昔ノ馴染ミハ砥鴉喫茶
仕事をするのが私の仕事だ。仕事をしない私はただの仕事をしない人間になる。だから私は仕事をすることで、一時ではあれ、社会人になれるのだ。もっとも仕事がなければ仕事をしなくても良いのだが、今日は
私は日本の面積のうち九分の一を占めるに
私は歩き始めたのだが、しかし突然乱槐駅の周辺にあったベンチに腰を降ろして、さて、ノートパソコンを開くことにした。先ほど、六帖線に乗っている間に受信したメールを見返さなければならないことに、歩いている途中で、気づいたのである。確認作業は、何よりも大事だ。これだから確認メールというものは、大事なのである。繰り返し利用出来るところが良い。しかし、限度というものもある。
本日の取引の確認をさせていただきたいと思います。
本日正午、神楽府は乱槐町の
なお、当方、赤いマフラーと、緑色のサーフボードを目印に持って参ります。お声をかけてくだされば反応しますので、「取引の件で」と話しかけてください。
では、
名前は松尾呉助であるという。松尾という名前はどの時代においても素晴らしいが、呉助という名前は少し時代がかっている気がしないでもない。しかし、取引相手の名前など、本名であるか偽名であるか
さらに次の行を見ると、いきなり核心に触れていた。本日正午、というのは、もう三十分後に押し迫っている。しかし、一般的に言う本日正午とは、二時間の間隔を持っているのが普通であるのだから、あまり気にすることはないだろう。遅れることは非常識だが、非情ではない。私は安心しながら、指定の場所を見る。湯浴飾駅と書いてある。これは、乱槐町において第三の都市と呼ばれる大都市のことだ。ここに行けば、若者が欲しがるものはほとんど手に入る。湯浴飾通りにある店はほとんどが一週間で閉店と開店を繰り返す。サイクルの恐ろしく早い通りだ。そこの駅で、取引相手は取引をしようと申し出ている。なんとも非効率的な場所であるが、相手の指定に従うのが、私の仕事でもあるのだ。私は諦めて残りの文字を読み、赤いマフラーと緑色のサーフボードという単語を認識して、「取引の件で」という呪文を完全に記憶した。ノートパソコンはもう用済みになってしまったので、捨てるかバッグにしまうか悩んだが、今後のことも考えて、バッグにもう一度しまい込むことにした。
さあ、電車に乗らなければならない。
バスでもさほど問題のない距離ではあるが、乱槐駅から湯浴飾駅まで向かうには電車の方が良いのである。六帖線ほど快適とは言えないが、しかしそれなりに快適な電車が、何本か出ているのだ。五分に一本の間隔で、電車は出ている。それに乗れば、大体乱槐駅から湯浴飾駅までなら、十分で到着するだろう。私はこれからの行動を決めると、すぐさま実行に移すことにした。
乱槐駅に入るには入場料金がいる。入場料金は五円だ。以前は入場券を発券していたようだが、入場料金に対して入場券の紙代が馬鹿にならないという理由で廃止したらしい。まあ、五円で五円未満の入場券を出すのなら入場料金を取る必要はないことは普通赤子でも分かるだろう。恐らく、この駅で以前働いていたのは、赤子ではなく、胎児なのだ。胎児はまだまだ頭が良くないから、大目に見てやらなければならない。
入り口に設けられた五円箱と呼ばれる入場料金投入箱に五円玉を入れて、私は乱槐駅に入場した。実は入場料金を払わなくても駅には入れるが、それがバレると、駅員にとやかく言われるのである。少なく見積もっても、十分はとやかく言われる。五円玉の歴史から、五円という価格設定の素晴らしさ、そして乱槐町の歴史に至って、簡潔に、十分である。そしてその後、結局五円を請求される。観光客の間では、これを利用して歴史を聞くという行為が裏技と称されているようだが、生憎と今の私にはそんなことをしている余裕はない。時は刻一刻と迫っている。社会人である以上、出来れば待ち合わせ時間には遅れたくないものだ。
私は乱槐駅にある、切符売り場の前に立った。切符売り場は木製の下駄箱のようなものであり、利用方法は至極面倒臭い。慣れないうちは徒歩で次の駅に向かった方が早いが、しかしそれでは切符の購入に慣れることは出来ないから、やはり慣れないうちであっても、切符は購入するべきだ。何事かに慣れるには下手でもそれを繰り返すのが一番である。私は天井に大きく書かれている料金表を見上げて、乱槐駅から湯浴飾駅までの電車賃を調べる。料金は二百三十円である。私は二百三十円を下駄箱の横にある硬貨投入口にきっちり投入して、「230」と書かれた下駄箱を開き、そこにある木の札を取った。これが乱槐駅の切符である。紙を使わないので非常にエコロジーであるが、しかし少ない値段で切符を買う輩もいるので危険である。私は大人であり、社会人であるが故、そうした馬鹿げた真似はしないのであるが、そうした人間が存在しているというだけで腹が立つのだ。私は何故か
「おう……兄さんよう、兄さんよう」
私を呼ぶ声がしたのではっと右側を向くと、恐ろしいことだ! そこにはなんと液体がいた。液体だ。液体である。なんということだろう……私は恐ろしくなって、一瞬
「兄さんよう……おう、そこの兄さん。バッグを持った兄さんよう……ちょっと話を聞いちゃくれんかいな。なあ、いいだろう、兄さんよう……」
「失礼だが、私はこれから湯浴飾駅まで向かわねばならん。液体と会話をしている暇はない」
「そう言わんでさぁ、兄さんよう……たった三十秒で済む話さ。なあ、いいだろう? 三十秒さ。キッチリ三十秒。それ以上は取らせないからさぁ」
液体の恐ろしいところは、気分を害するとすぐに気化するところにある。液体が気化することほど恐ろしいことはない。私はすっかり、液体を無視することを諦めた。まあ、電車は何本も来るのだから、三十秒なら良いだろう。私はバッグを背後に回して、液体との会話に
「それで」私は口を開いた。「話してみたまえ、液体」当然のことだが、液体には強気な態度が重要だ。
