母の日のプレゼント

さいか

短編

 妄想していたんだ。


 引きこもりの俺でも。

 面接が上手くいって、初任給を前借りしてプレゼントを買って。


「今までありがとう。迷惑かけてごめん」


 だなんて言って。


 母親はハンバーグを作ってお祝いをしてくれて。

 食卓の全員が泣きながら夕飯を食べるている。


 そんな、都合の良い、承認欲求の塊みたいな。

 妄想をしていた。



【2020年5月9日 22:47:18】


 包丁を突き立てる。

 ぐしゃりと音を立てて、結局使うことすらなかった履歴書が歪んだ。


 更に力を込める。


 軽い抵抗感のあと、ずぶりと。

 柔らかく、突き入れる感触があった。


 履歴書の下に敷いた枕に、包丁の刃渡りが半分ほど埋まっていた。


 これを、繰り返す。


 氏名フリガナ 伊藤博イトウヒロシ

 ぐしゃり。ずぶり。


 年齢 43歳

 ぐしゃり。ずぶり。


 学歴 〇〇中学校卒業

 職歴

    以上


 ぐしゃり。ずぶり。


 ぐしゃり。ずぶり。ぐしゃり。ずぶり。ぐしゃり。ずぶり。


 何度も突き立ててやると、履歴書はぐちゃぐちゃになった。


 良い気分だった。

 自分をメッタ刺しにしてやったみたいで、気分が良かった。


 最初は、包丁が沈む感触が少し気持ち悪かったけれど。

 繰り返しているうちに、いつの間にか気にならなくなっていた。


 だから、大丈夫。

 明日、包丁を身体からだに突き立てるときも、きっとうまくやれるだろう。


 包丁だって、切れ味の良い新品を用意した。

 店員の不審げなものを見る目つきは、中学時代に俺を虐めたゴミ共を思い出させて、ひどく不快だったけれど。

 自分が売った包丁で人が死んだと知れば、多少なりとも嫌な気分になるはずだ。


 包丁をケースにしまい、勉強机の引き出しにしまい込む。

 どうせ明日使うものだとはいえ、それまでに親に見られると面倒だった。


 ヴーッ、と。

 後ろの方からスマホのバイブ音が鳴った。


 どのゲームのボーナスタイムだっけ。

 そう思って振り向いて。


「こんにちは。伊藤さんっ」


「ーーッ」


 心臓が止まってくれたかと思った。

 ずっとろくに言葉を発してない口から、音にもならない声がもれた。


 だって、天使がいた。

 散らかり放題の俺の部屋に、白くて薄い生地のドレスを着たおっぱいのでかい天使がいたのだ。


 顔も可愛い。金髪ショートの外ハネ髪が、後輩キャラっぽい顔に似合ってる。

 三次元でこんな美人は見たことない。


「そんな見つめられると照れちゃいますよう」


 身じろぐ姿もどんな3Dモデルより魅力的で、若干のあざとさを感じさせるところがより一層可愛かった。


 とにかく可愛いその姿を見て、ひとしきり興奮して。


 ああ、でも。

 不意に冷める。


 なんかすごい可愛い子がファンタジーな格好をして目の前に現れた。


 それで、俺に何か良いことがあるのか?

 今まで良いことなんて何もなかったのに?


