オトナハ仕事ノ図区凶館

 颯爽さっそう爽快そうかいに言ったはいいが私は松尾さんに案内されるままにあの喫茶店に向かったので、道という道を知らない状態であった。これは恐ろしいことである。しかし、同級生に対して、しかも私に多少ではあるだろうが恋心を抱いている女に対して、帰り道を教えてくれなどと、そんなみっともないことが出来るはずがない。私は大人しく諦めて、これも経験だと開き直り、路地という路地を辿り、道という道を歩き、地面という地面を蹴った。そして何とか、どこかの路地からなんとか湯浴飾ゆあみかざり通りに出て来たとき、町はピークを過ぎたのか、人通りもまばらで、盛況とは言い難い時刻であるようだった。時間としては、もう午後も二時ほどになっているはずである。

 私は湯浴飾通りを上って上って登って登って、湯浴飾の駅を目指した。ここから三駅ほど乗り継いで、藤裏結ふじうらゆいの駅まで向かわなければ、図区凶館とっきょうかんには向かえないのである。藤裏結は、乱槐みだれえんじゅ町の中で、二番目に栄えている都市である。だからこそ、何はなくとも、まずは図区凶館である。何故なら今手に入れた小判をまずは紙幣に換金してもらわなければならないし、他の仕事があるのだとしたら、図区凶館で得るのが容易い。ここしばらくは羽の生えた猫のことで遁走とんそうしていたものだから、図区凶館に行くのも、考えてみれば久しぶりなのである。もしかしたら、良い仕事が飛び込んでいるかもしれない。入るか入らないかで言えば、入るにこしたことがないのが、図区凶館という場所である。続金地蔵つづかねじぞうに行くのは、そのあとになるだろう。地蔵さんに小判は、まったくもって、相性が良いとは言えない存在である。

 湯浴飾駅に到着した私は、早速、自然で満ちあふれた湯浴飾駅の内部を練り歩いた。乱槐町において、三番目に大きな都市であるだけあって、やはりその雄大さは類を見ない。ここから第二の都市である藤裏結まで行き、図区凶館へ行く。なかなかどうして、久しぶりに社会人らしい行動をしていると、私は思う。

 私は湯浴飾駅で、藤裏結駅までの乗車券を購入する。運賃は百八十円である。つまるところ、乱槐駅よりも近い場所にあるということである。二駅くらいしか離れていないのだから、歩いても大した距離ではないと思うが、しかしこうして仕事のために電車に乗るという行為が、なかなかどうして私は好きだったりするのだ。特に吊革に掴まるのが良い。吊革という存在は、こういう時にしか掴まれない。いっそ吊革に掴まるために電車に乗っていると言っても過言ではないのかもしれない。

 私はあさで作られたかごに百八十円を投入して、乗車券の木から乗車券を一枚、千切ちぎり取った。乗車券と言うよりは葉っぱなのかもしれない。私はその乗車券を持ったまま、周囲を見渡し、気をつけながら、歩いた。液体に会うわけにはいかないのである。液体は危険だ。液体に会ったら、私は恐らく、今度こそ生まれてきたことを後悔するだろう。用心しながら一歩ずつ一歩ずつ歩き、私は顔のある駅員に、乗車券を渡した。

「おや、お仕事ですか」

 駅員が気軽に私に声をかけてきたので、私は軽快に、「ええ、図区凶館まで」と言った。図区凶館に寄る、という行為は、ともすれば社会人としてのステータスなのかもしれない。図区凶館に務める、ではいけない。図区凶館に仕事のために寄る、というのが重要なのである。駅員に、「お気を付けて」と頭を下げられたので、私も会釈えしゃくを返した。まったく駅員という存在は、何から何まで、出来た人物である。

 私が木製の階段を上り、駅のホームに行くと、丁度駅員が掲示板を書き直しているところだった。黒板消しで今までの乗車案内を全て消して、時刻と、そのときに来る電車の名前、そして到着時間を書いている。私はホームでしばらく立ったまま、駅員の仕事ぶりを眺めていた。次に乱槐方面に出る各駅停車の電車が何なのかを知る必要があったし、私はどこか、この土着的な仕事ぶりが好きなのであった。

 小さい頃は駅員に憧れたのかもしれない。

 私が毎日六帖線ろくじょうせんに乗るのは、そういうところに原因があるのかもしれないと、なんとなく思うほどには、私は駅員の仕事ぶりを見ているのが楽しかったのである。しばらく眺めていたが、やはり仕事には終わりがくる。私の仕事に終わりが来るように、駅員の仕事にも、終わりは来るのだ。駅員が掲示板から離れながら、私に気づいて、会釈をした。やはり駅員は、出来た存在である。駅員には名前がないことが悔やまれる。名前がないからこそ駅員であるのだが、なんとも難しいものだと思わずにはいられない。

 掲示板を見ると、次に乱槐方面に向かう各駅停車の電車は、飛礫号ひれきごうだった。飛礫号がまだ現役で走っていることに、私は少なからず、驚いた。飛礫号は車両が一つだけなのである。いっそ、レールの上を走る車と言っても良い。バスの方が表現的には正しいのだろうか。大昔、それこそ私が今朝六帖線で出会った子どもと同じような年頃のときに乗ったことがあったが、未だに動いていたのだ。私はこれも運命だと感じて、飛礫号の到着を待つことにする。懸念されるのは、一車両だけの飛礫号に私の乗るスペースがあるかというものだったが、ホームに待ち人は少ない。恐らくは大丈夫だろう。私は三分後に到着する予定の飛礫号に乗るために、乗車口の一番前に立ち、ホームに書かれた赤線より内側に下がった。このレッドラインを越えると、乗車の権利が失われる。気をつけなければならない。はやる気持ちを抑え、私は飛礫号に乗る最善を尽くすのだ。

