悪イ大人ハ続金地蔵

 図区凶館とっきょうかんを出て時刻を確認すると、帰りの六帖線ろくじょうせんまで、まだ四時間と五十分ほどの余裕があることに気づいた。四時間と五十分という時間は長い。五分という時間も、思いのほか長いのである。五分あれば大体のことは出来る。恐らく、市販の弁当を食べ尽くすことだって容易よういだろう。それほどまでに、五分という時間は長いのである。四時間五十分ともなれば、それが五十八もあるのである。単純計算で、弁当が五十八個食えることになる。そんな膨大な時間を、私はただ黙って、ただ待って、潰すなど、出来るはずがない。ならば今し方手に入れた図区凶匣とっきょうばこ、もとい、紅流匣くるばこの届け先を探す仕事をしようかとも思ったのだが、紅流匣の仕事をするほどには、四時間と五十分という時間は短い。この和紙を紐でじた資料に軽く目を通すだけでも、軽く五分は経過してしまうだろう。四時間と五十分ともなれば、それが五十八もあるのである。単純計算で、資料に五十八回、目を通せるだけだ。それではまるで、意味がないだろう。

 しかし、時間を潰しながら紅流匣の情報を集められるのだとしたら、それほど素敵なことはないだろう。何よりも、こうして時間を無駄にすることこそが、一番の無駄である。弁当を五十八個食うことよりも無駄である。私は決意を固める。予定通り、続金地蔵つづかねじぞうに向かうのである。続金地蔵に行き、紅流匣とは別の仕事があればそれを請け負い、さらに紅流匣についての情報を収集すれば良い。我ながら、良い考えである。問題は、万が一の可能性として続金地蔵に女がいた場合だが、問題はないだろう。あんな場所に行く女というものを、私は想像することが出来ない。私の現在いる舞台は現実であり、事実である。小説よりもではあろうと、想像よりはいくらかやすいだろう。

「よし」

 私は決意を声に出し、早速、続金地蔵へ向かうことにした。続金地蔵に向かうには、まずは藤裏結ふじうらゆいから電車に乗って、心之楠このくすまで行かなければならない。心之楠という町の名前に聞き覚えがあるのは、恐らくここに続金地蔵があるからだろう。私はふと芽生えた違和感の正体も確かめぬまま、図区凶館のすぐ目の前にある藤裏結駅へと入る。その中を歩いていくと、再び様々な人物たちが目に入った。タバコを噴かしながら本を読む青年は、まだ同じ場所で、違うタバコを吸い、同じ本を読んでいた。一時間よくもまあそのように同じ格好でいられると関心する。そして、薄着で人間観察をするように、あるいは適当な男を誘うようにしていた少女は、今はもういなくなっていた。外に出たのだろうか。それとも、誰か適当な男を誘い込んで、内にこもったのだろうか。私の知るところではないが、私は一時間で起きた些細ささいな変化に、多少の感慨を覚えた。

 私はそのまま駅の中枢ちゅうすうに向かう。商店街や縦長の長屋は、藤裏結駅のパーツに過ぎない。私は藤裏結駅の、味気ない乗車券売り場に並ぶ。藤裏結駅の乗車券は、乱槐みだれえんじゅ駅や湯浴飾ゆあみかざり駅のような特殊なものとは違って、駅員が手渡ししてくるのである。私は藤裏結駅のこの粗末な乗車券の売り方が嫌いであったが、だからと言ってこばむことも出来ない。消費者の苦悩である。

 一人一人と前に詰まり、最終的には私の番になった。「心之楠駅まで」と私が告げると、駅員は「百二十円です」と丁寧な対応をした。丁寧なのは良いことである。私はすぐに財布から百二十円をキッチリ取り出して、駅員に渡し、代わりに心之楠駅までの乗車券を受け取る。乱槐駅の木製乗車券や、湯浴飾駅の植物乗車券に比べて、ただの紙であるこの乗車券は、いくらか味気なかった。しかし私はその乗車券を大事に握って、階段を上がり、ホームへと向かった。

 月鏡線げっきょうせん飛礫号ひれきごうと来たので、次はどんな電車に乗れるのだろうと私が胸を躍らせながらホームへ向かうと、既に湯浴飾駅方面へ向かう電車が到着していた。私は急いでそれに飛び乗る。恐らくこれは月界線げっかいせんだろう。有名であり、本数も多いものであるが、乗っても嬉しいと思えるような電車ではなかった。しかし、電車は移動手段であり、目的ではない。どんな電車であれ、乗れたことを喜ぶべきだろう、と、私は吊革に掴まった。藤裏結から心之楠までは、たった一駅である。一瞬で到着してしまうだろう。

 私は心の中で、紅流匣に関する十戒じっかいを思い出す。一つ、紅流匣に取りかれるな。二つ、日常をおろそかにするな。三つ、先人をたっとべ。四つ、いさぎよく手を引け。五つ、しかし忘れるな。六つ、決して無くすな。七つ、夢としろ。八つ、自棄やけになるな。九つ、他人に触れさせるな。十、女を混ぜるな。こうして十戒を思い出してしまうこと自体、一つ目の項目に触れているのかもしれないし、夢旅路ゆめたびじ壺児つぼじ以外の先人のことについて調べていない段階では、三つ目の項目にも触れてしまっているのだろう。しかし他は大丈夫である。私は一旦紅流匣のことを忘れる。否。忘れるのはまずい。取り憑かれるのをやめることにした。一旦、他の場所に保管しておく。そして、続金地蔵に向かうことを、目的と設定した。また、松尾さんとの取引のような、面白く、楽しく、幸せで、尚かつ美味しい仕事が回ってこないものかと、続金地蔵に願いをたくす。しかしそんな願いが届くのか届かないのかという速さで月界線は心之楠のホームへと滑り込んでしまったので、私の一駅分の旅は終了を余儀よぎなくされた。

 私はホームに到着した月界線から降りる。私と一緒に降りたのは一人だけであったようで、心之楠という町の不人気さを思い知る。不人気というよりは、時間が時間だからなのかもしれない。心之楠が本当に賑わい始めるのは夜からだ。何しろここ心之楠という町は、何かを食べたり飲んだりする町なのである。だから正午を二時間ほど回っただけのこの時間帯では、心之楠は寂しいというのに相応しい状況であった。

 私はホームから降りて、小さな口の開いた箱に、乗車券を入れた。心之楠駅は無人駅であり、駅員という存在がない。少し寂しい情景じょうけいであるが、しかし、それもまた味と捉えることも出来るのかもしれない。

 私は他の駅と比べて多少小さめの心之楠駅を出た。心之楠駅は、駅としてしか機能していないのである。すぐ目の前に本屋があり、右側には心之楠駅に滑り込んでいく電車が通るための踏切が存在していた。しかしどうやら今は踏切が下がっている時間帯のようである。こうなると、しばらくは踏切が閉じたままだ。回り道をすると、続金地蔵には恐ろしい遠回りになってしまうことだろう。私は時計を見て、久々に本屋に寄ってみることにした。こうしたふとした気まぐれが後々に良い影響を与えることを私は知っていたのである。

 本屋には『巡回堂じゅんかいどう』と書かれている。私は過去に何度もこの本屋に来ているので、店主とは顔なじみである。私は本屋のガラス戸を開いて、店内へと入った。

「いらっしゃい……なんだ君か」

「なんだとはご挨拶ですね店主」私はそう言いながら、店内を見渡してみたが、幸い、客は誰もいないようである。店主にとっては幸いではないだろうが、私にとっては幸いなのだ。「ちょっと、お話よろしいですか」

「ああ、随分暇をしていたところだからね、構わないけど……たまには本も買っていってくれよ」店主は手に持っていた洋書にしおりを挟んで、机の脇に置いた。洋書を辞書も使わずに読めるというのは大したものだと思うが、この店主の場合は本と名のつくものならば何でも読めるから恐ろしい。逆に外人との会話などは出来ないから不思議なものだが、それが本屋の店主というものである。本屋の店主はそれ以上でもそれ以下でもないのである。

「良いものがあったら買いますよ」私は言いながら、バッグの中から紅流匣を取りだした。「これ、ご存じですか?」

「いや、知らんなぁ」店主は顔をひねりながら手を出そうとするが、私はそれをこばむ。「おっと、失礼、店主。これは人には触れさせてはならないことになっているんです」それは十戒の九つ目の項目、他人に触れさせるな、である。「とにかく、ご存じではないかと」