「兄さんよう」と、液体は言う。「俺っちはよう、液体だから、仕事がねえんだぁ。だけどよう、俺っちは
「ありがってえ、ありがってえよお兄さん……すまねえなあ、この借りは、必ず返すでよう。必ずだ! 液体は約束を破らねえし、嘘もつかねえでよう!」
「知っている。だが私は急いでいるのでな、液体。お前と話している暇はない。そして三十秒は過ぎた。さらばだ、私は湯浴飾駅に向かう」
駅のホームにある黒板を見ると、次の湯浴飾行の電車は二分後に到着するようであった。公共機関を利用しすぎな気もするが、これが最も効率的であるし、一度乗ったのならば何度乗ったところでその回数は「今日は公共機関を利用した」の一回であるのだから気にすることはない。私は二分間、何をするでもなく、ただぼうっと時間を消費した。無意味な消費は苦手であるが、同時に好きである。私はバッグを右手に持ちながら、左手に捺印された印から漂う朱肉の匂いに心を癒しつつ、電車の来る方向を眺めた。
しばらくして乱槐駅の三番線ホームに辿り着いたのが、乱槐駅から湯浴飾駅を繋ぐ電車、
月鏡線の扉が閉まり、発車を告げる鈴の音が鳴り響いた。この鈴の音は透明で心地良い。私は神楽府の雰囲気、つまり乱槐町の空気が好きだった。一言で言って、古風なのである。
月鏡線の中を見渡してみても、五歳の子どもが一人で乗っているということはないようだ。誰もが親と一緒である。それが普通なのだろうか。しかし普通などというものに大した価値はないのだ。私は思い直し、ガラス戸の向こうに見える景色を眺める。乱槐町特有の古風な景色が広がっていた。折り鶴も飛んでいる。昨今の乱獲が問題になっているとは言われているが、やはりいるところにはいるのだ。電線の上に色とりどり並ぶ折り鶴の姿は、やはり圧巻の一言に尽きる。少し視線を下にずらせば、道路では
そうして毎日乱槐町に来ているくせに、久しく乗っていなかった月鏡線の旅は、あっと言う間に終わってしまった。私は残念に思いながらも、風鈴の音で、仕方なく、下車を開始した。月鏡線でもう少し遠くまで行きたい気持ちもあったが、私は社会人である。気持ちは切り替えなければならない。開いた扉からホームに降り、湯浴飾駅の独特の装飾に、さっぱり月鏡線のことは忘れることにした。至るところに
改札口に向かい、今度は顔のある駅員に、左手を見せる。「ああ、どうも、ご苦労様です」と
私は改札口を抜けて、立ち止まり、記憶を再生する。そう、記憶の再生とはつまり、あの本である。ノートパソコンを開くことがもっとも建設的であるように思うが、あまりに確認しすぎるのも勿体ない。それに、本であれば何度も繰り返せるではないか。私は何故さっき乱槐駅でノートパソコンを開いたのか不思議に思いながら、バッグの中から文庫本を取りだし、私が先ほどノートパソコンを開いた箇所が記述されているページを開いた。
松尾呉肋です。電子メールで失礼いたします。
本日の取引の確認をさせていただきたいと思います。
本日正午、神楽府は乱槐町の湯浴飾駅におきまして、羽の生えた猫と、現金八十万円を交換する。この通りでよろしいでしょうか? 何か不備がありましたら、お知らせください。
なお、当方、赤いマフラーと、緑色のサーフボードを目印に持って参ります。お声をかけてくだされば反応しますので、「取引の件で」と話しかけてください。
では、快い取引を望んでおります。
ページにはこう書かれていた。
海は赤い。空は白い。声は青い。人は暗い。足は多い。月は遠い。夜は嫌い。朝は無い。嘘は愛。形は戻らない。答は築かない。涙は答えない。緑は流れない。ぶつぶつと、
「!」
また青い声である。
「!」
残念なことに、私は青い声が青い声だということは理解していても、それを訳することは出来ないのである。
また青い声である。
「!」
今となっては英語が話せるが、小さい頃は英語は聞き取れなかったものだ。それが英語だと理解してはいても、何を喋っているかは理解出来なかった。青い声は、それに近いものを持っている。私は青い声を認識出来るが、何を喋っているかは理解出来ない。どうするべきだろう。しかし、赤いマフラーと緑色のサーフボードは見つからない。どうするべきか迷っているところに、まるで
「取引の件でー!」
私は大声を上げた。そう、この発言をするようにと確認メールには書いてあったのである。私は呪文を繰り返す。
「取引の件でー!」
「兄さん、ここだよ、ここ」
すると私の
「松尾呉助様でしょうか」私は訪ねる。
「ええ。私が松尾呉助です」丁寧な日本語である。声だけ聞けば、私よりも数倍日本人らしくすらある
松尾さんの足は、なるほど、四本であった。前足という可能性をすっかり忘れていたがために、私は彼を怪物か何かだという可能性で考えていたが、猫や犬なら前足を含めて足が四本でも問題はない。人間にすれば、四本という数は二倍だ。二倍はいかなる場合でも、少ないか多いかで言えば、多いだろう。ということは、やはり、海は赤く、形は戻らないのだろう。だから私は、松尾さんとの
「それでは早速、取引をしたいと思うのですが、松尾さん、
「ああ、そうですね。いや、うっかりしていました。場所のことを、うっかり、言い忘れていました。すみません」松尾さんは頭を
「それでは駅の中にある喫茶店でも行きましょうか。ああいや、それとも湯浴飾の喫茶店にしましょうか?」私はバッグの中から地図を取り出しながら言う。「私はこの辺、あまり詳しくありませんが」
「ああ、そういうことでしたら」松尾さんはひょいと私の肩に飛び乗って、前足を伸ばして地図のある場所を指す。「ここの喫茶店に行きましょう。ええ、ここは私の行きつけでして。もちろん、お代は私が持ちますので」
「そんな、申し訳ないですよ」私は形だけ否定するが、これは社交辞令というやつだ。松尾さんが勧める喫茶店に行くのであれば、松尾さんが