 空を飛ぶ折り鶴を眺めながら時を待っていると、駅員の声が届いた。「間もなく飛礫号が参りまーす」そのアナウンスはマイクもメガホンも使わない、地声のみのものである。私は気を引き締めて、飛礫号の到着を待った。カンカンと、レールをハンマーで叩くような軽快な音と共に、飛礫号はホームへと緩やかに到着し、停止する。乗車口と飛礫号の出入り口には、寸分の狂いもない。素晴らしい運転手が運転をしているのだろう。私は飛礫号の出入り口が開いたので、客が全員降りるのを待ってから、飛礫号に乗り込んだ。私の他に二人、乗るものが居たが、満員にはならなかったようである。

 最後に乗ったものが飛礫号の扉を閉めた。車両の名前が『線』ではなく『号』で終わるものに、自動ドアなど存在していない。全てが手動だ。その心意気が素晴らしいのである。そして、内装までもが、当時のままであった。私は多少の哀愁あいしゅうを覚えながら、湯浴飾駅から藤裏結駅までの旅を楽しむ。飛礫号は、飛礫号だけあって、圧倒的に速い。だからこそ、乗っていられる時間も、短いのだ。速いは短いである。遅いが長いのと同じであるように。速いは長くは成り得ない。遅いも短いには成り得ないのだ。

 途中、他の駅にも停車したが、感覚的には三分と満たない乗車時間で、私の飛礫号での旅は終了した。二駅というのは、この程度の距離と時間である。しかし、乗れただけ素晴らしいことであったと思おう。乗れない可能性などいくらでもあるのだ。短い時間だったとしても、飛礫号に乗ったことが、いつか財産になる。

 経験がいつか財産になる。

 忘れるな、全てが財産になる。

 私がホームを出て階段を下りると、「お疲れ様です」と、藤裏結で駅員に声をかけられた。私は湯浴飾駅から持ってきた乗車券を駅員に手渡す。「良い一日を」と、もう一日の半分以上が過ぎてしまった時間帯で言われたが、残り一秒でもあれば一日であることも確かだろう。「そちらも」と私は会釈をして、改札を抜け、藤裏結駅を闊歩かっぽする。

 乱槐町の中で二番目に大きい駅である藤裏結駅は、やはり素晴らしい場所であった。店という店が、出店という出店が、商店という商店が、この駅の中に内包されているのである。まるで小さな商店街がいくつも設置されているようだ。少し歩けば、住居もある。一階が店で、二階からが縦長の長屋になっている。木造の家、ベランダでタバコを噴かしながら本を読む学生らしき男や、薄着のまま、藤裏結駅を歩く人間を観察する少女などが見える。もしかしたら適当な男を誘っているのかもしれない。世の中にはたくさんの商売がある。もしかしたらあの少女自身も、店の売り物なのかもしれないと、思うほどである。それほどまでに、店が多いのだ。店という店が、密集している。それもこれも、あれもどれも、何もかも、この藤裏結という場所に、図区凶館が存在しているからだろう。

 私は藤裏結駅の中を抜けて、藤裏結駅を脱出した。すると、眼前に広がるのは、紛れもない、図区凶館である。木造高層建築である。一般的に言うところの、木の摩天楼まてんろうであった。私は今まさに、この摩天楼に寄ろうとしている。バッグの中に入れた小判は、四枚。八十万円、である。借金こそしていない私ではあるが、私にも家賃というものはある。毎月の支払いというものがある。だが、これでしばらくは、安心して毎日を暮らせるだろう。

 私はガラスがはめ込まれた木製の引き戸をガラガラと開け、図区凶館に入ることにした。昼を過ぎているからか、人の出入りは疎らであるが、それでもまだ賑わっている。否。昼過ぎだからこそなのかもしれない。私は湯浴飾駅と同じ材質であると思われる床材を踏みしめ、図区凶館の受付へと向かっていく。図区凶館では、館員が忙しなく仕事をしている。図区凶館の中にいて、仕事をしない館員はいない。それほどまでに、図区凶館は仕事に徹している。恐ろしくもあり、ここまで仕事に熱中出来る仕事場を、私は羨ましくも思った。

 図区凶館には整理券という概念がない。だから図区凶館に用事があるのなら、辛抱強く順番を待つだけだ。私は受付への列に大人しく並ぶ。どうせ今日は、このあとはしなければならない仕事はない。今日の仕事は、もう終了したのだ。仕事を探さなければならないという問題点は存在しているが、それは強制ではない。一人分、前に進む。ああ、ならいっそ、続金地蔵に行くのはやめにして、今日の残り時間は、完全なる休みにしてしまおうか。六帖線に乗るまでの、今から約六時間を、休日にして、休むのもいい。それに、今日の今日、さっきのさっき、今の今であるが、紫狂島むらさきくるいじまの喫茶店で時間を潰すのも、悪くはない。そうして私が想像の限りを妄想して空想し終えたところで、私の順番が、ようやく回ってきたのである。順番とは待てばいつかは回ってくる。いくら待っても来ない順番は、自分が並ぶという努力をしていないだけである。まずは並ぶ。これが世界の真理である。