「また君は、妙なものを運んでいるようだね……だが生憎あいにくと、私はそれを知らない。一体何なんだね?」

「ええ、どうも、紅流匣という匣のようなのですけれど、これが差出人不明、届け先不明、中身不明という、恐ろしい匣なのですよ。つい今し方、図区凶館に行って受けてきた仕事なんですけどね、どうにも推測するに、紀元前から存在している節のある匣のようなんです。ですけれど、どうにも重厚そうで、開けることも出来ません。まあ、店主は知識が豊富ですから、もしかしたらと思ったんですが……いや、知らないようでしたら、忘れて下さい」私はバッグに紅流匣をしまいながら、言葉を付け足す。「ああそれと、この紅流匣のことは、女性には言わないようにしてください。そういう戒律があるようです」

「ほう、クルバコねえ。どういう字を書くんだね」

「紅に、流れる、それに、匣です。匣の字は、はこがまえに、甲乙の甲です。ええと……」

 私は店主の机に、匚という字を書いて、その中に小さく甲を書いた。

「ああ、この匣か」

「それで、紅流匣です」

「ふうん、そして、女人禁制な話題だと」

「そうですね」

「なるほど。まあ、何か書物を紐解いて、見つかったら君に教えることにしよう。一度漢字を記憶してしまえば、あとは簡単だ。同じ文字を探すだけだからね」店主はそう簡単に言ってのけた。普通は簡単ではないと思うがそれは私が普通の人間だからである。店主のような本の虫には、どこに何の文字があるか探すのは、造作もないことだろう。何しろ一日中本と触れ合っているのだ。この店主は本の中心人物と言っても良い。「ところで、今日はえらく早いじゃないか。早めの夕食というところなのかな」

「いえいえ。ただ、本筋の仕事が終わって、新しい仕事も入ったので、残りの滞在時間はオフにしようと思いまして。それで、行くところもないから、続金地蔵に行こうと思ったのです。そうして心之楠に来たら、巡回堂を思い出したので、こうして訪ねてきたというわけです」よどみなく私は言った。「大口の仕事が終わって報酬も貰っているから、今日は少しだけ、リッチですね」

「私もリッチにしてくれると助かるんだがなぁ」店主は言いながら、ぼんやりと頬杖をついた。「まあ、好きに見てやってくださいよ。本は見られるのが好きだからね。読まれるのはもっと好きだ」

「それでは、お言葉に甘えて」私は元より活字などというものとは無縁の人生を送りたいと思っているほどに活字が嫌いである。であるからして、巡回堂なる本屋に寄ったところで、目当てのものは写真集か漫画が限界と言ったところだった。しかし、得てしてこうしたあまり本に頓着とんちゃくのない人間ほど、店主とは気が合ったりするものなのである。私は巡回堂を文字通り巡回し、物珍しいものがないかと探し始める。以前この店で手に入れた本こそが、過去の自分の行動を小説に起こしてくれる、私のバッグで揺れている文庫本であるのだ。十万円もしたが、今の私の人生において酷く役立っている。あれは良い買い物であった。だから私は、ふとした気まぐれで巡回堂に寄ることを素晴らしいことだと定義している。気まぐれでなければ、私が小説が品揃えの九割を占めるこの巡回堂に足繁あししげく通うはずがないのである。

 私は残り一割の、漫画本と写真集の棚へと向かった。木造の巡回堂は、商品の置き方が雑多である。そもそもが、ここの店主の中古本と言って良い本しか存在していないのだ。店主が一度読んだもの、または店主の趣味とは合わなかったものしか、この巡回堂には存在していない。であるからして、店主にとって必要のない商品は、雑多にしか並べられないのである。私は漫画本の棚をざっと見渡すが、楽しそうな漫画は見当たらない。どころか、私の記憶がいちじるしく劣化れっかしていなければ、ここにある漫画本は、以前のままである。やはり漫画本は店主の興味の範疇はんちゅう外である場合が多いので、入荷が少ないのだろう。あるいは、新しく入荷した本は売れてしまったか、である。例の文庫本で過去の私の記憶と照らし合わせれば、どれだけ漫画本の棚に変化がないかを提示出来るのだが、そんなことのために文庫本のページを消費してしまうのは勿体もったいないと判断して、私はさらに奥にある、写真集の棚へと向かった。

 写真集の棚は、巡回堂の奥、それも何故か三段しかない小階段を降りた場所にある。私はこの不器用な秘密さが好きであった。私は三段の小階段を下りて、様々な種類の写真集が置かれた写真集の棚を眺める。風景を主にするものもあれば、人物、町並み、はたまた女性の恥ずかしい瞬間を写したものまでもが存在していた。私は幸いと言うべきか不幸にもと言うべきか、女性の恥ずかしい写真にはさしたる興味もなかったので、風景写真や町並みの写真を手にとって眺めた。とは言ってもこれらはもう何度も見ているものなのである。巡回堂は巡回堂と言う名前を持っている割に、小説以外の商品のめぐりが悪い。これが改善されるのならば私は毎日六帖線に乗り神楽府は心之楠まで来るのだが、しかし毎日来たところでやはり商品の巡りは良くないだろうから、来ても一週間に一度なのだろう。だとしたら、やはり気まぐれで覗くのが一番良いのである。本屋であろうと、古本屋であろうと、古書店であろうと、巡回堂であろうと、本をあきなっているところは、目的地として行くには適していない。よほど欲しい本でもない限り、ついでに寄る場所である。

 私は写真集をあらかた見終えて、また小階段を三段上がり、店主の元へと向かった。と、いつの間にか、一人の客が存在していた。女である。先に紅流匣の話をしておいて良かったと私は安堵あんどしてから、店主に近づいた。

「ところで店主」客の邪魔にならないよう、私は小声で話しかける。「以前の文庫本のような、面白い本はないですか。私は出来れば、ああいった奇抜きばつな本にお金を出したい。そのためならば、以前のような十万円なんていう法外な値段でも払えるのです」

「法外なものか。一割増しにしただけだよ」しかしそれもなかなかどうしてぼったくりと似た商い方法である。「しかし、以前の文庫本のようなねぇ……以前の文庫本というのは、あれだろう、出版社が灯籠とうろう出版だろう。最近、あそこから出た本はあったかな……」店主は背後にある店の天井よりも背の高い本棚を探す。店主の背後にある壁は全てが本棚なのである。「あすこはほとんど本をらんからなぁ」独り言のように呟きながら、店主は一冊一冊指を差しながら、灯籠出版とやらの本を探していた。生憎と私は出版業界に詳しくないので、出版社の名などは知らないのである。

 店主はついには梯子はしごを使い始め、私の身長よりも高いところにある本に手を伸ばし、「ああ、これだこれだ。そういえば、二冊くらい入荷したんだったよ。面白い本かは分からんがね」二冊の本を高いところから私に放り投げて、店主は梯子から下りてきた。「どうだね」

「どんな本なのか分からないのですが」

「見てみれば分かる」

「しかし私は活字が苦手です」

「安心しなさい」

 そう言われては、私としても読んでみる他なかった。私は二冊のうち、まず緑色を基調とした方の本の表紙を開いてみた。そこには私の真名しんめいと、生年月日時分秒が書かれていた。私は思わずその本を閉じた!

「これは!」

「人生録だ」

「なんて危ないものを読ませるんですか店主! 私が最初にあとがきを読むタイプの人間だったら、危うく人生の最後を読むところでした!」なんとも恐ろしいことをサラリとする店主である。店主は悪気などなさそうに、「いやぁ、すまない、少しからかっただけだ」ととんでもないふざけた謝罪をした。しかし、幸い私は最初のページしか見なかったのだから、店主を怒る筋合いはないだろう。面白い本を見せてくれと頼んだのは私なのである。

「三十万円でどうだい」

「いりません。私は自分の人生を知りたいと思いませんから」

「それは残念だな、是非とも君の人生を読んでみたかったが。まあ、私もその本を読む気はないよ。自分の人生など、読んだところで、面白くはないからね」店主は頬杖をつきながら、もう片方の手で、もう一冊の、表紙に目の大きな西洋人形が描かれた文庫本を私に手渡した。「これは大丈夫だ」

「何なんですか」

「安心しなさいって。さっきみたいな本じゃない」

 私は用心しながらその本を手に取ると、表紙をめくり、一ページ目を見てみた。そこには、様々な物の名前が列挙され、その下に値段が書かれていた。

「これは?」

「見ての通りだよ」

「料金表ですか」

「料金本さ。書かれている内容は、価格相場、といったところか」

「変動するのですか」

「めくるごとにね」

「なるほど……」私は大層、この本に心をかれた。運び屋である私だが、相手にするのは業者や企業だけではない。今日のように、個人を相手に、商品を売りつけることもするのだ。そうした場合、この料金表があれば便利かもしれない。否。確実に便利である。これを利用するだけで、運び屋としては副業的な扱いになるが、転売などで儲けることも可能だ。「いくらですか?」と、私はその料金表をめくりながら、気づけば尋ねてみた。いくつかの商品が手書きで書き込まれてはいるが、まだまだ余白がいっぱいあるので、使い勝手は良さそうである。

