オトナハ夢ヲ見ル六帖線

 日常的に六帖線ろくじょうせんに乗らなければならない。六帖線に乗って神楽府かぐらふ方面と古杖都こじょうと方面を行き来して、私は帰宅をする。何かを運んだり、何かを届けたり、何かを買いつけたり、何かを売りつけたりした、その帰りである。そうして手に入れる休息と安らぎをと毎日の至福に換えて生活をする。それが私の日常であるから、私は日常的に六帖線に乗らなければならない。運転手の顔など知らぬし、運転手が存在しているのか、また決まった運転手が毎回の六帖線を運転しているのかすら分からないが、もしかすれば私はその運転手よりも六帖線の客席に関しては詳しいのかもしれないと錯覚出来るほどに六帖線に乗っているのである。もし運転手が交代制であるのなら、当然そのはずだが、乗っている回数は、その運転手より多いかもしれない。いや、きっと多いだろう。そのはずである。毎日一度始発の六帖線に乗って古杖都から神楽府へ赴き、そして最終の六帖線に乗って神楽府から古杖都へ帰るのである。だからきっと、毎日六帖線に乗っている私の方が、回数は多いだろう。しかし、こうも毎日六帖線に乗っていると、毎日六帖線に乗っていると疲れたりはしないのですか? と訊かれることがあるのだが、生きることが毎日六帖線に乗ることと同じ意味である私だから、私は毎日六帖線に乗っていて、疲れる、などということがないのである。それは幼い頃の私が聞いたら驚く事柄であろうが、実際、経験してみれば、なんとかなってしまうものであると断言出来る。

 私は行きの六帖線と同じ席に座り、動き出さないうちに記録本を取り出して、行きに私が感じた部分を読み返し、似たことを夢想してみた。しかし、したところで、大した感慨はなかった。思考は新しいことこそが歓迎されるべきなのかもしれない。使い回しというものも、なるほど虫ずが走る可能性も高い。

 私は前方に備え付けられたテーブルを倒して、その上に薄型のノートパソコンを展開する。そして、ヘッドホンのジャックを差し込んで、音楽プレイヤーを起動させた。行きの六帖線ではゆっくりと音楽を楽しむことは出来なかった。私は『ヨコラディ』が唄う『砂利浜じゃりはま潮干狩しおひがり』が一曲目に流れてきたことに満足しながら、まぶたを閉じて、感覚の限りを聴覚に費やすことにした。帰りの二時間の旅を、私は音楽を聴くことで費やそうと思ったのである。

 思えば色々なことがあった。私は帰りの六帖線が特に好きである。家に帰ってからは、服を着替えたり、翌朝の準備をしたり、飼い猫の餌をやったりしなければならないのだから、ただぼんやりと今日の出来事を思い返すことは難しいのである。しかし六帖線であればそうした想像も容易である。アコースティックギターのDコードに、エレキギターとマンドリンの音がユニゾンを重ね、さらにドラムが衝撃的なロールを奏でながら、全てをベースの音がまとめ上げていく。そうした緩やかでありながら幻想的な音を耳の中で味わい、咀嚼そしゃくしながら、私は一日の出来事を思い返す。しかし、心之楠このくす駅からつい今し方までの出来事は、出来れば思い返したくない記憶である。私ともあろうものが、大人である私が、あんな愚行に走ったことは、出来うる限り、未来永劫、思い返したくないものである。

 一曲目が終わり、二曲目に向かおうとしたところで、ふいに私の座席が揺れた。もう出発の時間だろうか、アナウンスは聞こえなかったが、と、薄目を開けると、隣に見目麗しい女性が座っていた。無意識に紫狂島むらさきくるいじま桜古さくらこという五字が脳裏を過ぎったが、紫狂島とはまるで違う毛色けいろの女性である。私はノートパソコンを操作し、少しだけ音量を絞った。しかし、一体全体、どうしたことなのか、今日はやけに隣に誰かが座る確率が高い。二度のことではあるが、これは百パーセントと言ってしまっていいだろう。明日になればリセットされる統計ではあるが、しかし本日に限って言えば、私の隣には確実に人が座る。