「お次のお客様」と、受付の女性は言った。図区凶館員の名に相応ふさわしいだけの制服と、笑顔を身にまとい、私に至極丁寧な対応をしている。私は早速、「換金をお願いしたい」と、申し出た。

「それでは、換金される商品をお出しください」

「いや、物ではなく、小判だ。小判と紙幣を、交換してもらいたい」

「小判関係でしたら、八番窓口にお願いします」

「八番窓口? 制度が変わったのか?」

「申し訳ありません。つい先日、変更されました」

 何も悪いことをしていないのに、図区凶館の窓口にいた女性は、頭を下げた。何も悪いことをしていない人間から謝られてしまった以上、私は、それに従う他がなかった。そもそも私としても、怒っているわけではないし、謝罪が欲しいわけではない。ただ淡々と説明をしてもらえれば、納得出来る程度の脳を、私は持ち合わせているのだ。「どうも」と私は一応の礼を言ってから、八番窓口へと、移動することにした。幸いというべきか、小判専門の窓口であるようだから当然なのかもしれないが、八番窓口はまったくと言っていいほど、混み合ってはいなかった。有りていに言って、空いている。ガラガラ、である。それは紫狂島の喫茶店のようなものではなく、寂しい方のガラガラ、であった。寂しさにまみれて、りつぶされている。私は八番窓口の前に立つと、誰もいないその八番窓口に向かって、「すみません」と声をかけた。

 返事はない。

「すみません」

「…………ああ、ああ、ああ、聞こえてる」

 のっそりと、八番窓口の受付から、一人の老人が、顔を出した。位置的に、どうやら机の下で寝ていたというような、そんな登場の仕方だった。眠そうにまぶたを閉じて、たくわえた口髭くちひげもてあそびながら、その老人はようやく起き上がり、私を見た。瞼は完全には開いておらず、私を視認するために必要なだけ、開いていた。まるでにらまれているようにも思えたが、私はこの老人から睨まれるような覚えがないので、恐らく私の勘違いである。

「よっこらしょいと……すまんな若いの。居眠りをしていた」

「仕事中なのでは?」

「いいんだ。私は館長だから、何をしても自由。まあ、事がバレたら館員どもから罵声ばせいを浴びせられるかもしれないが、いいだろうて。ああ、お客さん、えっと、なんだ、そう、八番窓口はここだからな……小判の換金ば目的だろうて」

「ええ……」私は突然登場したこの異色すぎる、館長と名乗る老人に対して、並々ならぬ違和感を、感じていた。違和感というよりは、異質感。異質感というよりは、異形いぎょう感。人外の何かなのではないかと、そんな妄想を働かせる程度に、この老人は色々と、おかしいようだった。瞳の色が紅色である時点で、そのおかしさは正しいと言えるのかもしれないし、松尾さんという猫がこの図区凶館で働いている以上、人外が館長をやっていても、別段、おかしいことはないのである。「小判を、紙幣に換金したいのです」

「なるほどな。どれ、小判を出してみなさい。換金しましょう」老人は言いながら、しわがれた手を私に向かって差し出した。私は少しだけ、この老人が嘘つきの浮浪者かヒトモドキで、私の小判を四枚とも盗む気なのではないかと思ったのだが、その老人は確かに、『館長』と書かれた腕章をつけていた。あの腕章は事実である。世界だ。間違えるはずがない。見間違えるはずも、身分を間違えるはずも、ないのである。腕章とは、古来からそういう存在だ。私はバッグの中から取りだした小判を四枚揃えて、老人のしわがれた手の上に乗せた。「四枚なので、紙幣で八十万円と、交換していただきたいのですが」

「しばし待て。小判を確認する」老人は言いながら、小判を一枚一枚、確認し始めた。私が松尾さんの前でした鑑定方法と寸分の狂いもないので、恐らくは本物の鑑定技術を所持した、図区凶館の館長なのだろう。老人は一枚一枚、真偽を確かめたあと、「確かに、小判だ。どれ、札束を持ってくる。そこに掛けて待っていなさい」と私に指示をして、そのまま図区凶館の奥へと、向かって行ってしまった。私は指示された通り、三本足の椅子に座って、老人の帰りを待つことにした。

 しばらくぶりの図区凶館であるが、仕事ぶりは変化していないし、館員の変人ぶりも、健在のままであるようだ。あるいは一般人が変人を極めているために、図区凶館の館員が変人に見えるのかもしれない。問題は観察者の違いなのかもしれないと、私はなんともなしに結論づける。私が今現在腰を降ろしている椅子にしてみても、とても汚く、古く、中から綿が顔を出してはいるが、それもまた、観察者の違いが引き起こす原因なのだろう。座れない椅子に座らせるより、ボロく、古く、汚い椅子の方が、まだマシであると考えれば、館長が私をこの椅子に座らせたことは、理にかなっているのかもしれない。その証拠に、私の隣には、椅子の脚だけが、四本、直立していた。

「待たせたな若いの」と館長は言いながら、八番窓口へと戻ってきた。若いの呼ばわりをされるのは、意外なことである。確かに館長は老人であるから、私を若いの呼ばわりしても不思議ではないが、図区凶館という仕事場において、客である私を若いの呼ばわりである。何とも意外であった。しかし不快なわけでも、また不愉快なわけでもない。私は椅子から立ち上がり、八番窓口へと近づいた。