「何日か前に、君のようにその本に興味を持った人がいたよ。どこかのページに、その本の名前が書かれているはずだ。その人に書かせたんだがね」店主は意味ありげに含んだ笑顔を浮かべる。私は何が面白いのかと思いながら、この本の名前が書かれたページを探す。と、『料金表文庫本』と書かれたページが存在していた。すぐにその下にある値段を見て、私は驚愕きょうがくした。

「は、八百万!」

「ははは。今の君にとっては、それだけの値打ちがあるということだ」店主は笑いながら言う。「私に貸してみなさい」店主に言われるがままに、私は店主に料金本を渡す。店主はそれを一旦閉じると、また同じページを開いた。

「どうやら私にとっては、六百円の価値しかないようだ」店主はそう言いながら、私にそのページを見せる。確かに、『料金表文庫本』と書かれたすぐ下に、六百円と書かれていた。確かに店主にとっては、その程度の価値しかないのだろう。店主は価格の変動するような商品には価値がないのである。店主の興味は、本だけである。本には決まった価格が存在する。何しろ、本には本自体に、いくらであるかが記載されているのだ。もっとも、古本や古書ともなれば本と言えど値段は変動するのだが、しかしここの店主は古本や古書というものに対して興味を持っていないのである。持っていたとしても、それは売り物としてである。自分が買うものとしてではない。巡回堂の店主をしておきながら、この店主は、新しい本にしか興味がないのだ。

「残念なことに持ち合わせがない」

「だろうな。気長に待っているよ。この本が君に売れるだけで、私はしばらく安らかに暮らせるよ。だが、気をつけた方がいい。時間が経てば経つほど、君はこの本が欲しくなる。そうなれば値段も上がるのだ。ならば、借金をしてでも少し早めに手に入れた方がいい。違うかい?」店長は頬杖をつきながら、違う方の手で料金本を宙に揺らした。「まあ、焦ることはない。私と君のよしみだからね、取り置きしておくのも良い。だがしかし、気をつけたまえ。私が生活に苦しくなってきたら、他の人にこの本を売るとも限らない」

「そうならないように、がんばって稼ぎます」

「借金をしたら良いじゃないか」

「私に金を貸す人間はいませんよ」

「ははは、それもそうか」

 質に入れる道具がないでもなかったが、私が持っているものは全て必要なものである。それを手放しては、仕事にならない。それに、私が使っているノートパソコンやヘッドホンなど、質に入れても二束三文。高が知れているものばかりだ。唯一金になりそうなものと言えば、私が所持している、記録本ぐらいなものだが、これももう何ページか使ってしまっているし、大した値段にはならないだろう。今日と同じような仕事が十件あれば、八百万円になるのだが、と考えて私は妙案に辿り着いた。金になる仕事ならあるじゃないか。紅流匣だ。紅流匣の報酬は、小切手だけで八千万円をゆうに超えていた。しかしそれだけ困難な仕事ではあるのだろうが、その可能性が私のバッグの中にあるというだけで、私は料金本を手に入れたも同然だった。

「どうだい、君の結末を読ませてくれたら、この料金本は譲るが」店主は人生録を指差しながら言ったが、私は静かに、「お断りします」と言うだけだった。

「そいつは仕方がない。まあ、また機会があったら寄ってくださいよ。二ヶ月後に灯籠出版の新刊が出ると、今月回ってきた新刊ごよみに書いてあった。まあ、その間も、暇があれば気軽に来なさいよ。私はいつも、暇しているからね」

「店主はその場所から動くのですか」

「さっき、本を取るために梯子を上ったじゃないか」

 店主はそう言って、快活に笑った。店主はそういう人間なのである。普通に会話をしようという発想自体が間違いなのだ。店主は店主であり、異質であり、異端な人間なのである。あるいは魔法使いや魔女よりも、稀少な人間かもしれなかった。

「さて、私はそろそろ行きます」

「なんだ。小説でも買って行けばよかろう」

「私は活字が嫌いなのです。生憎ですが、読む時間もありませんし」

「そうか。まあ君は学がある人間だから、無理に本を読む必要もないだろうね。さあ、それじゃあ君が料金本を買いに来るのを、楽しみに待っているよ」

「いつか必ず迎えに来ます」私はそう言って、店を後にすることにした。巡回堂に掛けられている柱時計は、二時四十分を指していた。六帖線の時刻まで、あと四時間と二十分である。藤裏結の駅から、電車の時間と合わせて、三十分が過ぎた計算になる。残りの四時間を続金地蔵で潰して、二十分で移動し、六帖線に乗れば良さそうだ。「それでは店主、さらばです」

「ああ、気をつけてな。地蔵さんにもたまには顔を見せるように、よろしく言っておいてくれ」

「了解しました」

 そして私はガラス戸を越えて、巡回堂から心之楠の町におどり出た。夕暮れにはまだまだ時間が早いので、空は快晴である。私はもうすっかり開いている踏切を越えて、続金地蔵を目指す。雑多に飲食店と住宅が入り乱れている心之楠は、神楽府においてもっとも混雑している町と言って良い。下町とでも言うのだろうか。あるいは雑踏である。何もかもが雑なのだ。そこら中に息絶えた折り鶴が捨てられているのも、心之楠ならではだろう。燃やすなり、ほうきいて集めるなりしなければ、見ているこっちが悲しくなってしまう。もともとが折り紙である以上生命ではないので同情する余地などないが、しかし鶴の形をしているだけで少し不憫ふびんに思うから、折り鶴というのは不思議な鳥である。恐らく鳥類の中でもっとも特殊な鳥に分類されることだろう。

 私は心之楠の雑多な町並みを歩く。八百屋や、金物屋、魚屋、靴屋という昔ならではの店が建ち並んでいる。店の前を通る度に声をかけられるが、しかし私はそれらに応じている暇がないので、無視をした。藤裏結や湯浴飾に比べると、なんとも粗末な町である。しかしこうした場所に拠点を置くからこそ、都市とされる町が輝かしく見えるのだろう。毎日美味しいものばかり食べていては、その有り難みに気づけなくなることと同じである。だから私は毎日六帖線に乗って神楽府に来ていると言っても過言ではない。古杖都に家があるからこそ、神楽府が美しく見えるのである。

 角を曲がり、私はどんどんと、心之楠の奥へと向かっていく。路地裏という路地裏を進み、角という角を曲がる。やはりここにも、湯浴飾通りの路地裏と同じように、ヒトモドキが多く生息している。しかしやはり、ヒトモドキにも階級は存在しているようで、心之楠などにしか生息出来ないヒトモドキは、ヒトモドキの中でもさらに下級の存在と言えるようであった。その証拠に、心之楠のヒトモドキは、私が歩いていることをまるで認識しないのである。すわ死んでいるのではないのかと勘ぐるが、しかしヒトモドキはヒトモドキであって人間ではない。死ぬことも、生きることも、産まれることも、ないのである。

 私はさらに奥へと向かい、ようやく、続金地蔵に辿り着いた。酒呑み処、続金地蔵。石造いしづくり地蔵じぞうという人物がいとなんでいる、酒呑み処であった。情報の発信地が酒場であることは、恐らく全人類に共通する認識である。私はそうした常識から、この続金地蔵に何度も何度も、それこそ毎日のように出入りをしている。おかげで私という存在は、続金地蔵において、かなり有名になってしまったが、そのおかげでいくつもの仕事が私に舞い込んでくるようになったのである。私の運び屋としての始まりは、続金地蔵であると言っても過言ではないだろう。私は『続』『金』『地』『蔵』と四つに区切られている暖簾のれんのうち、『金』の暖簾をくぐって、引き戸を開けた。続金地蔵に閉店や開店という概念は存在しない。あるのは、酒があるか、ないかである。

「地蔵さん、こんにちは」

「おおう、坊主、待ってたぞお!」

「お待たせしたみたいで、すみません」私は言いながら、続金地蔵の店内へと向かった。地蔵さんはいつものように、ねじり鉢巻きを輝かせながら、気前の良い笑顔とはきはきとした声で私を迎えてくれる。昼下がりだというのに、既に何人か客が入っているようで、見知った顔も、私を視線で迎えてくれた。

「兄ちゃん、久しぶりだなぁ」

刳里くるりさん、どうも、ご無沙汰しております」私は声をかけられ、思わず頭を下げた。その人物は、以前私に仕事を回してくれた、とある会社の重役であった。昼間から酒を煽っているところを見ると、仕事は順調なのだろう。

「あん時ぁ兄ちゃんのお陰で助かったよ。そらそら、そこに座りな。地蔵さーん! 兄ちゃんに一杯ご馳走してやってくれぇ!」刳里さんは地蔵さんにそう告げると、隣の椅子を引いて、私に提供してくれた。私はその好意に甘えることにした。六帖線で会った子どもや、紫狂島むらさきくるいじまと比べれば私は実に大人であるが、こうした場では、恐ろしく子どもなのである。続金地蔵に来る度に、私はそんな当たり前のことを思い知らされる。二十代などという恐ろしい幼さに、困惑するほどだ。

