第11話 月光

  ♢

「ねぇ奏子、最近それ、何やってるの?」

 手のひらに『人』という字を書く。一時間に一回、それを飲み込む。いつでも彼のことを考えているように、それを僕だと思って飲み込むようにと、彰君から言われている。

「あ、これ……何でもない。ほら、おまじないみたいなもの?」

 そう言って彩乃には誤魔化したが、彼は、これが緊張をほぐすためのお呪いだと知っているのだろうか……

「毎度、毎度、何を緊張しているのよ。大衆の面前であんなことしてたくせに。」

 あの日のことを思い出せば、顔から火が出そうだ。けれど、私は生まれて初めて、自分が女であるのを実感した日だった。

 そして、私の過去を受け止めてくれた彼が苦しまぬように、できることは全てしようと思った。

 生活の大半に彼のことが組み込まれるようになった。朝の電車、休み時間の度にくるポケベルのメッセージ、放課後のデート、夜の電話。そして、今していることも、その一つ。

 彼は多分、嫉妬深い。他の男性がどうなのか知らないが、父が母に、あのようなことを言っているのは見たことがない。

 教室には男が何人いるだとか、隣の席は男か女かとか、ピアノの先生は男性なのかとか。それが煩わしく思える時もあるが、その嫉妬を生んでいるのは、私の過去が原因だろう。

 昨日に至っては、血の通っていないものにまで嫉妬していた。ピアノと僕の、どっちが大切なのと。

 そんな話は私にとって、食べるのと飲むのはどっちが大切か訊かれているようなこと。

 それでも今の私には彼の存在が無くてはならないものだ。ピアノだって彼がいなければ、とても身に入らない。

 どちらかなんて選べないことだが、母を失った時のことと、彼を失うことを比べて考えると、気持ちは同じだった。


 校内選考では、彼に私の気持ちが届くように願いながらピアノを弾いた。彼と離れたくないと思う気持ちを、音の一つ一つに込めて鍵盤を叩いた。

 神様は時々、気まぐれなことをする。不幸の底に陥れたかと思えば、ちゃんと私の願いを聞いてくれたりもする。

 だから彼が私を抱きしめてくれた時は、神様はきっと、他の誰かに恵むはずの幸せを、私に与え間違えたんだと思った。

 そして今日も、彼は校門の前で帰る私を待っている。

「ごめん……来てもらったけど、帰ってからレッスンがあるの。」

「知ってるよ。僕よりもピアノの方が大切なんだもんね。」

「だから、そういうことじゃなくて……」

 昨日は、この件で別れ話にまで持ち込まれた。『お互いを一番大切と思えないなら、別れた方がいいね。』なんて言ってくる。

『僕は奏子さん以上に大切なものなんてない。あなたの為なら何でもできる』なんて言ってくるから、それを上回る言葉なんて私にはない。何でもできるなら、軽々しく別れ話を出さないでよ……なんて、また、ひねくれたことを思いつくだけ。

 けれど、そんなことを口にしたら大変なことになる。きっと、この屁理屈女と罵られるだろう。

「いいよ。ただ、帰り道に寄っただけだから。」

 その言葉を聞いて、私は安心して肩を撫で下ろした。こうやって二人で過ごす時間の彼は、今までと変わらない優しい彰君だった。


 柳さんの姿を再び目の当たりにした日を最後に、ピアノのレッスンも先生を変えた。父には気持ちを切り替えたいから、女性の先生に教わりたいとお願いした。物をねだるような真似をしたのは初めてのことだから、父は少し驚いていた。

 そんな娘のおねだりが男のためだとも知らずに、父は子供らしい振舞いをした私に喜んで、現役のプロピアニストである、君塚麻友さんを家庭教師につけてくれた。二十代をドイツとイギリスで過ごし、三十歳になった今、日本に帰国して活動している私の憧れのピアニスト。

そんな人を、たかが高校生の娘の為に呼んでしまうのだから、父には驚く。

 君塚さんは来年の春にはイギリスに戻るらしいが、それまでは指導してくれるそうだから、私にとってこの上ないことだ。

 けれど今日の私は、最高の指導者を前にして、とても出来の悪い生徒だろう。

 恋というのは実に不思議なもの。こうして思えば、何気ない日常に紛れ込んだ邪魔者でしかない。

 心の中に潜り込み、頭の中を食いつぶし、日々の暮らしを妨げる。

 胸の痛みを桃色に変えて、煩わしさを薔薇色に見せて、心の迷いを虹色に思わせる。その色は、痛みを鈍らせる麻酔のようなもの。

 けれど、痛みは確実に私を蝕んでいる。実際にこうして、指で鍵盤を押して足でペダルを踏むという、私にはあたりまえの作業を邪魔している。

 必要以上に鍵盤を強く叩いたり、ペダルを深く踏んだり、こんなことは初めてだ。

 君塚さんから、私の弾く《ラ・カンパネルラ》を聴いて、「響いてる、とても鳴り響いてるわよ。イタリアでこんなに大きな鐘を鳴らせたら、住人から苦情がくるわ。」と嫌味を言われた。