「なんなの。あんた」


 かろうじて出た虚勢の声はやっぱりかすれていて、恥ずかしさを強く感じた。


 顔も上げられない。突き出た腹で伸びきったシャツのくすんだ白がやけにリアルだった。


 無言の時間が流れて。


 不意に、顔がおっぱいに挟まれた。

 いや、主観的には視界が真っ暗になって、頬にすごい柔らかい感触があって、すっごい温かみがあっただけなんだけど。


 おっぱいに挟まれたと判断していいと思う。


「おつかれさまです。

 本当によく頑張りましたね」


 背中をぽんぽんと叩かれる。

 それだけでなんかひどく力が抜けて、強張っていた体が柔らかくなった。


 無言の、だけどさっきとは比べ物にならない時間が流れて。


 彼女が俺から離れる。

 その姿を追いたくて、顔が自然に上がっていた。


「落ち着きましたか?」


 彼女は中腰でこちらに微笑んでいた。顔はちょうど目線が合う高さだった。


「うん。落ち着き、ました」


 なんだ。ましたって。敬語か。今まで碌に使ったこともないのに、なんだそれは。


「あの、あんたは一体……」


 再びの問いを放つ。


 すると彼女はにこりと笑って。


「私は異世界転生課のリンエルです。

 今ここで死んだ場合の異世界転生のご案内と能力プランのご案内に来ました。

 レッツ ネクストステージ!」


 ……やっぱり。良いことなんてないんじゃないか。



ーー◆ーー



「死神?」


 保険屋みたいだな、とか。そんな疑問よりも不意に言葉が出た。


「あはは、死神じゃなくて異世界転生課です。死神の方は命を刈り取りますけど、あたしたちは基本的に死んだ後の人にしか会いませんから」


 俺はまだ死んでない。


「けれども、ええ。伊藤さんの場合は早めにお伝えして方が良いと思いまして。お話だけでも聞いてもらえませんか?」


 ぎゅ、と左手を両手で包み込まれた。


 柔らかかった。だから。


「話だけなら……」


 仕方ない。話ぐらいは。


「ありがとうございます! ああ、よかった!」


 ぺこりと頭を下げて、両手を胸の前に当てて「絶対伊藤さんのためになりますから」なんて言うのだし。


「まず、伊藤さんが異世界転生できることを確認しますね」


 ばさり、と翼が羽ばたく。


 すると、目の前の空間に青色の板状のものが浮かび上がった。


 これは……表だ。縦横まっすぐの線が等間隔に引かれた4×4の表が浮かび上がった。

 空欄が、丸で囲まれた文字ーーハンコみたいだーーによってどんどん埋められていく。


 瞬き数度のうちに、空欄は全て埋まってしまった。


「はーい、おっけーです! 最初から全部の承認通るなんて、やっぱり伊藤さんは異世界転生の素質ありますね!」


 すごい、すごーいと嬉しそうに天使が手をたたく。


「そ、そうなのか?」


 正直、悪い気はしない。


「そりゃ、もう、すっごくですよ!転生時に使えるポイントも多いですし、一気に能力適正も見ちゃいましょう!」


 すらっとした天使の人差し指がこちらに向いて、すーっと動いて。


 額に柔らかく触れられる感触があった。


「~~ッ!」


「ちょーっとだけ! じっとしててくださいねー」


 まるで子供を相手取る歯医者や看護婦みたいにあやされてしまう。


 動揺は仕方ないだろ。

 指がなんかちょうどよくひんやりしてて、顔が近いんだよ。照れるに決まっている。


 そんなこんなを考えてるうちに、いつのまにか適正診断とやらは終わったみたいで、天使は再び離れてしまった。


 ばさばさばさっ、と翼が強く羽ばたく。


「はい、右側見てみてくださーい」


 促されて振り向くと、さっきの表とは別の形をした光の枠が浮かんでいた。

 今度は読める数字や文字が並んでいる。


「丸っこくて内側が六角形になってるのがーー」


「ステータス?」


 力、速さ、体力、器用さ、魔力、幸運の6つに分かれている。


「そうです! 各項目の横にカッコ書きしてあるのが適正です。この適正が高いほど能力を上げるために必要な転生ポイントが少なくて済むんですけどーー」


 力E 速さF 体力F 器用さC 魔力B 幸運E。

 酷い有様だった。


「とりあえず全部カンストさせましょっか!」


「え」

 いやいや、その流れはおかしい。


「だってぇー。全カンストまでに必要な転生ポイントって2万くらいですけど、伊藤さんの転生ポイント10万くらいあるんですもん……」


 ほらーっ、と光の枠の上の方を指さされる。

 そこには [247(+101,843)] なんて数字が書いてあった。


「かっこの中の数字のこと? かっこの外にも数字あるけど」

 なんだかすごい小さいんだが。


「かっこの前は確定済みのポイントですね。このあとすぐに異世界転生すれば、かっこ内のポイントもちゃーんともらえますよー。お気になさらず、です!」


 ふーん?


