完結
此処、
そんな
なんといっても官僚のお仕事は、大体三時間半から四時間半位で二十日勤務なのだが、上皇様の最愛のお妃様は、天がご誕生される大神様から下賜された瑞獣様だし、今上帝様の情人であられお兄君様であられる神楽の君様は、
瑞獣とは瑞兆として姿を現わすとされているが、此処中津國のお妃様は大神様が、永きに渡る平安の世をお慶びの証にさし遣わされたお方だ。
ちょっとでも、治世が乱れようものならば容赦はない。
それこそ恐ろしいお力で、そんな輩は一網打尽だ。
トドのつまり、そういった輩の調伏とかなんかを、仕事の一つとしている陰陽寮の陰陽師は、全く出番など無いに等しいから、手が空いてしまうという事となる。
……で、散々手こずっていた今上帝様と皇后様の、夫婦の関係といえば御順調で、王朝でいうならば珍しいおしどり夫婦であられるから、とにかく早く待望の御親王様をご誕生頂きたい処だが、これは天がまだ早いと言っている。
天が早いといえば如何様にもならないから、陰陽寮としてはできうる限り、それが御早くなる様に吉日を占って上奏するのみである。
それも此処のところ、今上帝様が勤勉にお務め頂けるから、滞りなく進んでいるし。
毎日の仕事といえば、時を告げるくらいか?
それだって、何も
……という事で、琴晴は物凄ーく暇しているわけである。
「琴晴。この草子は面白いな」
昨今は都外れのご自分のお屋敷よりも、もはや琴晴の身に余り過ぎる屋敷というよりも、今上帝様の里内裏的な傾向と相成った、一応琴晴名義の屋敷の廂に腰を落とされて、先程からそれは真剣にお読みの、只今我が国で大フィーバーしているという、王朝物語の草子を手にして、今上帝様の今生の情人であられ、今上帝様が今生を終えられてからは、それは長の年月をご自分の生がお尽きになられるまで、弟君様であられる今上帝様と、伴侶として過ごされる神楽の君様が言われた。
「ああ……只今上流階級から下賤の
「……であろうな……実に面白い」
ちょっと頰を、桃の花の花弁の様に染められて言われる、かの方神楽の君様は、大神様がご寵愛のお方ゆえ、ご誕生の
人間と云ってもお母君様が、あの瑞兆を伝えるという瑞獣鸞のお妃様なのだから、ご誕生前より稀有なるお方であるのだが……。
その神楽の君様は〝神〟であられるので、男神にも女神にもなれると云う。
しかしその事は陰陽寮の陰陽助であり、かの名だたる陰陽師と同じ姓を持つ琴晴ですら知るよしも無い事だ。
さてその神楽の君様だが弟君様の今上帝様とは、内裏以外では情人関係にあられるから、この様な王朝物語のドロドロ恋愛小説をお読みになられて、それは心情をご理解になられる。
なぜなら女御となられて、内裏で今上帝様のご寵愛を一身に、お受けになられた経験がおありだからだ。
だが、青龍を抱けし御子様を皇后様との間に、どうしてもご誕生されねばならぬ
つまり、狭い内裏の世界しかお生きになる術のない、哀れなる皇后様に今上帝の全てを差し上げられたのだ。
その代わりとして内裏以外の処では、今上帝様は神楽の君様の情人として存在するという理屈らしい。
この様なややこしい恋愛など、知る由も無い琴晴にすれば、ただの屁理屈としか思えないのだが。貴く御誕生で複雑ないろいろをお持ちの方々には、至極真剣な事柄らしい。
そして今、今上帝様は皇后様との子作りの吉日週間であられるので、神楽の君様への御成りはおできになられない。
仮令悪知恵を駆使して、真夜中には姿を消せる凄技を持つ牛に、今上帝様をお迎えする牛車を轢かせ、おふたりの逢瀬を支援している琴晴が居ようとも、その週だけはおふたりはお逢いしてはいけないのだ。
なぜか?それは今上帝様の御心が全て、神楽の君様に向けられてしまうからで、そうなられては、待望の青龍を抱く事のおできになられる御子様を、皇后様にお授け頂く事が叶わなくなるからである。
その崇高なる
「しかしながらそなたが、この様な草子に関心があろうとは?……さては通いの女が夢中であるな?」
な、なんと……。
独神の大神様のご影響をお受けになり過ぎで、些かもあちらの事にはご興味を持たれず、春画すらご存知のなかった、あの、あの初々しく無垢で
琴晴は初めてお会いした時を思い浮かべて、言葉を失ってしまった。
……あの頃の神楽の君様からは、絶対にこの様なお言葉はお聞きする事はなかったであろう。
……なんと今上帝様の、ご存在の大きなことよ……
琴晴は、感嘆の思いで君様を見つめる。
「なんだ?」
なんとも愛らしい微笑みを、お浮かべになられる。
「あーいえ。心留む事柄がございまして……」
「ほう?如何な事だ?」