私は肩から飛び降りた松尾さんの後をついていくことにした。湯浴飾には何度も来たことがあるが、地理的に詳しいかと言えばそうではない。それに、やはり地元民に案内して貰うのが一番だろう。猫だけあって身軽に移動する松尾さんを追いながら、私は湯浴飾通りを歩いていく。ありとあらゆるものがここでは手に入るのである。洋服から始まり、ブランド物も手に入るし、食器、食材、機械、本、ゲーム、手に入らないものは恐らく自然素材ぐらいなものだろう。月や太陽、星などの所有権は、月屋、太陽屋、星屋でしか買えないし、それは神楽府には存在していない。あれは確か、
「兄さん、ここを左に曲がります」
松尾さんに言われた通り、私は角を左に曲がった。
松尾さんに導かれるままに歩いていくと、いつの間にか私は森に出ていた。湯浴飾通りという若者の中心地から少し歩くだけでこんな
「さあ、つきましたよ」松尾さんはにこやかに言いながら、喫茶店の玄関にあるマットで足を拭いたあと、一度の跳躍で私の肩に乗ってきた。こうした気遣いの出来る猫は素敵である。私は、「わざわざ案内していただいてすみません。いやあ、素敵な喫茶店ですね」と軽薄な感想を漏らした。しかしそれは軽薄であると同時に事実でもある。私はこんなに自然に言葉を漏らすことが出来る自分に驚きつつ、喫茶店の扉を押し開けて、中に入っていった。
喫茶店は洋風である。店名は、『
「やあ店長、久しぶりだな」と、松尾さんは脳天気に言った。そして、私はその店長に見覚えがあったのである。本当に、まったく、恥ずかしい限りだ。この雰囲気から、この事態を察するべきだったのである。否。こんな場違いな場所で場違いな喫茶店などというものを開いている店長の人間性を疑い、そこから思考を飛躍させ発展させるべきだったのである。しかしもう時は遅い。時は戻らないのである。私は諦めて、松尾さんに続き、「失礼します」と、そう言ったのだ。
「………………………………………………ょぅ」と、一人も客のいない店内で気持ちよくパイプを
「なんにする」
ぶっきらぼうに、パイプを噴かしたまま、紫狂島は私と松尾さんに尋ねる。松尾さんは「私はミルクをいただこうかな」と、
「いやあ、遠いところわざわざ、ご足労なすって、兄さん」松尾さんはにこやかにそう言った。どうやら椅子が低すぎるようで、座れないようだ。今は机の上に丸まっている。こうして見ると、ただの猫である。猫という生き物は、本当に不思議な生き物だ。私はすっかり松尾さんに魅了されていたが、ふと我に返り、「いえ、仕事ですから」と、面白みの欠片もない返事をしていた。
私はそして、バッグに手をかけて、「それでは、お品物ですけど」と商品を取り出そうとするが、それを松尾さんに止められてしまう。「どうしました、兄さん、何か、焦っているんですか? それとも、
松尾さんの猫の瞳は恐ろしい深さを持っていた。そして言葉にも、恐ろしい深みを
「しかして、兄さん」松尾さんは目を三日月型に、口元も同様にして、完璧なまでの笑顔を作り、机の上を私に向けて歩み寄ってくる。緑色のサーフボードは私のバッグと同じように床に置かれているので、四つ足で歩んでも邪魔にはなっていない。「どうにも、こうにも、そうにも、ええ。兄さん、ここの店長と顔見知りなんですか?」松尾さんは小声で、一応は気を遣いながら、言葉を発しているようだ。しかしその表情には、笑顔の他に、
「は、ええ?」
「いいじゃないですか、教えてくださいよ。お二人がどういう関係かは知りませんが、顔見知りなんだろうってことくらい、
「ええ、そうですね……確かに、私はここの店長と接点があります」私は観念して、言葉を選びながら言う。どうにもこの松尾さんという猫は、初対面であるはずの私に対して、至極親密な対応を取っているようだ。馴れ馴れしいのは嫌いではないが、苦手であることも事実である。「俗に言う、同級生なんです、ええ」
「同級生! そいつはまた、なんていうか、ええ、兄さんは見た目よりお若いということなんでしょうかねえ?」松尾さんは多少興奮気味に、私の話を受けた。「確か、ここの店長さんは、成人なすったばっかりと言うじゃあないですか。いや、そうか、別段、同級生が必ずしも同年齢ってことはありませんよね、ええ。それに、十九歳を何度か経験していれば、勘定も合わなくなるってもんですものねぇ。私はそう、猫ですから、一年に一歳、定められたように歳を取りますが、人ってぇのは、何度も何度も、同じ歳を繰り返すことが、あるんでしたっけねぇ。いやあ、うっかりうっかり」松尾さんはそう言うが、どうにも私に合わせて話をしているようにしか思えなかった。つまるところ、松尾さんは私に染み込んで来ようとしているのである。嫌いではないが、やはり苦手である。主導権を相手に染め上げられてしまうのは、八歳の頃から、苦手であるのだ。
「ところで、兄さん」
「はい」
「いつの同級生なんですかい?」
「ええ?」
「教えてくださいよ」
「いや、しかし」
「いいじゃあないですか、兄さん、ね」
「いや、彼女の意向もありますから」
「ケーキもごちそうしますよ」
なんということだろう、なんということだろう! ケーキ? ケーキと今、松尾さんは言ったか? 洋菓子である。焼き菓子である。私は実を言えば、焼き菓子が好きだ。洋菓子に目がない。耳も口もないのだ。好きの度合いは世界的に見たら非常に小さいかもしれないが、しかし、少なくとも、六帖線で食べた飴玉よりははるかに好きである。私の胃は既に錯覚を起こして胃液をどろどろと噴出している。「ねえ、ケーキ、お好きな顔をしてらっしゃる。私は猫ですから、そう、ミルクで十分ですけでどね、人って生き物は、ケーキがお好きでしょう?」にんまり、と。にたぁ、と。にこにこ、と。笑顔の擬音をふんだんに振りまきながら、松尾さんは言った。恐ろしい。私は完全に、松尾さんに握られていた。そう、握られていたのだ。私が持つ、ありとあらゆる権限。そう、忘れていたのは私だ。今更弁解の余地もないが、忘れていたのである。
猫は魔女の遣い!
猫は魔女の遣い!
猫は魔女の遣い!