「そりゃ分かったけど、余ったポイントってどうすんの?」


 現状、能力プランの提案もあったもんじゃないが。


「あーっ、その目は『こいつプランの説明とか言う割にはなんか雑じゃね?』みたいなこと考えてますねっ!」


 ぷくーっ、て擬音が聞こえそうなくらいに天使が頬を膨らませる。


「あ、いや。そう言うわけでは……」


「ないですか?」


 ほんとにー? みたいにジト目で見られてしまう。


「いや、あります……」


 ないとは言えない。


「あははっ、正直でよろしいですねぇ」


 手を口に当てて笑う姿はやっぱり可愛いくて、なんだかすごくドキドキした。


「さてさて! おしゃべりも楽しいですけど、余ってるポイントの使い道もお話ししませんと」


 そう言って天使さんが光の枠に触れる。

 すると、ステータスがすぅっと消えていって、金色に輝いた四角がずらっと並んだ。

 四角の中には文字が書いてある。


「『領域展開』『物理無効』『神秘殺し』……」


 他にも『覚醒』やら『不死鳥』やら。なんか凄そうだった。


「ふっふっふー! どうですかこのチートスキルたち。ポイントは5万と高いですけど、その効果は折り紙つきです!」


 どやさ! と言わんばかりだ。


「これ欲しいなー、っていうのあります?」


 にこにこ顔の天使さん。

 けれど、悔しい。難しくて何がどれくらい良いのかよく分からなかった。


「できればもうちょっと詳しく。おススメとかもあれば」


 教えてもらわないと考えるのも無理そうだった。


「おお、冷静。っと、大丈夫かなー?」


 天使さんがちらっと壁にかかった時計を見る。時刻は2時13分を指していた。


「ええ。お時間もまだありますし、詳しくみていきましょうか!」


ーー◆ーー


 それから、結構な時間が経って。


「ふー」


「お疲れさまでしたー……」


 思い切り息を吐いた俺に対し、天使さんーーリンエルさんというらしいーーが労いの言葉をくれた。


「いやー、大作ですねぇ」


 光の枠には、さっきまで二人であーだこーだ言いながら設定したスキルたちが並んでいる。通常スキルを細かく調整することでポイントも完璧に使い切った。スキル同士の相性も悪くない筈だ。