 恋が私の邪魔をする……けれど私は、その恋を支えにピアノを弾いている。それが無くなれば、私の全てが崩壊してしまう。


 レッスンを終えて暫くすると、彰君から電話があった。

「何してたの?」

「だから、ピアノのレッスンだよ。」

「ふうん……」

 彼は私の全てを疑っている。それもこれも私の過去が、彼をそうさせているのだ。

 彼は私に会うと、いつも体を求めてくる。拒めば、愛していないのかと言ってくる。愛していないのではない、私だって彼の肌の温もりを求めている。けれど公園の茂みや、神社の社の陰に隠れてするような、盛りのついた動物の真似はできない。

「ねぇ、今から会いに来てよ。」

 彼は電話を切る前に、いつもこう言うようになっている。

「だから、無理だよ……もう夜遅いし、お父さんも心配する。」

「へぇ、僕よりも、お父さんの方が大切なんだ。」

「だからさぁ……」

 確かに私は、彼の言葉に頷いた。いつでも彼を一番に思っていてほしいと言うことに。

 けれど彼の言うように、いつでも恋人が天辺にいるわけではない。どうだろう……例えるならば、サンドウィッチのようなもの。

 食べる目的はパンだけれど、挟むものがあるから、その食べ物は成り立っている。だから彼の言っていることが、こう聞こえることがある。『僕は、パンだけあれば十分だ。他には何もいらない。ハムも、卵も、レタスなんて贅沢だ。』と……

 今もそう。彼のこの言葉が、PHSを通して聞こえている。

「僕は奏子さん以外に、大切なものなんてない。家族も、友達も、他に大切なものなんてないんだ。」

「わかった……行くよ……」

 この付き合いに大切なのは、彼の望みにはできる限り応えることだ。彼が購入したのは、訳あり品の本棚。傷は付いてるけど、まぁ、本が並べられるならいいよと言って買ったものが、棚まで壊れてたのでは捨てるしかない。

 時計は夜の八時を迎えようとしている。私はコンビニエンスストアに行くと父に嘘をついて家を出ると、彰君の家の近所にある公園へ向かった。

 いつもより夜道がほんのりと明るい。今日は満月だ。『最近、よく会いますね。』と、月に話し掛けられている気がする。

 公園まで自転車で行くのは、そこそこの距離がある。刺さるような冷たい風から手袋で両手を守り、自転車のペダルを漕ぐ。電車に乗れば早い話だけど、この態々を彰君は求めている。


 公園に着くと薄暗いその場所には、ブランコを漕がずに座るだけの人影が、白い息を吐いていた。

「寒かったでしょ……」

 彰君は私の肩に手を置くと、顔を寄せて唇を合わせた。その間目を閉じていた私は、彼の唇が離れるのを待ち、目を開けると穏やかに微笑む彼の顔が見える。

「来てくれてありがとう。遅くなるとお父さんが心配するから、家まで送るよ。」

 恋とは多分、常識では向き合えないものなのだろう。この矛盾した言葉が、彼の包容力に思えてしまう。そう、私は電話を切る時にできなかったキスをするために、ここまで来たのだと。

「後ろに乗って。」

 彰君は自転車に跨ると、そう言って私に微笑みかける。

「一人で帰れるから、大丈夫だよ。」

「違うよ、まだ奏子さんと一緒にいたいだけ。」

 ハンドルを握って待っている彼の後ろに座ると、落とされないように体を掴むことに乗じて、背中に頬を当てた。

 ふわふわとしたダウンジャケットの奥から、彼の鼓動がリズムになって聴こえる。四分音符で刻むような音が、私の体を熱くする。

「ねぇ、少しだけ寄り道して帰ってもいいでしょ?」

 彼は私の返事を待ちもせず、ペダルを漕ぎ始めた。

「寒くない?大丈夫?」と、度々訊いてくることに返事をする間が続く。 

 流れゆく街の風景が、過ぎ去る時間のことに思えて『今』という時を愛しむ。

 こうして会っている間の彼は、何かに替えることのできない存在であり、愛おしくてたまらない。

 ガード下に駐輪場が並ぶ一辺倒な場所に来ると、彼はそこで自転車を止めた。

 駐輪場の一角にある、四角四面の広場。そこにはバスケットゴールが一つだけ備えてあり、他には何もない場所。彰君はその場所をじっと見つめていた。

「どうしたの?」

 私が訊ねると、彰君は振り返り小さく微笑んだ。

「ここ、来たことあるんだ……はっきり覚えていないけど、すごく小さな頃の気がして、いつとかは思い出せない。誰ととかも思い出せなくて……ただ、ここに来たことが凄く楽しかったことだった気はしてるんだ。多分、すごく大好きだった人に連れてきてもらった気がしてる。でも何遍ここを通っても、それが誰なのか思い出せないんだ。変だよね。」

 彼の横顔は物寂し気に見えるが、その訳を私は知らない。普通なら気にも留めずに通り過ぎてしまうような場所に、彼は何かを感じている。

 彰君のことを、私は何も分かっていない。けれど自分のことに置き換えれば、彼の気持ちを知った気にはなれる。それは、辛いことを思い出せば思い出すほど、忘れて行く感情だ。