三度唱えれば、もう恐らく、忘れることはないだろうが、しかし今、既に捕らえられている。今後は忘れないようにするとして、今回は、大人しく捕らえられるしかないのであろう。ああ、どうして気づかなかったのであろうか。魔女の遣いである生き物が、魔術に長けていないはずがないのである。魔法とは呪文であり、呪文とは言葉ではないか。すっかり、うっかり、私は握られていた。
「松尾さん、あなたも猫が悪い……」私は観念して、私の側のテーブルの上に、あぐらをかいて私を見上げる松尾さんに、そっと耳打ちをする。「私と彼女は、桂天学舎の同級生。いえ、正確には、同学徒です。お恥ずかしいお話ですが……」そっと耳打ちを終えると、私は目を閉じて、観念する。自分が桂天学舎の学徒であることを教えることに恥じらいという感情は持っていないものの、何らかの反応をされるというこの瞬間だけは、いつも慣れないのである。
「ほーう、桂天学舎ですか」松尾さんは驚いたように言った。しかし声は控えめである。必要な限りの常識は持っているようだ。「それは、それは、また、兄さん、あなたも、そして店長さんも、頭がよろしいと見える」
「いえ、頭が良いなんてことは、ありませんよ」私はやんわりと否定した。「桂天学舎という場所は、入ることがそもそも愚かなのです。大人なら誰でも入れる学舎に入ることは、頭の善し悪しには関係ありませんよ。ええ、それは頭の良さではなく、要領と容量の良さかもしれません」
「ふむ、兄さんの言うことが正しい」松尾さんはあっさりとそれを認めた。「なるほど、頭が良いという言い方は、なるほどなるほど、少し
「光栄です」私が頭を下げると、松尾さんはまた三日月三つで構成された笑顔を作り、机の上を四つ足で歩み、元の位置に戻った。そして肉球と肉球を打ち合わせながら、「てーんちょーう」と、紫狂島を呼んだ。
数秒の沈黙があったが、しかしすぐに紫狂島は二つの手で二つのコーヒーカップと一つの深皿を持ってやってきた。喫茶店の店長というだけあって、
「呼んだかい、松尾さん」と、紫狂島はコーヒーカップを私の前に、深皿を松尾さんの前に、そしてもう一つのコーヒーカップを机に下ろして、それをソーサーから取って、口元に運んだ。
「ケーキを、一つ」松尾さんはそう告げた。「こちらの兄さんに、ごちそうしてやってください。一番上等なやつを頼みますよ。私はケーキの善し悪しは、一切合切、分からないものですから」松尾さんはそう言い終えると、深皿に並々盛られたミルクをぺろぺろと舐め始めた。こうした行動を見ているだけでは、どう見ても猫そのものである。いや、猫なのだから、それで構わないのだ。
「ふぅん…………」紫狂島は私に視線を固定したまま、今度は声まで私に向けてきた。「何が食べたい?」と、リクエストまで
「ショートケーキ……何味の?」
「味?」
「何味のショートケーキが食べたい?」
「ショートケーキは……はて、何味だ?」
「さあ。私のショートケーキと、あんたのショートケーキは、違うかもしれない。あんたの考えるショートケーキと違うものを出すのは、私は嫌だ」
「そうか、それはつまり……」私はしかし言葉に詰まる。ショートケーキとは何味なのだろう。苺味か? いやしかしショートケーキ自体は苺味ではない。では生クリーム味か? しかしスポンジまで生クリーム味はしないだろう。あれが一体何味なのかと問われると、私は答えに
「……では、日本国内においてもっとも一般的なショートケーキを頼む」私は最終的にそんな
「あんたは、それで満足する?」紫狂島は、コーヒーカップを左手に持ち、右手を左手の上腕二頭筋の上に固定させ、私を見下ろすように、見下すようにしながら、そう言った。「本当に、満足してくれる?」
「もちろんだ」私は勇んで答えた。男の辞書には二言という項目は存在しない。それに準じたものは弁解と撤回である。であるからして、私は最高の男気を発揮することが出来たはずだ。「ショートケーキを一つ、頼もうではないか!」勇んだまま、私は言った。
「……うん、待っててね」
紫狂島はコーヒーカップを机の上に置くと、店の奥へと向かっていった。私はショートケーキが注文出来たことに、この上ない満足感を得た。幸せなことである。松尾さんとの取引において、こんな幸せが待っていたとは。久しぶりの幸運である。良い仕事だ。何しろ、ケーキは誰かにご馳走される以外で食べる方法がないのである。
「兄さん、兄さん」私と紫狂島の会話中、一切の時間、ミルクを飲むことに熱中していた松尾さんは、立派な
「なんです、あの店長の反応は」
「はい?」私は思わず聞き返す。
「今の店長の反応ですよ。なんたってことですか、あの陶器のように白い、いや、冬期のように白い店長の頬が
「すみません、松尾さん」私は思わず口を挟んでいた。理解の出来ない話は、まず理解から始めなければならない。「あの、一体何のお話をされているんですか? ちょっと、私には分からないのですが……」
「ああ、すみません、あまりの驚きに、うっかり……ええ、ええ。そう、まずはここから話しましょうか。私と店長の付き合いは、もう、かれこれ四年ほどになりますかね。彼女が十九歳の頃からの付き合いになります。そう、彼女も何度か、十九歳を繰り返しているようですが……事の起こりは、彼女が二十歳になった頃ですかねえ、なんでか急に、彼女が色気づくようになりまして。はは、こんな言い方、女性に失礼ですかねぇ。まあ、とにかくね、彼女、お化粧なんかしたり、
私は松尾さんの言葉の意味を理解するのにキッチリ八秒を
「私にはにわかには信じられない」
「恋なんてものは、突然なんですよ、兄さん」
「いやしかし」
「恋をされる側は、何も出来ないもんです。そういうものでしょう? ええ、ええ、分かりますけどね、諦めて、受け入れるしかありませんよ」
松尾さんは三日月型の笑い顔を浮かべると、私をニヤリと
「兄さん、そいつは……」鼓動を最小限に無駄なく定着させるためにコーヒーをごくごくと喉に下していると、松尾さんが顔を上げて私を見ながらそう言葉を漏らした。一体なんだと思いながら、最後の一滴を舌に