「紙幣換算で八十万円だったな。ああ、確かに、八十万円だが、一応、確認をしといてくれ。あとで面倒があると、困るでな」館長はそう言いながら、私に二十万円ずつ束ねられているのであろう札束を、四つ、渡してきた。わざわざ二十万円ずつにしてくれたのだろうかと思ったが、ここは八番窓口であり、八番窓口は小判の専門だと言う。ならば、八番窓口の金庫には二十万円ずつ束ねられている札束が入っているのだろう。「では、確認させていただきます」と私は札束を受け取って、一枚一枚、確認した。ここでする確認は、相手を疑う確認ではなく、相手を信頼しているがための、確認である。あるいは相手のためを思っての確認だろうか。この場で一緒に確認をすることで、この札束に不備がないことを、確認出来るのである。のちのちの面倒事を、今のうちに片付けるという、そういう発想から成り立っているのであろう。

 私は札束四つを、一枚ずつ、計二十枚を四回、確認した。偽札の疑いがないか、というところまで、確認をした。透かしも確認する。ここまでして、ようやく確認である。何枚あるか、などということを確認したところで、それは計算であって、確認ではない。最近はこんなことも知らない大人がいることを、私は恥じている。

「確かに」私は確認を終えて、その札束を、バッグの中にしまい込んだ。これで小判と紙幣の換金は、おしまいである。六帖線においての子どもとの会話と、砥鴉とがらす喫茶での松尾さんと紫狂島との会話が長すぎたせいか、この館長と会話をする時間が、一瞬にも感じられた。しかし過去をさかのぼってしまえば、子どもとの会話も一瞬。砥鴉喫茶での一件も、一瞬。私が生きてきた時間などという膨大な時間すらも、また、一瞬なのだろう。私はバッグを手に持ち、「どうも、ありがとうございました。それでは、私はこれにて、失礼させていただきます」ときびすを返したところで、はたと大変なことに気づいた。うっかり忘れていたのである。私が図区凶館に来たのは、これだけが理由ではない。

「あの」私はさらに踵を返す。あるいは、踵を元に戻したのかもしれなかった。

「何かね」

「すみません、お時間、よろしいでしょうか」

「時間は私の管轄外かんかつがいだ。時間の管轄は他にいる。私の仕事は、小判と紙幣の換金だけだ」

「しかし、図区凶館での案内くらいは、していただけるのでは?」

「ふむ、案内とな。なるほど、図区凶館の館員には、客から図区凶館について尋ねられたら出来る限り答えるようにと教えてある。私は館長であると同時に、館員でもある。どれ、話してみなさい。出来る限り、力になろう」

「ありがとうございます」私は再度館長に向き直り、早速、図区凶館を訪れる前にしておこうと思っていた質問を、切り出した。

「実は私、運び屋をしております。運び屋とは言っても、何でもやりますが……とにかく、所謂いわゆる、一般的に配達が不可能なたぐいのものを運んでいるのです。法律上禁止されているものとか、物理的に運べないものとか、色々と……ええ、それで、古杖都と神楽府を行き来して、様々な物資、物体、物証を運んでいるのですけれど、そういう類の仕事を、いつでも探しています。今日も一件、仕事を終わらせて、その仕事の報酬が、小判四枚、つまり八十万円だったわけですが、せっかく図区凶館に来たので、尋ねておこうと思ったんです。あの、この図区凶館でも、そうしたお仕事を斡旋しているとは思いますが、どちらに向かえば?」

「ああ」館長は頷いた。「お前さんの言うことはよく分かった。つまり、うちでそういう仕事をもらうには、今の制度ではどこに行けばいいか、っちゅうことだな」

「簡単に言えば、そういうことです」

「ならここでいい」館長は言う。「私は館長だからな、一通りの仕事が出来るよ。サーカスで言えばピエロってとこだろう。出来ないことは、図区凶館で取り扱わない仕事くらいかね。だから、お前さんがそういう仕事を求めているんだとしたら、斡旋あっせんしてやることくらいは出来る。何せ、誰も担当がいないから八番窓口を担当しているものの、小判の換金なんて、今どき流行はやらんからな」館長のその発言はもっともだった。今の時代、普通、猫以外、小判なんて時代遅れの道具は使われないものだ。

「では、斡旋していただけるんでしょうか」

「それは分からん。お前さんの素性すじょうも分からんでな」

「これは失礼しました」私はバッグの中から、名刺を一枚取りだした。名刺には、名前と業績が書かれている。大きさは大学ノートぐらいだろうか。最近の名刺は履歴書よりも大きいのかもしれない。「どうぞ、名刺です」

「すまんな。私の名刺は……と、そう言えば名刺は切らしていたのだったな。まあ、私の名刺などどうでもいいだろう。図区凶館長という肩書き以外に、私の居場所などありはせんのだ」館長は悲しいことをサラリと言いのけて、私の名刺を眺める。「はあ、桂天学舎けいてんがくしゃ学徒がくとさんか。珍しいもんだ」

「お恥ずかしい」

「お恥ずかしいことなど一つもありはせんだろう。幼稚園児だろうと小学生だろうと中学生だろうと高校生だろうと大学生だろうと桂天学徒だろうと、お恥ずかしいことなど一つもありはせん。本当に恥ずかしいのはそれをおごることだよ」館長はそう言いながら、私の名刺を見続ける。「自営業、いや、営業ですらないな。何でも屋、便利屋、好きなように呼ばせてもらうが、そういう類の、まあ会社務めでもなければ集団でもないわけだな。なるほどなるほど、自由な生き様だね」館長にそう言われて、私は少しだけ、自分の生き方に疑問を覚えた。図区凶館などというこの世でもっとも安定している職場のちょうに言われては、その感慨かんがいもひとしおである。