 液体でないだけ、幸いだろうか。

 私はその女性の邪魔にならないようにと、右側の窓を向いて、そのまま瞼を閉じた。見たところ、外見だけでは、私より幾つか年下のようである。女子中学生、いや、女子高生だろうか。一瞬見ただけであるが、しかし、制服のようなものを着ていたようである。もう制服など、過去の存在である私にとっては、それは出来ればもう少し眺めていたいものでもあったのだが、女子の制服はあまりじろじろと眺めて良いものではない。これは、世界が共通して教えている事項である。

 私がそのまま目を閉じていると、ヘッドホン越しに六帖線の出発が教えられた。車体が揺れ、私を乗せた六帖線は、古杖駅に向けて、走り出す。私はそのまま、心地良い揺れに揺られ、古杖都まで眠りにつこうと思っていたのであるが、なんたることだろう、私の左肩に、何かが触れたのである。何かの間違いかと思い、そのまま放置していると、再度、私の左肩に、何かが触れた。私が薄目を開けてその左肩を見遣ると、白く透き通るような手が、そこに置かれていたのである。

 ヘッドホンから音が漏れていただろうか、それとも、何か私は失礼なことを無意識のうちにしていたのだろうか。ヘッドホンを外し、「あの、何か?」と私は、隣に座っている女性に問いかけた。女性と言うほど、女性ではないのかもしれないが、子どもと呼ぶほど、子どもではない。しかし、お嬢さんと呼ぶほど、私は度胸のある男ではなかった。

「ユキグサです」

「は?」

「あの、桂天学舎けいてんがくしゃ学徒がくとさんの、あなたですよね?」

「え?」

「行きの六帖線でご一緒した、ユキグサです」

「はぁ」鬱陶うっとうしいからという理由のみで出来上がっているような頭髪と、天然さのみで構築された肌、そして無垢や無邪気という言葉でのみ形容をゆるされたような笑顔が、そこにはあった。そして私は検索を開始する。ユキグサという名前に、実を言うと、聞き覚えがあった。しかし何故かかたくなに、私の脳はその検索結果を表示しようとしないのである。一体全体、どうしたことであろう。しかし、いやおうにも、現実は突き刺さってくるのである。「ユキグサ」

「ええ、私……いえ、自分です。ユキグサです」

「君か!」

 自分、と言うときに、まったく世界をつまらないものとしか見ていないような表情を、彼女はしてみせた。その仕草で、私は完璧に思い出すことになる。ユキグサ。つまり、行きの六帖線で隣り合わせた、あの子どもである!

「君、一体、その姿形すがたかたちは、どうしたことだ」

「そんなに驚かないでください。あ、音楽は、止めなくてもいいんですか?」

「ああ、そう、そうだった。ありがとう」私は彼女に言われた通り、ノートパソコンを操作して、音楽プレイヤーを中断させる。これで、私の今日の六帖線の移動は、音楽プレーヤーを最小限にしか使わないこととなった。「どうぞ、続けてくれ」

「続けるもなにも、お久しぶりです」

「いや、確かにお久しぶりではあるが」私は困惑する。「君は確か、五歳じゃなかったか? そして、私は今朝、君に会い、君と会話をした。しかし、その、なんだ、その時はこんなに」私は彼女のつま先からてっぺんまでを見直して、「女々めめしくはなかったぞ」

「でも、私は元々、女ですから」彼女はそう、控えめに笑って、言うのである。紫狂島のようなおしとやかな女とは違い、まるで元気な町娘である。続金地蔵つづかねじぞうで働けば、良い看板娘となることだろう。

 私は失礼だと承知の上で、もう一度、彼女のつま先からてっぺんを見る。「しかし……女というものは、そういうものなのかね。こんなにも、変化をするものだとは思わなかった。男子三日会わざれば刮目かつもくして見よと言うが、女子の場合はその期間がもっと短いのかもしれない」私はうなり声を上げる他なかった。不埒ふらちな思考が一切ないと言えば、恐らく嘘になるであろう。隣に若い女がいるというだけで、成人男性であるところの私は、緊張と、興奮をするものである。続金地蔵での酒が少し残っているからか、私は自分に素直なのかもしれなかった。「しかし、ここまで……ううむ」

