歌を詠む。機械と話す。魔法を使う。
@yu__ss
雨だから閉じ込められた校内で、魔法使いと出逢ってそして、
(三年間の執行猶予をもらったつもりでいたけれど、結局そうじゃなかったか)
篠ノ井結衣は学校指定の紺のバッグにしまった進路希望調査票のことを考えながら、そんな事を考えていた。
朝から降り続いた雨は、夕刻になっても止む事はない。止むまで図書室で探し物をしようと考えていた結衣を、未だ校舎の内に留め続けた。
(どこで読んだんだったかなぁ……)
手に持っていた本を棚に戻して、結衣は図書室を出る。
四角く薄暗い廊下はひんやりとしていて、今月から短くなってしまった袖が恋しくなる。廊下には人影がなく、その静けさが寒さに拍車をかけているような心地がした。
(……部室棟?)
結衣はふと入学したばかりのことを思い出し、部室棟の方に足を向ける。きゅっきゅっと床と上履きの擦れる音を奏でながら歩みを進める。
結衣の探し物は小さなひとつのフレーズだった。
『魔法が必要だ』
(それもとびっきりの、自分だけの魔法。目の前の扉も、なんなら世界も破壊してしまうほどの、強力な呪文)
曖昧に脳内に残る一文を、記憶を頼りに暗唱した。たしか何かのハウツー本にのっていたはずだと、結衣の頼りにならない記憶力が語る。
入学後にどこかで読んだこのフレーズを結衣は探している。
最近、しかも高校入学後に読んだことは覚えているれど、どの本で読んだのかを思い出せない。
図書室か、書店か。どこかで立ち読みした記憶はあるけれど具体的な場所まではわからない。
けれど結衣には、そのフレーズが今の自分に必要なモノを指し示してくれるような気がした。
きっかけは、今日受け取った進路希望調査票だった。
まだなにも記入されていないその紙が、空欄が、進学、就職の文字が、結衣には恐ろしくて仕方なかった。
結衣はずっと、時間の経過を恐れている。
いつもその事を考える時に、心の中に子どもの時見た海外のアニメーションが蘇る。
遠くにいる恐ろしい怪物から逃げようとして一生懸命走り出すのだけど、後ろを振り向くと遠くにいたはずの怪物がすぐ近くに迫っている。そんな場面。コミカルに描かれていた場面だけど、結衣にはとても恐ろしいモノとして心の内に焼きついていた。
結衣が恐れているのは、そんな遠くにある怪物。
日々少しずつ近づいてくる。ゆっくりだけど確実に自分に迫ってくる。
遠くに逃げたいけれど、どうすればいいかわからず、ただ怪物が近づいてくるのを見ていることしかできない。
恐ろしくて目を逸らそうとしても、やっぱりそれはそこにあり近づいてくる。
その怪物は、将来と呼ばれていたり、未来と呼ばれたり、進路と呼ばれたりしていたりする。
少し前、高校への進学が決定した時には三年間の執行猶予をもらったのだと喜んでいたけれど、結局それも先延ばしに過ぎなかった。
今日もらった進路希望調査票は、結衣にそのことを思い出させた。
先延ばしにするだけではダメだ。
根本から恐怖を克服する術を得なければダメだ。
『魔法が必要だ』
そんな時に、さっきのフレーズを思い出した。
本校舎の西側から伸びるアーケード状の渡り廊下は、古い部室棟につながっている。大きな木造の部室棟だが、現在利用されている部屋は四割程度だと結衣は聞いたことがあった。
部活動に所属していない結衣には馴染みのない場所のはずだが、右手に並んだ本校舎より大きな窓や埃っぽいような匂いが、確かに記憶の中にはある。
階段の横を通り抜けて廊下を進む。記憶と一致する最奥の部屋。
今日もそこに部屋は存在していて、入口には窓がついている。
覗き込むと、記憶の中のあの日とほぼ同じ光景。
奥側に大きな窓、半分ひかれた黒のカーテン。安っぽいパイプ椅子と長机に、窓際には木製の本棚。
北側を向いた窓は採光には向かず、穏やかな黄昏時の暗がりを室内に作り出している。
心地良さそうなその光景に惹かれて、あの時は吸い込まれるように扉を開けた。
けれど今日はひとつ違う。
パイプ椅子に、結衣のクラスメイトが一人でかけている。
そのセミロングくらいの髪の少女は、ノートパソコンを触っていた。
からからと音を立てて扉を開く。結衣のクラスメイト、明科あさきはモニターから顔を上げる。
「……え」
呆けた表情のあさきに、結衣は小さく会釈する。
「あの、明科さん、だよね?」
あさきは肯定のために小さく頷く。
「あ、同じクラスの篠ノ井です」
「うん、なに?」
知ってるよ、という態度に結衣は胸を撫で下ろした。
「ちょっと、本棚見ていい?」