「この名刺が本物であれば、お前さんはなかなかに優れた人物であるようだ」

「光栄です」

「まあ、名刺だし、本物なのだろう。名刺とはそういうものだな。名を刺している。刺すものは大概本物だ。皮であろうと肉であろうと骨であろうと、刺せるものは本物だからな。問題は一体何が名を刺しているかだが、まあそういう面倒なことを話す機会ではないのだった」館長は私の名刺を折りたたんで、机の脇に追いやる。「それで、お前さんは一体何がしたいんだね」

「仕事、ですね」

「仕事か、なるほど。しかし仕事なんてもんは、なくても出来る」

「確かにそうですね」

「いやすまん、お前さんは客だった。ここの若いもんにするのと同じような扱いをしてしまった。不甲斐ふがいない老人を許して欲しい」

「いえいえそんなことはありません」

「そうかい? じゃあ話を続けよう」

「お願いします」

「今の図区凶館で斡旋出来る仕事と言えば、まあ……持ち主不明の荷物を届けて貰うくらいのことかね」館長は、頭をきながらつぶやいた。「面倒な話だがね、私が館長職を継いだときに残されていた荷物ってぇもんが、思いの外面倒なものでね。いやぁ、荷物自体はそこまで面倒じゃないんだがね……」館長はそう、三点リーダを多用するように発言した。尻すぼみというものなのかもしれない。私はその館長の様子に興味を持って、「その荷物というものは、一体どういうものなんでしょうか?」と尋ねてみることにした。

「興味があるかね」

「はい」

「じゃあ……そうだな」館長は思案するように呟いてから、急に立ち上がる。「今から荷物を取ってこよう。若いの、しばらくそこで待っていてくれるか。さきほどと同じ椅子で構わん」それだけ私に指示して、館長はすぐさま奥へと向かっていく。過去にこんな経験をした記憶があったので、これが世に言う既視感というものかと思ったが、その既視感は数分も前に実在した現実である。既視感の正体とはつまるところ経験の投影なのだろう。私はまた一つ世界の謎を解き明かしたことに満足して、言われた通り、椅子に座った。八番窓口で館長と会話をしている最中は座ることが出来ないので、この小休止は良いものなのかもしれない。いっそ、この椅子を八番窓口の前にまで移動させようとしたが、しかしそこまで勝手なことをするのは流石に躊躇ためらわれた。何しろ私の右方向では、通常通り図区凶館が稼働しているのである。図区凶館一階受付の一番端に存在しているこの八番窓口だけが、こんなに異質な空間を形成しているだけで、他の窓口は、いつも通り、列を成し、仕事をし、人を回転させている。一人の人間がとどまっているのは、私のいる、この、八番窓口、ただ一つだった。で始まる熟語を全て並べても似つかわしいほどに、異空間である。

「待たせたな若いの」私が右方向に広がる図区凶館の日常風景を見ていると、館長が小さな箱と紙の束を持ってやってきた。否。それははこである。蓋のついた、小さな箱。つまるところ匣である。館長はその、紅色で、指輪を入れておくケースのようにも見える匣を、「これがくだんの荷物なんだがな」と私に手渡してきた。

「はぁ……見た限り、実に高価そうな……」私はその匣を観察しながら、そんな軽薄な感想を述べた。そして、興味本位から、「開けても、よろしいですか?」との質問をしてみた。

「開けられるなら開けても良いが、鍵がかかっている」館長は私の出鼻をくじく。「問題は鍵以外が魔法使いだか魔女のお手製ってところなんだよ。その、構造っていうのかね、造り自体は誰でも出来るようなもんなんだが、匣に何かがほどこしてあるようで、鍵以外じゃ開かんのだよ。その鍵ってのは、まあ普通の金属製だか木製の鍵らしいんだが、ピタリと一致しなければ開かないっていう、嫌に厄介な代物しろものでね。だから、図区凶館としては、困っているんだよ。もう、五十年もここにある」

「五十年!」私は思わず声を荒げた。何故だかそこに、図区凶館の職務放棄ほうきという単語は生まれない。ただただ、神秘しんぴが私を責めた。五十年という神秘が、私の脳髄のうずいを刺激したのである。何しろ五十年である。私の二倍以上も、長い年月だ。「それは、また、素晴らしい……素晴らしい荷物ですね、五十年、五十年ですか……」

「捨てるわけにもいかんし、かと言って放置しておくのも気が気ではないのだよ。私も、館長だしね。私が館長職についている間に、片付けておきたい問題ではある……そう、若い連中は、その匣のことを、図区凶匣とっきょうばことか呼んでいるけれども、本当は紅流匣くるばこという名前だよ」館長は少しだけ遠い目をしながら言った。松尾さんがしたものと、どこか似通った視線である。「うちから回せる運びの仕事と言えば、そのくらいになるかね。他は、業者を使ってしまっているものだから」

