昔ノ馴染ミハ砥鴉喫茶

 仕事をするのが私の仕事だ。仕事をしない私はただの仕事をしない人間になる。だから私は仕事をすることで、一時ではあれ、社会人になれるのだ。もっとも仕事がなければ仕事をしなくても良いのだが、今日は生憎あいにくと仕事がある。そのために私は朝早くから六帖線ろくじょうせんに乗り、子どもと出会い、こうして今、神楽かぐら駅に到着し、そこから三階建てのバスに乗って、乱槐みだれえんじゅ町にやってきたのである。そう、つまりこれから私は仕事をしなければならない。私は気合いを入れ直すため、乱槐町に蔓延まんえんしている紫色の毒素を思い切り吸い込み、それを体が吸収する前に、吐き出した。大事なのは吸い込みである。吸収までしてしまうと、取り返しがつかないことになる。何せ毒素だ。毒素は吸ってはならない。

 私は日本の面積のうち九分の一を占めるに相応ふさわしい乱槐の大地で、歩行を開始した。二時間六帖線に乗り、それから五分間、バスに乗った体だ。ほとんど歩いていないのである。歩行をすることにより、私は血行を回復させる。頭に少しも血が上っていないと、上手に取引をすることが難しくなるだろう。大事なのは若干の血液だ。あまり多すぎると、血管が爆発して、周囲に血漿けっしょうが飛び散ってしまう。何せ血液だ。血液は多すぎてはならない。

 私は歩き始めたのだが、しかし突然乱槐駅の周辺にあったベンチに腰を降ろして、さて、ノートパソコンを開くことにした。先ほど、六帖線に乗っている間に受信したメールを見返さなければならないことに、歩いている途中で、気づいたのである。確認作業は、何よりも大事だ。これだから確認メールというものは、大事なのである。繰り返し利用出来るところが良い。しかし、限度というものもある。ってあと三回くらいなものだろうか。あまり確認しすぎると確認出来なくなるのが、この確認メールという恐ろしきアイテムなのだ。呪いと言っても、過言ではないだろう。


 松尾まつお呉肋ごすけです。電子メールで失礼いたします。

 本日の取引の確認をさせていただきたいと思います。

 本日正午、神楽府は乱槐町の湯浴飾ゆあみかざり駅におきまして、羽の生えた猫と、現金八十万円を交換する。この通りでよろしいでしょうか? 何か不備がありましたら、お知らせください。

 なお、当方、赤いマフラーと、緑色のサーフボードを目印に持って参ります。お声をかけてくだされば反応しますので、「取引の件で」と話しかけてください。

 では、こころよい取引を望んでおります。


 名前は松尾呉助であるという。松尾という名前はどの時代においても素晴らしいが、呉助という名前は少し時代がかっている気がしないでもない。しかし、取引相手の名前など、本名であるか偽名であるか天名てんめいであるか分からないのだから、どうでも良いことだ。どういう結果であれ、名前は記号の一部に過ぎないし、本名などという定義は曖昧だ。私は名前を無視して次の行に目をやる。そして、すぐに頷く。これは読む必要のない行であった。

 さらに次の行を見ると、いきなり核心に触れていた。本日正午、というのは、もう三十分後に押し迫っている。しかし、一般的に言う本日正午とは、二時間の間隔を持っているのが普通であるのだから、あまり気にすることはないだろう。遅れることは非常識だが、非情ではない。私は安心しながら、指定の場所を見る。湯浴飾駅と書いてある。これは、乱槐町において第三の都市と呼ばれる大都市のことだ。ここに行けば、若者が欲しがるものはほとんど手に入る。湯浴飾通りにある店はほとんどが一週間で閉店と開店を繰り返す。サイクルの恐ろしく早い通りだ。そこの駅で、取引相手は取引をしようと申し出ている。なんとも非効率的な場所であるが、相手の指定に従うのが、私の仕事でもあるのだ。私は諦めて残りの文字を読み、赤いマフラーと緑色のサーフボードという単語を認識して、「取引の件で」という呪文を完全に記憶した。ノートパソコンはもう用済みになってしまったので、捨てるかバッグにしまうか悩んだが、今後のことも考えて、バッグにもう一度しまい込むことにした。

 さあ、電車に乗らなければならない。

 バスでもさほど問題のない距離ではあるが、乱槐駅から湯浴飾駅まで向かうには電車の方が良いのである。六帖線ほど快適とは言えないが、しかしそれなりに快適な電車が、何本か出ているのだ。五分に一本の間隔で、電車は出ている。それに乗れば、大体乱槐駅から湯浴飾駅までなら、十分で到着するだろう。私はこれからの行動を決めると、すぐさま実行に移すことにした。

 乱槐駅に入るには入場料金がいる。入場料金は五円だ。以前は入場券を発券していたようだが、入場料金に対して入場券の紙代が馬鹿にならないという理由で廃止したらしい。まあ、五円で五円未満の入場券を出すのなら入場料金を取る必要はないことは普通赤子でも分かるだろう。恐らく、この駅で以前働いていたのは、赤子ではなく、胎児なのだ。胎児はまだまだ頭が良くないから、大目に見てやらなければならない。

 入り口に設けられた五円箱と呼ばれる入場料金投入箱に五円玉を入れて、私は乱槐駅に入場した。実は入場料金を払わなくても駅には入れるが、それがバレると、駅員にとやかく言われるのである。少なく見積もっても、十分はとやかく言われる。五円玉の歴史から、五円という価格設定の素晴らしさ、そして乱槐町の歴史に至って、簡潔に、十分である。そしてその後、結局五円を請求される。観光客の間では、これを利用して歴史を聞くという行為が裏技と称されているようだが、生憎と今の私にはそんなことをしている余裕はない。時は刻一刻と迫っている。社会人である以上、出来れば待ち合わせ時間には遅れたくないものだ。

 私は乱槐駅にある、切符売り場の前に立った。切符売り場は木製の下駄箱のようなものであり、利用方法は至極面倒臭い。慣れないうちは徒歩で次の駅に向かった方が早いが、しかしそれでは切符の購入に慣れることは出来ないから、やはり慣れないうちであっても、切符は購入するべきだ。何事かに慣れるには下手でもそれを繰り返すのが一番である。私は天井に大きく書かれている料金表を見上げて、乱槐駅から湯浴飾駅までの電車賃を調べる。料金は二百三十円である。私は二百三十円を下駄箱の横にある硬貨投入口にきっちり投入して、「230」と書かれた下駄箱を開き、そこにある木の札を取った。これが乱槐駅の切符である。紙を使わないので非常にエコロジーであるが、しかし少ない値段で切符を買う輩もいるので危険である。私は大人であり、社会人であるが故、そうした馬鹿げた真似はしないのであるが、そうした人間が存在しているというだけで腹が立つのだ。私は何故か憤慨ふんがいした気持ちを静めながら、木製の切符を持って、改札口に向かった。

「おう……兄さんよう、兄さんよう」

 私を呼ぶ声がしたのではっと右側を向くと、恐ろしいことだ! そこにはなんと液体がいた。液体だ。液体である。なんということだろう……私は恐ろしくなって、一瞬退しりぞいた。この時ばかりは流石の私もすずるかんぬと退いたものである。ずるりと退く経験は未だにあるが、すずるかんぬと退くのは、何年ぶりか見当も付かない。

「兄さんよう……おう、そこの兄さん。バッグを持った兄さんよう……ちょっと話を聞いちゃくれんかいな。なあ、いいだろう、兄さんよう……」

「失礼だが、私はこれから湯浴飾駅まで向かわねばならん。液体と会話をしている暇はない」

「そう言わんでさぁ、兄さんよう……たった三十秒で済む話さ。なあ、いいだろう? 三十秒さ。キッチリ三十秒。それ以上は取らせないからさぁ」

 液体の恐ろしいところは、気分を害するとすぐに気化するところにある。液体が気化することほど恐ろしいことはない。私はすっかり、液体を無視することを諦めた。まあ、電車は何本も来るのだから、三十秒なら良いだろう。私はバッグを背後に回して、液体との会話にのぞんだ。何せ三十秒だ。液体は気化するという恐ろしい特性を持ってはいるが、話せば分かる液体であるし、嘘はつかない。三十秒なら待ってやっても構わないというのが、私の判断だ。

「それで」私は口を開いた。「話してみたまえ、液体」当然のことだが、液体には強気な態度が重要だ。

「兄さんよう」と、液体は言う。「俺っちはよう、液体だから、仕事がねえんだぁ。だけどよう、俺っちは心之楠このすくまで行かなきゃあならねえんだぁ。何故ってよう、心之楠には俺っちのお袋がいてよお、そのお袋がよお、もう寿命で枯れっちまいそうなんだあ。だからよう、俺っちを心之楠まで連れていくかよう、お金を恵んじゃくれねえかよう。なあ、いいだろう? 今日は毒素がつええんだ、外に出たら死んじまうよぅ。歩いて心之楠に行くのは無理ってもんだろう?」今にも泣きそうな声だったが、液体が涙を流すはずはない。悲しそうな液体に、私は仕方なく、心之楠までの電車賃である百七十円を恵んでやる。ぽちゃんこと音がして、硬貨は液体に包まれた。このくらいの恵みは、どうってことのないものである。気化に比べたら、百七十円など、ちりに等しい。

「ありがってえ、ありがってえよお兄さん……すまねえなあ、この借りは、必ず返すでよう。必ずだ! 液体は約束を破らねえし、嘘もつかねえでよう!」

「知っている。だが私は急いでいるのでな、液体。お前と話している暇はない。そして三十秒は過ぎた。さらばだ、私は湯浴飾駅に向かう」

 颯爽さっそうと、私は液体から離れた。液体はまだ感謝の意を告げているようだったが、勘弁して欲しいところである。私は改札口に向かい、そこにいる顔のない駅員に木製の切符を渡した。駅員はそれを受け取ると、私が切符を差し出すのに用いた左手を取って、「ああ……今日は良い一日になるよ」と言いながら、乗車の証明である判子を押した。判子には『乱槐』という文字がデフォルメされた印が刻まれているのである。最近の若い子どもはこの捺印なついんを嫌がるというのだが、このただよ朱肉しゅにくの匂いがなんとも良いのだ。私は駅員に、「そちらも良い一日でありますように」と告げて、改札を通り抜けた。

 駅のホームにある黒板を見ると、次の湯浴飾行の電車は二分後に到着するようであった。公共機関を利用しすぎな気もするが、これが最も効率的であるし、一度乗ったのならば何度乗ったところでその回数は「今日は公共機関を利用した」の一回であるのだから気にすることはない。私は二分間、何をするでもなく、ただぼうっと時間を消費した。無意味な消費は苦手であるが、同時に好きである。私はバッグを右手に持ちながら、左手に捺印された印から漂う朱肉の匂いに心を癒しつつ、電車の来る方向を眺めた。