「ネタばらしをすれば、幻覚のようなものなんですよ」と、彼女は言う。「幻覚と言うか、幻想でしょうか。あるいは幻視なのかもしれません。とにかく、私の祖父が、大きな声では言えないのですけれど、その、魔法使いらしいのです。初めて会ったものですから、何も知らなかったんですけれど……会って早速、魔法をかけてもらいまして、ご覧の通りの姿になったと、そういうわけなんです」

「魔法使い?」それは私が欲しい人脈の一つである。思わず紅流匣くるばこの話を打ち明け、彼女の祖父とやらと繋がりを持とうと思ったが、しかし彼女は女である。紅流匣の話は持ち出せない。「しかし、何故また、そんな姿にさせられたのだ。五歳なら、五歳らしく生きていても、問題はないだろう。どころか、それはいささか、背伸びをしすぎではないだろうか。見たところ、年齢が二倍か、三倍になっているようだが」私はうっかり、彼女に対して質問ばかりを投げつけていたが、今はもう行きではなく帰りなのである。帰りに決まりを設けるほど、無粋な人間もいないだろう。

「理由というのは、どうも両親の気遣いのようなものらしくて」彼女は恥ずかしそうにしながら、「その、知識や頭脳の発達に外見を合わせた方が、私は上手く生きられるんじゃないかと、そう考えたそうなのです。実を言うと、両親は私のことを気味悪がっているものだとばかり思っていたのですけれど、今日のことについて、色々と悩んでいたそうなのです。親の心子知らず、というものでしょうか。今日、祖父母から両親の気持ちを聞いて、その、恥ずかしながら、涙なんぞを流したりしてしまって」と、嬉しそうに語るのである。その姿はまさに、十五歳ほどの少女そのものである。ここまで自然体であると、実際、五歳の姿の彼女の方が不自然である。これで完成していると言っても、過言ではない。

「つまり、本当は君は、まだ五歳で、肉体的にも、五歳だということかね」私は顎に手を当て、彼女を観察する。どう見ても、本物にしか見えない。「幻覚と言うか、祖父曰く、幻象げんしょうという魔法らしいですけれど、実物と同じ感触ですよ。触ってみますか?」と彼女は言って、私の手を掴んだが、その感触だけで、私は彼女に触れても実物と同じ感触がすることを理解した。だから、彼女が私を誘おうとした母なる箇所には、触れないことにした。これが大人としての、精一杯の抵抗であった。

「大人をからかうのではない」私は大人然とした対応を取ろうと心がける。「君が本物であることは分かった。しかし、その、何とか言う魔法は解けることはないのかね」私はまたも、素朴な疑問をぶつけた。魔法というものは、大まかに分けて、発動が簡単で継続が難しいものと、その逆に分かれる。恐らくは後者なのだろうと思いながらも、一応ながらにして、私は尋ねたのだ。

「十五歳になったら、自動的に解けるそうです。ですから、それまでは、ずっとこの姿です」彼女はにこやかに笑いながら、小首を傾げた。紫狂島のような朴訥ぼくとつさがなく、愛くるしさが内包される傾げであった。しかし娘などに魅入られていては大人の男としての名誉に傷がつく。「しかし君、学校はどうするんだ」と私は質問の追撃をした。まるで行きとは立場が逆であるが、行きと帰りであるのだから、逆であって当然だ。

「ええ、ですから、私、これから神楽府に住むことにしたんです」彼女は言う。「あなたから、飛び級というものを教えてもらいましたし、両親もそのことについては、考えていたみたいです。祖父母の実家は、崩竈くずれかまどにあるんです。そこからなら、藤裏結ふじうらゆいにある高校に通えるって、祖父からも言われていて」そう語る彼女の笑顔は、終始幸せに満ちている。どういうことだろう。自分に見合った外見を手に入れたことで、彼女自身の自信や度胸というもの、また人生に対しての興味や未来が見えているのかもしれない。外見に惑わされずに考えれば、五歳である。後ろ向きが前向きになっただけで、五歳の少女というのは、ここまで進化をするものなのだろうか。