「ほらよ、坊主。ぐーっと行け! 今モツを煮てるんだが、それまでこいつで我慢しててくれや!」地蔵さんはそう言いながら、私に日本酒と砂肝を提供してくれた。「ありがとうございます」と頭を下げつつ、私は即座にコップを手に取り、刳里さんと顔を向き合わせ、「ご馳走になります」とコップを掲げた。

「あーいやいや、今日は良い日だなぁ。乾杯っ」刳里さんは笑顔で言いながら、私のコップに自分のコップを打ち付けた。そして互いに、日本酒を飲む。私はビールは飲まない。酒は日本酒から入る口である。何故ならそれが美味いからだ。理由はそれ以外に存在していない。

「そういえば、地蔵さん、巡回堂の店主が、たまには顔を出すようにと言っていましたよ」私は先に、言伝ことづてを終わらせておく。必要なのはそうした些細ささいながらも重要な仕事を順次終わらせておくことだ。

「あー、そういやあいつも最近会ってねぇなぁ」と、地蔵さんはモツを煮込みながら、空想するように、天井を見上げる。「そもそもあいつがうちに来れば事は解決するんだが、あいつは本の虫だからなぁ」

 私は砂肝を一口、日本酒でそれを流し込む。非常に美味である味わいが、私の味覚を支配した。続金地蔵という場所は、素晴らしい場所である。もっとも素晴らしいのは、知り合いが増えるにつれて、タダ酒を奢ってもらえる可能性が増えるというところにあるだろう。それを過信してしまうのは非常に問題であるが、期待する程度であれば、地蔵さんも許してくれるはずである。

「そういえば、地蔵さん」

「あぁん? なんだぁ」

「今、お店に女性の方っていらっしゃいますか?」

「女? いやぁ、いねぇが。それがどうした」

「ちょっと、お聞きしたいことがあったんですよ……ああ、刳里さんも、よければ」私はバッグの中から、紅流匣くるばこを取り出す。「これなんですけど」

「なんだぁ、そりゃあ」地蔵さんは右手でお玉を持ち、鍋をかき回しながら、カウンター越しに私が取り出した紅流匣を眺める。「何だ? 指輪かなんかか?」地蔵さんはさも興味なさそうに言い放ったが、確かに、初見では指輪を入れる匣に酷似している大きさかもしれなかった。

「何でも、紅流匣というものらしくて、今し方、図区凶館で預かってきた代物なんです。一応、お仕事なんですけど」私はそう言いながら、刳里さんに顔を向ける。「ご存じですか?」

「クルバコ、クルバコ……いやぁ、知らんなぁ。すまんな力になれなくて。ともかく、兄ちゃんは今、その匣を届ける仕事をしてるっちゅーわけかい。ははあ、一体どこに届けるんだい?」刳里さんは乾き物を噛みながら、私に尋ねる。「それとも、届け先を探してるのかい?」

「まったくその通りです」私は紅流匣をバッグの中にしまうと、コップを手に取りながら、言った。「差出人不明、届け先不明、中身不明という、意味の分からない匣なのです。どうにも、紀元前頃から存在していたという説もあるほど古い代物のようで」私は酒を一口、飲み込んだ。「恐ろしい懸賞金までかかっている、配達物なのですよ」

 地蔵さんは興味がなさそうに、しかし快活に、「まあ、他の客に聞いておいてやるよ。その代わり、その懸賞金とやらが手には入ったら、一番上等な酒でも注文してくれや」と言って、また鍋へと視線を向けた。私は安全のためにも、「一応、女人禁制の話題となっているようなので、それだけ心得ていただきたいです」と口を挟んでおく。

「女なんてうちの店には滅多に来やしねぇよ!」

「はっは! ちげぇねえな!」

 地蔵さんと刳里さんは阿吽あうんの呼吸で言い終えると、大仰に笑い声をあげた。この雑多さこそが、続金地蔵なのである。さきほど、つい数時間前に私が存在していた、紫狂島の砥鴉とがらす喫茶とは、まるで違う空気である。同じように路地裏を抜け、同じようにヒトモドキを通り過ぎて辿り着く店であるというのに、まるで空気が違った。しかし、双方とも、素晴らしい店である。仕事に直結するという理由で、私はほぼ毎日のように続金地蔵に来て食事をし、酒を呑み、ほがらかな気持ちで六帖線に乗り古杖都に帰るが、これからは何度かに一度の割合で、砥鴉喫茶にも顔を出そう、などという未来を想像した。もはや、続金地蔵に来てしまえば、私の仕事は終わったも同然である。さらに言えば、今日の仕事は片付き、新しい仕事も入った。自分の意志で、今日の仕事はもう終わりにしても、問題はない有意義ゆういぎさである。まったく、恐ろしいほどに、充実した一日であった。まだ終わりにはほど遠いが、それでも、素晴らしい一日であったと言い切ってしまって良いほどに、密度があった。惜しむらくは、料金本が手に入れられなかったことくらいなものだろうか。まあ、それも紫狂島という同級生の真価を発見し、さらに一時いっときとは言え仲良くなり、ましてや彼女が私に好意を持っているなどという情報を得たことは、仕事とは違うところで、私の人生を豊にしたのかもしれなかった。

「おい坊主」と、私がそんなように一日を懐古かいこしながら砂肝を噛み込んでいると、突然地蔵さんが、私を呼んだ。うっかり夢を見そうになっていた私は、ついと顔を上げて、地蔵さんを見る。すると、地蔵さんは何が面白いのか、にやけ顔で私を見ながら、「甘い匂いがするなぁ」と、意地悪く言ったのである。

 私は戦慄せんりつした。

 つい、つい、である。うっかり、である。まったく、恐ろしいことを、忘れていた。本当に、つい気がゆるんでしまった。不埒ふらちな考えを、起こしてしまっていた。悶々と、である。失敗した。ついだったのだ。出来心だった。仕事が終わって、気が緩んでしまっていたのである。「あの」私は抵抗しようと発言を試みるが、何も言葉が出てこない。「おおう、兄ちゃん、そういやぁ甘ったるい匂いがするなぁ。何かいいことでもあったのかい」と、刳里さんまでが、私に意地の悪い表情を向けてくるのである。一体、どうすれば良いのだ。私は、「なんだぁ、洒落た匂いがするなぁ」と、地蔵さんは続ける。「ああ、こりゃあ、洋菓子の匂いだ」と、刳里さんは同調した。

「悪いことは言わないぜ坊主、白状しな」地蔵さんは鍋をかき回しながら、私に言うのだ。何を白状しろと言うのだろう。「いいじゃねえか兄ちゃん、もう一杯ご馳走してやるでよぉ」と、刳里さんまでもが乗り気になってしまっていた。困ったことである。問題である。しかし、地蔵さんも、刳里さんも、私よりも幾分も年上の人である。逆らうのは美徳に反するだろう。「……はぁ」珍しく私は嘆息した。邪念を取り払うつもりだったのかもしれないし、酔いが回ってきているせいかもしれなかった。

「そう、ええ、そうですね。じゃあ、引き替えに、そのモツ煮も頂きますよ。ええ、話しますよ。話そうじゃありませんか」私は少し、気を良くしているのかもしれない。「今日は、私、仕事をしたんですよ。運び屋として、売りつけの仕事をしましてね。その仕事相手というのが、その、つまり、猫だったんです。まあ、それは別段、問題ではないのですけれど、相手が猫だったものですから、少し、私も、戸惑いまして、その猫の言うがままに、案内されるまま、喫茶店に向かったんですよ。湯浴飾通りの路地裏を行ったところにある、砥鴉喫茶というところなんですけれどね」と、私が語り出すと、刳里さんが何かに気づいたように、テーブルをバンと叩いたのである。

「砥鴉喫茶!」

「刳里さん、ご存じなのですか」

「ご存じも何も馴染なじみだよ!」

「馴染み」

「ああ。地蔵さん、あんたも知ってるだろう、湯浴飾通りの、ほら、洒落た喫茶だよ」

「んん?」

「若い美人がやってる店だよ」

「ああ! あすこか!」

 どうやら地蔵さんも刳里さんも、砥鴉喫茶を知っているようであった。もっとも刳里さんは大企業の重役であるし、ああいった場所を利用する機会は多いのかもしれない。地蔵さんにしてみても、飲食店という飲食店を回る人物である。美味しい料理を作るために、労力を惜しまないのだ。見上げた根性、なのだろうか。素晴らしい精神、なのかもしれない。