あさきは首をひねり、ますます不審そうな表情を浮かべる。結衣はなんと説明すれば良いかわからず、困ったように曖昧に笑う。
しばらくして「まあ、いいけど」と、結局あさきが許可をすると、結衣はもう一度会釈して入室した。
八畳ほどの室内は電灯が点っておらず暗い。
部屋の中央には長机が一台あり、あさきは端の方のパイプ椅子にかけている。机の上にはノートパソコン。薄暗い部屋の中、背面の林檎のロゴが煌々と白く点っている。あさきは何やらタイピングをしながら、時折結衣の様子を伺っていた。
結衣は気にしないようにして、本棚の前まで移動する。目当ての本棚は、室内の左側奥に据え付けられていた。
何段かにわかれた棚には、ハードカバーやソフトカバー、文庫本に日誌などが丁寧に収められている。
結衣の目に付いたのは「短歌」という単語。日誌の表紙にも『短歌部活動日誌』とラベルが塗布されていた。
結衣は振り返ってあさきの方に視線を移す。相変わらずパソコンに向かって何やらタイプしており、結衣の想像する短歌部の活動には見えなかった。
さて、と本棚に視線を戻して、記憶を頼りに、いくつかの文庫本の中から、結衣はオレンジ色の背表紙の本を手にとった。
不可思議な名前のついた本を両手に持ってめくる。薄暗くてやや読みづらいけど、そこには目当てのフレーズが載っていた。
文字を目で追っていくと、見えない恐怖に苦しむ青年の様子が奇妙な筆致で描かれている。ただ結衣には、それはあたかも自分のことであるかのように思えた。
何回かページをめくった頃に、ふと頭上から明かりが差し込んだ。
振り返ると、出入り口の扉のところにあさきが立っており、左手は電灯のスイッチに添えられている。
「ありがと」
と結衣が声をかけると、扉の脇からパイプ椅子を一脚持ち上げて、パソコンの斜め前くらいに据えた。
「……座って読んだら?」
「あ、うん、ありがと」
もう一度結衣があさきにお礼を告げる前に、あさきはパソコンの前の椅子の方に戻りタイピングを続ける。
あさきの厚意に甘え、明るくなった室内でパイプ椅子にかけて本の続きを読み進める。
苦しんでいた青年は短歌に出会い、短歌を作る、青年は短歌のことを『魔法』と呼んだ。そんな奇妙なエッセイ風の物語。
結衣は思わず首を捻ってしまった。
その本は確かに結衣の悩みに近いことが書いてあるような気がした。
けれどその答えが、何をすれば良いかという問いに対する回答が、短歌を作ればいいという物だった。
(え、なんで?)
結衣には全く理解できなかった。
短歌を作るということが、進路希望調査票をバッグに忍ばせる自分に対して、何かの力を持っている気がしなかった。
世界を一瞬で覆してしまうような、そんな魔法を求めて来たはずが、短歌?
本に顔を落としながらもう一度首を捻ると、結衣はあさきの視線に気付いて顔を上げる。
「……短歌、好きなの?」
「え、いや……」
あさきの問いに対して、結衣は曖昧に返す。確かにこのフレーズを、この本を求めてきたはずなのだけど、どうにも違う気がしてならない。
(どうしようかなぁ……)
考えた末に、結衣はあさきに尋ねてみることにした。
「明科さんは、短歌やるんだ」
「いや、短歌はわかんない」
想定外の回答に、結衣の脳内にクエスチョンマークが浮かぶ。
「あれ? ここは短歌部じゃないの?」
「昔はそうだったみたい、今はゲーム制作部」
「ゲーム制作……」
日常で聴き慣れない単語に、鸚鵡返しで呟く結衣は机上のノートパソコンに視線を移す。
そのアルミで覆われた小さくて薄い板は、電灯の明かりを銀色に鈍く反射していた。
結衣は鞄から筆記用具とルーズリーフを取り出すと、いくつかの単語を書きとめる。
将来、進路、悩み、猶予、苦しみ、魔法。脳の浅いところにあった単語を取り出すと、ルーズリーフに書き出していく。
結衣はひとまず短歌を作ってみることにした。
(千年にわたって愛される文化には、相応の理由がある、かも)
そんな曖昧で消極的な理由がその考えの根拠だったが、結衣はそんなものにでも縋りたい心地だった。
結衣には短歌の作り方はわからなかったけれど、とりあえず五七五七七にあてはめれば良いということは知っていた。本には季語も要らないと書いてある。
とりあえず、結衣は今の自分に近い単語を書き出し、組み合わせる。
音数を確かめながら、三十一文字にあてはめていくと、そのうちに上手くあてはまる組み合わせが見つかった。
ルーズリーフにそれを書き出して、横に傍線を引く。
(……できた?)