「ということは、つまり、君は崩竈から毎日藤裏結に通うということか」崩竈と言えば、湯浴飾ゆあみかざりより二駅ほど離れた場所にある、所謂いわゆる住宅街である。彼女は元気良く、「はい。多分受かると思うんですけど、もし落ちたら、乱槐みだれえんじゅの高校に入ることになります」と、自信満々に答えた。しかし、彼女なら恐らく、余裕で飛び級を突破することだろう。彼女の頭の良さは、行きの六帖線で十分に理解している。彼女にないのは、経験だけである。

「君の未来が幸福で満ちている様子は分かった。私は毎日、ほぼ毎日神楽府にいるから、もしかすれば、君に会うこともあるだろう。崩竈にこそ、あまり顔は出さないが、藤裏結なら何度も顔を出している。制服を着ている女子を見つけたら、君の顔を探すのも一興いっきょうかもしれんな。まあ、運が良ければ、何度か会うだろう」私が言うと、彼女は少し困惑したような、感情の一切を霧散むさんさせたような表情をした。「何を言ってるんですか? あなたに会いたいから、藤裏結の学校に行くんです」

「はぁ」

「はぁじゃありません。実を言えば、私も毎日六帖線で学校に通いたいのですけれど、それだと始業に間に合いませんから、妥協して崩竈に住むことにしたんです。それでも、昼休みの時間くらいは、あなたに会えるでしょう」彼女は何でもないように、さも当然のように言うが、私は一向に理解出来ずにいる。

「すまないが」

「なんでしょう」

「私の質問に簡潔かんけつに答えてくれ」

「はい」

「何故私に会いたがるのだ」

「あなたに個人的な興味があるからです」

「興味か」

「有り体に言えば、好きということです」

 私は生唾なまつばを飲み込んだがその行為は文字通り唾棄だきすべきものであった。何たることだ。これを偶然とすべきだろうか。紫狂島という同級生の気持ちを知ったその日に、未成年の若い娘に告白されている。心がどうにかなってしまいそうであった。私は厳格げんかくさを追い求めて、腕を組み、うなる。酒の飲み過ぎだろうか。それとも、これは夢なのだろうか? しかし私の夢は色気がない。白黒であるし、浮いた話もないのである。だとしたらこれは夢ではなく、現実だ。二本の足で踏みしめ、六帖線の車輪で走り続けなければならない、現実なのである。

「どうしました?」

「危うく勘違いをするところだったが、君はまだ五歳であったね」私は大人としての冷静さを取り戻す。「異性に対してそうした発言をすることは、誤解を招きやすい。気をつけたまえ」

「誤解? いえ、私はあなたのことが、異性として、特別な意味で、好きなのです。年齢さえ許せば、結婚したいくらい好きです」

「やめたまえ。君はまだ愛を語るには早い。幼すぎる。浮かれているだけだ。現実を見なさい。結婚など妄言に過ぎん。まったく、一体、どうしたことだ。冷静沈着だった以前の君は何処へ行った。馬鹿馬鹿しい。特別な意味など、五歳が喋る言葉ではない。経験をしたまえ。経験だ。愛を経験しろと言っているのではない。集団生活の中で、恋愛とは何か、恋とは、愛とはを身につけるのだ。そういえば学校などという話をしたが、君はまだ小学生ですらないではないか。本当に、まった」と目的を見失いつつある私の文句を咎めるように、彼女の人差し指が私の唇を押さえたのである。「ダメですよ、そんな頭の悪そうな発言をしては」年下の、しかも実年齢が五歳の少女にそんなことを言われてしまっては、私としても大人にならざるを得ない。私は大人しく、咳払いを一つして、場の空気を清浄させた。

「分かった、許容しよう。君の愛の存在を認めよう。しかし残念なことに、私は神楽府の滞在中はもっぱら仕事をしている。君と仲良く昼休みを過ごしている暇は、ないのだ」私は事実のみを単純に告げる。そこに嘘はない。あるのは言っていない事柄だけである。「だから、君の希望は達成されそうにない」