 しばらくして乱槐駅の三番線ホームに辿り着いたのが、乱槐駅から湯浴飾駅を繋ぐ電車、月鏡線げっきょうせんである。月鏡線の速度は速い。私は丁度良いタイミングでこの電車に乗ることが出来たのだ。もしあそこで液体に話しかけられていなかったら、他の電車にかち合っていたかもしれない。そう思うと、液体にも感謝したい気分になるが、液体に感謝したところで見返りはない。液体はそういう液体だ。私は下車する人間がいなくなるまで待ってから、月鏡線に乗車した。座れる余裕はあったが、たったの十分程度である。私は立つことに決めて、吊革に掴まった。最近はあまり利用されていないようだが、いつも六帖線にばかり乗っている私にとっては、月鏡線のような電車は珍しいのである。特に、吊革のある電車は、珍しいたぐいだ。

 月鏡線の扉が閉まり、発車を告げる鈴の音が鳴り響いた。この鈴の音は透明で心地良い。私は神楽府の雰囲気、つまり乱槐町の空気が好きだった。一言で言って、古風なのである。弓革ゆがわ市のような閉鎖的な古さではないのだ。……ああ、そういえば、あの子ども、ちゃんと親戚に会えたのだろうか。私はあの子どもと楽しい時間を過ごしたと感じたあまり、自分に毒だと判断して結局中途半端な別れをしてしまったが、今になって思うと、親戚と会うまで付きそうべきだったかもしれない。あれだけの知恵があるとは言え、あの子どもはまだ五歳だ。こうして六帖線から抜け出して世界の中に戻ると、五歳というのは小さい年齢だということを思い出す。

 月鏡線の中を見渡してみても、五歳の子どもが一人で乗っているということはないようだ。誰もが親と一緒である。それが普通なのだろうか。しかし普通などというものに大した価値はないのだ。私は思い直し、ガラス戸の向こうに見える景色を眺める。乱槐町特有の古風な景色が広がっていた。折り鶴も飛んでいる。昨今の乱獲が問題になっているとは言われているが、やはりいるところにはいるのだ。電線の上に色とりどり並ぶ折り鶴の姿は、やはり圧巻の一言に尽きる。少し視線を下にずらせば、道路では風車かざぐるまが渋滞していた。乱槐町の道路事情はやはり難しいようだ。乱槐町に来るのであれば、やはり公共機関を利用するべきである。少なくとも私はそうしている。車に乗ってきても、乱槐町では風車の方が優先されるのだから、メリットは全くと言って良いほど存在していない。あるとすれば、密室の空間で自分以外の誰とも会わずに移動出来るくらいなものか。しかし、隣り合った人間が全て他人である今の時代であれば、車での移動も、電車での移動も、バスでの移動も、ましてや六帖線での移動も、似たり寄ったりというものだ。心之楠に存在する続金地蔵つづかねじぞうの地蔵さんの言葉を借りて言うならば、「臓物もつ煮たり、酒酔ったり」というやつである。

 そうして毎日乱槐町に来ているくせに、久しく乗っていなかった月鏡線の旅は、あっと言う間に終わってしまった。私は残念に思いながらも、風鈴の音で、仕方なく、下車を開始した。月鏡線でもう少し遠くまで行きたい気持ちもあったが、私は社会人である。気持ちは切り替えなければならない。開いた扉からホームに降り、湯浴飾駅の独特の装飾に、さっぱり月鏡線のことは忘れることにした。至るところにつたが絡まっていて、花が咲き乱れている。木製のホームで、床はまるで木造建築の学校そのものである。私はもう少し仕事をしてお金を貯めたら、実は湯浴飾町に住みたいと思っているのだが、いつになったらその野望は叶うのだろう。叶えたい野望は山ほどあるのである。

 改札口に向かい、今度は顔のある駅員に、左手を見せる。「ああ、どうも、ご苦労様です」と一言ひとこと言って、駅員は私を通してくれた。すばらしく迅速じんそくな対応であったので私はすっかり気分を良くした。これであとは、この駅のどこかにいる取引相手を探すだけである。

 私は改札口を抜けて、立ち止まり、記憶を再生する。そう、記憶の再生とはつまり、あの本である。ノートパソコンを開くことがもっとも建設的であるように思うが、あまりに確認しすぎるのも勿体ない。それに、本であれば何度も繰り返せるではないか。私は何故さっき乱槐駅でノートパソコンを開いたのか不思議に思いながら、バッグの中から文庫本を取りだし、私が先ほどノートパソコンを開いた箇所が記述されているページを開いた。


 松尾呉肋です。電子メールで失礼いたします。

 本日の取引の確認をさせていただきたいと思います。

 本日正午、神楽府は乱槐町の湯浴飾駅におきまして、羽の生えた猫と、現金八十万円を交換する。この通りでよろしいでしょうか? 何か不備がありましたら、お知らせください。

 なお、当方、赤いマフラーと、緑色のサーフボードを目印に持って参ります。お声をかけてくだされば反応しますので、「取引の件で」と話しかけてください。

 では、快い取引を望んでおります。


 ページにはこう書かれていた。寸分すんぶんの狂いもない。現在の時刻は、正午丁度である。一分遅れでも、一分前でもない。完全に正午丁度である。私は気分を良くする。そう、正午という瞬間は絶対時間にして大体五分ぐらい存在しているので、この間に取引相手を探すことが出来れば、私の仕事ぶりは評価されるはずなのだ。評価されないなどということは有り得ない。私はすぐに、赤いマフラーと緑色のサーフボードを探す。問題は緑色のサーフボードが例のサーフボードであった場合、彼は人間ではなくなるということである。海が赤いことや、嘘が愛である場合は良いとして、足が多いのは考え物である。タコやイカであった場合、どう対処すべきだろう? 私はそう考えながら、湯浴飾駅の中を彷徨さまよった。

 海は赤い。空は白い。声は青い。人は暗い。足は多い。月は遠い。夜は嫌い。朝は無い。嘘は愛。形は戻らない。答は築かない。涙は答えない。緑は流れない。ぶつぶつと、暗唱あんしょうするようにこぼしながら、私は駅内を歩く。そういえば、先ほど月鏡線から見た空は白かった。乱槐駅の駅員も暗かった。今の時刻は朝ではないし、これだけで三つの条件が揃ってしまっている。さらには緑色のサーフボード。私は嫌な予感をひしひしと感じながら駅を歩いていると、そこに突然、青い声が飛び込んだのである。

 また青い声である。

 残念なことに、私は青い声が青い声だということは理解していても、それを訳することは出来ないのである。

 また青い声である。

 今となっては英語が話せるが、小さい頃は英語は聞き取れなかったものだ。それが英語だと理解してはいても、何を喋っているかは理解出来なかった。青い声は、それに近いものを持っている。私は青い声を認識出来るが、何を喋っているかは理解出来ない。どうするべきだろう。しかし、赤いマフラーと緑色のサーフボードは見つからない。どうするべきか迷っているところに、まるで天啓てんけいのように、打開策が私の頭をかすめたのである。

「取引の件でー!」

 私は大声を上げた。そう、この発言をするようにと確認メールには書いてあったのである。私は呪文を繰り返す。

「取引の件でー!」

「兄さん、ここだよ、ここ」

 すると私の足下あしもとから、今度は人語が聞こえてきた。声の色は透明だ。青いもやは消えている。私が足下に視線を向けると、そこには立派に仁王立ちする、ブーツに、作業用の繋ぎを着て、さらに赤いマフラーを巻き、背中にサーフボードをくくりつけた、小粋こいきな猫が居たのである。私は一瞬仰天ぎょうてんしそうになるが、驚くのは今ではない。私は冷静さを保つ。まったく、非常識なのは私だ。取引相手に対して仰天しようなどと、なんたる心持ちだろう。

「松尾呉助様でしょうか」私は訪ねる。

「ええ。私が松尾呉助です」丁寧な日本語である。声だけ聞けば、私よりも数倍日本人らしくすらある抑揚よくようであった。「いやあ、うっかりしていました。猫であることを、うっかり、言い忘れていました。すみません」そう言いながら、松尾さんは頭を下げた。私もそれに対して頭を下げる。これは当然の礼儀である。

 松尾さんの足は、なるほど、四本であった。前足という可能性をすっかり忘れていたがために、私は彼を怪物か何かだという可能性で考えていたが、猫や犬なら前足を含めて足が四本でも問題はない。人間にすれば、四本という数は二倍だ。二倍はいかなる場合でも、少ないか多いかで言えば、多いだろう。ということは、やはり、海は赤く、形は戻らないのだろう。だから私は、松尾さんとのこたえきずくことは出来ない。残念ではあるが、これは真実の取引ではない。しかし、取引は成立するだろう。どこかで嘘をついていても、取引自体に影響はないはずだ。何故ならそれは愛であるからだ。

「それでは早速、取引をしたいと思うのですが、松尾さん、よろしいでしょうか」私は言いながら、少しだけ体をかがめる。「今ここでもお渡し出来ますが……どこか、場所を移しましょうか? あまりに目立ちますし」丁寧に、私は言う。それがマナーである。

「ああ、そうですね。いや、うっかりしていました。場所のことを、うっかり、言い忘れていました。すみません」松尾さんは頭をきながら、そう言うのである。姿形は猫そのものであるのに、まるで人の良いおじさんである。年齢は私より上だろうか? 実年齢は低いだろうが、人間に合わせれば恐らく、私より年上であるはずだ。猫は魔女の遣いであった過去があるくらいだ。知能が発達していて不思議ではない。

「それでは駅の中にある喫茶店でも行きましょうか。ああいや、それとも湯浴飾の喫茶店にしましょうか?」私はバッグの中から地図を取り出しながら言う。「私はこの辺、あまり詳しくありませんが」

「ああ、そういうことでしたら」松尾さんはひょいと私の肩に飛び乗って、前足を伸ばして地図のある場所を指す。「ここの喫茶店に行きましょう。ええ、ここは私の行きつけでして。もちろん、お代は私が持ちますので」

「そんな、申し訳ないですよ」私は形だけ否定するが、これは社交辞令というやつだ。松尾さんが勧める喫茶店に行くのであれば、松尾さんがおごるのは当然であり、それを私が一度否定するのも、また当然である。そして松尾さんは予定調和のように、「いえいえ、私が奢りますよ」と言った。これで儀式は終わりである。「それでは、参りましょう」

 私は肩から飛び降りた松尾さんの後をついていくことにした。湯浴飾には何度も来たことがあるが、地理的に詳しいかと言えばそうではない。それに、やはり地元民に案内して貰うのが一番だろう。猫だけあって身軽に移動する松尾さんを追いながら、私は湯浴飾通りを歩いていく。ありとあらゆるものがここでは手に入るのである。洋服から始まり、ブランド物も手に入るし、食器、食材、機械、本、ゲーム、手に入らないものは恐らく自然素材ぐらいなものだろう。月や太陽、星などの所有権は、月屋、太陽屋、星屋でしか買えないし、それは神楽府には存在していない。あれは確か、宴磊府えんらいふにあったのだったか。私は月や太陽や星に興味がないので知識に乏しいのだが、その辺の店は宴磊府にあるのが望ましい。イメージとは強烈なものだから、恐らくそこで間違いないだろう。