「兄さん! 落ち着きなさいって、兄さん!」松尾さんは青みがかった大声を上げて私に言う。「すまない、時期を逸して教えたようだ。おーい店長! 悪いが何か拭く物を持ってきてくれ! しまった、ミルクも追加注文だ! これじゃミルクコーヒーになっちまった!」松尾さんにもコーヒーがぶちまかれてしまったので作業用の繋ぎが所々染みている。赤いマフラーにも染みが出来てしまった。なんたることだろう。私はしばし呆然とした。何か全ての出来事がどうでもよくなってしまったのである。仕事の料金もどうでもよくなってしまった。どころか、代金であるところの八十万円で松尾さんの服の支払いとこの店のクリーニング代等々が払いきれるのかすら不安になってきてしまっていた。いやしかし紫狂島には貸しがある。確か一銭玉から一万円札までの全ての種類の硬貨と紙幣を貸してくれと頼まれたので貸したはずである。しかしそれでも多く見積もって一万と八千六百六十六円六銭にしかならない。それではクリーニング代にもならないだろう。果たして私は何故あそこでお金を貸し、紫狂島はお金を要求したのだろうなどということを夢想し思い返し繰り返し揺り返し突き返し巻き返し折り返し切り返し蹴り返しているところに紫狂島が大量の
「いやはや……いやいや、はやはや。びっくりしました。うっかりしましたね。そう、小さい頃に友達をからかうような感覚で、ついうっかり」大きなバスタオルに包まれるように、松尾さんは小さな前足で顔を拭いていた。作業着の繋ぎはいつの間にか脱いでいるらしく、マフラーもない。ブーツもない。完全にただの猫である。「つい、ねぇ……いやはや、見事な
「そんな馬鹿な。私には責任があります」私は言うが、松尾さんは前足の肉球を私に向けて、「兄さん、日本語が不自由になってますよ。ええ、気にしないでください。店長だって、このくらい、日常茶飯事ですなぁ? はは、あーどうも、店長。おかげですっかり綺麗になりました」松尾さんはブルブルと体全体を揺さぶってから、ごろりと横になった。「はあ、こんなにはしゃいだのは何年ぶりになりますかね。ちょっと休憩。ふむ。ごろごろにゃあにゃあ」
「大丈夫?」紫狂島がそう言いながら、タオルケットを持って、私に近づいてきた。桂天学舎でならいざ知らず、こんなところで、しかも先ほど紫狂島に関する噂を聞いてしまった私は、まともに紫狂島を見ることが出来ない。「ねえ、あんた」紫狂島の左手が私の右頬に触れる。「ほら、じっとして」紫狂島の大袈裟な瞳が私の瞳を見ている。「コーヒー……」右手に持ったタオルケットで私の口元を拭こうとしているのか、紫狂島の上体が私に近づいてきた。「ついてるから」タオルケット越しに紫狂島の指が私の口元をなぞっていくのが分かり私は背筋の
「……綺麗になった」
紫狂島の薄い唇の端が微かに釣られ、
「いやいやいいんですよ兄さん、面白いものが見られた……はっは、これに見合う価値はそうそうない。ミルクどころか、兄さんが吐き出しちまったコーヒー代だって、いくらでも払いますよ。ああ、面白い。最高だ。こんなに面白いことはない。ああ……店長、兄さんにもコーヒーを」
すっかり気力を失ってしまっていた私は松尾さんに逆らうことも出来ず、素直にそれに従うことにした。どうにも松尾さんは私よりも何歳も年上である風格だ。猫であることだし、同じ歳の生まれだとしても、年齢は私の方が低い計算になる。私はそのままぼんやりと椅子に身を沈め、コーヒーで
「いや、いや、いや」松尾さんはまだくすくすと笑いながら、言葉を紡ぎ始めた。「いや、面白かった。ああ、実に面白かった。兄さん、あなた霧吹き名人になれますよ。ええ、本当に……しかしね、ええ、他人の
「そいでは、お口直しに、大人の話でもしましょうかね。ええ、色恋沙汰は、こっちから、こっちに、置いておきましょう」
「はあ。大人……ですか?」
何事もなかったように、松尾さんとの会話は再び成立する。それは、あんな社会人として恥ずべきことをしておきながら、それを許容する松尾さんの懐に
「図区凶館が、どうかしたのですか?」
「いやいや、乱槐町でする大人の話と言えば、図区凶館に他ならない。大人はみんな、そう、夢のない大人はみんな図区凶館に就職する。そうでしょう?」
「ええ、まあ……安定している職業ですし、図区凶館員ともなれば、リストラもないし、給料は務めれば務めるだけ上がっていく。夕方五時になれば退社も出来る。私の持っている知識はその程度ですか、しかしその程度には、図区凶館について知っています。その図区凶館が……?」
突然の話題転換についていけない私ではあったが、何とか食いついていくことにした。猫は確かに、気が短いし、自分勝手な生き物だ。よく女を猫に例えるが、一番例えに成功しているのは、この話題の転換の速さである。
「いや、特に意味はないんですけどね」松尾さんはにこやかに言う。「ただ、私も実を言うと図区凶館の職員でして。ええ、まあ今日はお休みなんですけれどね、だからこそこうして、平日の昼間から喫茶店で兄さんのような面白い人とお話をしていられるというわけですが、いやすみません、はっきり申し上げると、少々あなたの人格を試すような発言をしました」松尾さんは
「いえ、そんな、
「私はねえ、人を気に入るとついつい入れ込んでしまうタイプなんですよ。ここの店長が良い例です。仕事で打ち合わせなんかがあれば、決まって私はここの喫茶店に来るんですよ。ミルクは美味しいし、店長の作る焼き菓子は美味しいって評判ですからね。まあもちろん、私は食ったことがありませんが……そういうわけでねぇ、兄さん、何が言いたいかってぇ言うと、そのね、八十万円と羽の生えた猫。それを交換してハイサヨナラってのが、私はちょっと、寂しいなぁなんて思うんですよ」松尾さんは野良猫が甘えるような仕草を私にしてきた。「かといって、友達になりましょうなんて軽々しいこと私は言えない。だからね、そう、たまにでいいから、この喫茶店に寄ってきちゃぁくれませんか」
「ええ、はぁ……この喫茶店に、寄る、ですか。いやしかし、私と紫狂島はその、同級生でして、ええ、同級生の店に来るというのも、気恥ずかしいと申しますか、なんと言いますか、ねえ、その」私はしどろもどろになりながら答える。「先ほども、ご覧になったでしょう、松尾さん。紫狂島の対応は、少々度を超えていると、そう思いませんか」
「美しい娘さんじゃあありませんか。しかも若い。美人だ。人の
松尾さんは明らかに、私を紫狂島とくっつけようとしている。明らかに、である。