「大丈夫です。毎日私がお弁当を作れば、あなたも毎日食べたくなります。うちに帰ったら、母から早速、お弁当の作り方を教わろうと思っています」彼女はとびきりの笑顔で言うが、正気だろうか? 彼女は半日ほど前に、その弁当を食べながら、意気消沈していたのである。少し浮かれすぎではないだろうかと思うほどの浮かれようである。これでは、ただの馬鹿な少女である。

「私は昼は軽く済ませることにしている。夕飯が早めなのでね」私は言う。続金地蔵での一杯が、私の日課とも言える行いであるのだ。しかし彼女は、「じゃあ、軽めのお弁当を作ります。お好きなものはありますか?」と尋ねてくるのである。物事は大まかに分けて絶対的な評価と相対的な評価の二つに分かれるが、私は女という生き物を相対的に評価して、初めて紫狂島の魅力に気づく。私はユキグサのような元気が溌剌はつらつあふれているような少女よりも、紫狂島のような三歩下がってついてくるような淑女しゅくじょが好みであるようだった。絶対的な評価で見れば、双方素晴らしいのかもしれなかったが、如何いかんせん彼女は五歳である。法律という壁が高くそびえることだろう。

「とにかく、もう、やめてくれ。偶然会うことはあっても、意図的に逢瀬おうせすることはない。君も高校に行くのなら、昼飯くらい友達と食べたまえ。私と食べたところで面白みの欠片もないはずだ」

「そんなことありません。あなたと食べた飴玉、美味しかったです。あんパンも、美味しかったです」

「初めてのことが美化されるだけだ。毎日友達と昼飯を食べれば、考え方も変わる。君は何度も言うが、経験が足りないのだ。一つの情報を至高のものとしているだけに過ぎない」しかしそれはつい今し方私が気づいたことと同じであった。比べる対象があってこその比較である。であるからして、五秒前に気づいたことを偉そうに語るのは些か卑怯かもしれなかったが、それが大人の特権とも言えた。そしてそれこそが、幾多いくたもの会話をくぐり抜けてきた経験の差と言えることだろう。

「でも、現段階では、私のこの気持ちは本物です」

「いずれ気持ちも変わる」

「今は本物です」

「……分かった、私も大人だ、熱くなるのはやめよう。そうだな、それでは、公平を期すために、君の想いに応じるのはやめにしよう。私が君の想いに答えを出すのは、数ヶ月あとにしよう。それでいいかな。君が高校に行き、男子に会い、女子と知り合い、教師を見て、集団生活をして、それでもまだ私という存在に特別な感情を抱いていたとしたら、そのときは私も、君の気持ちを真剣にみ取ることにしよう」私はよどみなく、彼女に伝えた。「何か問題はあるかな」

いくばくかの不満はありますけど、おおむね賛成です。あなたを正しいと認めると私の気持ちは嘘になりますが、私は正しいあなたが好きなので、複雑です」

「私は正しくなどないよ。正しさは常に私とともにあるが」しかしそれは私というせまい眼鏡から見える景色の一つに過ぎないのである。「まあ、大人に憧れを持つ気持ちは、分からないでもない」

「大人なのにですか?」

「まだ私は、大人の中でも四流五流であることだろう」

「大人にも色々あるのですね」

「その通りだ」

 私は一日の最後の最後でどっと疲労を蓄積させた。このあと、古杖駅から徒歩で十分歩き、家に帰っても、ろくに家事をすることも出来ずに眠りにつきそうだった。しかし、たまにはそんな日があっても良いのかもしれない。私はぼんやりと、六帖線の窓に映る夜景を見ながら、睡眠のことを考える。

「あの」

「何だ」

「お住まいはどちらですか?」

「そんなことを聞いてどうする」

「お邪魔します」

「教えること何もはない」私は積極的な娘が苦手であるようだ。初めてこんなことを知った。そもそもにおいて、私のような堅物にりもせず話しかけてくる娘というものが珍しいのである。貴重というより、もはや珍種だろう。「私が家を古杖都に持つのは、誰にも平穏を壊されたくないからだ」