「兄さん、ここを左に曲がります」

 松尾さんに言われた通り、私は角を左に曲がった。所謂いわゆる路地裏というところだ。空き缶や虫、雑草がひしめき合い、周囲には住所を失ったヒトモドキがうつむいて存在している。関わり合いになるのは得策ではない。液体ほど厄介ではないが、彼らは嘘をつく可能性があるので問題だ。しかし、松尾さんと一緒にいる以上、嘘は愛である。愛ある嘘ならば、そこまで酷いようにも思えないので、絡まれたら一発鼻柱をへし折る程度にしておいてやろう。

 松尾さんに導かれるままに歩いていくと、いつの間にか私は森に出ていた。湯浴飾通りという若者の中心地から少し歩くだけでこんな閑静かんせいな森に出るとは予想だにしていなかった。これは良い場所を教えてもらったものだ。あとで地図にバツ印をつけておくべきである。

「さあ、つきましたよ」松尾さんはにこやかに言いながら、喫茶店の玄関にあるマットで足を拭いたあと、一度の跳躍で私の肩に乗ってきた。こうした気遣いの出来る猫は素敵である。私は、「わざわざ案内していただいてすみません。いやあ、素敵な喫茶店ですね」と軽薄な感想を漏らした。しかしそれは軽薄であると同時に事実でもある。私はこんなに自然に言葉を漏らすことが出来る自分に驚きつつ、喫茶店の扉を押し開けて、中に入っていった。

 喫茶店は洋風である。店名は、『砥鴉とがらす』と言うようだ。洋風であるのだが、しかし日本の古風さも持ち合わせている店構え。言うなれば洋古風だろうか。ハイカラという言葉が似合う場所である。桂天学舎けいてんがくしゃとどことなく似通った雰囲気があると、私はそのとき気づいたのだが、それ以上発展した思考に至ることは、そのときは、なかった。あとで思えば、それは悔やまれることである。あのとき、やはり駅の中で取引を済ませておくべきだったのだ。と、そう、数分後の私は、感じることとなる。しかしもう私は扉を押し開けてしまっていた。今更駅に戻って取引をしまようとは言えない。言えるはずがない。言ったら私は大馬鹿である。肩に乗っている松尾さんを落とさないように動揺を抑え、私は喫茶店の中に入り、扉を閉めて、立ちつくすことになった。

「やあ店長、久しぶりだな」と、松尾さんは脳天気に言った。そして、私はその店長に見覚えがあったのである。本当に、まったく、恥ずかしい限りだ。この雰囲気から、この事態を察するべきだったのである。否。こんな場違いな場所で場違いな喫茶店などというものを開いている店長の人間性を疑い、そこから思考を飛躍させ発展させるべきだったのである。しかしもう時は遅い。時は戻らないのである。私は諦めて、松尾さんに続き、「失礼します」と、そう言ったのだ。

「………………………………………………ょぅ」と、一人も客のいない店内で気持ちよくパイプをかしている人物を、私は知っていた。彼女は桂天学舎の学徒がくとの一人である、紫狂島むらさきくるいじま桜古さくらこと言う名前を持った、二十一になる少女であった。桂天学舎においてもっとも若い学徒であり、もっとも学徒歴の浅い新入生である。私はこんなところで同級生に会うなんて思ってもみなかったものだから、何故か気恥ずかしくなった。同級生とはそういう生き物である。ましてや仕事中に、である。自分の仕事ぶりを同級生に見られることほど屈辱くつじょく的なことはない。しかし、かと言って、何も出来ないのだ。私は大人しく、「さあ、兄さん、座ってください」と松尾さんに案内されるまま、席についた。木製の椅子は座り心地が良い。現時点で素晴らしくないのは、店長が私の同級生であるということだけだ。

「なんにする」

 ぶっきらぼうに、パイプを噴かしたまま、紫狂島は私と松尾さんに尋ねる。松尾さんは「私はミルクをいただこうかな」と、至極しごく猫らしい発言をし、私は簡潔に「コーヒーを」と答えた。もしかしたら紫狂島は私のことを覚えていないかもしれない。桂天学舎は変わり者だらけであるから、他人のことなど記憶していない節がある。そう思って私が紫狂島の方を見ると、「……久しぶり」と私の目を見て、間違いなく私の目を見て頬を染めながら、紫狂島は言ったのだ。私は愕然がくぜんとすると同時に、胃袋に鉄球を詰められた感覚におちいった。否、感覚どころではない。間違いなくその瞬間、私の胃袋には鉄球が詰められていただろう。恐らく、これは彼女の特技なのだ。いや、あるいは、知らぬまにピラニアにほぞを盗まれて、そこに開いた穴に鉄球を詰め込まれたのだろうか? 疑問は尽きない。焦りも尽きない。

「いやあ、遠いところわざわざ、ご足労なすって、兄さん」松尾さんはにこやかにそう言った。どうやら椅子が低すぎるようで、座れないようだ。今は机の上に丸まっている。こうして見ると、ただの猫である。猫という生き物は、本当に不思議な生き物だ。私はすっかり松尾さんに魅了されていたが、ふと我に返り、「いえ、仕事ですから」と、面白みの欠片もない返事をしていた。

 私はそして、バッグに手をかけて、「それでは、お品物ですけど」と商品を取り出そうとするが、それを松尾さんに止められてしまう。「どうしました、兄さん、何か、焦っているんですか? それとも、いているんですか? うっかり、焦ったのだとしても、うっかり、急いたのだとしても、まずは飲み物の到着を待とうじゃありませんか。私たちは、取引が終わってしまえば、関係も終わるのですから。それまでは、取引待ちの関係で、仲良くしようじゃありませんか」

 松尾さんの猫の瞳は恐ろしい深さを持っていた。そして言葉にも、恐ろしい深みをたずさえている。私はその瞬間、松尾さんに抵抗なんてことが出来るはずはないと悟った。「すみません、それもそうですね」と一言言って、バッグを床に置く他なかったのである。恐ろしいとはこういうことなのであろうか? いや、これは恐ろしさではない。私自身が持っていた痛い部分を突かれたにすぎないのである。これが六帖線において子どもに説教を垂れた、大人の行動なのか? 私は自分自身をたしなめる。まったくけしからんことである。同級生がいるくらいで取り乱すなど、大人の対応ではなかった。

「しかして、兄さん」松尾さんは目を三日月型に、口元も同様にして、完璧なまでの笑顔を作り、机の上を私に向けて歩み寄ってくる。緑色のサーフボードは私のバッグと同じように床に置かれているので、四つ足で歩んでも邪魔にはなっていない。「どうにも、こうにも、そうにも、ええ。兄さん、ここの店長と顔見知りなんですか?」松尾さんは小声で、一応は気を遣いながら、言葉を発しているようだ。しかしその表情には、笑顔の他に、たくらみが見える。それは負の企みではなく、正の企みであるようだが、俗に言うおせっかいであるように私には思えた。「どうなんです? 兄さん」

「は、ええ?」

「いいじゃないですか、教えてくださいよ。お二人がどういう関係かは知りませんが、顔見知りなんだろうってことくらい、仕草しぐさで分かります」

「ええ、そうですね……確かに、私はここの店長と接点があります」私は観念して、言葉を選びながら言う。どうにもこの松尾さんという猫は、初対面であるはずの私に対して、至極親密な対応を取っているようだ。馴れ馴れしいのは嫌いではないが、苦手であることも事実である。「俗に言う、同級生なんです、ええ」

「同級生! そいつはまた、なんていうか、ええ、兄さんは見た目よりお若いということなんでしょうかねえ?」松尾さんは多少興奮気味に、私の話を受けた。「確か、ここの店長さんは、成人なすったばっかりと言うじゃあないですか。いや、そうか、別段、同級生が必ずしも同年齢ってことはありませんよね、ええ。それに、十九歳を何度か経験していれば、勘定も合わなくなるってもんですものねぇ。私はそう、猫ですから、一年に一歳、定められたように歳を取りますが、人ってぇのは、何度も何度も、同じ歳を繰り返すことが、あるんでしたっけねぇ。いやあ、うっかりうっかり」松尾さんはそう言うが、どうにも私に合わせて話をしているようにしか思えなかった。つまるところ、松尾さんは私に染み込んで来ようとしているのである。嫌いではないが、やはり苦手である。主導権を相手に染め上げられてしまうのは、八歳の頃から、苦手であるのだ。

「ところで、兄さん」

「はい」

「いつの同級生なんですかい?」

「ええ?」

「教えてくださいよ」

「いや、しかし」

「いいじゃあないですか、兄さん、ね」

「いや、彼女の意向もありますから」

「ケーキもごちそうしますよ」

 なんということだろう、なんということだろう! ケーキ? ケーキと今、松尾さんは言ったか? 洋菓子である。焼き菓子である。私は実を言えば、焼き菓子が好きだ。洋菓子に目がない。耳も口もないのだ。好きの度合いは世界的に見たら非常に小さいかもしれないが、しかし、少なくとも、六帖線で食べた飴玉よりははるかに好きである。私の胃は既に錯覚を起こして胃液をどろどろと噴出している。「ねえ、ケーキ、お好きな顔をしてらっしゃる。私は猫ですから、そう、ミルクで十分ですけでどね、人って生き物は、ケーキがお好きでしょう?」にんまり、と。にたぁ、と。にこにこ、と。笑顔の擬音をふんだんに振りまきながら、松尾さんは言った。恐ろしい。私は完全に、松尾さんに握られていた。そう、握られていたのだ。私が持つ、ありとあらゆる権限。そう、忘れていたのは私だ。今更弁解の余地もないが、忘れていたのである。

 猫は魔女の遣い!

 猫は魔女の遣い!

 猫は魔女の遣い!