「なるほど、しかし、手がかり等がないのですか」私は紅流匣を眺めながら、尋ねてみた。「これだけでは、どれだけ時間がかかるか、サッパリ分かりかねるのですが」

「これまでも、何人か、お前さんのような人に頼んできたのが、その図区凶匣なんだがね、どうにも手がかりはないらしい。いや、先人が作った資料はあるんだがな、これがそうだ」言いながら、館長は私に紅流匣と一緒に持ってきた紙の束を手渡した。私はそれを受け取って、表紙を見る。そこには『紅流匣の記録』と当たりさわりのない題がつけられていた。分かりやすいのは良いことだ。私は早速、その束を見てみることにして、表紙を一枚めくろうとしたところで館長のしわがれた手が私の手を掴んだ。

「ひ!」

「まあ、お前さん、待ちなさい。お前さんがその資料を見るってことはつまり、この仕事を受けるってことだ。何故ならこれは、外部に漏らしちゃいかん機密事項ってことになっているからだな。名ばかりの館長とは言え、機密は守らねばならんというわけだ。分かるだろう」館長の瞳はくたびれた老人のそれではなくなっていた。まるっきり完全に大人のそれである。瞳はにごってなどおらず、直接私をとらえていた。私はその館長の瞳がまるで魔法使いのそれに見えた。今日は何とも、魔法使いや魔女と縁のある日だ。とは言え、それは全て私の個人的な思い込みに過ぎず、六帖線で乗り合わせた子どもの祖父母が魔法使いや魔女である可能性も低ければ、松尾さんが魔女の遣いであるということもなく、紫狂島自身が魔女であるということも妄想なら、目の前の館長が魔法使いであるという事実は存在しないのかもしれない。私は掴まれた手にそっと自分自身の手を重ね、発言する。

「お仕事、お引き受けします」

「それは本当かね」

「引き受けない理由がないですよ。私にはこの仕事を引き受けることで生じる問題がないのですから。紅流匣の秘密を知れて、報酬を貰えて、この資料までもが見られる。どこに私のリスクがありましょう」

「そうか、そう言うんなら」と、館長は静かに言いながら、私から手を引いていく。「お前さんに任すとしよう。どれ、契約の書類を持ってくる。お前さんはその資料を見ていたら良いだろう」またもや館長は立ち上がり、図区凶館の奥へと向かっていった。色々と、忙しいのだろうとは思うが、何故身の回りに全ての書類を置いておかないのだろうと、私は不思議に思った。

 何はなくとも資料である。

 私は早速、『紅流匣の記録』と書かれた、和紙を紐でじて作ってある資料を見ることにした。見るからに重厚そうで、もはやこの資料だけでも価値のありそうなものであるが、私に歴史の価値など証明しようがない。ただの資料として私は表紙をめくる。と、そこには前置きのようなものが書かれていた。


 紅流匣くるばこを運ぶ者へぐ。

 このはこは、差出人不明、届け先不明、鍵の在処ありか不明、術をほどこした術士じゅつし不明及び術を解除する術士不明、存在理由不明、中身不明、製造年不明の匣である。

 もし私の他にこの匣を運ぶ者がいるのであれば、注意されたし。

 途方もない仕事である。

 人生は棒に振るな。

 同時に、生き甲斐でもある。

 自分でさだめよ。

 五百二十八年、夢旅路ゆめたびじ壺児つぼじ


「ごひゃくにじゅうはちねん!」

 私は言語が不自由になる。そこには五百二十八年と書かれていた。おそらく西暦だろう。五百年以上続いた元号を私は知らないので、恐らくはそうであるはずだ。しかし五百二十八年とは恐れ入る。こんなに古くから、この紅流匣は存在しているのである。いや、しかし、館長は図区凶館に五十年間存在しているといっていたはずだ。それでは勘定が合わないではないだろうか。私がその疑問を確かめるべく資料をぱらぱらとめくっていくと、白紙のページにぶつかった。それから先はずっと白紙である。資料の半分以上が、白紙であるのだ。それはつまり、この資料が作りかけであることを意味する。この夢旅路壺児が最初に作成した、第一号の資料なのだろう。それから今日までずっと、この資料は生き続けているのだ。呼吸をし続けているのだろう。それだけでおかしなことだが、私はロマンを感じずにはいられなかった。

「前置きは見たかね」私が白紙のページを眺めていると、館長が戻ってきて、私に尋ねた。「驚いたろう。だが事実だ。その資料は西暦五百二十八年に作られた代物なんだよ。うちには、五十年前、紅流匣と一緒に届けられて、それ以来ずっと保管されている。お前さんみたいな運び屋に頼んで、何度か持ち出されてはいるが……最後のページを見てみなさい」館長は言いながら私の手元から資料を奪い取り、ページを戻した。白紙になる手前の、最後の記録である。そこには、つい二年前の日付が書かれていた。つまり二年前にも、私と同じような運び屋がこの紅流匣を運ぼうとしたのである。

「これが最後の記録だ。それから、今日まで、図区凶匣とこの資料は金庫に預けられていたというわけだ」

「なるほど……その方もまた、届けることは出来なかったのですね」

「いや、そいつは諦めただけだな。とにかく過去何人もの運び屋がこの図区凶匣を運ぼうとしたが、夢旅路壺児以外は、全員がこの紅流匣を諦めたか、あるいは死んだか、いずれにせよ、途中で投げ出したんだよ。まあ、気持ちは分からんでもないがね」館長はそう言いながら、机の上に何枚かの書類を置く。どうやら、私が紅流匣を運ぶ運び屋になるための書類のようである。「さて、書くものはあるかね」