「松尾さん」私は考えをまとめて、口に出すことにした。「私は紫狂島を嫌ってはいません。ただ、少し苦手意識を持っているだけです。何せ、同級生の異性ですからね、苦手でないはずがない。しかし、かといって、嫌いでもなければ憎んでもいないし、悪だと思ってるわけでもないんです。ただ、少し苦手なだけ。あまり会話をしたこともありませんしね」それは事実だった。記憶にあるのはやはり金の貸し借りと、あとは紫狂島が昨年の登校日に入学してきたとき、二、三言葉を交わした程度だろう。二回目の登校日で金をせびられたのだから、間違いない。いくら紫狂島であろうと、入学したその日に金をせびるということはないだろう。
「ま、私が言いたいのは、そのことをちょっと
「いえ、そういうことはないのですが……いやはや、とにかく、分かっていただいて光栄です」私は頭を下げる。「これから、じっくりと考えようと思います」そう、特に帰りの六帖線で考えるのが良いだろう。思考を先延ばしにしておけば、地蔵さんから怒られる心配もないはずだ。
「そうですね。焦ることでもない。結論が出なければ一年やり直せばいいことですものね」松尾さんのその言葉はもしかしたら人間に対する皮肉なのかもしれなかった。「ほら、来ましたよ兄さん。さあ、そろそろ喫茶と行きましょう」
松尾さんの声によって私が視線を店の奥へと向けると、紫狂島が二本の腕でコーヒーカップを二つと、深皿、さらにはショートケーキの載った皿を持ってきた。驚いたのはショートケーキがホールで提供されたことだが、私は昼食もまだだったことであるし、恐らく全て食べるということになっても問題はないだろうと自分の腹とケーキを照らし合わせて見積もった。コーヒーのお代わりさえ貰えれば、食べきれる。それに、ケーキを食べることなど滅多にないのだ。ここで食い溜めしておくのも良い。
「お待たせ」ぶっきらぼうに言いながら、紫狂島はテーブルの上にコーヒーカップ、深皿、ショートケーキを置いた。よく見ると腕の上にも取り皿とフォークを二つずつ載せていた。しかし、松尾さんはケーキを食べないと言っていたはずだ。だとすると、紫狂島が食べるのだろうか? コーヒーカップもあるし、恐らくそうなのだろう。この喫茶店は、客と店員が一緒に喫茶を行うタイプの喫茶店であるようだ。珍しくはないが最近は数が少なかったので、少なからず意識はした。
「それでは、素晴らしい出会いに」松尾さんはそれだけ言って、ミルクを舐め始めた。別段、乾杯の音頭、というわけではなかったらしい。「では、いただきます」私はそう言ってコーヒーカップに手を
「あんたさ」紫狂島が椅子に座り、ぼそりと言う。あんたというのは、恐らく私のことである。私は紫狂島の方を向いて、「ん? 何か?」と疑問符を立て続けに二個消費した。無駄遣いもここに極まっている。もうどうでも良くなってきたらしい。
「久しぶりだね」
「ああ、三ヶ月ぶりくらいになるだろうか」
「学舎がなくて、寂しかった」
「紫狂島は学舎が好きなのか。私は登校するのは嫌いだから、学舎がなくても寂しくはない」
「ううん、そうじゃない。だって、登校すればさ……」
「仕事が休めるからか?」
「そうじゃないー」
紫狂島はほんのりと朱に染まる頬を膨らませて、いやいやと子どもがするように首を振りながら、私を
「紫狂島は、お菓子を作るのが得意なのか」私は尋ねる。紫狂島の
「うん……でも、まだ上手じゃないから、あんたには言わないでおこうって思ってたんだけど……」紫狂島は恥ずかしそうに語尾の音量を小さく
「十分に上手いじゃないか。それとも味が未熟なのか」私は切り分け用のナイフを手に取り、ケーキに突き刺した。「早速だが頂こうと思う。切り分ける作業は私の趣味とするところなのだ、任せてくれ」
私はショートケーキを五つに切り分けた。八分の一を二つと、四分の一を三つである。そして私は四分の一のショートケーキを皿に盛って、「紫狂島は、どっちがいい?」と、彼女に尋ねた。
「小さいのがいい」
「君が作ったケーキだ。
私が質問すると、松尾さんは一心不乱に動かしている舌を止めて、地球の核方向へ向けていた顔を上げ、「ああ、お気になさらず。私のことは路上の石ころか、液体だと思ってください。ミルクを舐めるのに必死ですから」とにこやかにいって、また視線を地球の反対側へと向けた。一体何を見ているのだろう、プレートか、
「それでは、早速いただくとするよ。ケーキを食べるのは久しぶりだ」私はフォークを手に、ケーキに臨むことにした。今日、一番最後に食べたのは、確かあんパンだっただろうか。まったくもって、甘いものが好きな私である。
恐らく分度器で
「うまい!」
幸いなことに、その発言と同時に口内に残してきたケーキの欠片が吹き飛ぶことはなかった。私はそして、咀嚼を繰り返した末に口内にある甘味の
「ああ」私の胃袋に収束した幸福たちは今まで抱えていた悩みを全て吹き飛ばす。正確に言えばその悩みの種とは紫狂島が私に対して抱いているという好意と、それが原因で引き起こされるであろう続金地蔵での不安要素だったのだが、全て吹き飛ばされてしまった。今の私に不埒さなど欠片もないことだろう。
「ありがとう、紫狂島」
「そんな……大袈裟だよ」
「大袈裟ではない」
「だって」
「私は幸せだ。君がこんなに素晴らしい才能を持っているのなら、もっと早く私に教えるべきだった」
「もっと上手になってから教えようと思ったのに」
「これより上があるのか? なんて世界だ」
「今も、練習中なんだ」
私は衝撃を受けた。人間というものは恐ろしい。そして、同級生の意外な一面を見たことに、さらなる驚きを隠せなかった。いっそ
「なんだ」
「あのね、もっと美味しく食べられるんだよ」
「なにがだ」
「このケーキ、もっと美味しく食べられる方法があるの。知りたい?」
「詳しく話せ」
「じゃあ、目を閉じたまま、口開けて」
私は即座に紫狂島の言う通りにした。一体何が起こるのかは分からなかったのだが、このケーキの制作者が言うことである。従って間違いはないだろう。目を閉じるという行為は視界を奪われることであるので実は心苦しい行為ではあったが、人間、欲求には勝てないものである。私は目を閉じたまま、「これでいいのか」と
次の瞬間、私の口にケーキが投入された!