 三度唱えれば、もう恐らく、忘れることはないだろうが、しかし今、既に捕らえられている。今後は忘れないようにするとして、今回は、大人しく捕らえられるしかないのであろう。ああ、どうして気づかなかったのであろうか。魔女の遣いである生き物が、魔術に長けていないはずがないのである。魔法とは呪文であり、呪文とは言葉ではないか。すっかり、うっかり、私は握られていた。

「松尾さん、あなたも猫が悪い……」私は観念して、私の側のテーブルの上に、あぐらをかいて私を見上げる松尾さんに、そっと耳打ちをする。「私と彼女は、桂天学舎の同級生。いえ、正確には、同学徒です。お恥ずかしいお話ですが……」そっと耳打ちを終えると、私は目を閉じて、観念する。自分が桂天学舎の学徒であることを教えることに恥じらいという感情は持っていないものの、何らかの反応をされるというこの瞬間だけは、いつも慣れないのである。

「ほーう、桂天学舎ですか」松尾さんは驚いたように言った。しかし声は控えめである。必要な限りの常識は持っているようだ。「それは、それは、また、兄さん、あなたも、そして店長さんも、頭がよろしいと見える」

「いえ、頭が良いなんてことは、ありませんよ」私はやんわりと否定した。「桂天学舎という場所は、入ることがそもそも愚かなのです。大人なら誰でも入れる学舎に入ることは、頭の善し悪しには関係ありませんよ。ええ、それは頭の良さではなく、要領と容量の良さかもしれません」

「ふむ、兄さんの言うことが正しい」松尾さんはあっさりとそれを認めた。「なるほど、頭が良いという言い方は、なるほどなるほど、少しまと外れでしたな。いやしかし、他者に分かりやすく事柄を説明出来るのは、頭の良さにも通ずる。桂天学舎云々うんぬんではなく、あなたの場合、基本的に、頭が良いのでしょう」

「光栄です」私が頭を下げると、松尾さんはまた三日月三つで構成された笑顔を作り、机の上を四つ足で歩み、元の位置に戻った。そして肉球と肉球を打ち合わせながら、「てーんちょーう」と、紫狂島を呼んだ。

 数秒の沈黙があったが、しかしすぐに紫狂島は二つの手で二つのコーヒーカップと一つの深皿を持ってやってきた。喫茶店の店長というだけあって、給仕きゅうじ能力には長けているようだ。同級生の意外な一面を見たというところだろうか。

「呼んだかい、松尾さん」と、紫狂島はコーヒーカップを私の前に、深皿を松尾さんの前に、そしてもう一つのコーヒーカップを机に下ろして、それをソーサーから取って、口元に運んだ。絹糸きぬいとえてらしているように直線すぎる髪の毛が黒く、また服装も同様に黒い。肌はあまりに白いので、紫狂島は名前に似合わず黒と白が基本的なカラーなのである。そして、その声は松尾さんに向いているはずなのに、視線の一切を私に向けているのだ。私は目を逸らすことも出来ずに、ただ固まっているしかない。

「ケーキを、一つ」松尾さんはそう告げた。「こちらの兄さんに、ごちそうしてやってください。一番上等なやつを頼みますよ。私はケーキの善し悪しは、一切合切、分からないものですから」松尾さんはそう言い終えると、深皿に並々盛られたミルクをぺろぺろと舐め始めた。こうした行動を見ているだけでは、どう見ても猫そのものである。いや、猫なのだから、それで構わないのだ。

「ふぅん…………」紫狂島は私に視線を固定したまま、今度は声まで私に向けてきた。「何が食べたい?」と、リクエストまでつのるのである。私はおびえながら、どう答えるべきか思案したが、しかし私は年上であり、桂天学舎においても、同級生とは言え年数的には先輩である。引け目は一切ない。私は少々いさんだ声で、「では、ショートケーキを」と答えた。

「ショートケーキ……何味の?」

「味?」

「何味のショートケーキが食べたい?」

「ショートケーキは……はて、何味だ?」

「さあ。私のショートケーキと、あんたのショートケーキは、違うかもしれない。あんたの考えるショートケーキと違うものを出すのは、私は嫌だ」

「そうか、それはつまり……」私はしかし言葉に詰まる。ショートケーキとは何味なのだろう。苺味か? いやしかしショートケーキ自体は苺味ではない。では生クリーム味か? しかしスポンジまで生クリーム味はしないだろう。あれが一体何味なのかと問われると、私は答えにきゅうする他ない。味とはなんだ? そもそも、私の考える苺味と、紫狂島が考える苺味は、必ずしも同一のものなのか? どうなんだ、一体、ええ? どうなるのが一番いいんだ?

「……では、日本国内においてもっとも一般的なショートケーキを頼む」私は最終的にそんな陳腐ちんぷな言葉で注文を確定させた。「私や君の好みや嫌いに左右されない、もっともシンプルでポピュラーなショートケーキを頼む。その結果、どんなショートケーキが出て来たとしても、私は文句は言わない。だから、それを頼もう。お願い出来るか」

「あんたは、それで満足する?」紫狂島は、コーヒーカップを左手に持ち、右手を左手の上腕二頭筋の上に固定させ、私を見下ろすように、見下すようにしながら、そう言った。「本当に、満足してくれる?」

「もちろんだ」私は勇んで答えた。男の辞書には二言という項目は存在しない。それに準じたものは弁解と撤回である。であるからして、私は最高の男気を発揮することが出来たはずだ。「ショートケーキを一つ、頼もうではないか!」勇んだまま、私は言った。

「……うん、待っててね」

 紫狂島はコーヒーカップを机の上に置くと、店の奥へと向かっていった。私はショートケーキが注文出来たことに、この上ない満足感を得た。幸せなことである。松尾さんとの取引において、こんな幸せが待っていたとは。久しぶりの幸運である。良い仕事だ。何しろ、ケーキは誰かにご馳走される以外で食べる方法がないのである。

「兄さん、兄さん」私と紫狂島の会話中、一切の時間、ミルクを飲むことに熱中していた松尾さんは、立派なひげにミルクのしずくを携えながら、小声で私を呼んだ。そして、こんな発言をしたのである。

「なんです、あの店長の反応は」

「はい?」私は思わず聞き返す。

「今の店長の反応ですよ。なんたってことですか、あの陶器のように白い、いや、冬期のように白い店長の頬が紅潮こうちょうしていたじゃあないですか。見ましたか? いやいや見ていないはずはない。私は猫ですからね、人の女性に興味なんざぁありませんが、しかして一体、あの態度はどうです? びっくりしましたよ私は。いやはや、なぁんだ、はは……時期っていうのは、来るものなんですね。ええ、そう、偶然と言いますか、定められていたというかねえ……」松尾さんは言葉の後半を独り言でつむいでいた。私はその独り言の意味をつかめないでいる。「……まさか、ええ、兄さん、あなたがそうだったとは、私も驚きです。これも何かの縁なんでしょうかねえ」

「すみません、松尾さん」私は思わず口を挟んでいた。理解の出来ない話は、まず理解から始めなければならない。「あの、一体何のお話をされているんですか? ちょっと、私には分からないのですが……」

「ああ、すみません、あまりの驚きに、うっかり……ええ、ええ。そう、まずはここから話しましょうか。私と店長の付き合いは、もう、かれこれ四年ほどになりますかね。彼女が十九歳の頃からの付き合いになります。そう、彼女も何度か、十九歳を繰り返しているようですが……事の起こりは、彼女が二十歳になった頃ですかねえ、なんでか急に、彼女が色気づくようになりまして。はは、こんな言い方、女性に失礼ですかねぇ。まあ、とにかくね、彼女、お化粧なんかしたり、身嗜みだしなみに気を遣ったりし始めたもんで、尋ねてみたんですよ。何か良いことでもあったんですか、って。そうしたら彼女、恋をしたと仰いましてね……まあ、でも、身嗜みに気を遣っても、表情まで変化することは今までになかったんですが……いやぁ、四年も付き合っていて、あんな店長を見たのは初めてですよ。いや、間違いない。店長が恋をしてるのは、兄さん、あんたですよ。間違いない。け合います」

 私は松尾さんの言葉の意味を理解するのにキッチリ八秒をようした。紫狂島が私に恋? そんな馬鹿なことがあるはずがない。信じられない。どういうことだ。私は誰かに好かれるなどということがないと決めつけて生きてきたのに、こんなことがあって良いのか。いや良いはずがない。私はどこかで話を理解し間違えたのではないだろうか。そうに決まっている。「兄さん」確かに過去に恋人らしき生き物はいたがあれは私ではなく私の称号や財産を目当てにしていたはずで、「兄さん、」私が女性に好かれるなどということは有り得ないのだ。断じて有り得ない。有り得るはずがない。有り得て良いはずがないだろう。「兄さん、大丈夫ですかい?」

「私にはにわかには信じられない」

「恋なんてものは、突然なんですよ、兄さん」

「いやしかし」

「恋をされる側は、何も出来ないもんです。そういうものでしょう? ええ、ええ、分かりますけどね、諦めて、受け入れるしかありませんよ」

 松尾さんは三日月型の笑い顔を浮かべると、私をニヤリと見据みすえた。なんたることだろうか。紫狂島が? 私に恋? 恋だと? 信じられない。私の人生においてこんな面倒なことが起きてよいのだろうか。果たして私は疑問符を使いすぎてしまった。クエスチョンマークの残り使用回数はあといくつあるのだろう。こんなに頻繁ひんぱん乱雑らんざつに使ってしまうだなんて思わなかった。あとで買いにいかなければならないかもしれない。しかし、本当に、一体、全体、どういうことなのだ。女性に好かれるのは初めてではないが、紫狂島に好かれるのは初めてであるし、桂天学舎の学徒にれられるのもまた、初めてである。まさか紫狂島が……いや私は何を考えているんだ。私はただ仕事に来ただけである。松尾さんに、羽の生えた猫を渡すだけだ。だというのに、その取引に連れてこられた喫茶店で店長をしている同級生に惚れられている? いかんいかん、また疑問符を無駄遣いしている。子どもと会話をしているときは自粛じしゅくしていたのに、これではいざというときに尋ねることが出来なくなってしまう。それは問題だ。避けなければならない。私は溜め息をつき、体の中から乱槐駅に到着した際吸い込んだ紫色の毒素を完全に吐き出した。乱槐町にしか存在しない毒素であるから気分を高揚させるために吸い込んだが、こんな状況になってしまっては意味を成さない。深呼吸の後、コーヒーを一口含む。精神を統一させるにあたってこの泥水は何にも代え難い神の液体である。

「兄さん、そいつは……」鼓動を最小限に無駄なく定着させるためにコーヒーをごくごくと喉に下していると、松尾さんが顔を上げて私を見ながらそう言葉を漏らした。一体なんだと思いながら、最後の一滴を舌にわせたところで、「店長のコーヒーカップじゃないんですか?」私は泥水を霧状にして空中に撒き散らした。綺麗に黒色の液体が宙に舞い焦げ茶色で無色を染めながら弧をえがき光の反射角等々の作用をくぐり抜けて虹を作成しながら一瞬その時私は時が止まるのを確認した。

「兄さん! 落ち着きなさいって、兄さん!」松尾さんは青みがかった大声を上げて私に言う。「すまない、時期を逸して教えたようだ。おーい店長! 悪いが何か拭く物を持ってきてくれ! しまった、ミルクも追加注文だ! これじゃミルクコーヒーになっちまった!」松尾さんにもコーヒーがぶちまかれてしまったので作業用の繋ぎが所々染みている。赤いマフラーにも染みが出来てしまった。なんたることだろう。私はしばし呆然とした。何か全ての出来事がどうでもよくなってしまったのである。仕事の料金もどうでもよくなってしまった。どころか、代金であるところの八十万円で松尾さんの服の支払いとこの店のクリーニング代等々が払いきれるのかすら不安になってきてしまっていた。いやしかし紫狂島には貸しがある。確か一銭玉から一万円札までの全ての種類の硬貨と紙幣を貸してくれと頼まれたので貸したはずである。しかしそれでも多く見積もって一万と八千六百六十六円六銭にしかならない。それではクリーニング代にもならないだろう。果たして私は何故あそこでお金を貸し、紫狂島はお金を要求したのだろうなどということを夢想し思い返し繰り返し揺り返し突き返し巻き返し折り返し切り返し蹴り返しているところに紫狂島が大量の布巾ふきんとタオルケットとバスタオルとティッシュペーパーを持ってやってきた。ケーキはまだ来ない。私は何を考えているのだろう。「あんた」紫狂島が十はあろうというタオルケットを私に投げてくる。私はその優しい香りと柔らかさに包まれたタオルケットを顔面で受け止め、口の周りを拭いた。私はコーヒーを噴いた側であるのでそこまで被害は受けていないのである。大変なのは松尾さんと紫狂島の店であった。