完成した一首を眺めてみるが、結衣にはどうにもよくわからなかった。
(うーん、いいのか、悪いのか)
ルーズリーフを眺めながら、頭の中でいくつかの言葉を足したり引いたり、入れ替えたりを繰り返す。
(苦しみとは、にすると六音だから、えーっと、苦悩とはに変えると五音か……)
「……ねえ」
結衣が脳内のパズルに苦しんでいると、あさきが声をかけた。
「どしたの?」
「あのさ、えっと」
あさきは何やら言い淀むような様子を見せながら、ノートパソコンをくるりと回転させて結衣の方に向けた。
「ゲーム、遊んでみて欲しいんだけど」
やや眉根を寄せたような表情のあさきが、結衣には不安そうな様子に思えた。その提案は結衣には意外なものであったけど、不安そうなあさきを無下に扱えるほど冷たい人間でもない。
「うん、いいよ」
結衣が笑顔を向けると、あさきは小さく吐息を漏らした。安心した様子のあさきに結衣は頬を緩ませる。
あさきはパイプ椅子から立ち上がると、ノートパソコンを結衣の前まで押した。結衣が覗くと、モニターにはインターネットブラウザが立ち上がっている。
あさきは横からトラックパッドを操作すると、ブラウザ上に「グロースノート」というロゴが表示された。ゲーム画面の下部には『制作者:あかしあ』とリンクが付いている。
「やってみて」
「……えっと、どうすればいいの?」
「説明しないから、とりあえずやってみて」
あさきはそう告げると、小さなメモ帳とシャーペンを手に持って結衣の後ろに待機した。
マウスのないパソコンに初めて触れる結衣は、あさきが先ほどやったようにトラックパッドに指を乗せる。画面の中のカーソルは動くが、ゲームはスタートしない。どうすれば良いかわからず振り返ってあさきに視線を移す。
結衣の視線を受けて、あさきは申し訳なさそうに「……キーボード操作」と小さく呟いて、画面をみるように結衣の視線を誘導する。
結衣が改めて視点をモニターに移すと、「PressAnyKey」の表示があることに気付いた。背景の色に近くて、ちょっと見えづらい。
恐る恐るエンターキーを押すと、ロゴは背景に溶けていった。
「これ、本当に明科さんが作ったの?」
一通り遊んでから、結衣は感心したようにそう尋ねる。
あさきは眉根を寄せて困ったような表情をするが、結衣にはそれが照れている仕草のように見えた。
背後から手を伸ばしたあさきがトラックパッドを操作すると、画面には先ほど結衣が動かしていたキャラクターの画像が表示された。それぞれ異なるポーズをした同一のキャラクターが四体描かれており、結衣はそれが連続するとアニメーションのように動くのだと察した。
「これは、待機モーション」
はー、と吐息を漏らす。小学生のときに、お菓子工場を見学でをした時と似たような気分になった。
「自分で描いたの?」
「……まあ、フリー素材を加工したやつだけど」
「へー、すごいなぁ……」
結衣が呟くと、あさきはまた困ったように視線をずらす。
結衣から見ると、あさきの作ったゲームは驚くほど完成度が高かった。とても同じクラスで机を並べている人が作ったとは思えない出来で、たまにスマートフォンで遊ぶ、プロが作ったゲームのようだと思った。
「音楽とかは?」
「音系は、全部フリー素材」
「へー、すごい」
「すごくないよ」
あさきは視線を合わせないまま否定する。その様子が、結衣は少し可愛らしく見えた。
結衣にすれば、どれだけ褒めても足りないくらいだったけど、あさきが照れているようなのでそれ以上褒めるのはやめた。
「ありがとう、楽しかった」
「うん、こっちも勉強になった」
あさきはお礼を言うと、書き留めていたメモ帳をキーボードの上に置いた。メモ帳には『スタートロゴの色』と走り書きがされている。他にもページいっぱいに書き込まれていた。
「そうなの?」
「……うん、自分で作ったのは、自分ではよくわからないから」
そう呟くと、あさきは結衣の後ろからメモ帳ごとノートパソコンを両手で持ち上げた。
「作品をよくしようと思ったら、誰かに遊んでもらうのはすごく大事だから」
あさきの言葉に、結衣は自分で書いていたルーズリーフに視線を移す。真ん中のあたり、傍線の横には自分が詠んだ短歌が書かれている。
(よく、わからない)
自分の椅子の方に移動して、またタイピングを再開するあさき。
「……ねえ?」