 私は母のことを忘れたくないのに、思い出せば思い出すほど、記憶がぼんやりとしていく。

 その記憶に感情を持たなくなると、自分の心が冷めきったかと思える。やがて、そこには卑屈が生まれるから、捨てきれない洋服をクローゼットに押し込むように記憶だけを閉じ込める。そして幸せな記憶で鍵をする。

 彰君が無理に私を呼び出す理由にも、そんなふうに仕舞い込んだ記憶があるように思えた。

 家の近くまで来ると、彰君は自転車から降りて私と運転を交代した。彼は別れ際にいつも、「僕のこと愛してる?」と、訊いてくる。そして私はそれに頷くだけ。

「今日も言ってくれないんだね……」

 台詞が喉まできていても、いつもそこで痞えてしまう。そして頷いた首が、言葉を胸の内まで落とす。

愛していないのではない。それなら、愛していないと言うだけのこと。愛しているから、それを口にするのは恥ずかしい。

「やっぱり僕達、別れようか……」

「だから、何でいつも、そうなるの?」

 人は一度、非日常的な世界を体験してしまうと、現実に戻ることが怖くなる。恋愛というのも、その一つ。今までは映画や小説の中の出来事が、ある日突然、現実になる。

 それは入り口が非日常的なものからなので、目の前の出来事が眩しく見えて、今まで過ごした現実が暗闇に思える。

 つまり今の私にとって彰君の存在は、暗闇に差した光。それが無くなることは、闇に潜り込むこと。

「嫌なの?」

「だから……嫌だよ。」

「じゃあ、愛してるって言って。」

「……愛してる。」

 それを言った後の私は、恥じらう顔を見せないように、その場を立ち去った。これが最近では、別れ際の決まりパターン。これで彼は、きっと満足をしている。たとえ人けが無い場所でも、満月には見られている気がして、これでも十分に恥ずかしい。


 家に帰ると父は、一時間ほど出かけていただけなのに、行方不明だった娘が帰ってきたように慌てていた。

「コンビニ行くって言ってたのに、遅いじゃないか。君塚君が来てるよ。」

 さっきレッスンを終えて帰ったばかりなのに、どうしたのだろう……そう思いながらリビングを覗くと、私を見つけて微笑む君塚さんの姿が見えた。

「お帰り。あなたみたいな子でも、夜遊びはするのね。」

 君塚さんは私のことを見て、悪戯に笑っている。「どうしたんですか?」と訊ねると、にやけた顔のまま、私に問い掛けてきた。

「あなた高校を卒業したら、どうするの?」

「付属の大学に進むつもりですけど……」

 そもそも高校に入学した理由も、付属の大学に通うため。けれど君塚さんは、一五歳だった少女が決めた四年後の未来に対して、「本当に、それでいいの?」と、問い掛けてきた。

「ねぇ、春になったら、私と一緒にイギリスに行かない?向こうの大学に通って、そこでピアノを学ぶの。正直に言うと、あなたの為だけでなく、お父さんの為にもよ。相原さんは、まだまだ音楽の世界では必要な人なの。私の周りには、相原さんからピアノを学びたいと言っている人が沢山いるわ。それに、向こうに住んでいる知り合いで、あなたに凄く興味を持っている人がいるの。」

 正直、父を一人にすることを考えたら、留学するなんて他所の家の話だと思っていたけれど、ピアノに限らず音楽を学ぶ人間であれば、夢を皿に盛りつけて差し出されるようなことで、喉から手が出るほどの話。しかし、そんな絶好の機会を、また恋が邪魔している……それは、ピアノと高山彰のどちらかを選べということ。

 彼との出会いが非日常の出来事であれば、この話は光が差した現実の話。たぶん私の頭の中には生暖かい風が吹いていて、常識的な判断を鈍らせている。大切なものが二つ、どちらを選ぶのが正しいなどと、天秤にかけることもできない。だから私は言葉に詰まる。

「悩むことじゃないと思うけどな……それは知らない世界に出ることは勇気のいることだけど、それはタイミングの問題よ。一歩踏み出せば、新しい自分の世界が広がるから。」

 そんなことは言われなくても分かっているのに、今の私には苦渋の決断だ。私だけのことならまだしも、君塚さんは父のことも言っている。

 父は毎日、この家の中で何を考えているのだろう……天国から地獄へ突き落された父は、もしかすると生きていることすら苦痛なのかもしれない。

 けれど、私を一人でこの世に残すわけにもいかず、この家の中で鉢に入れられた金魚のように過ごしているだけのこと。それならば、父を求めている場所で暮らす方が良いのは分かっているけれど、やはり生暖かい風が私の考えを鈍らせている。


 きっと人生は、初めから終わりまで映画のように決まっていて、雲の上に神様がいるならば、きっとその結末を知っている。

 目の前に大切なものが二つある。それをどちらか選べと言われた時は、神様に委ねるしかないと思った。

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