「持っています」私はバッグの中から、万年筆を取り出す。万年筆の良いところは万年であるところだ。筆なところはあまり良いところではないだろう。私はその万年筆で、書類に次々と必要事項を書き記していく。「慣れているもんだな」と館長は言う。そう、私はこういった面倒な作業にはもう慣れていた。何しろ桂天学舎に入学するときに、書類を五千枚書かされた。それだけで一年は消費しただろう。それに比べたら、短時間で終わる書類への記述など、簡単極まりないのである。

「ところで、若いの」館長は私を呼ぶ。「お前さんは、魔法使いや魔女ってのに、知り合いはいるかい?」

「魔法使いや魔女ですか? いえ……心当たりもありません」私は嘘をついたが、しかし真実かもしれない。魔法使いかもしれない、魔女かもしれない、という疑念こそあるものの、彼らや目の前にいる館長が魔法使いや魔女であるという可能性は低いし、全て私の妄想であるのだから、いっそ心当たりはないのだろう。「それが何か?」私は万年筆の頭についている刃物で親指を少しだけ傷つけ、書類に親指を押しつける。血液がにじんで、いんが結ばれる。

「いやいや、図区凶匣はそもそも、術が施されている匣だからな。そういう知り合いがいた方が楽に事が運ぶだろう、と思っただけだ」館長は私が書き終え、押し終えた書類をまとめて受け取ると、それを一枚一枚、確認し始める。「伝承によると、この紅流匣を最初に請け負った夢旅路壺児は呪術師だったそうだ。まあ、今で言うところの魔法使いだな。その彼ですら出来なかった仕事であるわけだから、そういうものにまったく近しくないお前さんが出来るのか、と、そういう心配をしているわけだな」

「なるほど」しかしそれはいらぬ心配と言えた。私は仕事のためならば手段を選ばない種類の人間である。もし必要とあらば、一から魔法使いや魔女の知り合いを作り出すことも、不可能ではない。幸い、私には過去の仕事でつちかってきた人間関係というものがあった。これを利用すれば、魔法使いや魔女の知り合いを作り出すのは簡単なことだし、もしかしたら、過去の仕事で関係した人々が魔法使いや魔女である可能性もある。唯一問題視されるのは、魔法使いが十年前に廃止されたことで、子どもの男は魔法使いではないというところにあるだろう。そして、廃止されたことによって魔法使いという存在が醜いものとして扱われている風潮もあることから、自分から魔法使いだと名乗りあげてくれる男性がいるかどうか、それも問題点として挙げられる。「書類は完璧だ」館長はそう言って、書類を全て封筒に入れた。あれも金庫に保管されるのだろう。

「さて、お待ちかねの報酬の話をしよう」

「報酬ですか。そう言えば、それに関しては、書類には書いてありませんでしたね」

「そうだ。図区凶匣の仕事に関して必要なのは、金などどうでもいいから図区凶匣の秘密を解き明かしたいということが一番重要だ。しかし報酬がなくては契約は結べない。これが世の摂理せつりだ。仕事でないなら、動かない。それが社会人というものだね」館長は至極当然なことを言った。当然である。金が発生するから仕事であるのであって、無償でやればそれは慈善事業であるだろう。「今一度尋ねよう、お前さんは、図区凶匣、つまり紅流匣を届けるつもりがあるかね」

「十割」

「良かろう」

 館長は制服の胸ポケットから何かの束を取り出した。札束か、と思ったが、どうにもそうではないようである。その束のどれもに、紙幣では約束出来ないような金額が、手書きされていた。あれは小切手というやつである。私は久々に、小切手を拝見した。

「報酬はこれだ」

「これは……」

「小切手だ」

「ええ、それは、知っているのですが」

「紅流匣は」館長は小切手を一枚一枚机の上に並べながら、語り始める。「西暦五百二十八年に夢旅路壺児がこの書類を作った時点で、過去の遺産だった。その資料をよく読み込めば分かると思うが、作られた時代は恐らく紀元前にさかのぼる。魔法使いが呪術師、そして、呪術師が異端者と呼ばれ、み嫌われていた時代の産物であるようだ」私は館長の話を聞きながら、小切手の額面に目を通す。公開されている限りにおいて、小切手一枚の最低額面が百万円を軽く超越ちょうえつしている。ふざけた小切手の群れである。「ということはつまり、この紅流匣は、知る人ぞ知る世界の謎ということになる。そして、それは時が経つにつれ増幅する謎であり、広まっていく謎でもあるわけだ」館長の手から、小切手が消えた。私は並べられた小切手の金額を合計して和を出す。合わせて八千六百三十万飛んで五百二十八円である。その三桁の金額は洒落でつけられているのだろう。

「そして、これだけの出資者が集まっている」

「出資者、ですか」

「賞金と言っても良いかもしれんな。つまり、この紅流匣には、懸賞金が掛けられているわけだ。出資者の中には、死んでしまったものもいるが、金額は生きている。死んでしまった者が出した金は、うちの金庫に保管してある」

「まだ跳ね上がるのですか、この金額は」

「そういうことになるだろう。若いの、どうだ、づいたかね?」

 館長はいやらしく笑いながら、老人特有の、何かを見通すような笑顔を作ったが、私は断固として、「いえ、寸分も」と答えた。それは若造なりの虚勢であったかもしれぬ。しかし事実でもあるのだろう。真偽など、この紅流匣という過去の遺産からすれば、ちりにも等しいのである。