「いやはや……いやいや、はやはや。びっくりしました。うっかりしましたね。そう、小さい頃に友達をからかうような感覚で、ついうっかり」大きなバスタオルに包まれるように、松尾さんは小さな前足で顔を拭いていた。作業着の繋ぎはいつの間にか脱いでいるらしく、マフラーもない。ブーツもない。完全にただの猫である。「つい、ねぇ……いやはや、見事な噴射ふんしゃを見せてもらいましたよ兄さん。あなたは面白い人だ。ああ、そう、気にしないでください。責任は私にあります。仕事にも、差し支えはありませんから、ご心配なく」

「そんな馬鹿な。私には責任があります」私は言うが、松尾さんは前足の肉球を私に向けて、「兄さん、日本語が不自由になってますよ。ええ、気にしないでください。店長だって、このくらい、日常茶飯事ですなぁ? はは、あーどうも、店長。おかげですっかり綺麗になりました」松尾さんはブルブルと体全体を揺さぶってから、ごろりと横になった。「はあ、こんなにはしゃいだのは何年ぶりになりますかね。ちょっと休憩。ふむ。ごろごろにゃあにゃあ」

「大丈夫?」紫狂島がそう言いながら、タオルケットを持って、私に近づいてきた。桂天学舎でならいざ知らず、こんなところで、しかも先ほど紫狂島に関する噂を聞いてしまった私は、まともに紫狂島を見ることが出来ない。「ねえ、あんた」紫狂島の左手が私の右頬に触れる。「ほら、じっとして」紫狂島の大袈裟な瞳が私の瞳を見ている。「コーヒー……」右手に持ったタオルケットで私の口元を拭こうとしているのか、紫狂島の上体が私に近づいてきた。「ついてるから」タオルケット越しに紫狂島の指が私の口元をなぞっていくのが分かり私は背筋のずいを一本ずるりと抜かれた気分になった。

「……綺麗になった」

 紫狂島の薄い唇の端が微かに釣られ、微笑ほほえみのような表情を私に向けた。もしかしたら紫狂島は魔女なのかもしれない。私は何故かそのときそんなことを思った。魔女は呪文と魔眼まがんで心を奪う。呪文は言葉であり、魔眼は瞳だ。魅入みいられながらささやかれた私は、もし紫狂島が魔女であった場合、今まさに取り返しのつかない愚行ぐこうをしたことになる。焦りながら、「ああ、もういい、ありがとう」と紫狂島からタオルケットを受け取って、口元をごしごしと力ずくで拭いた。「それより、松尾さんのミルクを。私が払う」

「いやいやいいんですよ兄さん、面白いものが見られた……はっは、これに見合う価値はそうそうない。ミルクどころか、兄さんが吐き出しちまったコーヒー代だって、いくらでも払いますよ。ああ、面白い。最高だ。こんなに面白いことはない。ああ……店長、兄さんにもコーヒーを」

 すっかり気力を失ってしまっていた私は松尾さんに逆らうことも出来ず、素直にそれに従うことにした。どうにも松尾さんは私よりも何歳も年上である風格だ。猫であることだし、同じ歳の生まれだとしても、年齢は私の方が低い計算になる。私はそのままぼんやりと椅子に身を沈め、コーヒーでまみれてしまったテーブルクロスを紫狂島が音もなく、テーブルの上に乗っている花瓶、深皿、お品書き、コーヒーカップ二つ、さらには松尾さんまでもを動かさずに引き抜くという芸に一瞬心をおどらせ、紫狂島が回収していくコーヒーカップを眺めていた。いつどのタイミングで私のコーヒーカップと紫狂島のコーヒーカップがすり替わったのか理解出来なかった。やはり魔女なのだろうか? 魔女なら魔法を使えてもおかしくはないが、しかし桂天学舎ではそんなそぶりはまったくと言っていいほど見せなかったのに。

「いや、いや、いや」松尾さんはまだくすくすと笑いながら、言葉を紡ぎ始めた。「いや、面白かった。ああ、実に面白かった。兄さん、あなた霧吹き名人になれますよ。ええ、本当に……しかしね、ええ、他人の色恋沙汰いろこいざたに首を突っ込もうなんて、よく考えたら、いい歳こいて私も馬鹿なことをしましたよ。つい嬉しくなってしまいましてね。ええ、ええ……まあ、その話については、後ほどゆっくりいたしましょうか。そう、店長とは四年の付き合いですが、もう娘のような存在なのでね、ついいらんことをしてしまったと、そういうわけです」松尾さんはそこまで言うと、ゆっくりと起き上がって、私を見据えたのである。

「そいでは、お口直しに、大人の話でもしましょうかね。ええ、色恋沙汰は、こっちから、こっちに、置いておきましょう」

「はあ。大人……ですか?」

 何事もなかったように、松尾さんとの会話は再び成立する。それは、あんな社会人として恥ずべきことをしておきながら、それを許容する松尾さんの懐にかれたから起きた現象かもしれなかった。「ええ、大人のお話ですよ」松尾さんはそう言うと、テーブルクロスを失って木目もくめあらわになったテーブルの上をてこてこと歩いて、先ほどのように近寄ってきた。「図区凶館とっきょうかんのことですよ、兄さん」松尾さんは言った。何と言った? そう、その名前には聞き覚えがあった。図区凶館。それは神楽府は乱槐町に存在する、仕事をする場所であった。何をするかと言えば仕事をする場所である。その仕事とは、やはり仕事だ。つまるところ、図区凶館は仕事をする場所であり、それ以外の何ものでもない。仕事の付随ふずいとして、出勤や退社、または泊まり込みは出来るが、そのほとんどの内容もまた仕事であるから、図区凶館を説明するなら仕事をする場所であろう。もしこの場に六帖線で乗り合わせた子どもがいて、その子どもに説明するのだとしたら、私は恐らく「何でもやる仕事場」だと答えるだろう。なんでも屋のビルディングのようなものである。

「図区凶館が、どうかしたのですか?」

「いやいや、乱槐町でする大人の話と言えば、図区凶館に他ならない。大人はみんな、そう、夢のない大人はみんな図区凶館に就職する。そうでしょう?」

「ええ、まあ……安定している職業ですし、図区凶館員ともなれば、リストラもないし、給料は務めれば務めるだけ上がっていく。夕方五時になれば退社も出来る。私の持っている知識はその程度ですか、しかしその程度には、図区凶館について知っています。その図区凶館が……?」

 突然の話題転換についていけない私ではあったが、何とか食いついていくことにした。猫は確かに、気が短いし、自分勝手な生き物だ。よく女を猫に例えるが、一番例えに成功しているのは、この話題の転換の速さである。

「いや、特に意味はないんですけどね」松尾さんはにこやかに言う。「ただ、私も実を言うと図区凶館の職員でして。ええ、まあ今日はお休みなんですけれどね、だからこそこうして、平日の昼間から喫茶店で兄さんのような面白い人とお話をしていられるというわけですが、いやすみません、はっきり申し上げると、少々あなたの人格を試すような発言をしました」松尾さんはせまい額をテーブルにつける。人間であればその形は土下座に近い。「図区凶館という施設に違和感を持ってる人もいるものですからね。図区凶館で働こうなんていうのは、駄目な子どもの将来だとね。だけど、私はそうは思いません。どこで働いていようが、勝手だ。働いていなくたって、人の価値を決めるのは仕事じゃあない。肩書きでもない。称号ですらない。人間ってぇのは、面白いか面白くないか。そういうことですよ。ねえ、兄さん。そして、あなたは面白い人だ。ただの取引で、こんなに笑わせてくれるなんてねぇ」

「いえ、そんな、滅相めっそうもない……」

「私はねえ、人を気に入るとついつい入れ込んでしまうタイプなんですよ。ここの店長が良い例です。仕事で打ち合わせなんかがあれば、決まって私はここの喫茶店に来るんですよ。ミルクは美味しいし、店長の作る焼き菓子は美味しいって評判ですからね。まあもちろん、私は食ったことがありませんが……そういうわけでねぇ、兄さん、何が言いたいかってぇ言うと、そのね、八十万円と羽の生えた猫。それを交換してハイサヨナラってのが、私はちょっと、寂しいなぁなんて思うんですよ」松尾さんは野良猫が甘えるような仕草を私にしてきた。「かといって、友達になりましょうなんて軽々しいこと私は言えない。だからね、そう、たまにでいいから、この喫茶店に寄ってきちゃぁくれませんか」

「ええ、はぁ……この喫茶店に、寄る、ですか。いやしかし、私と紫狂島はその、同級生でして、ええ、同級生の店に来るというのも、気恥ずかしいと申しますか、なんと言いますか、ねえ、その」私はしどろもどろになりながら答える。「先ほども、ご覧になったでしょう、松尾さん。紫狂島の対応は、少々度を超えていると、そう思いませんか」

「美しい娘さんじゃあありませんか。しかも若い。美人だ。人の美醜びしゅうにゃ詳しくありませんが、連れてくる同僚や若造は、みんな店長にお熱ですよ。しかし店長はなかなかね、うんと首を縦に振らない。心に決めた人がいるって言うもんですから。それは図区凶館にいるのかと尋ねても、違いますと答える。だからずっと気になってたんですがね、ええ、兄さん、あんたがそうだっていうんだから、これはもう私の意地みたいなもんでね。お節介かもしれませんが、どうしたって店長の恋を成就じょうじゅさせてやりたいっていう、そういう親心なんですよ。老婆心ろうばしんってぇ言いますかねえ。滑稽こっけい厄介やっかい節介せっかい、って言ってね、兄さんには悪いとも思ってますが、どーっしても、どーっしてもなんです。無理にとは言えませんが、ただ、そう、店長の気持ちもんでやることは出来ませんかねぇ」

 松尾さんは明らかに、私を紫狂島とくっつけようとしている。明らかに、である。魂胆こんたんが見えすぎるのだ。猫は心を隠すような真似をしないということなのだろう。しかし、そんな、突然過ぎて私は上手く言葉を返すことが出来ない。この場は上手く片付けて、正式な思考は先延ばしに出来ないだろうか。何しろ私はこの取引のあと、また仕事を探さなければならないのである。そのために続金地蔵を回らなければならない。こんな不埒ふらちな心持ちで続金地蔵に向かったとなれば、地蔵さんに何を言われるか分からない。不埒がもっともいけないのである。妻帯者さいたいしゃも良い。恋人が居ても良い。ただ悶々もんもんとしている心だけは、地蔵さんも見逃してはくれまい。