神楽の君様も、それはご興味深々で琴晴を見つめられる。
琴晴は知りようもないが、神楽の君様の御瞳はそれは深い紫色で、ジッとジッと覗き込んでご覧にならないと、黒く潤んでいるように見えるのだ。
だから琴晴は、漆黒の瞳だと思っている。
「〝
「言霊?」
「はい、言霊でございます。言霊には不思議な〝力〟があると聞き及びまして……」
「ほう?それは面白いな。確かに言霊は凄い力を持つ。そなた達人間は、非常に〝言葉〟を大事と致すゆえ、上手く使いこなせれば役に立つ。……あの、恋文とか歌とかは、我らには理解し難い処であるがな……」
神楽の君様は、神妙に頷かれて草子へ視線を移された。
「ああ、はい。言霊は言葉とした事を真実と致す、それは驚嘆致す〝力〟があります……」
「ほほう?」
神楽の君様は、それはそれは興味を持たれて琴晴を覗き込まれた。
「つまりですな……」
琴晴は神楽の君様の、その覗き込んでご覧になられる視線を、逸らしながら続ける。
「言葉を〝
ゆえに〝恋文〟には、それは大きな〝力〟があるのでございます。相手の心を得るという、詠んだ者の願いを叶える……という〝力〟でございます。……と言うのであらば、〝言霊〟によってその相手を
「ほう?」
「下衆の者の代表的な者を主と致し、貴族達や貴きお方を袖にする様を描く事で、朝廷に虐げられし者達の怨念を鎮魂せしめるは、古より存在致しておりますし、語り部に語り継がせておるものもございます……そこで歌でございますが、相手を持ち上げて詠う事により、その者の持った恨み嫉みなどの怨念を、鎮魂致し浄化させるのでございます。例えばその草子も、ある権力が強い一門が権勢を振るっておりますゆえ、敵対する者達、陥れられた者達、牽制されし者達諸々の怨念を、その草子の中に反映させ、決して敵う事のなかった者達を、噺の中で鎮魂し浄化致すのでございます」
「なるほど、それは凄いな……」
「はい。
「おっ?さすがは
「……とか仰せられますが、君様には余りお使い頂けぬかと?」
「はて?それは如何な事か?」
「主上様との文でございます」
「うっ……」
神楽の君様は言葉を呑み込まれて、琴晴を直視される。
痛い処を突かれた感じだ。
今上帝様はそれはそれは筆まめで、何かと云うと文をお寄越しになられる。
字もお見事でお言葉もお美しく、それにまして恥じらいも無く甘い言葉を連ねられるから、重々に瑞獣鸞の習性で、愛し合う相手の愛情が計れてしまわれる、神楽の君様は閉口だ。
愛情を感じているにも関わらず、視覚でも甘い言葉を連ねるられては堪らない。
会えない日々が苦しくなってしまわれる。
……で、以前読んでおられた草子に、〝を〟と云う文字がお召しに従う意と知られてからは、とにかくなんでもいいから〝を〟を添えて、使いたる今上帝様の乳兄弟で、今や側近中の側近の晨羅に手渡される。
お兄君様でお愛おしき神楽の君様が、ただ一文字〝を〟を添えてくださる事に、お喜びをお抱きの今上帝様は、それをそれはだき抱いておられるとか?
〝言霊〟の真の意味をご存知ならば、少しはお使い頂きたいと、琴晴はご進言申し上げている。まっ、神楽の君様にご理解頂けるとは思えないが。
「琴晴」
神楽の君様は、それは真顔を作られて言われた。
「はい」
ゆえに琴晴は畏まってお伺いする。
「今の話しならば、〝言霊〟は要らぬだろう?」
「はっ?」
「主上は愛情しか持ち合わせぬゆえ、〝言霊〟で言挙げは不必要である」
琴晴は身を仰け反らせて神楽の君様の、その桃花の様にお染まりの頬を凝視した。
……なんと?……
あの、あの神楽の君様がいけしゃあしゃあと、恥ずかし気も無くお惚気を仰せとは……。
恋とは真に恐ろしいものだ。
こんなにも君様を、変えてしまわれるとは……。
霊よりも魑魅魍魎よりも、背筋を冷ややかにして琴晴は見つめる。
「……ならば陰陽助殿、気張られよ」
さすがに琴晴のヒキ気味の態度に、神楽の君様も羞恥をお覚えになられたか、咳払いを微かにされて言われた。
「はい。草子は力を持つものゆえ、治世の平安の為に奮起致す所存にございます」
「さすが陰陽助であるな。琴晴は使えるヤツと思うておったが、実に役に立つ……」
「有り難き、お言葉にございます」
少し照れて頭を垂れる。
何せ狡っ辛く悪知恵を働かせてお誉めを頂く事が多いから、こう正当にお誉めを頂くと気恥ずかしい。
なんとも琴晴は、淋しい生き方をしてきたものである。
「神楽の君様……お寂しゅうございますか?」
琴晴は草子を覗き見られるお方に、当然の事を聞く。
仕方の無い事なのに聞く。
いつまで御子様は、ご誕生されないのだろう?