「うん」
結衣が話しかけると、あさきはモニターから顔を上げる。
「ちょっと、読んでみてくれる?」
そういって、結衣はルーズリーフをあさきに手渡した。あさきの受け取ったルーズリーフには三十一文字が書かれていた。
『いつからか追いかけられるようになりその怪物は未来と名乗り』
「……どう?」
「……えっと」
結衣に問われて、あさきは言葉を無くす。
「なんか、もっと、うーん」
悩みながら言葉を探すように、あさきはお腹の前あたりで軽く手を組む。
「……私は、短歌はわからないから」
「わからなくてもいいから」
逃げ道を塞がれて、あさきはますます考え込むように首を捻る。さっき自分のゲームを遊んでもらった手前、何か返さねばという思いもあったが、適当に嘘をつくのも憚られた。
「えっと、短歌って、もっとカッコいい感じなんじゃない?」
「……カッコよくない?」
「うん」
そっか、と呟いて結衣は肩を落とした。
「……まあでも、ちょっとわかる」
ついと、ルーズリーフを差し返しながら、あさきは呟いた。
「未来について悩むのは、私も同じだから」
結衣がルーズリーフを受け取ると、あさきはまたモニターに視線を落とした。セミロングの、あまり纏まってない黒髪が顔にかかる。
その言葉は、結衣には少し意外だった。
あさきのゲームは完成度が高くて、結衣にはあさきがずいぶん先を行っている様に思えた。一方あさきは、自分の短歌に共感してくれて、同じだと言ってくれた。
(共感の魔法?)
短歌、もう少しやってみようかな、そんな風に結衣は考えていた。
***
『自分で決めなさい、もう子どもじゃないんだから』
進路希望調査票を出した時の両親の反応を思い出すと、結衣は胸のあたりに何かが詰まるような心地を覚えた。
クラスメイトに尋ねてみると、結衣同様に悩み、決めていない者ばかり。それは結衣にとってはある意味では心強かったが、結局は参考にならない意見として処理するほかなかった。
(……あさきちゃんはどうするのだろう?)
そんな疑問が、結衣の中に生まれた。
クラス内では誰とも話そうとしないあさきは、ホームルームが終わると早々に教室を出て行く。
他の友人たちが部活に散った後、結衣はあさきを追いかけて文化部の部室等へ足を運んだ。
「また来た」
「うん」
以前と同じように長机にパソコンを置いて、タイピングしているあさき。
結衣がかけていたパイプ椅子も、同じようにあさきの斜め前あたりに据えられていた。
「あさきちゃんはさ」
「うん」
「あ、あさきちゃんって呼んでいい?」
「うん」
あさきは聞いているのかいないのか、モニターに顔を落としたまま同じ返答を繰り返す。結衣はあまり気にしないようにして、持っていた疑問を口にする。
「進路調査票さ」
「うん」
「どうする?」
「……え、何が?」
動かしていた手を止めて、あさきは顔を上げる。
本気で何を聞かれたのわからない様子で首を傾げるあさきに、結衣は言葉に詰まる。
「えっと、もう決まってる?」
「ああ、うん」
あさきは姿勢を正す。
「ゲームクリエイター。できれば高校で賞とって、コンシューマ系に就職したいけど、ダメならゲームの専門か、工業系かな」
「……へー」
淀みなく自分の将来を語るあさきに、尋ねた結衣の方が言葉を失ってしまう。
そんな結衣に向けて、不審そうな表情を浮かべながらも、あさきはモニターに顔を落とす。
「え、賞って何?」
尋ねた結衣に対して、あさきは今度は最初から顔を上げ結衣を見つめる。
「ゲームコンテストの賞、今は審査中」
「え、そーなの?」
「うん、こないだ遊んでもらったやつをブラウザゲームのコンテストに出してる」
はー、と結衣はため息をついた。結衣は自分とあさきの差が随分あるとは思っていたが、自分との距離をさらに実感してしまった。
将来やりたいことも決まっていて、今自分がやるべきこともやっている。
(……あさきちゃん、すごいな)
結衣はじっとあさきを見つめる。その視線に奇妙な熱を感じてあさきは結衣を見返した。
「いい?」
「あ、うん」
という結衣の言葉を待って、またあさきはモニターに目を落としてタイピングを再開する。
未来を恐れる結衣に対して、『わかるよ』とあさきは言った。
けれど恐れへの向き合い方は、全く別なのだなと結衣は実感した。
(自分はどうしたいのだろう?)