驚きと幸せが同時に私を襲う。しかし私は結局幸せに勝てず、投入された大量のケーキを咀嚼するのに必死であった。恐らくは目を閉じることによって味覚に集中しろということなのだろう。幸せとは食である。私は上の歯と下の歯を合わせて文字通り幸せを噛みしめていると、現在は幸せを
そしてようやく私が大量に詰め込まれていたケーキを胃袋に流し終わったところで、私の咀嚼は止まった。と同時に、私の唇に触れていた何かも離れていく。私が、「なるほど、実に美味だった。ところで目は開けてもいいのか?」と口に出すと、紫狂島が震えた声で、「ダ、ダイジョウブ」と答えた。私がそっと目を開けると、眼前に頭に血が上っているようにしか思えない紫狂島が存在していた。
「ど、どうした紫狂島」その顔の色は、桜色などという色ではもはやカバーしきれない色合いである。ほぼ
「紫狂島、今のお前は、どう見ても、大丈夫には見えない。一体どうかしたのか? それとも、私が何かしたのか?」
私は不安になってそう尋ねたが、紫狂島はただ黙って、首を振るだけである。いよいよもって、私は事の
「松尾さん?」私は松尾さんに視線を向けて、声をかける。「すみません、先ほど、私は目を
しばらく私が、紫狂島に目を向け、視線を
「兄さん、兄さん……兄さん! 少しこちらへ来なさい! 早く!」松尾さんは焦ったように言いながら、肉球で机を、タン、と叩き、床へと降り立った。そしてそのまま喫茶店の奥へと向かっていくので、私は壊れてしまった紫狂島を残したまま席を立ち、松尾さんの方へと向かうことにしたのである。
「一体全体、どうしたって言うんですか、松尾さん」私は未だ仰天したままの松尾さんに向かって、質問を浴びせた。「紫狂島も、松尾さんも、少し……失礼な物言いですが、ええ、少し。ほんの少しだけ、おかしいですよ?」
「おかしもへちまもありゃしませんせ!」松尾さんは語気を
松尾さんはとうとう意味不明なことを喋り出したので、私はいよいよ目を閉じていた状態で何が起こったのか気になりだした。「松尾さん、簡潔にお願いします。何が起こったんですか」私は尋ねるが、松尾さんはぶるぶると首を振って、「いや、すまんが兄さん、私が兄さんをこの場に呼び寄せたのは、真相を伝えるためじゃあないんです。ただ、店長の気持ちを思って、兄さんから遠ざけたんです。生憎と私は、今起きた出来事を話すほど出来た猫じゃあありません。申し訳ないとは思いますが、どうか今しがた起きたことは、誰にも言わないように、そして、聞かないようにしちゃあくれませんか」
「しかし」
「兄さん!」
松尾さんは手を上下させて、私に座るよう合図した。私がその通り屈むと、松尾さんは肉球を私の靴に置いて、「頼みます。謝礼金を払いますから。私は勝手に、店長の親代わり――いやぁ、祖父代わりになっているのかもしれません。あの店長の気持ちを汲んでやってください。そうだ、羽の生えた猫との交換金を、百万円にしましょう」
「百……松尾さん! 何を言っているんですか! いけません! ええ、ええ、分かりました、話は聞きません。もう二度と、今何が起こったか、私は誰にも聞かないことでしょう。ですから顔を上げてください。八十万円で、交換です。よろしいですか?」
「すまんな兄さん……」松尾さんは顔を上げて、私の靴から肉球を離す。「本当はこんなに驚く必要もないし、こんなに時間を取る必要もない。大袈裟にする必要なんてないことなんです。ですけど、大事なことなんですよ。一番最初は、大事なんです。世界を変えちまうほどに、大事なことだ。兄さん、あんたがどうかは知りませんが、店長は間違いなく、初めてだったんですよ。ですからね、イベントにしたかったんですよ。ええ。そういう気持ちを思いだしたから、私はこんなに舞い上がったんです」松尾さんは再び意味不明なことを言って、おぼつかない足取りで椅子へと戻っていった。仕方なく、私もそれに続いた。
私が席に戻ると、紫狂島は頬を紅から桜色に戻して、つんと済ました表情で、行儀良く椅子に座っていた。まるで骨董品のようだ。西洋人形のようでもある。私がほぼ紫狂島の隣である席に座り直すと、紫狂島は
「さあ、落ち着きましたかね」松尾さんが言う。
「いえ、私の
「確かにね。ええ、私は落ち着きました。店長も、落ち着きましたか?」
「…………まぁ」
落ち着いてはいるようだが、元に戻ったようではなかった。が、しかし、とりあえず私が視線を向けても顔を逸らすようなことはないので、普段通りになったと見て間違いはないのだろう。
「とりあえず、ええ、とにかく、ですが、やることをやってしまいましょうか。ミルクは来た、コーヒーは来た、ケーキは来た。話もしたし、楽しいアクシデントにも、
そう言うと、松尾さんはカウンターの机にかけて干してある作業用の繋ぎまでぱっと掛けより、その繋ぎに手を入れて、金色の金属を、四枚、取り出した。それは間違いなく、
松尾さんは小判を四枚
私は小判を確認し終えたあと、「確かに八十万」とそれらしいことを言って、その小判をバッグの中に押し込んだ。小判は小判であるから、何が起きても問題はないのである。傷がついても価値は変わらない。硬貨とほとんど似たり寄ったりだろう。
「それでは、こちらからも」と私は一呼吸置いて、バッグの中から紙切れを一枚取り出した。それは説明するまでもないほど一般的な道具の一つである、
「使用方法はご存じでしょうか」
「ええ、ええ。何度か使わせていただきましたから」
「それでは、確かに」
「ええ、確かに」
これで取引は終わってしまった。なるほど、松尾さんの言う通り、先に取引をしてしまっては、残り時間が残り時間になってしまうところであった。取引をしないからこそ、残り時間になるべきだった時間が、待ち時間になったのだろう。どちらが良いかと比べれば、残り時間よりも待ち時間の方が良いに決まっているのである。これは当然のことだ。時間は残すものではないはずだ。
「さて……これで、お仕事は、
「ええ、いただきます、残さずに、全て」私は言いながら、フォークに手を伸ばして、ケーキを食べることにした。年上の言い分には、従っておいた方が良いだろう。紫狂島も、私がケーキを食べ始めると、私に