「知っているようでしたら、話は早いですね」私は話を再開する。「その、刳里さんの言うところの、若い美人という人物。ええ、名前を、紫狂島桜古さくらこと言うのですけれど、その店長が、私も驚いたんですが、桂天学舎けいてんがくしゃ学徒がくとで、それはすなわち、私の同級生ということになるのですよ」私が言うと、地蔵さんも、刳里さんも、「ほー、そいつは奇遇だ」とまるで打ち合わせでもしてあるのではと思うほど寸分狂いなく言い放った。

「なるほど、そこで焼き菓子を、その猫にご馳走してもらったってところか」刳里さんはそう言って、納得した様子であったのだが、地蔵さんは断固として、「いんや、それだけじゃねえんだろう、坊主」と、話を終わらせようとはしなかった。やはり、不埒なまま、悶々としたまま、続金地蔵に来るべきではなかったのだ。私は自分の行動を呪うとともに、恥じた。

「騒ぎにしないでくださいよ」私は前置きをしてから、本題に移る。「まあ、騒ぐほどのことじゃあないのかもしれませんけれど、その、店長、紫狂島桜古が……その……なんと言うか……どうにも、私にホの字のようで……」私が自分の顔面の温度が上昇していくのを悟った。「その決着がついていないから、こんなに悶々としているのですよ、今日の私は」

「地蔵さん!」

「ああ、合点承知がってんしょうちだ! おおいみんなこっちに来い!」

「なんだぁ?」

「モツ煮が出来たのかー?」

 私が言い終わるが早いか、刳里さんと地蔵さんはまたたく間にテーブル席に座っていた客を呼び寄せた。私は後悔する。こうなることは分かっていたのである。そしてそれを受け入れようとしている自分も、憎らしい。

「お前らもよく知るこいつが! 今日! 素晴らしいことだ! 女に告白された!」地蔵さんはまるで闘技の開会を宣言するような闘技士のごとく、きびきびとした動作で宣言した。「今日は素晴らしい日だ! この石造地蔵が、お前らに酒を振る舞ってやる!」

「なんだって!」

「なんていい日だ!」

「おい兄ちゃん! 素敵な日だ!」

「おお、俺たちからも祝いを送るぞ!」

「地蔵さん! 兄ちゃんに白子しらこ追加だ!」

 次々と私は背中を叩かれる。続金地蔵に来ている連中は、浮浪者から始まり、企業の社長にまで至る。しかしその誰もが私よりも年上なのである。そして酔っている。私は激励げきれいを背中に受けて、恥ずかしくなりながらも、それが有り難かった。年上の男たちの手は、図区凶館の館長の手のように、しわがれていながらも、力強かった。まるで生きた年月をそのまま凝縮ぎょうしゅくしたような力強さである。そして、宣言通り、客全員がコップを持って地蔵さんに群がり、酒を振る舞われていた。私も残っていた酒を飲み干して、地蔵さんから酒を注いでもらう。

「文字通りの祝盃しゅくはいだ! 掲げろ!」地蔵さんの宣言に従い、客全員がコップを掲げた。一心同体、である。続金地蔵。店内が全て、一つになった。私はこの瞬間こそ、自分が二十歳を過ぎ、飲酒が出来る年齢になったことを、喜ぶ時はない。

「乾杯!」

『乾杯!』

 店長の乾杯の音頭おんどに合わせて、客全員の乾杯の声が重なり、直後の飲酒の間を経て、盛大な吐息が漏れた。酒臭さが充満し、私の甘ったるい匂いを打ち消すようだった。私はもしかしたら、この瞬間を味わうために、紫狂島との関係を平行線のままにしたのかもしれなかった。あそこで全てを片付けなかったのは、これが原因なのかもしれない。

 そうしてわらわらと、客は自分たちの席へと戻っていく。私はいつの間にか提供されていた、白子や、ほっけ、揚げ物に箸を伸ばした。これらが全て、他の客からの、私への祝いである。食わぬわけには行かぬのだ。その祝いを全て取り込んで、祝盃は終わる。

「しかし羨ましいなぁ、兄ちゃん」刳里さんは、横から私の揚げ物をつまみながら言う。親しいからこその行為であるので、気分を害する必要は微塵みじんもなかった。「あすこの店長は、素晴らしい美人で、若い。いい機会だ、とついでもらえばいいじゃねえか」

「嫁ぐ」私は思わず、白子という恐ろしく飲み込みの良い食材を、喉に詰まらせるところであった。それほどまでに、予想だにせぬ言葉だったのである。「嫁ぐとはつまり、結婚、ですか。いや、そんな、私にはまだまだ早すぎますよ」

「恋や愛に遅いも早いもあるめぇ。それに、桂天学舎の学徒同士が結婚したとなりゃあ、世間は賑わうじゃねえか。秀才が生まれるって期待もされるだろうが、話題が十分だ。そいでよぉ、その店長をここに連れてきてくれや。はっは」刳里さんは快活に笑いながら、私に乾き物を提供してくれる。私はそれを受け取って、口の中に放った。「それによぉ、知り合いが結婚すりゃあ、酒が飲める」

「もし宴会をやるんだったら、うちの二階を使やあいい」小鉢こばちにモツ煮を盛って、地蔵さんは私と刳里さんの前に置いた。「ジジイになるとなぁ、若いヤツらの縁談えんだんが好きになるんだ。自分らはもう幸せの限度っつーもんが見えてくるからなぁ。他人が、若い世代のヤツらが幸せになるのを、見てぇのよ」

「ちげぇねぇ」私の肩に手を置いて、刳里さんは言う。「俺ぁもう、結婚もして、ガキもいる。兄ちゃん、あんたより少し上くらいだがね、そろそろ結婚の時期だろう? そうしたら孫が出来て、いつかは俺もジジイだ。そら、考えてもみれば、自分が幸せになるには、ガキだとか、孫だとか、周りが幸せになるしかねえんだ。自分の幸せは、もう終わりになっちまってよぉ」刳里さんはぐいとコップの中身を腹の中に流し込んだ。「たまぁに時間が出来て、続金地蔵で呑んで、俺が自分に出来る幸せといやぁ、このくらいなもんだ」

 そうなってしまうのだろうか。しかし、少なくとも、刳里さんは、もうそうなってしまったのだろう。自分を満たすことよりも、他人が満ちるのを見る方が、楽なのだ。いや、そうすることでしか、得られない快感なのかもしれない。自分の幸福に、慣れてしまったのかもしれなかった。他人に託すという、そういう考え方なのだろうか。それは、あるいは、図区凶館の館長、並びに紅流匣に賞金をかける男たちにも、同じことが言えるのかもしれなかった。

「刳里さん」私は言う。自分の想いを伝えねばならない。「私は、今日突然、紫狂島の気持ちを知りました。それを、簡単に決めることは出来ません。仕事をしながら、じっくりと、考えるつもりです。家庭を持つなどという未来は、想像すら出来ません。しかし、いずれは私も、家庭を持ちたいと思っているのです。ですから、何か、これからの未来に、私に分からないことが生じた場合には、是非とも、助けをお借りしたい」それは本心である。年上をよいしょするための発言ではないのだ。心から、私は年上を敬い、そして、年下も、尊ぶ。私に影響を与えてくれる人物は、年齢に関わらず、全てが美しいのだ。

「よく言った! 乾杯だ!」刳里さんは、もういくらも残っていないコップを掲げる。私はそれに、自分のコップを打ち付けた。「ああ、今日はなんて良い日だ。これから仕事に行くなんてことが、考えられん」

「お仕事なのですか」

「あと五分で店を出なければならん」

「なんと」

「重役会議なのだよ。そのあと、乱槐で会食をしなければならん。いやだいやだ。俺はずっと、続金地蔵で兄ちゃんと呑んでいたいって言うのによぉ」駄々をこねるように、刳里さんはうつ伏せになった。しかし私は刳里さんの肩に手を置いて、「また、ゆっくりと飲み交わしましょう。その頃には、私と紫狂島の話にも、変化があるかもしれませんから」となだめるしかなかった。

「そうだそうだ。おい、時間がねぇなら早くモツを食っちまいな」と、地蔵さんはかすようにしながら、モツ煮の入った小鉢を持って、カウンターを出て、他のテーブルへと運びに行った。「自分の仕事はちゃんとやって、それからうちで飲み直せ」

 地蔵さんの言うことはもっともだった。自分のやることをして飲む酒だから美味しいのである。何もせずにただ煽るだけの酒は、苦い水の味しかしないのだ。私はこの歳になってようやく酒という魔法の液体の意味を知ったのである。これは自分の働きや、飲む場、さらには祝いなどによって味を変化させるのである。ただ吸収されるだけの液体としての意味や価値はないのだ。

「あーうめぇ……このモツ食って、がんばるかぁ」と刳里さんは言いながら、モツ煮を食べていた。私も同じように、モツ煮に箸を伸ばす。地蔵さんの作るモツ煮は世界で一番美味いモツ煮である。私はモツとコンニャクを一緒に口の中に入れる。砥鴉喫茶で食べたケーキとはまた違う幸せが、私の体を温めていく。「兄ちゃん、今度はいつくるんだい? いや、今日はいつまでいるんだ?」

「私は、午後七時には六帖線に乗って、古杖都に帰らなければなりません」

「七時かぁ……そいじゃあ今日は会えないねぇ」

「刳里さんは、次はいつ?」

「そうねぇ、二週間……いや、一ヶ月過ぎちゃうかなぁ。まあ、また会えるのを楽しみにしてるよぉ」

「私もです」

「その時には、店長さんとの話、聞かせてくれよぉ」

「ええ、何かあったら、お話します」私が言い終わるが早いか、刳里さんはモツ煮の入っていた小鉢を掴んで、残っている汁を飲み干した。そして、ずっと置いてあった水の入ったコップを掴むと、全てを洗い流すようにして、ぐいぐいと飲み干した。素晴らしい、凄まじい飲みっぷりであった。

「それじゃあ兄ちゃん、またな」

「はい、また」

「地蔵さん! 勘定を頼む!」

「はいよぉ」

 モツ煮を運び終えた地蔵さんは再びカウンターに入ってきて、刳里さんの伝票を持って、算盤そろんばんを弾き始めた。「地蔵さん、兄ちゃんの分も一緒に頼む」刳里さんが言って、地蔵さんが頷いたところで、私はモツを喉に詰まらせる。

「刳里さん!」

「いいじゃないか、どうせ酒は奢る約束だったんだ。追加の注文は、自分で払ってくんな」刳里さんは私の抗議を全く意に介さず、そう言った。年上というのは、逆らいにくいのである。私はただただ、「すみません、ご馳走になります」と頭を下げる他なかった。そうでなくとも、今日は他の客からも、祝いを頂いているのである。これだけで、今日の私の夕飯は終わるかもしれない。「三千二百三十円だ」地蔵さんの声に応じて、刳里さんは財布から一万円札を取り出して、支払いをする。よくよく考えれば、今日は私が皆さんに奢るべき日なのである。何しろ、今日は私にとっての給料日であるのだ。こうした気遣いを、事が全て終わったあとに思い出すところが、まだまだ私が若造である所以なのかもしれなかった。

「それじゃ、またな、兄ちゃん」

「ええ、お会い出来る日を心待ちにしております」

「それじゃあ、地蔵さんも、みんなも、また来るよ」

「おう、いってらっしゃい!」地蔵さんの、その素晴らしい接客があってこその、続金地蔵なのである。全てを受け入れるふところのでかさこそが、地蔵さんの、続金地蔵であるのだ。私はほっけを食べながら、素晴らしい空間で、素晴らしい時間を過ごしていることに、ぼんやりと夢見心地になってしまう。私は酒が嫌いではないのだが、しかし強いとも言い難い。まだ量を飲んでいないから、慣れていないというのがあるのかもしれないし、まだまだやはり、子どもであるのだろう。若いのだ。それを私は、続金地蔵に来る度に認識する。他のみんなも酔っているのかもしれないが、私は酔いが回ると陽気になり、それを越えると眠くなるのである。まったく、困った体質であると、私は自分を呪うのだ。刳里さんが行ってしまったので、特に会話らしい会話をすることもなく、私はモツ煮と、白子と、串と、ほっけと、順繰じゅんぐりに食べて、ちびちびと日本酒を飲んだ。この素晴らしい時間。仕事帰りの一杯、とは、まさにこのことなのだろう。一日のことを、酒と油の匂いに塗れた店内で、ぼんやりと、思い出す。やはり一大イベントと言えるのは、紫狂島との再会であろう。あんなに突然に、唐突に、出会うことなど、誰が想像しただろう。あの時の私自身を思い返したい気もするが、なんだか気恥ずかしい気もする。記録本を読み返せば、恐らくあの一連の流れが思い返せるのだろうが、しかしそれはやめておこう。気恥ずかしさが増すだけである。ああ、しかし、離れてみて思うのは、紫狂島桜古という女性の美しさである。非常に無口で、私は紫狂島に対して苦手意識や、あるいはおそれに似た感情を持っていた気さえするのだ。それがどうだろう。今日再開し、会話をしたら、あんなに素晴らしい女性であった。見誤みあやまっていたのだろう。あるいは紫狂島がそう見えるように仕向けたのかもしれなかった。もしかしたら、以前から私を知っていて、桂天学舎に来たのだろうか。いやそれは考えすぎだろう。自意識過剰というものである。とにかく明日。否。そうそう早急に事を運ぶ必要もないだろう。何となく、コーヒーを飲みたくなったら、砥鴉喫茶に向かおう。そう、私はそう言えば、紫狂島に、先払いをしておいたのだった。ストックがある。だからお金がないときにでも、行けば良いだろう。それに、ケーキをご馳走して貰えるかもしれないのだ。それは素晴らしいことである。私はモツを噛む。噛めば噛むほど、モツに染みいった味噌が味わいを深くするのである。「坊主」紫狂島の、「坊主」

「はい?」素っ頓狂とんきょうな声を上げて、私は視線を地蔵さんに向けた。「あ、すみません、ぼーっとしていました。お恥ずかしい」

「いやいいんだがな、田楽でんがくだったところだ。食うか?」地蔵さんは白と灰色の田楽を二本持って、私に問いかける。私はテーブルの上に展開されているものだけでも十分だと思っていたのだが、「はい、頂きます」と、気づけば口にしていた。地蔵さんが作るものはとにかく美味しいのである。食べない手はない。食べないという選択は、全ての事柄において、間違いであるのだ。

「若いのはそうでなくちゃいけねぇな」快活に言いながら、甘味噌が盛られた皿に、田楽を三本乗せて、地蔵さんは私に振る舞ってくれた。「一本オマケだ」と、何でもないように言うのである。この一本分のオマケこそが、人と人とが幸せに関係していくための味噌であるのだ。そう、味噌である……、と、私は中年男性成分に思考回路を毒された。続金地蔵にいると、中年男性特有の掛詞かけことばが感染するのだ。恐ろしいことであるが、それを受け入れて、初めて男は中年男性へと進化を遂げるのだろう。ならば毒されたと言うよりは、成長したと呼ぶべきなのかもしれない。

 ぼんやりと、私は時計を見る。そして驚いたのだが、その驚きも、ゆったりとしたこの続金地蔵の空気に中てられて、霧散していってしまう。恐るべきことに、もう続金地蔵に来てから、一時間が経過していたのである。私は六帖線の中で感じたものと同じ症状に見舞われる。そう、今現在、私は、この時間を楽しいと感じている。だからあっという間に、一時間が経過したのである、いやされていると言っても過言ではないだろう。私は甘味噌を付けて、田楽を頬張った。ほくほくと茹だった田楽が、私を幸せの渦中かちゅうへと誘うのである。なんとも恐ろしい、田楽、そして、続金地蔵。並びに、石造地蔵という男である。すっかり、私は取り込まれてしまっていた。この続金地蔵という空間にも、石造地蔵という人物にも。しかしこの時間こそが、私を私たらしめているのかもしれない。こうした時間、こうした趣味、こうした癒しこそが、全てなのだ。

「兄ちゃん、またなぁ」

 私は突然肩を叩かれ、意識を取り戻した。常連さんが、帰るところらしい。私は脊髄反射せきずいはんしゃで、「あ……どうも、ご苦労様です」と口にする。すっかり酔いが回っていて、意識が断続だんぜつ的である。

「ああ、ああ、俺たちぁ、兄ちゃんほどご苦労してねぇよ。けど、ありがとよ。その別嬪べっぴんさんと、上手くいくといいなぁ」

「はは……ありがとうございます」私は本心からそんな言葉を口にする。人は酔っているから素直になれるのか、素直になるために人は酔うのか。それが私には上手く理解することが出来ない。そして、最後にもう一度、地蔵さんに支払いを済ませた常連さんが私の肩を叩いて、店を出て行った。肩を叩くという行為――ああ、そう、それはつまり、私が六帖線において子どもに教えたことの一つである。こんな若造の私が、他人に教えを授けるなどということが、どうして成立出来るだろう。見方によって、私は大人なのだろうか。それとも、子どもなのだろうか。時々それが分からなくなる。しかし、私は私だと、そんなことを恥じらいもなく言うことも出来る。果たして、そんな恥知らずな行為は、大人という成長がゆるす行為なのだろうか。それとも、子どもという未熟がうながす行為なのだろうか。私は田楽をハァク、と歯で切断し、口の中に取り込まれた方を咀嚼そしゃくする。

「坊主、今日はえらい酔ってるじゃねえか」私が田楽を咀嚼しながら、コップに手を伸ばすと、地蔵さんがそんなことを言ってくる。確かに、今日の私はいつにも増して、酔っているかもしれない。六帖線で食べた飴玉がいけなかったのだろうか。いや、それだけというわけではないだろう。色々と、今日は、やることが多かったからかもしれない。「仕事で疲れたのか?」そうだろうか。そうかもしれない。

「そうかもしれません」私は素直に口に出す。何故なら私は今、酔っているのだ。素直でないはずがない。「仕事だけではないかもしれませんが、神経を使う場面が多かったような気がします。いえ、今日はほとんど、仕事をしたような気にはなりません……全ての出会いが特別であったような、そんなところでしょうか」

「詩的だねぇ。青さってのは良いなぁ」地蔵さんは、そんな言葉を吐いたが、しかしそこに、私を馬鹿にする成分は微塵も感じられなかった。心底、青青とした私の吐露を、気に入っているのだろう。「俺も若い頃はそんな日があったもんだが……はっは、経験者から忠告させて貰うとだな、お前、酒はその辺でやめておきな。これ以上行くと、後悔がやってくるからな。いや、それも経験になるのかもしれねぇが……酒で失敗なんて、もう何度もやってるもんなぁ?」

「ええ、確かに、過去に三回、失敗していますね」うち二回が嘔吐で、二回記憶を失い、三回ともに共通して、二日酔いになった。いや、最初の一度は、長引き方からして、四日酔いと言えるほど酔っていたかもしれない。今現在、もっとも酔いが続いている人は五ヶ月酔いだと言うし、それと比べたら優しさも極まっているようなところだと思うが、しかし、二日間酔うだけでも、私の仕事には支障が出るだろう。ああ、いや、しかし、今現在、私は紅流匣という仕事をうけたまわってはいるものの、他に急を要する仕事を持っているわけではないのだったか。ならば、焦る必要も、ないのかもしれない。いっそ、明日は一日中、古杖都で休日を過ごすのも、悪くはない。けれど、そんな甘えは、社会人として唾棄だきすべきものである。明日仕事がないのなら、明後日の仕事を手に入れるために、奔走しなければならない。それこそが仕事である。仕事を仕事たらしめるのは、仕事を手に入れるという事前準備に他ならないのだ。「すいません、地蔵さん、つめたいお茶をいただけますか」

「賢明だ。年長者の提案をすんなり受け入れるところが、特に賢明だな」地蔵さんはそう言いながら、酒が少量だけ残ったコップを回収して、真新しいコップと交換してくれる。そこに蜂黒茶はちぐろちゃを注いでくれた。蜂黒茶は素晴らしい茶である。酔いというものを、緩和してくれる。地蔵さんは言わずとも、私が何の茶を求めているのか、たちどころに理解してくれるのだ。「ありがとうございます」私はお礼を言ったあと、蜂黒茶を一口飲んで、田楽の続きを食べ始める。

 こんなゆったりとした時間が、続くのである。

 会話をする誰かは、今日の私にはいない。正確には、いなくなってしまった。しかし、一人で飲むのも、誰かと飲むのも、本質的な素晴らしさに変化はない。一人には一人の、二人には二人の、そして無人には無人の、素晴らしさが存在しているのだ。共通するのは、酒である。すなわち酒そのものが素晴らしいのだ。刳里さんは、今頃、会議に出席しているのだろうか。しかし昨今では、会議はそれほどに重要性を持ち合わせていないと聞く。ならば、もう既に会食に向かっているかもしれない。リムジンにでも乗っているのだろうか。刳里さんは、本来そうした世界にいるべき人間なのである。しかし何故か、私にとって、刳里さんは、続金地蔵で気持ちよく酒を飲み、若い衆に酒を奢ることを喜びとする、気の良い中年男性なのである。ああなりたい、と思うほど私は恥知らずな人間ではないが、しかしああした生活に憧れる程度の恥ならば、私は忍べるのだろう。

 机の前に展開された食事を、私は次々と平らげる。今日の支払いは、恐らくは千円にも満たないかもしれない。何しろ、私が個人で注文したものは、田楽と、蜂黒茶だけなのだ。しかも一本分、田楽をおまけしてもらっているから、六百円、七百円くらいなものだろう。小銭で払えるかもしれない。なんとも気分の良い日である。六帖線に乗ってから、続金地蔵に来るまで、ほとんどの時間を移動し、誰かと会話しながら生きてきたので、誰とも会話せず、どこにも行かず、思考と思想の限りを展開することの出来るこの時間は、とてつもない至福であった。ああ、あの六帖線で会った子どもは祖父母に会えたのだろうか。液体は母君ははぎみに会えたのだろうか。紫狂島は何の滞りもなく店を終えるのだろうか。松尾さんは他の用事を済ませたのだろうか。巡回堂店主の今日の売り上げはいかほどだろう。そして、目の前の地蔵さんは、幸せなのだろうか。

 幸せ。

 幸せ。

 辛さ。

 辛さ。

 立つ。

 立つ。

 十回立ち上がり、辛さを乗り越え、次の一度で、幸せになるのだろうか。それとも、幸せを一度でもくじいてしまえば、辛さに変わるのだろうか。そんな妄想を、口に出すことは、いくら私でも恥ずかしくて出来ないが、しかし想いは正直なのである。


 一度生まれた想いを殺すことは、出来ないのである。


「坊主、坊主」

「はい?」

「お楽しみのところ悪いが、お前、時間は大丈夫なのか」

「時間?」地蔵さんの、いつも以上に急いた様子の声色に、私は時間を確認してみると、何と言うことだろう! 現在の時刻は、六時である! あと一時間で、六帖線は神楽駅に到着し、出発してしまう!

 感嘆符かんたんふを連続して使用しながら、私は慌てて食べ物を胃の中に詰め込み、全てを平らげる。そして蜂黒茶を飲み干して、すぐさま立ち上がって、「すみません地蔵さん、お勘定を」と急くように言った。

「ああ……そんなに危ないのかい」と、地蔵さんは算盤を弾きながら、驚いたように言う。確かに、考えてみればそこまで忙しいほどのことではないのであるが、焦るにこしたことはないのである。万が一という可能性を考えることこそが、重要である。

 私は地蔵さんから提示された金額を、小銭だけで支払う。六百八十円だったので、予想通り七百円未満で収まった。「毎度ぉ」地蔵さんは私の七百円分の硬貨をざるの中に入れて、二十円分、釣り銭を渡してくれた。私はそれを財布の中にしまい、「ごちそうさまでした」と、地蔵さんに告げる。「おう、気をつけてな。いってらっしゃい」

「なんだぁ兄ちゃん、もうけぇるんかー」

 私が続金地蔵の戸を引くと、その音に反応して、客の一人が声をかけてきた。私は、「はい。皆さん、お先に失礼します。おやすみなさい」と丁寧に挨拶し、頭を下げる。まったく、私としたことが、情けないことである。挨拶をし忘れるなど、恐ろしく失礼な行為であった。

「おーう、気ぃつけて帰んなー」

「ありがとうございます」もう一度私は残っている客の皆さんに頭を下げ、続金地蔵を後にする。

 焦る必要はないのである。ゆっくりと、頭の中で、私は今後の道のりを定める。まずは心之楠駅に向かい、そこから乱槐駅まで行く。そして、そこから時間があれば徒歩で、タイミングが良ければバスで、どちらもダメならば、電車を乗り換えて、神楽駅へ向かえば良い。焦る必要はない。五分という時間は、実に長いのである。それがまだ、最低でも、十一は残っているのであるのだから、焦る必要はない。十一個の弁当を食べ切ることが出来るほど、時間はあるのである。時を楽しんだり、時を急いたりすればするほど、時は残酷にも進む速度を上げる。だから私は平常心を装い、しかし小走りになりながら、心之楠駅を目指し、歩を進める。

 路地裏の情報や、ヒトモドキなどの存在を無視しながら、私は思考の一切合切を歩行に集中させて、進んでいく。六帖線の乗車券は、しっかりと持っていただろうか。恐らく、大丈夫なはずである。六帖線の乗車券は、行きの六帖線に乗ってから、一度たりともバッグからは出していないはずである。それに、いざとなれば、現金がある。今の時期、六帖線が満員で乗れないなどということはないし、最終手段としては、自由席で立ちっぱなしになればいいだけである。

 続金地蔵と心之楠駅の道のりを逆歩行しながら、私はようやく、踏切のところまで、辿り着いた。この間で、まだ五分経過していない。一切の情報を遮断することで、時間を有効利用することが可能なのである。私はこの踏切が開くまでの時間を利用して、バッグの中身を確認することにした。時間というものは待つものでも確認するものでもなく、利用するものなのである。

 ノートパソコン、ヘッドホン、携帯電話、紅流匣、その資料、記録本、飴玉の袋、そして鹿の皮を二つ折りにし、それを紐状にした蔓で閉じた入れ物に、六帖線の帰りの乗車券が入っていた。私の持ち物は非常に簡素であったが、しかし完璧である。寸分の狂いもない。あとは上着のポケットに、財布が入っている。