そんなことを考えながら、結衣はあさきの様子を観察した。
何やらタイピングをしたり、首を傾げたり、タッチパッドをクリックしたり。その真剣な眼差しは、怪物退治に向いているような気がした。
(あさきちゃんは、いつからゲーム作ってるんだろう)
いつ、どこから自分との差ができ始めたのだろうかと考え始める。
自身との大きな差を意識すると、どうしても焦ってしまう。結衣の中にも焦りが生まれている自覚はあるものの、どうすることもできなかった。
(ゲームって、どうやって作るんだろう)
いっそ自分もあさきと同じ道を歩んでしまおうか、なんて安易な回答が頭をもたげる。
結衣はパイプ椅子に浅く腰掛けてため息をつくと、視線に気づいたのかあさきと目が合った。
お互いに何も言わないまま見つめあって数秒経つと、結衣が吹き出してあさきはまたモニターに顔を落とした。
ふと結衣は立ち上がり、あさきの背後まで移動する。
後ろから覗くと、モニターには黒い画面に白い文字が浮かんでいる。
あさきは結衣の方を伺うように振り返ると、結衣はここぞとばかりに問いかけた。
「この黒い画面がゲームになるの?」
「うん、これはプログラミング」
「……ふーん?」
首を傾げながら相槌を打つと、あさきは「えっと」と呟きながらパソコンを結衣に向けた。
解説をしようとするあさきに対して、結衣はあさきがかまってくれたのが嬉しくなった。
「えっとね、例えばプレイヤーが右キーを押したとするでしょ?」
「うん」
「そしたら、キャラクターの位置を右に動かす、みたいに書いておくの」
「ふーん?」
このへん、と言いながらあさきは黒い画面をスクロールさせる。
そこには『if right_key』とか『player.x += speed』などと書いてあった。
結衣がまた首を傾げる。
「英語?」
「javascript」
聞いたことのない横文字に、ますます結衣の首の捻りが深くなった。
んっと、とあさきは顎に手をあてる。どう話したものかとあさきは考えながら言葉を紡ぐ。
「ここだと、プレイヤーが右キーを押したら、キャラクターを右に動かしてってコンピューターにお願いしておくの」
「お願い……?」
「うん、プレイヤーが操作したら、位置を計算して画面上に表示しなおしてねってお願いしておく」
結衣はふーんと呟く。『コンピューターにお願いする』という表現が、結衣には奇妙に感じられた。
「……機械と話してるの?」
「あ、そうそう、そういうこと」
結衣は違うだろうなと思って尋ねたが、あさきは結衣の想定とは真逆の反応を示した。
「プログラミングって、つまりコンピューターとお話しすることなんだよ」
「へぇ……」
「コンピューターが理解できる言葉を使って、コンピューターに計算したり表示したりをお願いするのがプログラミングなんだけど……」
「あー、うん、なるほど」
結衣は今度はわかったような気がして頷くと、あさきは胸を撫で下ろした。
コンピューターにはコンピューターがわかる言葉があり、あさきはそれを自在に操れるんだと結衣は理解した。
(つまり、バイリンガルの機械版ってことか)
コンピューターと会話する。
それはまるで魔法のようだ。
(機械と話す、魔法)
あさきと出会うきっかけになったフレーズを思い出した。
あさきにとっての魔法は、きっとこのプログラミングなんだろう。
じゃあ、自分にとっての魔法ってなんだろうか、と結衣は考えた。
黙ってしまった結衣を、あさきは不思議そうに見つめていた。
「篠ノ井さんは? 進路どうするの?」
あさきに問われて、結衣はんんっと唸る。怪物を幻視したような感覚になった。
はっきりと進路の決まっているあさきに対して、少し見栄をはろうかとも考えたけど、結局素直に決まっていないことを伝えた。
「進学か就職かも決まってないの?」
「……うん、たぶん進学だけど」
ふーん、とあさきは相槌を打つ。自分のことなのに「たぶん」をつけなければならないのが、結衣には恥ずかしいことのように思えた。
あさきはそれとなく結衣の様子を伺っているが、それ以上質問する様子はない。
踏み込んだ質問をしてもいいのか迷っているように結衣には見え、結衣もあさきにもう少し質問して欲しいなと考えていた。