「松尾さん」私は考えをまとめて、口に出すことにした。「私は紫狂島を嫌ってはいません。ただ、少し苦手意識を持っているだけです。何せ、同級生の異性ですからね、苦手でないはずがない。しかし、かといって、嫌いでもなければ憎んでもいないし、悪だと思ってるわけでもないんです。ただ、少し苦手なだけ。あまり会話をしたこともありませんしね」それは事実だった。記憶にあるのはやはり金の貸し借りと、あとは紫狂島が昨年の登校日に入学してきたとき、二、三言葉を交わした程度だろう。二回目の登校日で金をせびられたのだから、間違いない。いくら紫狂島であろうと、入学したその日に金をせびるということはないだろう。

「ま、私が言いたいのは、そのことをちょっとふところにね、ふくんでおいて欲しいっていう、それだけのことなんですよ」松尾さんはそう言って、ニヤリと笑った。「ちょっと度が過ぎた言い方でしたね。ええ、ついつい熱くなってしまいまして」

「いえ、そういうことはないのですが……いやはや、とにかく、分かっていただいて光栄です」私は頭を下げる。「これから、じっくりと考えようと思います」そう、特に帰りの六帖線で考えるのが良いだろう。思考を先延ばしにしておけば、地蔵さんから怒られる心配もないはずだ。

「そうですね。焦ることでもない。結論が出なければ一年やり直せばいいことですものね」松尾さんのその言葉はもしかしたら人間に対する皮肉なのかもしれなかった。「ほら、来ましたよ兄さん。さあ、そろそろ喫茶と行きましょう」

 松尾さんの声によって私が視線を店の奥へと向けると、紫狂島が二本の腕でコーヒーカップを二つと、深皿、さらにはショートケーキの載った皿を持ってきた。驚いたのはショートケーキがホールで提供されたことだが、私は昼食もまだだったことであるし、恐らく全て食べるということになっても問題はないだろうと自分の腹とケーキを照らし合わせて見積もった。コーヒーのお代わりさえ貰えれば、食べきれる。それに、ケーキを食べることなど滅多にないのだ。ここで食い溜めしておくのも良い。

「お待たせ」ぶっきらぼうに言いながら、紫狂島はテーブルの上にコーヒーカップ、深皿、ショートケーキを置いた。よく見ると腕の上にも取り皿とフォークを二つずつ載せていた。しかし、松尾さんはケーキを食べないと言っていたはずだ。だとすると、紫狂島が食べるのだろうか? コーヒーカップもあるし、恐らくそうなのだろう。この喫茶店は、客と店員が一緒に喫茶を行うタイプの喫茶店であるようだ。珍しくはないが最近は数が少なかったので、少なからず意識はした。

「それでは、素晴らしい出会いに」松尾さんはそれだけ言って、ミルクを舐め始めた。別段、乾杯の音頭、というわけではなかったらしい。「では、いただきます」私はそう言ってコーヒーカップに手をえ、口につける。先ほども飲んだ泥水であるが、実に美味であった。

「あんたさ」紫狂島が椅子に座り、ぼそりと言う。あんたというのは、恐らく私のことである。私は紫狂島の方を向いて、「ん? 何か?」と疑問符を立て続けに二個消費した。無駄遣いもここに極まっている。もうどうでも良くなってきたらしい。

「久しぶりだね」

「ああ、三ヶ月ぶりくらいになるだろうか」

「学舎がなくて、寂しかった」

「紫狂島は学舎が好きなのか。私は登校するのは嫌いだから、学舎がなくても寂しくはない」

「ううん、そうじゃない。だって、登校すればさ……」

「仕事が休めるからか?」

「そうじゃないー」

 紫狂島はほんのりと朱に染まる頬を膨らませて、いやいやと子どもがするように首を振りながら、私をにらんだ。スッと直線に整えられた前髪が眉を隠しているせいで彼女が怒りの感情を持っているのかうれいの感情を抱いているのか判別がつかない。しかし少しだけ突出つきだした唇を見る限りでは何かが不満なようである。桜古という名前にある通り頬と唇の色合いは美しい桜色であり、瞳はブラックホールに飲み込まれたダークマターよりも黒い。やみ暗雲あんうん漆黒しっこく煮込にこみと言ったところだろうか。あるいはからす色を原料にした黒色クレヨンを光の一切差さない場所で見つけ出すような途方もない黒さである。あまりに見過ぎると、吸い込まれるのは必至だ。私は紫狂島が向けてきた上目遣いの抗議の視線を自分の視線からずらして、そのままその視線をショートケーキに注いだ。注文通り、素晴らしいショートケーキである。ホールであり、八つの苺が乗っている。八等分して食べるのを見越した飾り付けなのだろう。紫狂島に焼き菓子を作る才能があるなどとはまったく知らなかった。私は松尾さんがいる手前紫狂島と気楽な会話をするのは躊躇ためらわれたのだが、松尾さんはミルクを舐めるのに夢中であるようだ。紫狂島に慣れるためにも、私は言葉を切り出した。

「紫狂島は、お菓子を作るのが得意なのか」私は尋ねる。紫狂島の暗黒あんこくの瞳が見開かれ、少しだけ光がした。

「うん……でも、まだ上手じゃないから、あんたには言わないでおこうって思ってたんだけど……」紫狂島は恥ずかしそうに語尾の音量を小さくしぼりながら言って俯いた。これで上手じゃない? 味こそまだ知らないが、見た目で言えば店で売っているケーキの質を三倍以上は越えている。焼き菓子の世界にもし限界があるのなら、このショートケーキはその限界の三歩手前というところであろう。

「十分に上手いじゃないか。それとも味が未熟なのか」私は切り分け用のナイフを手に取り、ケーキに突き刺した。「早速だが頂こうと思う。切り分ける作業は私の趣味とするところなのだ、任せてくれ」

 私はショートケーキを五つに切り分けた。八分の一を二つと、四分の一を三つである。そして私は四分の一のショートケーキを皿に盛って、「紫狂島は、どっちがいい?」と、彼女に尋ねた。

「小さいのがいい」

「君が作ったケーキだ。是非ぜひ食べてくれ。ああ、松尾さんは、ケーキはやはりダメなのでしょうか?」

 私が質問すると、松尾さんは一心不乱に動かしている舌を止めて、地球の核方向へ向けていた顔を上げ、「ああ、お気になさらず。私のことは路上の石ころか、液体だと思ってください。ミルクを舐めるのに必死ですから」とにこやかにいって、また視線を地球の反対側へと向けた。一体何を見ているのだろう、プレートか、地殻ちかくか。猫の考えていることは、ついぞ分からないものばかりだ。

「それでは、早速いただくとするよ。ケーキを食べるのは久しぶりだ」私はフォークを手に、ケーキに臨むことにした。今日、一番最後に食べたのは、確かあんパンだっただろうか。まったくもって、甘いものが好きな私である。

 恐らく分度器ではかっても寸分すんぶん狂いはないであろうという九十度角を、私はフォークの緩やかな曲線でぎ落とす。そのままフォークを落としていくと、クリームとスポンジを分断しながら、最終的には皿の表面へと到着した。分離を余儀なくされたショートケーキの欠片かけらはしかし欠片として完全な個を形成したまま、私のフォークにかれ、静かに私の口元へと運ばれていく。欠片の中心をフォークで支え、その両端は重力に抵抗せずゆるんでいるが、個は崩壊しないままだ。私の口とケーキとの距離が近づくにつれて私の胃袋も刺激されていく。そしてついにその距離がぜろに到着し、果てはマイナスへ向かっていくと同時に私の口の中に甘味かんみが広がったのである。素晴らしい味だ。それはクリームが私の舌先に触れた瞬間だけでも理解出来ることであった。私は非常に下品であることを承知の上で、口の中に入り咀嚼そしゃくされることで細分化されていくケーキを口内に残したまま、紫狂島に対して、もしくは世界中の人間に対して、発言した。

「うまい!」

 幸いなことに、その発言と同時に口内に残してきたケーキの欠片が吹き飛ぶことはなかった。私はそして、咀嚼を繰り返した末に口内にある甘味の星屑ほしくずを飲み込んだ。胃袋へと向かう彼らはその軌道きどうに幸せをはらはらと落としながら、私の体を幸福たらしめた。

「ああ」私の胃袋に収束した幸福たちは今まで抱えていた悩みを全て吹き飛ばす。正確に言えばその悩みの種とは紫狂島が私に対して抱いているという好意と、それが原因で引き起こされるであろう続金地蔵での不安要素だったのだが、全て吹き飛ばされてしまった。今の私に不埒さなど欠片もないことだろう。

「ありがとう、紫狂島」

「そんな……大袈裟だよ」

「大袈裟ではない」

「だって」

「私は幸せだ。君がこんなに素晴らしい才能を持っているのなら、もっと早く私に教えるべきだった」

「もっと上手になってから教えようと思ったのに」

「これより上があるのか? なんて世界だ」

「今も、練習中なんだ」

 私は衝撃を受けた。人間というものは恐ろしい。そして、同級生の意外な一面を見たことに、さらなる驚きを隠せなかった。いっそ驚愕きょうがくと言っても良いだろう。私はその驚愕を少しでも落ち着かせるために、もう一口、ケーキに手を伸ばす。が、そのフォークを紫狂島が自分のフォークで受け止め、私の食欲をさえぎる。いつもの私であればその場で激怒して殴り付けるところであるが、私のようなぼんくらでも視認出来る幸福を作った当の本人が抑制よくせいしたのだから、何か理由があると踏んで大人しく手を止めた。

「なんだ」

「あのね、もっと美味しく食べられるんだよ」

「なにがだ」

「このケーキ、もっと美味しく食べられる方法があるの。知りたい?」

「詳しく話せ」

「じゃあ、目を閉じたまま、口開けて」

 私は即座に紫狂島の言う通りにした。一体何が起こるのかは分からなかったのだが、このケーキの制作者が言うことである。従って間違いはないだろう。目を閉じるという行為は視界を奪われることであるので実は心苦しい行為ではあったが、人間、欲求には勝てないものである。私は目を閉じたまま、「これでいいのか」とく。紫狂島は「いいよ」と答えた。どうやら問題はないようだ。

 次の瞬間、私の口にケーキが投入された!