 私がバッグの中身を確認し終えると、見計らったかのようなタイミングで、踏切が開いた。恐らくは、気を利かせてくれたのだろう。これも、神楽府のお導きなのかもしれない。神楽府の名に恥じぬ、素晴らしい気遣いだ。私は踏切を越え、すぐの場所にある巡回堂を通り過ぎ、心之楠駅へと、身を投じた。

 時刻を確認すれば、六時十分である。たったの十分で、私は続金地蔵での支払いを済ませ、ここまで辿り着いた。やはり、五分という時間は、偉大である。私はすぐさまに切符を買おうと券売機に近づく。心之楠駅は無人であり、その券売機は、完全に客の良心を信じたものなので、悪用しようと思えばいくらでもそれが出来るのであるが、しかし悪用はいけないだろう。私は賽銭箱を流用している箱に乱槐駅までの電車賃を入れ、何枚もつづられている『心之楠――乱槐』と書かれた切符を一枚ちぎった。さあ、あとは電車に乗り、乱槐駅に向かうだけである。と意気込んで私が左足を踏みだそうとするも、しかし左足は動こうとしない。何かに足をひっかけたのかと思い、私が足下を見ると、「うわあ!」

 ヒトモドキが私の左足首を掴んでいた!

「な、なんだお前は!」

「ヒトモドキさね」

 ヒトモドキは抑揚よくようなく、そう言った。しかしヒトモドキの掴む力はもの凄く、私はそれを振り払うことが出来ずにいる。

「あんたからさぁ、金の匂いがするんだ……なぁ、頼むよ、金、くれよ。あんた、羽振りがいいんだろう? なぁ……」と、ヒトモドキは、視線も、顔も、何もかもを明明後日しあさっての方向に向けたまま、私に言うのである。彼らには視覚と嗅覚と聴覚と触覚と味覚がない。ただ、金を求めて行動するのである。私の足を掴んでいるから骨伝導で会話が出来ているだけで、本来は鼓膜など、否、耳すら存在していないのである。ただ、金の方へ金の方へと、ヒトモドキは吸い寄せられる。

 私は何度も足を動かすが、しかしヒトモドキの腕は外れない。ヒトモドキ。金の亡者という呼び名があるほどである。金への執着が、恐ろしい。これに捕まったら最後である。私は迂闊うかつだった。急くつもりはなかったのに、気持ちが自動的に急いていたのだろう。私は後悔する。このまま死ぬわけでなければ、ましてや破産するわけでもないのだが、こうしてヒトモドキに絡まれてしまったという事実が、そして、もしかしたら六帖線に間に合わなくなるかもしれないという事実が、私を恐怖に陥れた。

「ヒトモドキ! 貴様も他人の金ばかり見ずに、働いてみてはどうだ! そんなことだから、いつまで経ってもお前たちは、人間になれないのだ!」私は無謀むぼうだと知りながらも、ヒトモドキに説教をする。「お前は、自分が何故ヒトモドキになったのか、覚えていないのか! そうする道を選んだのは、貴様のはずだぞ!」

「知らんよぉ……覚えてねぇよ……ただなぁ、人間に戻りてぇのよ。人間に戻るにはよぉ、人間でいるには、金がいるだろう? なあ、あんた、頼むよぉ……」

 ヒトモドキは私の説教を聞こうとしない。文字通り、聞く耳を持たないのである。しかし、こんなヒトモドキにやる金など、私は一銭たりとも持ち合わせていない。素敵な商売相手に頂いた金であり、素敵な館長に換金してもらった金なら尚更である。私は断固として譲らぬ決意を固める。これで六帖線の乗車券が無駄になったとしても、私には守らねばならぬものがあった。ヒトモドキなどに屈してはならぬ、人間としての尊厳である。

「兄さん、お困りのようじゃござぁせんか……」

 私がそうして、人間の尊厳に対して並々ならぬ感情を抱いたところに、そんな声が聞こえてきたのである。心之楠駅には、誰一人として人がいない。無人駅であることも要因であるし、時間帯も、時間帯である。しかし、私以外に誰一人としていない場所に、ヒトモドキが一つと、液体が、液体が、液体が一滴存在していたのである!

「お前は、まさか、あの時の液体か」

「やはり、お困りのようですなぁ。ええ、俺っちは確かに、あの時、乱槐の駅で兄さんに電車賃を恵んでもらった、哀れな液体でさぁ」液体はうりよんうりよんと、波を打ってヒトモドキに近づいている。私に近づいているのかもしれない。しかしその液体の透明感には、何か透明感だけでは言い表せない清涼感が存在していた。「兄さんがお困りのようなら、俺っちは兄さんを助けてやることも出来ます」

「そうか。なら、このヒトモドキをどうにかしてくれんか!」

「お安い御用ですよ兄さん。ああ、あんたはいい人だった。人間なんかに恩義はねえが、兄さんは俺っちの恩人だ。兄さんがいい人だから、うちのお袋も、俺っちが心之楠に来るまで、枯れずにいられたんだなぁ。俺っちは嬉しいんだ。お袋に会って、お袋の最後に立ち会えた。それは全部、兄さん、あんたのおかげだった」液体はもしかしたら、涙を自身の体に混ぜ合わせていたのかもしれない。しかし、私は迂闊に液体に心を開くことは出来ない。助けてくれるつもりがあるとは言え、私は人間であり、あれは液体だ。相容あいいれぬ間柄なのである。私は液体の涙を見ないフリをする。

「あんた……何を喋ってるんだ?」

 液体の言葉が聞こえぬヒトモドキは、私に骨伝導で伝える。

「ヒトモドキ、お前が知る必要はない」

「そうかい……でも、あんたの足は、離さないよ」

「好きにするが良い」

「兄さん、あんたは気高い人だ。決して屈しない。決して履き違えない。俺っちのような液体と仲良くしようなんて気さえ起こさない。ヒトモドキに対して懇願したりもしない。気持ち良い生きっぷりさ。それでいて、いい人だ。困っている俺っちを救ってくれた。へえ、でもこれは感謝じゃない。恩義でもない。貸し借りの話さね。あんたが気高い人だから、俺っちも気高くありたい。そうだよな、兄さん」液体はそう告げると、床に水を溢したように広がって、瞬く間に、私の足を掴んで離さないヒトモドキを侵略した。しかし、ヒトモドキは感覚がないから、それには気づけないでいる。私は何度か大きく深呼吸をして、液体の行動に応じることにした。「俺っちが復活する頃には、もう兄さんは俺っちのことを忘れているかもしれねぇが……兄さんのおかげで、親の枯れ目に会えたんだ。貸し借りの割合にしちゃあ、十分さね。家族は、大事だよな、兄さん。それ以上に大事なものなんて、この世にないのかもしれねえな、兄さん」

 そして。

 そして、である。

 一瞬の後。

 液体は、気化した。

 ヒトモドキを道連れにして。

 気化である。

 気化した。

 気化させた。

 道連れに。

 物体が一つ消えたのである。

 原理など分かろうはずもない。

 相手は液体である。

 我々人間とは、一線をかくす液体。

 液体である。

 我々はそれを知ることが出来ない。

 液体は人間ではなく、同時に人間の家畜でもない。

 だから調べることなど出来ないのである。

 そんな権限は人間にはない。

 私は、掴まれていた足首に残る違和感だけを、この心之楠駅に残して、時間も残っていないことであるし、駅のホームへと、向かうことにした。切符は既に手に入れてある。液体への謝罪の気持ちはない。液体であるのだから、感情などというものを共有する意味はないのである。しかし、枯れてこそいないとは言え、気化したあとの液体は、同じ分だけ気化した体を液体に戻す作業に、何ヶ月も、何年も、かけるものらしい。少しだけ、大変であると感じたが、しかし申し訳ないという気持ちは、芽生えなかった。私は既に、液体に貸しがあった。その貸しを、今日のうちに返してもらっただけの話である。ホームで電車を待ち、私は来た電車をよく見もせず、それに乗り込んだ。そして空いている席に腰を降ろし、乱槐駅の名前が呼ばれるまで、ずっとうつむき、移動を続けるだけだった。それ以上でも以下でもない。電車とはそういうものである。私は切符を見る。おかしなことに、皺になっていた。誰かが強く握ったせいかもしれない。しかし、私以外には誰もこの切符には触れていないはずである。ヒトモドキに掴まれたとき、力んでしまったのだろうか。そう思っていると、どこからか、雫が切符を濡らした。手渡しであることだから、折れようが、濡れようが、問題はないのであるが、しかしその雫がどこから生まれたものなのか、私は結局知ることが出来なかった。何故なら、私の視界が夢のように濁っていたからである。

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