「えっと、他に何かある?」と結衣が促すと、やや聞き辛そうにあさきは尋ねる。
「ん……何かやりたいことはないの? 勉強したいこととか」
やりたいこと……。
そう呟いて、結衣は昔のことを思い出しながらあさきに語る。
「幼稚園の頃は、保育士さん」
「あー、似合いそう」
あさきの反応が可笑しくて、結衣は微笑む。
「小学生の頃はパティシエって言ったんだけど、それは周りに多かったからなんだよね」
うんうんとあさきは首肯する。反応が良くて、意外と聞き上手なのかなと結衣は感じた。
「中学生になったら、何も答えられなくなっちゃった」
「……そっか」
「あさきちゃんは、いつからゲーム作る人になりたいって思ったの?」
急に話をふられて、あさきは少し逡巡する。
けれど結衣の眼差しに、結局は躊躇いがちに語り出した。
「前に、近所に住んでたお姉さんがいて、その人にゲームの作り方を教わったんだけど」
「ほぅ……」
今度は結衣の反応が可笑しくて、あさきは吹き出してしまう。
「その人みたいになりたいんだ。このゲーム制作部も、昔その人がいたから」
あー、と納得したように結衣は頷く。あさきにとっては、この場所も思い入れのあるものらしい。
「今はゲーム作るのが楽しいけど、いつかはその人みたいに、ゲーム作りの面白さを誰かに伝えられる人になれたらいいなと思ってる」
あさきの言葉を受け、感心した様子で結衣はため息を零した。
「就職だけじゃなくて、その先のやりたいことまであるんだ……」
「そんなに立派なものじゃないよ」
「いやいや、そんなことないよ、すごいよ」
あさきは結衣の言葉を否定するが、結衣はその否定の言葉をさらに否定する。
あさきは苦笑すると、恥ずかしそうに視線を結衣から外した。その仕草が可愛くて、結衣は思わず頬を緩めてしまった。
「すごくないよ、ただ楽しいことをやりたいっていうだけだし」
あさきは同じように否定するが、結衣にはその楽しいことですら見つけられずにいた。だから自分には、未来が怖いのかもしれないなと、そんな考えが頭にのぼる。
楽しいこと、やりたいこと、それが見つかればこの恐怖は少しは和らぐだろうか。それはどうやって見つければいいのだろうか。
「まあ実際、そんなに理由なんてないよね」
急に黙ってしまった結衣に、あさきは話し始める。
「楽しいなーくらいの軽い気持ちで初めて、それを仕事にしてる人がいて、私もそうなりたいなって思っただけ」
あさきは結衣と目を合わせると、微笑んだ。
「結衣は、好きなことない?」
あさき問いかけられる結衣だが、その瞬間は別のことに囚われてしまった。
「あ、えっと、……結衣て呼んでいい?」
「うんうん」
結衣が頷きながら楽しそうに笑うと、あさきは恥ずかしそうに目を逸らす。
(やっぱり、あさきちゃんってかわいい)
改めてそう感じた。
「じゃあ、私はここで短歌やるよ」
(あさきちゃんと、この部室で何かやるのは、きっと好きだ)
結衣はそんな考えで、あさきにそう告げる。
軽々に、軽いノリで、思いついたままに始めてみる。結衣は、何かの始め方がわかった気がした。
あさきは微笑んで、小さく頷いた。
『その恋を魔法に出来るきみといて私も恋に落ちたみたいで』
短歌を読んだあさきは、最初の疑問を口にした。
「魔法?」
「うん、機械と話すって、魔法みたい」
ああ、とあさきは納得したように相槌をうった。けれど、少ししてからうーんと照れたように考え込む仕草を見せる。
「そんな大層なものでもないけどね」
微笑みながら、あさきはもう一度ルーズリーフに視線を落とすと、また一語ずつ目で追っていく。
「恋って?」
「えっと、あさきちゃんは、ゲーム作りに恋してるのかなって」
恋、と呟いて、あさきは考え込むように顎に手をあてる。そのまま暫くモニターをじっと見つめる。
「ふーん、なるほど」
「どう?」
「片想いじゃなければいいけど」
真剣な表情で呟くあさきが可笑しくて、結衣は思わず吹き出してしまった。
その様子を見て、あさきも同じように笑い出した。
「私も、短歌を魔法に出来るかな」
「……恋におちたなら、出来るんじゃない?」
短歌が書かれたルーズリーフを結衣に返す。受け取った結衣は、もう一度自分の短歌を読み返した。
不格好ながらも、ほんの少しだけ、自分のオリジナルの魔法になった気がした。