「ふわあーぁ」


 けど、時間は本当にかかった。

 窓の方に目を向けると、カーテンの下が少し明るかった。もうすぐ夜が明けるんだろう。いつもなら寝る時間だ。


「……」


 不意に視線を感じて顔を正面に戻すと、リンエルさんがじっ、とこちらを見ていた。


「な、何か?」


「やー、全部決まったなーって思いまして。最初からやり直しになったときは正直『まじですかーっ』 って思いましたもん」


 それに関しては申し訳ない。

 でも、話したいことはそこじゃなさそうだった。


 だって、次の言葉が続く。


「さて。そろそろいきますか?」


 どこに? とは思わなかった。異世界転生の話をずっとしてたから。


 行くなら、異世界だった。


 けれど。


「えーっ、と。そうだな……。今日いきなりってのはやっぱり急すぎる気もするんだけど……」


 怖かった。正直に言って死ぬのが怖かった。それに、やることがあった。せめて明日なら。

 それを。


「ねぇ、伊藤さん。これから生きて。何をするんです?」


 ぶったぎられた。


「それは……」


 まっすぐこちらを見るリンエルさんに答えられない。


「今日買った包丁で無差別に子供を襲いますか?」


 ああ、やっぱり。それくらいは、分かってるよな。


「……止めに来たのか」


「ええ」


 言い切られる。

 そりゃそうだよなって納得と、やっぱり俺の為じゃないんだなって悲しさが、半分ずつくらいに混ざり合って。

 世界はやっぱり俺に優しくないって、思考がいつもの結論に導かれていく。


 それを。


「重すぎる咎を背負ってしまったら異世界に行けませんから。そんなの、伊藤さんが可哀想じゃないですか」


 俺のためだと言って、リンエルさんが止めてくれた。


「最初に言いましたよね。よく頑張りましたねって。伊藤さんの頑張りが無くなっちゃうのが、本当に嫌で。嫌だから、来たんです」


 柔らかく紡がれる言葉は本当に優しい。

 この言葉だけじゃなく、会ったばっかりのときも、能力を色々考えたときも、ずっと優しかった。


 だからこそ、強く思う。


 自分がどれだけダメな奴か。

 こんなに優しい言葉をもらえるほど頑張ってきたわけがないだろうって。


 だって。


「バイトの面接すら逃げ出したのに」


 そんな俺が頑張ってるだなんて、ちゃんちゃらおかしかった。


「それでも、今日はちゃんと外に出たじゃないですか」


 その結果が殺意にまみれたクズの俺だ。


 せめてプレゼントだけはと思って買った包丁で、人を殺そうと決意してしまった俺だよ。

 その金も親から貰ったものだっていうのに。


 もうどうせ詰んでるんだから、バイトなんて下らない妄想をせずにそのまま引きこもっていれば良かったのに。


 そうすれば幸せそうな家族を見て、ぶっ壊してやりたいと思わずにいれたのに。


 そう、思うのに。


「伊藤さんは頑張ってます」


 言い切られて。


「世界は伊藤さんに優しくなかったのに、優しくなかった誰かを傷つけずに今まで生きてきたじゃないですか。その優しさは立派なことですよ」


 一言ごとに心が包まれて、心の壁が消えていく。

 自分が優しかったのだと、誤解してしまう。


 けれど。

 ああ、だけど。


 残った心の真ん中は。

 渦巻く怒りと悲しみは。

 もはや俺の根源となっていたその感情は。


 消えない。消せない。

 消させはしないと、過去の自分が叫びだす。


 学生服を着た俺が。

 入院服を着た俺が。

 今日着ていたスーツを着た俺が。


 主犯の頭を椅子で砕けと、怒鳴っている。

 裏切り者のカウンセラーを犯して泣かせと、喚いている。

 訝しんだ店員の心臓に包丁を突き立てろと、がなり立てる。


 ああ、いつだって。

 俺は誰かを攻撃したくて仕方がない。そんな俺が。


「優しいなんて。あるわけない」


「伊藤さん……」


 ああ、そうだ。


 何も反撃してこなかったのは弱かっただけで、怖かっただけで。だからせめて。


 やれる相手に。やれることをやろうと。

 そう、決意したんじゃなかったのか。


 でなければ、誰がこの醜い感情に行き場を与えてやれるのか。


「伊藤さん!」


 いつの間にか。

 リンエルさんに俺の左手が掴まれていた。


 きっと俺の思考を止めてくれようとしたんだろう。


 それが、ひどく気に障って。


 部屋に椅子があって。目の前に女がいて。引き出しには包丁があることに気づいてしまう。ああ、それに。リンエルさんは優しいのだ。


 やれる相手と、やれることが揃っていた。


「リンエルさん。あんたが殴らせてくれるなら。一発やらせてくれるなら。そういう優しさをくれるなら、異世界でもどこでも行ってやるよ」


 言った。言ってしまった。


 なんて醜い。どれだけ楽しく話せていたとしても、いつだってそんなことを考えてしまっているのか。


 少し、間があって。リンエルさんの声が聞こえた。


「……伊藤さんがそれで満足するのなら。

 よろしいですよ。正式な報告がなければ、上もお目こぼしするでしょうし」


 ーーは。

 ははは。まじかよ。

 なんだそれ。それが優しさか。

 こんなものを俺は今までやってきたのか。

 そりゃ、やりたい放題されるだろうよ。


 はあはあと、自分の呼吸音がやけにでかい。