 驚きと幸せが同時に私を襲う。しかし私は結局幸せに勝てず、投入された大量のケーキを咀嚼するのに必死であった。恐らくは目を閉じることによって味覚に集中しろということなのだろう。幸せとは食である。私は上の歯と下の歯を合わせて文字通り幸せを噛みしめていると、現在は幸せをのがさない役割しかになっていない唇に何かが触れた。何かなまめかしい感触であったのだが、しかし私は咀嚼に集中していたのでそれが何かは分からなかった。紫狂島の指先であろうか? そう言えば彼女は私に好意を持っているとかいうことだったか。ならば指先で私の口元についたクリームをぬぐってもなんら不思議ではない。しかしそうして咀嚼を続け、飲み込み、咀嚼し、飲み込み、としている間もずっと唇には艶めかしい感触が触れたままだった。確かに視界が閉ざされたことで味覚に集中出来てはいるが、触覚が追加されることで意識が分散している。いい加減に抗議をしようとも思ったが、口の中には幸せが詰まっていて、それは物理的に不可能である。

 そしてようやく私が大量に詰め込まれていたケーキを胃袋に流し終わったところで、私の咀嚼は止まった。と同時に、私の唇に触れていた何かも離れていく。私が、「なるほど、実に美味だった。ところで目は開けてもいいのか?」と口に出すと、紫狂島が震えた声で、「ダ、ダイジョウブ」と答えた。私がそっと目を開けると、眼前に頭に血が上っているようにしか思えない紫狂島が存在していた。

「ど、どうした紫狂島」その顔の色は、桜色などという色ではもはやカバーしきれない色合いである。ほぼべにに近い。私は慌てて紫狂島をなんとかしようとするが、手を出そうとすれば紫狂島はそれを避けるし、顔を直視しようとしても、視線が逸らされる。

「紫狂島、今のお前は、どう見ても、大丈夫には見えない。一体どうかしたのか? それとも、私が何かしたのか?」

 私は不安になってそう尋ねたが、紫狂島はただ黙って、首を振るだけである。いよいよもって、私は事の不明瞭ふめいりょうさに困惑して、年長者に助けを求めるために、視線を紫狂島から、松尾さんにずらしてみた。すると、松尾さんは驚愕の様子で眼を開き、私を見つめていたのである。否、私ではない。あの眼の中心がとらえているのは、紫狂島である。

「松尾さん?」私は松尾さんに視線を向けて、声をかける。「すみません、先ほど、私は目をつむっていたので、一体何が起きたのかよく理解していないのですが……しかし紫狂島がおかしくなっているのは分かります。松尾さん、あの、失礼ですが、何が起きたのか、見ておられましたか?」私が言い終えても、松尾さんは眼を開いたまま紫狂島を見るだけで、何の返事もしない。私はいよいよ、理解が難しくなってきていた。一体全体、どうすれば、こんな状況になるというのだろう。私が目を瞑るという行為は、これほどまでに、危険極まりないものであったのか? それとも、長時間目を瞑ることに、危険さが含まれていたのだろうか。

 しばらく私が、紫狂島に目を向け、視線をかわされ、手を出しかけ、それをこばまれ、と繰り返していると、「あ、あ、ああ……ああ。ああ……あぁ…………」と、松尾さんが壊れかけた蓄音機のような音を出しながら、首をガタン、ガタ、ギリギリ、ズギリ、ギルア、ギルラ……と、油を失った重機じゅうきのような音を立てながら、少しだけ回転させ、私の方へと向けたのである。視線が今度は、紫狂島から、私の方へと向いている。

「兄さん、兄さん……兄さん! 少しこちらへ来なさい! 早く!」松尾さんは焦ったように言いながら、肉球で机を、タン、と叩き、床へと降り立った。そしてそのまま喫茶店の奥へと向かっていくので、私は壊れてしまった紫狂島を残したまま席を立ち、松尾さんの方へと向かうことにしたのである。

「一体全体、どうしたって言うんですか、松尾さん」私は未だ仰天したままの松尾さんに向かって、質問を浴びせた。「紫狂島も、松尾さんも、少し……失礼な物言いですが、ええ、少し。ほんの少しだけ、おかしいですよ?」

「おかしもへちまもありゃしませんせ!」松尾さんは語気をあらげながら、しかし小声で、私に言った。「兄さん! あんた、見てなかったんですか! ああ、ああ、いや、見てないに決まっとりますわな。目を瞑ってらっしゃったんですから……ああ恐ろしい。いや恐ろしくない。おぞましいわけでもない。なんでしょうな、この気持ちは。久しぶりに私、こんな気持ちになっておりますよ、ええ。言葉遣いだって、ろくに操れていない。ええ、ええ、さっきまで、私、何も言わずにいるように見えたかもしれませんが、ところがどっこい、私はさっきもずーっと喋ってたんですよ、と言うよりね、叫んでいたんです。幸い、地元の方言っちゅーか、青い声で喋っていたものですから、しかもとびきり純度の高い青で喋っていましたから、兄さんにも、店長にも、届かなかったようですけれど……ああなんということだ。驚き桃の木山椒さんしょの木……命が二度ありゃ苦労はせんのに」

 松尾さんはとうとう意味不明なことを喋り出したので、私はいよいよ目を閉じていた状態で何が起こったのか気になりだした。「松尾さん、簡潔にお願いします。何が起こったんですか」私は尋ねるが、松尾さんはぶるぶると首を振って、「いや、すまんが兄さん、私が兄さんをこの場に呼び寄せたのは、真相を伝えるためじゃあないんです。ただ、店長の気持ちを思って、兄さんから遠ざけたんです。生憎と私は、今起きた出来事を話すほど出来た猫じゃあありません。申し訳ないとは思いますが、どうか今しがた起きたことは、誰にも言わないように、そして、聞かないようにしちゃあくれませんか」

「しかし」

「兄さん!」

 松尾さんは手を上下させて、私に座るよう合図した。私がその通り屈むと、松尾さんは肉球を私の靴に置いて、「頼みます。謝礼金を払いますから。私は勝手に、店長の親代わり――いやぁ、祖父代わりになっているのかもしれません。あの店長の気持ちを汲んでやってください。そうだ、羽の生えた猫との交換金を、百万円にしましょう」

「百……松尾さん! 何を言っているんですか! いけません! ええ、ええ、分かりました、話は聞きません。もう二度と、今何が起こったか、私は誰にも聞かないことでしょう。ですから顔を上げてください。八十万円で、交換です。よろしいですか?」

「すまんな兄さん……」松尾さんは顔を上げて、私の靴から肉球を離す。「本当はこんなに驚く必要もないし、こんなに時間を取る必要もない。大袈裟にする必要なんてないことなんです。ですけど、大事なことなんですよ。一番最初は、大事なんです。世界を変えちまうほどに、大事なことだ。兄さん、あんたがどうかは知りませんが、店長は間違いなく、初めてだったんですよ。ですからね、イベントにしたかったんですよ。ええ。そういう気持ちを思いだしたから、私はこんなに舞い上がったんです」松尾さんは再び意味不明なことを言って、おぼつかない足取りで椅子へと戻っていった。仕方なく、私もそれに続いた。

 私が席に戻ると、紫狂島は頬を紅から桜色に戻して、つんと済ました表情で、行儀良く椅子に座っていた。まるで骨董品のようだ。西洋人形のようでもある。私がほぼ紫狂島の隣である席に座り直すと、紫狂島はかすかに反応したが、しかしそのまま澄ました表情で座り続けていた。

「さあ、落ち着きましたかね」松尾さんが言う。

「いえ、私の台詞せりふですが」

「確かにね。ええ、私は落ち着きました。店長も、落ち着きましたか?」

「…………まぁ」

 落ち着いてはいるようだが、元に戻ったようではなかった。が、しかし、とりあえず私が視線を向けても顔を逸らすようなことはないので、普段通りになったと見て間違いはないのだろう。

「とりあえず、ええ、とにかく、ですが、やることをやってしまいましょうか。ミルクは来た、コーヒーは来た、ケーキは来た。話もしたし、楽しいアクシデントにも、遭遇そうぐう出来た。となれば、あとやることと言えば、本来の目的、ということになるでしょう。ねえ、兄さん」松尾さんはようやく、と言った具合に話を切り出した。「本当に、兄さん、お待たせしましたね。待たせるつもりなんて、ありはしなかったんですが、何分こんなに盛り上がるなんて、私も思ってなかったものですから……ああ、ケーキは、心ゆくまで、食べてください。美味しそうですからね。それで、ええと、そう、まずは私から、交換金を、差しだそうと思いますよ」

 そう言うと、松尾さんはカウンターの机にかけて干してある作業用の繋ぎまでぱっと掛けより、その繋ぎに手を入れて、金色の金属を、四枚、取り出した。それは間違いなく、小判こばんであった。大判おおばん、ではない。小判、である。小銭でも、硬貨でも、紙幣でも、小切手でも、なんでもない、小判であった。それは当然のことである。が、しかし、この喫茶店で色々あったおかげで、私はうっかり、そのことに気づいていなかった。相手が猫であるのだから、貰うお金は小判でなければならない。猫には小判、である。豚とのやりとりで真珠しんじゅが使われるように、猫であれば、小判で当然。むしろ、金額が八十万円から百万円に値上がりそうになったときに気づくべきだったのだろう。小判の金額は、一枚二十万円であるのが、この世界のおきてであり常識なのだから。端数はすうのないこんな簡潔かんけつな値段設定をされた時点で、気づくべきだったのである。

 松尾さんは小判を四枚くわえて、テーブルまで戻ってくると、「一枚、二枚、三枚、四枚……」と声に出して数えながら、四枚の小判をテーブルの上に置いた。そして、私に対して、それを肉球で押しやってくる。「さあ、約束通り、耳を揃えて、キッチリ八十万、用意させていただきました。ご確認のほど、お願いします」その口調は確実に社会人のものである。今の松尾さんは真剣な取引状態なのであろう。私もそれに答えるべく、「確かめさせていただきます」と小判を四枚手に取り、それが偽物でないかどうかを確認することにした。猫との取引は頻繁には行われないとは言え皆無かいむではないので、私にも小判の真偽しんぎを見抜く眼くらいは存在しているのである。

 私は小判を確認し終えたあと、「確かに八十万」とそれらしいことを言って、その小判をバッグの中に押し込んだ。小判は小判であるから、何が起きても問題はないのである。傷がついても価値は変わらない。硬貨とほとんど似たり寄ったりだろう。

「それでは、こちらからも」と私は一呼吸置いて、バッグの中から紙切れを一枚取り出した。それは説明するまでもないほど一般的な道具の一つである、呪文札じゅもんふだであった。魔法使いが法律で禁止されてからしばらく値上げを続けている呪文札であるが、魔女がいるのでまだまだ品薄になるほどのことはないようだ。私は呪文札を、松尾さんに渡す。

「使用方法はご存じでしょうか」

「ええ、ええ。何度か使わせていただきましたから」

「それでは、確かに」

「ええ、確かに」

 これで取引は終わってしまった。なるほど、松尾さんの言う通り、先に取引をしてしまっては、残り時間が残り時間になってしまうところであった。取引をしないからこそ、残り時間になるべきだった時間が、待ち時間になったのだろう。どちらが良いかと比べれば、残り時間よりも待ち時間の方が良いに決まっているのである。これは当然のことだ。時間は残すものではないはずだ。