「それでは、兄さん、また機会があったら、お会いしようじゃありませんか。ええ、それとも、兄さんはあまり、乱槐の町には来ない方ですか?」松尾さんはそう尋ねながら、出口の方へと、歩み寄っていく。「せっかく出会えた楽しい人だ。出来ればまた、お会いしたいものですけどねぇ」
「毎日乱槐町に来る、というわけではありませんが、神楽府には、ほとんど毎日、来ています。六帖線に乗って、古杖都と神楽府の間を、行きと帰りに二時間ずつかけて。ですから、機会があれば、何度か会えると思います。今までも、何度か、もしかしたらお会いしていたのかもしれませんね。そのくらい、私は乱槐町とは馴染みがあるものですから、松尾さんの願いは、きっと叶うと思います」
「ほぉ、そうでしたか。いやいや、それはまた、楽しいことです。私はいつも、この赤いマフラーを巻いておりますから、目印に、どうぞ。服装やら、持っている物は、毎日違いますけれどね。ええ、ええ、特に、この喫茶店にはよく寄っていますから、機会があったら、兄さんも、是非。それでは、私はこれにて、失礼いたします。店長も、美味しいミルクを、ごちそうさまでした」
「…………どうも」
紫狂島はなんでもないようにそう言って、小さく、松尾さんに手を振った。年上に対して、目上に対して、する行動では、決して、なかったように思う。しかし、紫狂島には似合っていたものだから、止める
「にゃあ」
と鳴いて、店を後にする。その「にゃあ」は、ともすれば愛情表現なのかもしれないと、私はそう思った。猫について詳しくないことが、初めて悔やまれるほどである。しかし、これから勉強し、理解していけば良いだろう。知らないことを知ることが、今の私には出来る。未来の私にも、可能である。
「ねえ」私が松尾さんに対しての別れを済ませ、何事もなかったように再びケーキを食べ始めたところで、紫狂島が私に対し、言葉をかけてきた。「ケーキ、美味しい?」
「ああ、先ほども言ったが、最高のケーキだ。毎日ケーキでも良いくらいに、美味い。私は甘いものには目がないのだよ」と、私が言うと、その言葉を引き継ぐような形で、紫狂島は、「知ってる」と、そう短く
「ときに紫狂島、君は一体、いつからここで喫茶店を開いているんだ?」私は松尾さんが帰っていった安心感からか、紫狂島と世間話などに興じてみようという考えを持った。「失礼ながら、私は君に対して、社会人であるという印象を持っていなかった。かと言って、ズボラな人間という印象を持っていたわけでもないのだが、つまり、その、言葉にすれば……人形のように、人間としての一切の行動を
「それは、その、恥ずかしかったから……」紫狂島は静かにそう告げた。「まだ、お店だって小さいものだし、お客さんだって、そんなに来るわけじゃないし、成功しているとは、言い
「成功、してるかな?」
「してるとも」
「どこが?」
「どこがって、どこかしこだ。そこかしこもだ。素人目で申し訳ないが、
「でも、そんなに儲けているわけじゃないんだよ」
「私だって儲けてはいない」
「でも、一度の取引で、八十万円も稼いでた」
「羽の生えた猫を手に入れるのに、十万円近くかかっている。それに合わせて、半分の確率で死ぬような
「私には、羨むようなところ、ないよ」
「あるさ。毎日ケーキが食えるのは素晴らしい」
「でも、ケーキは一人じゃ食べられない」
「ああ、そうだった……しかし、紫狂島の店に来て、君にケーキを奢ってもらえば、私は毎日でも、ケーキが食べられるわけだ。もちろん、金は払うが」
「………………毎日、会える?」
「まあ、私が毎日ケーキを食べたいと思えば、会うことは必然だろう」
紫狂島が意味ありげに言葉を放ったので何事かと思ったが、結局、その意味に辿り着くことは、私には出来なかった。私と紫狂島はそれからしばらく無言でケーキを食べ続ける。途中、空になってしまった私のコーヒーカップに、紫狂島がコーヒーを注いでくれた。素晴らしいタイミングだったのにも関わらず、私はついぞ礼を言えなかった。それは、気恥ずかしさや、ケーキを食べるのに忙しかったなどというつまらない理由ではなく、そのタイミングがあまりに素晴らしすぎたために、礼を言う必要が感じられないほど、自然であったためだ。
「ふう」私は結局、松尾さんが店を出て行ってからキッチリ九分の時間を、さらに正確に言えば五百四十秒の時間をかけて、ケーキを平らげた。「ごちそうさま」と、馬鹿丁寧に私が
「さて、それでは早速だが、私は行くとしよう。これからまた、仕事をしなければならない」私はそう言うと、食休みもほどほどに、バッグを掴んで、立ち上がる。「真っ先に、図区凶館に向かわなければならないのだ」
「もう行っちゃうんだ」紫狂島は何か残念そうに、唇を
「仕事だ。止めてくれるな」
「そう……残念だな」
「残念がる必要も、理由もない。別れは常に平等だ。そして、同時に公平だ。別れがあるからこそ出会いが来る。言わば、別れは出会いへの
「紫狂島」
「はい」
「尋ねたいことがある」
「なんですか?」
「松尾さんには、先に二十万円、もらってるの」
「………………そうか、そうだったな」
またしても、私は読み
「勉強になった」
私は頷いて、ひとまずは一万円、と、財布を取り出し、中から一万円札を抜いて、紫狂島に差し出した。「これは?」と、紫狂島は困惑した様子で固まっているが、私はそれを無理矢理、紫狂島の手に握らせる。
「私が今後、神楽府は乱槐町に来た際、この店に寄ることがあるだろう。そのときは、黙ってコーヒーとケーキを出してくれ。これは松尾さんと同じく、ストックだ。一万円分の未来を、君と約束しよう」
私はそう言って、ようやくバッグを掴むと、放心したままの紫狂島を置いたまま、店の出口へと向かう。そして声高らかに、爽快に言った。
「それでは、また会おう!」
それに対して、紫狂島は言った。
「また会おうね」
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