 掴まれた手にじっとりと汗が滲んでいるのが分かる。


 それで。


 掴まれた手が震えていることに気付いた。

 掴んでいる手が震えていることに、気付いた。


 顔を見た。

 伏せられた顔からは目元を伺うことは出来なくて、口元がぎゅっと結ばれていることだけは分かった。


 今この人を好き放題することは、やりたい放題される弱さを優しさとして肯定することだって分かった。


 ーーそんなこと、できるものか。


 今日リンエルさんがくれた優しさはこれじゃない。俺の醜い弱さと同じにするなんて、出来るわけがない。


「あー、くそッ!」


 叫んだ。


 左手を振り払った。

 そのまま、拳を股間に振り下ろした。


 殴られる痛みはいくらでも知っていたけど。

 今まで、人を殴ったことがなかったから、加減が分からなかった。

 そういえば、勃起したチンコを蹴られたことはなかったかもしれない。


 死ぬほど痛かった。


「い、いとうさぁーんっ!」


 リンエルさんの慌てたような声が聞こえる。


 痛みでうずくまったから、表情はやっぱり分からない。

 けど。さっきよりはずっと。見たい表情をしてくれてるだろうと、そんな妄想をした。



ー◆ー



「もう完全に痛みは引きました?」


 正面に回ったリンエルさんが首をちょいっと傾げながら聞いてくる。


「あー、うん。大丈夫」


 あれから。

 リンエルさんはズボンとパンツをずらして、中を触って癒してくれたーーということは当然なかった。


 「か、回復魔法ぅー」などと呻く俺に対し「で、できませんよー!」と言いながら背中を撫でてくれただけだった。


 予想外だった。

 背中を撫でられるのは、とても気持ちが良かった。


「えーっと……はっきり言って、相当気まずいんですけど。実はあんまり時間無いんです。さ、サクッといっちゃいます?」


 リンエルさんが包丁の入ったケースを握って、シュッシュッと前後に動かす。

 焦っているのか。素を出してくれてるのか。恐らく両方だろうけど、大分遠慮がない。


 焦るのも無理はないんだろう。

 だって結局。激情が凪いだだけで、怒りも悲しみも消えてはいない。

 行き場を探して俺を縛る。

 だからやっぱり、俺はここで詰みなんだ、と。そんな風に分かってしまったから。


 けれど、リンエルさんはそれじゃ嫌だと、言ってくれる。


「あそこで踏みとどまれた伊藤さんだから、ちゃんとしてあげたいんですっ! この世界が向いてなかったなら、別の世界に行けばいいだけじゃないですか!

 あれだけ自分嫌いオーラ出してて何で自分の一番嫌なとこだけに拘るんです……。嫌いな世界や自分を捨ててなーにが悪いんですか!」


 ひどい有様だった。

 仕事したことが無いから分からないけれど、客(?)相手に逆ギレするのはだいぶNGなんじゃないだろうか。


 けれど、その中身は。

 すとん、と。言葉が腹の中に落ちるような感覚があった。


 捨てても、良いのか。


 怒りも。悲しみも。

 それを捨てたいと、願うなら。


 辛かった過去にせめて意味が欲しくて、ずっと心の真ん中にいた感情を。


 捨てても、良いのか。


 ずっとこの世界が嫌だった。

 ずっと自分が嫌いだった。

 それが両方とも変わるなら。


「嫌がる理由はないんだな……」


 決定的なことを口に出して、ふっと体が軽くなった気がした。


「この世界もこの俺も、捨ててしまえば拘る必要なんてないのか」


 もちろん、異世界をーーリンエルさんをーー信じるならば、だけど。


 けれど、疑う余地はない。

 だって今まで関わってきたこの世界は俺を含めて信用出来ないのだ。

 それなら、リンエルさんが一番信じられるし、信じたい。


 出会ったばかりの人が一番信用出来るなんて馬鹿みたいだけど、俺はそれが良いんだ。


「リンエルさん。お願いします。異世界へ連れてってほしい」


 それでもやっぱり自分で死ぬのが怖い俺は人任せで。

 せめて格好をつけたくて、リンエルさんを真っ直ぐに見た。


「はえっ!? よろしいんですか!?」


 うーうーと何やら唸ってたリンエルさんが素っ頓狂な声を上げる。


 それが少し楽しくて。


「うん、よろしいんです」


 なんだか笑ってしまった。


「伊藤さん……。

 こほん。承りました。貴方の勇気に敬意を」


 テンパっていたリンエルさんは軽い咳払いをして、すぐに元の柔らかい笑顔に戻った。

 きっと仕事モードがこの状態なんだろう。


「その、心残りとかはありませんか。時間は厳しいですけど、できるだけの対応はしますので」


 心残り。

 そんなものは考えだすと幾らでもあるだろう。

 けれど、パッと思いついたのは。


「死んだ後で良いから、パソコンの中身の消去を頼みます。ズタボロにした枕や履歴書の片付けも、できるなら」


 それぐらいだろうか。

 意識の端っこにプレゼントのことが浮かんだけれど、それはまあいいだろう。


 人を殺す予定だった包丁なんて親に贈るものでもないし。

 そもそもがプレゼントだってただの思いつきだったのだから。


 それに何よりプレゼントと言うならば。

 穀潰しの俺が死ぬことが親にとって一番のプレゼントだ。


 ああ、だから。もう。


「他には何かありますか?」


「それくらい、かな」.