***
あさきは不具合を修正したバージョンをアップロードして、実際のコンテストサイトからゲームをプレイする。再現が面倒なバグだったけど、パッチができたことに胸を撫で下ろした。タイトル画面では、やや色味を変えた「PressAnyKey」の文字が点滅している。
ついでにコメント欄を確認すると、また今日も新しいコメントがついていた。あさきにとって嬉しいことが書かれており、頬が緩むのを抑えきれない。
コメントは二十件を超えて、同ジャンルの他作品と比べても明らかに多い。あさきは審査通過への自信をひっそりと深めた。
他方、結衣はあさきの斜め前のパイプ椅子にかけてスマートフォンを眺めている。画面には短歌のSNSサイトの画面が表示されていた。
誰かの作った短歌を眺めながら、横の「いいね」ボタンを押そうかどうか迷っていた。
(私みたいな初心者が「いいね」しても、失礼になったりしないかなぁ……)
アカウントを取得するところまでは順調だった。
逆にいえば、このSNSではそこまでしかできていない。短歌を投稿するどころか、いいねボタンを押すことですら、結衣にはできていない。
画面のサムズアップのアイコンに指を伸ばしては、その指を頬のあたりに戻して悩む。友達とやっているSNSなら呼吸するようにいいねボタンを押しているけれど、画面の向こうの人を思うと躊躇ってしまう。
結衣が視線を感じてスマートフォンから顔を上げると、あさきが視線を向けていた。
「何してんの?」
「あ、えっと……」
結衣があさきに簡単に話すと、あさきは呆れたようにため息をついた。
「いいねくらい、好きに押せばいいじゃん」
「もしかしたら、失礼かなって……」
「いいねされて怒る人滅多にいないよ。それにいいねされていちいち腹を立てる人は、そもそもSNS向いてないから」
なるほど……、と結衣は感心したように呟く。あさきの考え方は目から鱗だった。
あさきの言葉を受け、結衣は躊躇いがちにアイコンをタップする。白抜きのアイコンが、赤く変わった。
「できた?」
「うん」
結衣はスマートフォンを見つめたまま、あさきの言葉に頷いた。
もし怒らせて直接メッセージでも届いたらどうしよう。落ち着かない気分で何度か再読み込みを試してみるけれど、特に画面表示は変わらない。
「ていうか、その感じだと」
「うん?」
「投稿って、まだできてない?」
「……うん」
結衣は項垂れる様に頷く。
結衣はせっかく詠んだ短歌を自分の中にだけに置いておくのが勿体ない気がして、あさきに何度か見せている。しかしだいたいが『よくわからない』という一段階評価だった。
それに不満をいったところ、じゃあSNSとかに投稿してみれば? とあさきが見つけてきた短歌のSNSの会員登録をしたのが昨日。
結局ひとついいねをするだけに一日を費やしてしまった。
「まあ、いいねよりは慎重にやったほうがいいとは思うけど」
「そうだよね?」
SNSのガイドラインや利用規約にもざっと目を通して、問題なさそうなことは確認している。
しかし、いざ投稿するとなると二の足を踏んでしまう。
もしかしたら、自分の短歌が誰かを傷つけてしまうんじゃないだろうか。
炎上とかしてしまって注目を集めたら、別のSNSでつながっている友達や親にも迷惑をかけるかもしれない。
そんな風に考えてしまい投稿できずにいた。
「まあでも、投稿してみれば?」
「……いいのかなぁ」
「不謹慎な動画を投稿して炎上とかはたまに聞くけど、短歌を投稿して炎上は聞いたことないし」
その言葉は結衣にとってはなんの慰めにもならなかった。前例がないだけで、第一人者になってしまうかもしれない。
「心配しすぎ」
「ほんと?」
結衣は自分よりもずっとネットリテラシーに長けるあさきの言葉を受けて、画面右上の『ここから投稿』と書かれたボタンをタップした。画面が切り替わりフォームが表示される。
自分の手元のルーズリーフを見返す。
どれが良いだろうかと考え始め、結衣は顎に指をあてた。
『雨だから閉じ込められた校内で、魔法使いと出逢ってそして、』
(この、雨だから、ってところがかっこいいよね……)
ふふ、と結衣は笑みがこぼれる。あさきと出会った時のことを詠んだ歌。結衣としてはかなりの自信作のつもりだった。少し恥ずかしくて、あさきには見せていない。