「でもペットは飼っているのでしょう?」

「何故知っている」

「鎌をかけただけです」

「ああ、そうか」私は不快には思わず、なるほどと関心した。彼女にあるのは、頭の良さだけではなく、度胸である。勇気とでも言い換えられるかもしれない。そもそも、行きの六帖線で五歳の少女が大人の隣に座るというだけで、大した勇気だったと言えるはずである。私が五歳のときは、恐らく無理だっただろう。「うちには確かにペットがいる。しかし、私の家についての話はそれで終わりにしよう」

「それでは、未来のお話をしましょう」

「未来」

「どうすれば、あなたと会えますか?」

「連絡先を教え合ったはずだ」まさか忘れているわけではないと思ったが、私は確認の意味も含めて彼女に言った。「連絡さえ貰えれば、君とも会える。仕事の予定が入っていれば、後回しにはするが、そのくらい、構わないだろう」

「それは大丈夫ですけど、ちゃんと、連絡取れますか」彼女はいぶかしむように言う。「私、まさか、嫌われていたりしませんよね?」

「嫌ってはいないが、少々疲れる。有り体に言ってしまえば、鬱陶しいかもしれない。しかし君は五歳だから、出来うる限り付き合おうとも思っている。が、外見が外見だ。私も自分の心を操作するのに大忙しだ」声色までもが少女のそれなのである。まあ、声色に関して言えば、飴売りの老婆は二十歳の女の声色を持っているのだから、慣れているのかもしれなかったが。

「気をつけます」彼女は少し反省したように、そう言った。「実際、浮かれていたかもしれません。あの、すみません、嫌いにならないでください。今日はその、成り立てだったものですから」私はそんな彼女の前に左手を挙げて、言葉を止めた。「いや、気にする必要はない。責任は私にある。君に問題はない。人と人との関係で気分を害すことがあるとすれば、それは他人の性格や言動を受け入れられなかった私の懐の狭さに問題がある。君は君が信じるままに行動すればいい。私は懐を広くするために精進をすべきだ」

「いえ、私が改めます」

「効率を求めるならそれが手っ取り早いだろう。私の懐は、実を言うと、これ以上広くするのは難しい」私はようやく視線を彼女に向けた。夜景よりも静かになっていた彼女の顔を見て、少しだけ心が痛んだが、惑わされるのはよくないことである。

「とにかく、一ヶ月から二ヶ月、君は高校生を続けてみなさい。それでも心境に変化がなければ、私に連絡をつけたらいい。神楽府内であれば、私はすぐに動くことが出来るだろう。安心して良い。ただし、無用の連絡は私は受けない。これだけは約束してくれたまえ」私が言うと、彼女は、「はい、守ります」と強く誓った。けがれなき少女の約束ほど、美しいものはないだろう。恐らくそれは、神々の鉱物よりも美しいはずである。

「だがしかし、古杖都につくまでの、残り……もう一時間ほどか。その程度の時間であれば、無用でも、実りのないことでも、応じよう。私なりの君への気持ちだ。返答を先延ばしにすることへの贖罪しょくざいかもしれない」私は言いながら、バッグの中に手を入れ、行きの六帖線で購入した飴玉の袋を取り出した。「食べるかい」

「あ、いただけますか」

「私も一つ食べる。残りは君が食べるといい」私は適当に一つ取り出して、残りを全て、袋ごと彼女に渡した。彼女はそれを受け取って、嬉しそうに一つ取り出し、黄色の飴玉を、早速口の中に放り込んだ。

「どうだい? その色の飴玉は、何の味がするのだろう」

「これは……」

「うん?」

「なんというか」

「うん」

「初めて舐める味です」

「ほう」

「甘酸っぱい……何だか、切ない味です」

 彼女は寂しそうに、切なそうに、しかし何故か満足げに、その飴玉を口の中で転がした。私はそんな彼女の膨れた頬を見ながら、手にした白い飴玉を、口の中に放り込んだ。

「何の味がしますか?」

「うん、これは……」

 私は口の中で、飴玉を転がす。

 何の味だろう。

 知っている味だった。

 五秒口の中で転がして、ようやく私は答えを知る。

 随分と、味わっていなかった気がする。

 これは、夢の味だ。

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『コドモハ旅ヲスル六帖線』 福岡辰弥 @oieueo

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