「良い答えだ」館長は言いながら、小切手を全てまとめて、再び制服の胸ポケットにしまった。「ではその紅流匣に関する十戒じっかいを、お前さんに伝えよう」

「十戒」それはまた、仰々ぎょうぎょうしい呼び名であった。「規律、でしょうか」

「十戒と呼ぶ」

「わかりました」

「一つ、紅流匣に取りかれるな。

 二つ、日常をおろそかにするな。

 三つ、先人をたっとべ。

 四つ、いさぎよく手を引け。

 五つ、しかし忘れるな。

 六つ、決して無くすな。

 七つ、夢としろ。

 八つ、自棄やけになるな。

 九つ、他人に触れさせるな。

 十、女を混ぜるな」

「なるほど、心にきざみました」と発言したキッチリ一秒後に、私は最後の戒律かいりつに疑問を覚えた。「あの、女を混ぜるな、とは、一体?」男女差別などというものを忌み嫌うこの時代において、まさかそんな戒律が存在するとは思いもしなかったのである。私は思わずそんな疑問を繰り出したが、館長は何とも思っていない様子で、説明を開始した。

「簡単に言えば今の図区凶匣……いや、今日からお前さんの手に渡るわけだから、紅流匣と呼ぼう。これは浪漫ろまんという科学では証明不可能な感情の元に成り立っている遊びと言っても良い代物だ。こんなもの、謎でしかない。誰が作って誰に届けようとしたのか。そしてその鍵はどこにあるのか。ただの謎だ。しかし、驚くことに、この紅流匣の秘密は、過去に一度たりとも、女に流れたことがない。男だけで成り立ってきた。驚くべきことだ。これほど長い年月、約半数が女であるこの世の中で、一度も女の耳に、紅流匣の名が届いたことはない。図区凶館の中においてもだ。ここまで続いてしまったら、あとは守る他ないだろう。百パーセントを九十九パーセントにするのは惜しい。あまりに惜しい。だから、紅流匣は浪漫の上に成り立っているのだ。だからこそ、紅流匣は大っぴらにならない。世界的に流布るふしてしまえば、探し主は見つかるかもしれんし、鍵も見つかるかもしれんが、それでは女を混ぜてしまう。だが、夢旅路壺児が作りだしたこの十戒だけは、守らねばならん。人間に一番必要なものは戒律だ。紅流匣の目的は、浪漫だ。戒律だ。差出人の元に届けることは、二の次で良い。戒律の二つ目にある、日常を疎かにするな、だ。そして、お前さんがこの紅流匣を持って図区凶館を出たあと、私はすぐさま出資者に連絡をつける。そして、死んでいたらその出資者が出した金額を銀行から引き出して、金庫に保管する。お前さんは自由に紅流匣を運んでくれ。方法は問わない。ただ、戒律だけを守ればいい。十戒だ。覚えるんだ。十戒だ。記憶するんだ。十戒だ。忘れるな。十戒だ。投げ出すな。十戒だ。良いかな? この紅流匣の魅力にとらわれた男たちが、お前さんという新しい紅流匣の運び屋に、全ての浪漫を預けることになる。届け先を見つけ出せなかったことはどうでもいい。我々が望むのはただ、お前さんが十戒を守り続けることだ。我々は、誰かが紅流匣を持って走り続けているのだという事実に、夢を見る」

 館長はそう言い終えると、少し疲れたように、椅子に体重を預けた。私は何となく、先人たちが、夢旅路壺児以外の運び屋たちが途中で紅流匣を投げ出してしまった理由を、理解出来たような気がした。恐らくは、縛られることに疲れてしまったのだろう。紅流匣という謎、十戒という戒律、男の浪漫。それらに縛られることに疲れ、この紅流匣を投げ出したのだ。十戒の四つ目には、潔く手を引けと刻まれている。これは夢旅路壺児からの、後人への助言だったのかもしれぬと、私は思った。

「館長さん、任せてください。必ずや、十戒を守り抜きます」私はこの場でもっとも相応しいであろう言葉を導き出し、言い放った。「そして、必ずや、蓄積ちくせきされた賞金を、奪ってみせましょう」

「よくぞ言った。若いの、我々の浪漫は、お前さんにたくす」館長はそう言って、手を差し出してきた。握手を求めるように、ではなく、少し高めに、手のひらを私に向けて、である。私はそのしわがれた、しかし力強く成長した手に対して、自分の手を、思い切り打ち付けた!

 今、浪漫は受け渡された!

「さあ行け若人わこうど。次に私がお前さんと言葉を交わすのは、発見か、辞退か、どちらかでしかない。仕事以外ではな」

 それで会話は終わるのだ。

 私は館長に、別れの挨拶をするはずがない。

 次に言葉を交わすのは、発見か、辞退か、なのだ。

 無粋ぶすいな真似など出来ようはずもない。

 私は紅流匣と資料をバッグに保管し、そのまま八番窓口を離れ、図区凶館を、後にする。

 一つ、紅流匣に取り憑かれるな。二つ、日常を疎かにするな。三つ、先人を尊べ。四つ、潔く手を引け。五つ、しかし忘れるな。六つ、決して無くすな。七つ、夢としろ。八つ、自棄になるな。九つ、他人に触れさせるな。十、女を混ぜるな。私はその十戒を頭の中に刻みつけた。これで永劫えいごう、忘れることはない。五つ目に忘れるなと刻まれている以上、忘れることなどあってはならないのである。私は紅流匣と資料分重くなったバッグに大事さを感じながら、図区凶館の木製の扉を開き、藤裏結の町へと、再び、おどり出たのであった。

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