 そう答えるしかないのだ。


「……分かりました。心残りには必ず

 ご対応しますから、と。リンエルさんは微笑んでくれた。


 それからお互い黙ってしまって。秒針が何度も、かちりかちりと音を立てた後に。


「それでは」「よろしくお願いします」


 どちらからともなく声を出した。


 それで。

 すぅっ、と部屋の温度が少しだけ下がった気がした。


 空恐ろしい感じではない。

 どちらかと言えば、どこか厳かな神殿になったみたいだった。


「貴方と。異世界の貴方に祝福を」


 そう言って伸ばされた指先が俺の胸元に触れる。すっ、となんの抵抗もなく指先は進み、手首までシャツの中に入りこんだ。


 そこで初めて思い知った。


 ああ、これは死ぬ。

 物理的に心臓が止められるのか、神秘的に魂が取り出されるのか、それとも別の方法か。それは分からないけど、自分が今から死ぬことだけは分かる。


 死ぬ。死ぬ。死ぬ。


 動物的な生存本能が泣きわめいている。

 さっき死ぬって決めたばっかりなのに、もう死ぬのが怖くなっている。

 どくん、どくん、と。

 リンエルさんに触れられているだろう心臓の鼓動をやけに大きく感じた。


 これが、止まる。


 ああ、こんなにも死ぬのが恐ろしいから、命はやはり大切なものなんだ、などと今更ながらに思い知って。

 命をうまく使えなかった後悔が渦巻いて。


「リンエルさん、はやくーーッ」


 情けなく叫んでしまう。


 俺が恐怖に耐えられるうちに死なせてくれ。


 俺はゴミだから、生き残ってしまえば、今これほどまでに大切だと思い知った命でも碌に使えないし、怒りと悲しみが命じるままに命を他人から奪ってしまうに違いないんだ。


 そんな叫びに。


「伊藤さん! 異世界を生ききった後に、またお会いしましょう!」


 リンエルさんも叫んで応えてくれた。 

 その顔は少し悲しそうに見えた。


 ああ、もしかして。今の俺を哀れんでくれてるのだとしたら。

 きっと今晩の出来事だけは、良かったことなんだ、と。そう思った。


 思って。


 そこで、意識は途切れた。



ーー◆ーー



 令和二年五月十日未明。伊藤博の死体は彼の両親によって発見された。


 両親は息子の引きこもり問題についてたびたび市役所に相談しており、死亡への関与が疑われたが、遺体に目立った外傷がなかったため、警察にはすぐに事件性はないものと判断された。


 これで終わり。


『引きこもりが問い詰めに来た両親を返り討ちにした挙句、登校中の児童11人を殺傷した』などというニュースが、新聞やテレビ、ネットを騒がす事はなく。

 伊藤博の名前が世間一般に刻まれることはない。


 けれど。彼を想う者はいて。


 伊藤靖子はその夜、息子の夢を見た。

 それから毎年。

 五月の第二日曜に、決まって息子の夢を見た。


 悼む想いをより集め天使が紡ぐ虹の糸。

 天使が与えた、伊藤博のための世界と繋がって。

 伊藤靖子に、息子の世界を夢で見せた。


 その世界における伊藤博は、隠された力に気付いていない新米騎士のヒロシ・イトーだ。

 実力はあるのに臆病で、周りの評価は決して高いとは言えない若者が。

 窮地にあって傷を負いながら仲間を守る姿をきっかけに、数多くの友人を得て。

 やがて「人類最強の希望」と呼ばれるほどに成長し、魔王を倒す勇者となっていく。


 そんな、ヒロシにとって優しい世界を夢で見た。

 息子の幸せな姿を夢で見た。

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母の日のプレゼント さいか @saika-WR

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