「さて……これで、お仕事は、とどこおりなく、終了ですね。ええ、まあ、兄さんはゆっくりとしていってください。私はそろそろ、他の用事を探しに、外に出ようと思うんですよ。ミルクも終わったことですし」松尾さんは言いながら、テーブルから飛び降りると、まだ乾いていないであろう作業用の繋ぎを着て、マフラーを巻き、ブーツを履いて、緑色のサーフボードを背負い、二本足で立ち上がって、私を見ながら言った。「ケーキは残さず、たいらげてくださいよ。せっかくのケーキですからね」

「ええ、いただきます、残さずに、全て」私は言いながら、フォークに手を伸ばして、ケーキを食べることにした。年上の言い分には、従っておいた方が良いだろう。紫狂島も、私がケーキを食べ始めると、私に追従ついじゅうするように、フォークを持った。

「それでは、兄さん、また機会があったら、お会いしようじゃありませんか。ええ、それとも、兄さんはあまり、乱槐の町には来ない方ですか?」松尾さんはそう尋ねながら、出口の方へと、歩み寄っていく。「せっかく出会えた楽しい人だ。出来ればまた、お会いしたいものですけどねぇ」

「毎日乱槐町に来る、というわけではありませんが、神楽府には、ほとんど毎日、来ています。六帖線に乗って、古杖都と神楽府の間を、行きと帰りに二時間ずつかけて。ですから、機会があれば、何度か会えると思います。今までも、何度か、もしかしたらお会いしていたのかもしれませんね。そのくらい、私は乱槐町とは馴染みがあるものですから、松尾さんの願いは、きっと叶うと思います」

「ほぉ、そうでしたか。いやいや、それはまた、楽しいことです。私はいつも、この赤いマフラーを巻いておりますから、目印に、どうぞ。服装やら、持っている物は、毎日違いますけれどね。ええ、ええ、特に、この喫茶店にはよく寄っていますから、機会があったら、兄さんも、是非。それでは、私はこれにて、失礼いたします。店長も、美味しいミルクを、ごちそうさまでした」

「…………どうも」

 紫狂島はなんでもないようにそう言って、小さく、松尾さんに手を振った。年上に対して、目上に対して、する行動では、決して、なかったように思う。しかし、紫狂島には似合っていたものだから、止めるすべはなかった。私は椅子に座ったままではあったが、松尾さんに対して、深々と頭を下げた。松尾さんは一言、

「にゃあ」

 と鳴いて、店を後にする。その「にゃあ」は、ともすれば愛情表現なのかもしれないと、私はそう思った。猫について詳しくないことが、初めて悔やまれるほどである。しかし、これから勉強し、理解していけば良いだろう。知らないことを知ることが、今の私には出来る。未来の私にも、可能である。

「ねえ」私が松尾さんに対しての別れを済ませ、何事もなかったように再びケーキを食べ始めたところで、紫狂島が私に対し、言葉をかけてきた。「ケーキ、美味しい?」

「ああ、先ほども言ったが、最高のケーキだ。毎日ケーキでも良いくらいに、美味い。私は甘いものには目がないのだよ」と、私が言うと、その言葉を引き継ぐような形で、紫狂島は、「知ってる」と、そう短くつぶやいた。知っているというのは、私が甘いものに目がないということなのだろうか? そんな会話を、桂天学舎でした記憶はないのだが、一体全体、紫狂島はそれをどこで聞いたと言うのだろう。

「ときに紫狂島、君は一体、いつからここで喫茶店を開いているんだ?」私は松尾さんが帰っていった安心感からか、紫狂島と世間話などに興じてみようという考えを持った。「失礼ながら、私は君に対して、社会人であるという印象を持っていなかった。かと言って、ズボラな人間という印象を持っていたわけでもないのだが、つまり、その、言葉にすれば……人形のように、人間としての一切の行動を破棄はきして、毎日を停止したまま生きているのではないかと、そんなことすら思っていたのだ」私はケーキを食べる手を止めて、とりあえず、こちらからの質問を一度にぶつけておくことにした。「しかし、見れば君はこうして働いているし、しかも喫茶店の店長だ。焼き菓子を作るのも非常に上手いと来ている。そして食事もする。君は人間だった。しかし、そんなそぶりは、桂天学舎では一切見せなかったね」

「それは、その、恥ずかしかったから……」紫狂島は静かにそう告げた。「まだ、お店だって小さいものだし、お客さんだって、そんなに来るわけじゃないし、成功しているとは、言いがたいんだよ。だから、あんたに話すときは、もっとちゃんとしたお店を持って、ちゃんとした稼ぎがあって、繁盛はんじょうしてからにしよう……って、そう思ってたんだ」紫狂島はそうは言ったが、私にはまるで理解不能な理想であった。こんなに素晴らしい店があり、松尾さんのようなすぐれた猫が常連で、尚かつこんなに上質なコーヒーとケーキが提供される店の、何が悪いというのだろう。これで繁盛していないというのなら、神は既に死んでいる。私は反論する形で、「この店は成功しているよ」と口にした。

「成功、してるかな?」

「してるとも」

「どこが?」

「どこがって、どこかしこだ。そこかしこもだ。素人目で申し訳ないが、不備ふびは見当たらない」

「でも、そんなに儲けているわけじゃないんだよ」

「私だって儲けてはいない」

「でも、一度の取引で、八十万円も稼いでた」

「羽の生えた猫を手に入れるのに、十万円近くかかっている。それに合わせて、半分の確率で死ぬような荒行あらぎょうとも向かい合って、六帖線の乗車券を合わせて、結局儲けは六十七万円だ。こんな仕事が月に何度もあれば良いが、残念ながら、これから毎日、似たような仕事を探す日々だ。休む暇もない。それに比べたら、紫狂島がしているような生活の方が、よほど成功しているように見える。いや、失礼、今のは少し、言い方が意地汚かったな……ないものねだり、というか、隣の芝生が青く見えただけだ」私はすぐさま自分の言葉を訂正する。「紫狂島が私の仕事をうらやむように、私も紫狂島を羨んでいるということだ」

「私には、羨むようなところ、ないよ」

「あるさ。毎日ケーキが食えるのは素晴らしい」

「でも、ケーキは一人じゃ食べられない」

「ああ、そうだった……しかし、紫狂島の店に来て、君にケーキを奢ってもらえば、私は毎日でも、ケーキが食べられるわけだ。もちろん、金は払うが」

「………………毎日、会える?」

「まあ、私が毎日ケーキを食べたいと思えば、会うことは必然だろう」

 紫狂島が意味ありげに言葉を放ったので何事かと思ったが、結局、その意味に辿り着くことは、私には出来なかった。私と紫狂島はそれからしばらく無言でケーキを食べ続ける。途中、空になってしまった私のコーヒーカップに、紫狂島がコーヒーを注いでくれた。素晴らしいタイミングだったのにも関わらず、私はついぞ礼を言えなかった。それは、気恥ずかしさや、ケーキを食べるのに忙しかったなどというつまらない理由ではなく、そのタイミングがあまりに素晴らしすぎたために、礼を言う必要が感じられないほど、自然であったためだ。

「ふう」私は結局、松尾さんが店を出て行ってからキッチリ九分の時間を、さらに正確に言えば五百四十秒の時間をかけて、ケーキを平らげた。「ごちそうさま」と、馬鹿丁寧に私が謝辞しゃじべると、紫狂島は満面の笑みで、「お粗末様でした」と、言葉を返した。粗末などとんでもなかったが、私はそれを訂正しようとはしなかった。

「さて、それでは早速だが、私は行くとしよう。これからまた、仕事をしなければならない」私はそう言うと、食休みもほどほどに、バッグを掴んで、立ち上がる。「真っ先に、図区凶館に向かわなければならないのだ」

「もう行っちゃうんだ」紫狂島は何か残念そうに、唇をとがらせ、立っている私を座っている状態で、見上げた。その目線は、所謂上目遣いになっていた。前髪が綺麗な直線を形成している紫狂島の髪型に上目遣いを組み合わせることは、いっそ卑怯と言っても過言ではないほどに、女性という性別が持つ妖艶ようえんさを最大限に引き出していたが、そうしたものには騙されてはならないと、私は祖父から教えられていた。曰く、上目遣いと甘い言葉には騙されるなということだった。祖父の教えは、守らねばならぬ。

「仕事だ。止めてくれるな」

「そう……残念だな」

「残念がる必要も、理由もない。別れは常に平等だ。そして、同時に公平だ。別れがあるからこそ出会いが来る。言わば、別れは出会いへの布石ふせきだ。私はまた紫狂島と出会い、ここの店でケーキを食べるだろう。それは確約された未来だ。信じてくれて構わない」私は手短にそう言うと、いつものように別れの言葉を吐いて店を出ようとして、あることに気づいてしまった。私は何か小さいことでも気づいてしまうとどうしようもなくなってしまう性分であるから、自分で分かっていても、確認しなければ気が済まない。

「紫狂島」

「はい」

「尋ねたいことがある」

「なんですか?」

 貞淑ていしゅくな妻のように紫狂島は私に応じる。しかし、考えてみれば私は貞淑な妻と会話をしたことなど一度もない。想像の産物である。妄想の副産物である。あるいは空想の土産物だろうか。「松尾さんのことだ」私は想いの類を断ち切って、本題を紫狂島に伝える。「松尾さんと言うより、松尾さんにまつわるこの店の商売についての話だ」私が言うと、紫狂島はまたしても、「はい」と大人しい返事をする。「私は松尾さんにコーヒーとケーキを奢ってもらい、松尾さんは自身でミルクを注文していた。しかし、出て行ってしまった。この店は、いつ金を払うのだ?」

「松尾さんには、先に二十万円、もらってるの」

「………………そうか、そうだったな」

 またしても、私は読みあやまった。どころか、これは人間として、あるまじき失態である。猫に小判。猫には、小判だ。猫には、小判でしかない。猫には、小判でしか、有り得ない。だとしたら二十万円に相当する小判を先払いしておくのが、当然だろう。先に払っておくことで、その小判相当のストックが切れたところで、また補充すれば良い。言わば、鉄道列車専用の、千枚綴りの券のようなものだろう。一枚が十円であるから、一万円分の乗車券だ。それを何枚か単位で区切ることで、列車に乗れる。なるほど、紫狂島と松尾さんの店と客としての関わり合いは、簡潔であるようだった。

「勉強になった」

 私は頷いて、ひとまずは一万円、と、財布を取り出し、中から一万円札を抜いて、紫狂島に差し出した。「これは?」と、紫狂島は困惑した様子で固まっているが、私はそれを無理矢理、紫狂島の手に握らせる。

「私が今後、神楽府は乱槐町に来た際、この店に寄ることがあるだろう。そのときは、黙ってコーヒーとケーキを出してくれ。これは松尾さんと同じく、ストックだ。一万円分の未来を、君と約束しよう」

 私はそう言って、ようやくバッグを掴むと、放心したままの紫狂島を置いたまま、店の出口へと向かう。そして声高らかに、爽快に言った。

「それでは、また会おう!」

 それに対して、紫狂島は言った。

「また会おうね」

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