親王様が一人でもご誕生ならば、今上帝様の今生のお勤めはほぼ終えられる。
今生の子の成長がいかに難しいものであろうとも、お妃様のお力と神楽の君様のお力があれば、仮令お一人の親王様であられようとも、ご成長は容易く致して頂ける。ただそのお方が、青龍を抱けるか否かの問題だけだ。
抱けねば、抱けるお方をお待ちする。
だが必ずご誕生頂ける。そう星は琴晴に示してくれる。
だだそれがいつなのかが解らないし、無論の事高々の琴晴などには分かるはずはない。
だが、皇后様はさほどに御子様をご誕生されないから……しかし何年の間なのか……。
それはお妃様や神楽の君様方は、ご承知なのだろうか?
「寂しいが致し方ない。これは天が決めた事だ。逆らうは勝手だが、逆らわぬ方がいい……。天が決めた事は天理だ。全てを繋げて理を通す。我らの様に目先に流され、個人の都合や感情や欲で通すものとは違う」
「さようにございますか?」
「ゆえに天は私に、そなたをくだされた」
「は?」
「蒼を知らぬ私は、寂しいなど知る由もなかったが、知ったゆえにそれを知った。ゆえに寂しさを埋めるが為にそなたが
「……あーいや……神楽の君様……それは……それは……」
琴晴は、動揺を隠せない。
……失敗ってしまう……
いやダメだ。全ての均衡が崩れてしまう……
琴晴が蒼白と化す。
今上帝様の御心の均衡は、だだ神楽の君様にある。
……いや、ここで神楽の君様と今上帝様を切り離せば……
皇后様はお幸せになられる……
琴晴は神楽の君様の、細い
刹那琴晴の脳裏に、あの光の柱が立ち上がった。
神々しく光り輝いて、目眩と頭痛が激しく起こる。
……ダメだ。今上帝様の御心の均衡は、神楽の君様にある。もし切り離せば、今上帝様の御心がお狂いになられる。内裏が大きく蠢く。ドロドロに蠢いて、魑魅魍魎と悪霊の住処と再び化す。后妃様方の
ならば神楽の君様は?琴晴を愛してくださるだろうか?
否……かのお方は大らかなる大神様が、神楽の君様には決して罰などお与えにならぬのに、大神様とのお誓いを裏切った自責の念で、お隠れになられてしまわれる。
稀有なる我が国は乱れに乱れ、鬼が再び息を吹き返して闊歩し、魑魅魍魎が人々を苦しめる。平安の治世に遣わされたお妃様は我が身を恥じられ、上皇様をお連れになられて天に登られる。
琴晴は激しい頭痛と目眩に身を伏せて、脂汗を流して震えた。
……己の邪まな心が恐ろしい。神楽の君様に寄せる思いが恐ろしい……
「琴晴……琴晴!」
琴晴はご心配顔の神楽の君様が、覗き込まれるお顔を仰ぎ見て目を開けた。
「大事ないか?」
「も、申し訳ございません。目眩が酷く……」
「さようか?寝所に行くか?」
「いえ!」
それこそヤバい。
琴晴は大慌てで身をもたげた。
「……大事ございません」
「さようか?」
「……はい」
何を話していただろう?
ふと思って考えるのをやめた。考える事は無駄な事だと納得している。
神楽の君様は、もはや今上帝様のものだ。
それ以外に何もない。
神楽の君様の、心の寂しさに付け込む事は許されない。
「あとで銀悌に薬草を煎じて届けさすゆえ、ゆるりと休め」
「……ありがとうございます」
「そなたは私の唯一無二の友である。人間ではだだ一人の友である……。そなたがおるゆえ、今上帝と今生を生きられる。そなたがおらなんだら、私は寂しくて我慢がいかぬだろう。哀れなる皇后に、
「……何を仰せでございます……」
まだ少し頭が痛む。だが琴晴は力無く笑んで言った。
「そなたがおるから我慢ができる。身を労うてくれ……」
「身に余るお言葉にございます」
神楽の君様は、琴晴の肩に細い
「銀悌銀悌」
とお呼びになられた。
「琴晴に薬草を煎じよ……」
言われながら、銀悌をお探しに行かれた。
頭痛は落ち着いてきている。
あれは警告だ。
邪まな思いを抱く琴晴に対しての……。そしてその折に見せられたことは、事実となりうる結果だ。
絶対に均衡を崩してはならない。
ならば失敗る事は可能か……。琴晴が望めば可能という事か……。
そして琴晴は何一つとして、手に入れるものは無い。
ただの失敗りだ……。
琴晴は、暇を持て余す現実に顔を崩した。
陰陽寮が暇を持て余すは平和な印だ。
そうだ〝
此処中津國では、陰陽師の活躍を記する事はなかなか無さそうだ。
だって、怨霊とか妖とか物の怪とかと、親しくお話しをなされる神楽の君様がおいでになられ、鬼や魑魅魍魎達が怖気づくお妃様がおいでになられるのだから、残念ながら琴晴の活躍は披露できそうにない。
実に残念だ……。残念だ……
琴晴は失敗る事すら許されずに、高みに上る事しかできないようだ。
おまけの陰陽寮陰陽助惑乱…終
……弟帝様ご惑乱・完結……
お読み頂きありがとうございました。
弟帝様ご惑乱 婭麟 @a-rin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます