまう。

 今は学校という集団の中で群れているが、それも時が経てば散らばり、やがて僕は孤独になる。

 待ち合わせた場所には奏子さんが既に来ていて、暗くなったばかりの空をぼんやりと眺めていた。

「奏子さん……」

 呼びかけると、奏子さんは初めて二人で会った時と、同じ顔をしていた。開いた電車の扉、僕を見つけると大きな口を開けて驚いていた顔。

 ここに来るまでの間、募る苛立ちのあまりに奏子さんのことを諦めかけていた。もう、言いたいことを言って、それで終わりでいいや……と、無理なことには執着しない僕に戻りかけていた。けれど、顔を見た途端に諦めきれない気持ちが込み上げてくる。

「何で、言ってくれなかったの?」

「ごめん……でもね、コンクールで優勝したらの話だから。行くか行かないかに迷ったから、ピアノの先生と話した時に言ったの、優勝したら行くって。だから、優勝しなかったら行かない。話は、それからしようと思っていただけ。」

「そんなの、優勝するにきまってるじゃん……」

 きっと彼女は、自分でも分かっているのだろう。奏子さんは性格に難があっても、ピアノは最高なんだ。必ず優勝すると思っていて、そんな賭けにもならない選択肢を作っているだけ。

「そんなの分からないよ。ピアノのコンクールって、彰君が思うほど甘くないの。」

「何、そんな奴が、ショパンだかモーツァルトだか分からないけど、そんな風になりたいって言ってるわけ?馬鹿馬鹿しい!笑わせんなよ!」

 大声を出したら気持ちが吹っ切れてしまった。そうだ、僕は奏子さんがイギリスに行くと聞いても、イギリスが何処にあるのかも知らないような男だ……結局、僕が背伸びをしていただけ、奏子さんにとって僕は、取り柄の無い年下の男なんだ。

 彼女と比べると、自分の生き方には色が無い。無色と薔薇色では、肩を並べられるわけがない。そう思うと、この付き合いが滑稽に思えてきた。

「もういいよ……別れよう。奏子さんも、そっちの方がいいでしょ……」

 奏子さんの溜め息が聞こえると、僕はそれを二人の終わりに捉えた。彼女が悪いんだ、僕は奏子さんを大切に思っていたのに、彼女には僕よりも大切なものがあった。その時点で二人の関係は釣り合わないんだ。

「そうやって……好きとか愛してるとか言うわりには、気に入らないことがあると、すぐに別れる、別れるって……本当に勝手だよね」

「は?」

 別れ際に自分を正当化させようとするのは、珍しい話ではないだろう。けれど奏子さんは、そこら辺の女とは違うと思っていたから、そんな態度を取られると腹が立つ。

「誰が一生向こうに行ってるって言ったの?そんなに大切だと思うなら、待っててくれないの?あなたの一番大切って、そんなもの?」

「煩いな!そっちがそう思ってないのに、こっちも思えるかよ!」

「思ってるわよ!ただ、これと、それは別。あなたほど軽い気持ちで言えばいいなら、何遍でも言ってあげるわよ!愛してる、愛してる、愛してる、愛してる!」

 この公園は野球少年がホームランを打てば、どこにボールが飛んでも窓ガラスを割ってしまいそうに家で囲まれている。あと二時間も待てば話題のテレビドラマが始まり、ヒロインの女優も彼女と同じ言葉を言うだろう。それを見た人が聞き飽きたと思うほど、奏子さんは泣きじゃくりながら、『愛してる』と連呼している。

「やめろよ、煩いな!」

「うるさい?あなた、いつも言ってほしいって言ってたでしょ?私は煩いなんて思ったことないよ。私、別れないからね。私が向こうに行っている間、あなたが別の人を好きになって付き合ったとしても、それは浮気だから。」

「だから、別れようって……」

「嫌だ!こうやって嫌がれば、気が済むんでしょ!だから、すぐに別れようなんて言うんでしょ!嫌だ!愛してる、嫌だ!愛してる、嫌だ!愛してる、どう?満足した。」

 奏子さんは、言いたいことを言って走り去った。僕は一人取り残されると、近所の家の窓が開き、「うるせぇよ!」と男の声で怒鳴り声が聞こえて公園に響く。彼女は僕が思っているよりも、一枚上手の変わり者だ……僕は奏子さんを追いかける気力も無く、勢いに負けて呆然とするだけだった。


 奏子さんの勢いに負けて、『これで終わりです、さようなら。』とは思えなかった。

 ただ、僕からも、奏子さんからも連絡を取り合うことのないまま、毎日が過ぎる。毎日、奏子さんと乗っていた朝の電車にも、彼女は姿を見せない。

 僕達のことは早々に彩乃さんへ伝わり、コンクールだけは見に来るようにと、ご丁寧にチケットまで渡された。

 街はすっかりクリスマスムードになっていて、商店街の八百屋まで、思いつきのようにクリスマスセールで苺が安くなっている。

 今日はクリスマス・イヴ、そしてピアノコンクールの日。自分から別れ話を持ちかけたものの、今まで僕の感情を占めていた奏子さんへの想いを、空っぽにすることはできずにいる。むしろ会わない日が続けば、思い出が美化されるばかり。

 ある日突然、『やっぱりイギリスに行くのやめた。』と言って、いつもの電車に奏子さんが乗ってきそうな気がしてる。

 それともコンクールで優勝せずに、僕の所に戻ってくるなんて、つまらないことを考える。

 彼女の夢を壊したいんじゃない。ただ、僕よりも大切なものがあって、それに負けて弾かれるのが悔しくてたまらない。その感情が愛なのか、嫉妬なのか、妬みなのか、はたまた自分の弱さなのかも分からない。僕にとって、奏子さんより大切なものがないから、悔しくてたまらないだけ。でも悔しいと思うのは、彼女を愛しているからだ。

 ポケベルには、『キナサイヨ』と、彩乃さんから念押しのメッセージが届いてる。だが僕は安売りの苺を前にして、現実を目の当たりにすることに戸惑っている。

「お兄ちゃん、さっきからどうしたの、苺買うの?」

「あ、いや、あ……これ、これください。」

 八百屋のおばちゃんの声に驚き、咄嗟に指差したのは、苺の隣に並んでいるバナナの束だった。

「バナナ?クリスマスにバナナかい?」

「あ、いや、彼女が好きなんです……」

「あらそう!クリスマスプレゼントにバナナ。おばちゃんの頃は高かったからね、葬式でもないと食べれなかったわよ。」

「あ、いや、そうじゃなくて……」

 おばちゃんはバナナの束を、メロンでも包むようにラッピングしてくれて、ピンクのリボンまで付けて、それを白いビニール袋に入れて渡してくれた。

 歳を取ると、こんな話を真に受けるようになるのかと思ったが、おばちゃんが差し出すバナナを見て、気持ちが吹っ切れた。そうだ、彼女の弾くピアノは僕の好物なんだ……あの日僕は、奏子さんの弾くピアノが好きになったんだ。恋人である前に、彼女のファンとして、コンクールで弾く彼女のピアノを聴きに行こうと。


 コンクールは初めて奏子さんの弾くピアノを聴いた、『上野の森音楽大学』のメモリアルホールで行われていた。

 受付嬢に僕は、おばちゃんが丁寧にラッピングしてくれたバナナを、花束を預けるように渡した。

「あの、これ相原奏子さんに渡して下さい。」

「え?あ、はぁ……でも、食べ物お預かりは……」と、受付嬢は戸惑っていた。

 ホールの扉を開くと、崇のことを思い出した。あの日、この空間に圧倒されていた僕の隣で、崇はニヤニヤと笑いながら一番前の空いた席を見つけて、行儀の悪い恰好で座っていた。

 あの日よりも更に客席は埋まっているが、一番後ろの列に一つだけ空いている座席を見つけると、僕はそこに座った。コンクールはもう始まっていたが、奏子さんの番はこれから四番目の演奏だ。

 奏子さんと出会ってからというもの、僕は結構な数のピアノ曲を聴いたから、プログラムを見れば大体の曲を知っている。

 初めて聴いたのは、彩乃さんの弾く《幻想協奏曲》

 崇の思い出といえば、《きらきら星変奏曲》

 奏子さんのピアノは、沢山聴いた。《英雄ポロネーズ》《別れの曲》《ピアノソナタ第8番『悲愴』第二楽章》

 そして、今から聴く《ラ・カンパネルラ》は、彼女の演奏を聴くのは初めてだ。

 いつもプロが弾くピアノのCDばかりを聴いているから、いくら有能な高校生の演奏といっても、聴いて驚くことは無くなっていた。むしろ、『だめだよ、この曲のここは、こう弾かないと。』なんて、生意気なことを思ったりしている。

 始めは奏子さんと話を合わせたくて聴いていたが、こればかりはピアノそのものに興味を持ち始めた自分もいる。

 今まで僕が聴いていた歌謡曲などとの違いは、メロディーを聴いて、歌詞で決められていない描写を自分で想像するのが好きだ。

 不思議なもので、同じ曲を聴いても自分の感情一つで、全く違うイメージになる。だから、今日、奏子さんが弾くピアノを聴いて僕はどう思うのか……それが少し怖かった。


 いよいよ奏子さんの番だ……彼女はあの日と同じ黒いドレスを着て、舞台袖から現れた。

 久しぶりに見た奏子さんの姿は、この場所から見ると物凄く小さく見えた。

 ピアノ椅子に座ると、少しだけ肩が動いたのが分かった。そして、何をしているんだろう……掌を指でなぞる仕草。そして、その掌を口に当てている……ああ、たぶん緊張をほぐすお呪い……いや、違う。あれは僕とした約束だ。

 手のひらに、『人』という字を書く、一時間に一回、それを僕だと思って飲み込む。この会場にいる人達の全員が緊張をほぐしていると思っているのだろう……けれど僕だけが別の意味を知っている。

 彼女の手が鍵盤に添えられると、一呼吸置いてメロディーを奏で始めた。

 鍵盤の中央で奏でるメロディーの裏に、高らかな音で鳴っている、リズム音が聴こえる。僕はCDでこの曲を聴いてから、『オクターヴ』という言葉に興味を示した。奏子さんのことを思い続ける毎日、僕の心にはこの音が鳴っていた。

 僕の心に鳴っていた音が、彼女の奏でるメロディーに合わせてリズムを取っている。だからかもしれない、奏子さんの弾く《ラ・カンパネルラ》は、少し焦っているように聴こえた。ダメだ、奏子さん、この曲はもっと、ゆっくりと、落ち着いて、落ち着いて……

 まるで、全力で走り切ろうとしているような《ラ・カンパネルラ》が、会場に鳴り響いている。

 彼女がピアノを弾く手のが、僕たち二人のこれまでに見えた……右の手が僕で、左の手が奏子さん。別々の場所で音を奏でているが、たまに手が重なると共に五線の中の音を鳴らし、手を交差させて左手の奏子さんが右手の僕を飛び越えると、その指が鳴らす音は奏子さんが『愛してる』と連呼していたことを思い出させる。

 そして、僕の手が自棄になったような音を鳴らしてオクターヴ上で走り回っている時でも、奏子さんの手は、しっかりとメロディーを奏でていた。

 それにしても、この曲はこんなにも勢いのある曲なのだろうか……彼女の気持ちが分からない。ここからでは、今、奏子さんがどんな顔をしてピアノを弾いているのかも見えない。コンクールで優勝したいのか、それとも自分の感情をピアノにぶつけているだけなのか。

 彼女の左手が、雷のような低音を力強く鳴り響かせた。その音は彼女の心の中にある苦しみか、迷いか、怒りなのか分からないが、そんな音に聴こえた。

 奏子さんの弾くピアノを聴いているうちに、幼い頃の記憶がぼんやりと思い出された……そうだ、あの高架下にバスケットゴールがある広場には、母さんに連れて行かれたんだ。

 まだ小学校に入る前、僕は母さんに連れられてあそこに着くと、知らない男の人が待っていた。

 誰だか知らない男の人が僕を見て、「大きくなったな」と言っていたのを思い出した。ただ、それだけなのに、僕はその人と別れるのを凄く嫌がっていたのを思い出す……その時は理由など分からなかったが、今の僕が考えれば、その人に捨てられた気持ちになったのだろう……きっと、その人は父親だと直感が告げていたからだ。そして、大切な人に捨てられた心の傷を、今日まで記憶を無くすことで封じ込めていた。

 それから母さんが居なくなっても、僕の寂しいという感情は麻酔をかけたように麻痺していたが、親友だった崇まで亡なくしたことで僕の心は麻酔を切らし、大切な人が居なくなる痛みに耐えられなくなっていた。

 そうか……奏子さん、僕は今、気が付いたよ……僕は、あなたの愛し方を間違っていた。

 僕は、あなたを守りたいと思って愛していたんじゃない。自分が寂しかっただけだ。自分では強がっていたつもりだけど、孤独になるのを恐れて、誰かにそれを支えてほしかっただけなんだ。

 父親なんて見たこともない奴だと思っていた。母親なんて出て行って清々したと思っていた。

 そんな父は、僕が初めて歩く姿を見たことがあるのだろうか。

 あんな母も、僕が初めて喋った時は喜んでくれたのだろうか。

 友達をつくる意味は何だろう、彼女を欲しいと思う理由は何だろう……たぶん僕は、一人になるのが怖かっただけなんだ。

 そして僕は、寄る辺の無い気持ちを、全て奏子さんに当てていたんだ。

 人からの愛を知らない僕が、誰かを愛することなんてできなかったんだ。ただ自分が、人の愛に飢えているだけ……よこせ、よこせ、愛をよこせって……

 奏子さんが弾くピアノを聴いて、はっきりと分かった。あなたはいつも、正しいメロディーを奏でていたんだ。けれど僕はいつも、こっちの音の方が綺麗だ、こっちの音の方が正しい、だからこっちに来いと言って、あなたを惑わせていた。だからあなたは、逃げ込んだ音の中で、もがいて苦しんだ。それでも僕は、そっちじゃないぞ、こっちに来いと、無理やり連れ戻そうとする。けれど結局二人は別々の音を鳴らしている。

 奏子さんはきっと、そんなことを訴えたくて、今、ピアノを弾いているのではないだろう。けれど今の僕には、そうやって聴こえてしまう。それは人の心に入り込んで音を奏でるのが、相原奏子の弾くピアノの魅力だからだ。


 CDで何十回も聴いたはずの《ラ・カンパネルラ》とは、何もかも全く別物の演奏を聴き終えた。コンクールが何を審査して、評価するのか分からないから、この演奏がどう捉えられるのか分からない。ただ、僕は聴き終えた後も息が詰まっていた。他の人達には、どう聴こえたのだろう……僕は今、無音の中にいる。

 奏子さんが立ちあがり一例すると、賞賛する拍手が会場に鳴り響いた。訳もなくというよりも、訳ばかりで、どれが理由なのか分からない涙が溢れ出た。そして、この拍手を聞けば審査の結果なんて知る必要がないと僕は思った。

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