たぷたぷとスマートフォンをタップして入力フォームを埋める。
フォントはデフォルトの明朝体から、ゴシック体のものに変えた。背景の画像は悩んだが、雨のような暗い瑠璃色の背景を選択する。
(さて……)
あとは、投稿ボタンをタップするだけで完了する。
そこまで進めたのだけど、結衣はもう一度投稿内容を確認する。何度読み返しても打ち間違いなどはない。
次は投稿ボタンの上にあった、利用規約について、というリンクをタップした。昨日、二回くらい確認した内容が表示されている。もちろん改訂はされていない。
(えっと、他には……)
「投稿できた?」
スマートフォンを睨みつける結衣に、あさきが声をかけた。
「……待って」
結衣は画面をじっと見つめる。最後の読点はとったほうがいいかなぁなど、今度は内容について推敲し始めた。
しかし何度考えても、今以上に納得のいくものにはならなかった。
「できた?」
「わかった、投稿する」
結衣は答えて、もう一度上から最終確認を行う。
内容はよし、フォントもよし、背景も選んだものになっている。
利用規約も変わってない。ガイドラインにも違反していない。
さて、と黄色い投稿ボタンを押そうとすると、さらにその下に表示されている小さな文言が目に入った。
「できた?」
「いま押すから」
三回急かされて、ついに覚悟を決めて結衣は投稿ボタンをタップして投稿した。実際にはその後に投稿確認の画面が表示され、その画面から投稿した。
投稿完了画面が表示され、そこからホームのタブをタップすると、新着のところの一番上に自分の短歌が表示された。
間違いなく投稿された。
「投稿した!」
「おー」
自然と結衣は声が大きくなってしまうが、あさきはとくに気にした様子もない。
結衣がじっと画面に見入る。自分が詠んだ短歌が、沢山の短歌に混じって表示されている。
「……できた」
改めて結衣は呟く。画面を見つめていたが、急に恥ずかしくなってスマートフォンをスリープさせた。
しかし数秒後には反応が気になってスリープを解除してブラウザを立ち上げる。
画面を再読み込みするが、とくに変わったところはない。
いいねが増えているわけでもなければ、誰かから内容を非難するようなメッセージも着ていない。
残念なような安心したような心地で、しばらく画面を見つては再読み込みを繰り返す。
一分経過したが、とくに変化はない。
二分経過したが、とくに変化はない。
三分経過したところで、新たな新着短歌が投稿されて、結衣の投稿した短歌は二番目になった。
(……こんなもの、なのかな?)
「どう?」
あさきに尋ねられて、結衣は顔を上げる。
がっかりしたような拍子抜けしたような表情の結衣が、あさきには可笑しかった。
「全然、反応ないや」
「そんなもんだよ」
そう言って、あさきは自分のノートパソコンに視線を戻して何やら操作を始める。
結衣はまだ混乱して、受け止め方がわからないような表情でスマートフォンに目を落とす。
「心配しなくても、意外と世間は興味ないよ」
「……そっか」
あさきの言葉に、結衣はがっかりしたような心持ちなる。
(世界は、私にそんなに興味がない)
寂しさを感じながら、けれど一方でそのドライさが心地よくもあった。
自分ひとりの考えが少しくらい間違っていても、誰かに批判されることなく、誰かから攻撃されるようなこともない。
誰にも気づかれずこっそり受け入れてもらえるような、そんな懐の深さのようなものを感じた。
結衣は少しだけ、怪物に対する恐怖が消えたような気がした。
「あ」
初めてのいいねが付いたのが、その一分後。
画面のサムズアップの横の数字が零から一に変化しており、右上のベルのマークのアイコンが赤くなっている。
結衣は自分の心が跳ねたような感覚を受けた。
早鐘を打つような心地でベルのアイコンをタップすると画面が切り替わった。
『あかしあさんがあなたの短歌をいいねしました』
画面にはそう表示される。見覚えのあるハンドルネーム。
のめり込むように見ていたスマートフォンから顔を上げ、あさきに視線をやる。あさきは自分のノートパソコンに視線を落としたまま。
「あさきちゃん? 付けた?」
「うん」
あさきは視線を合わせないまま肯定する。
結衣はスマートフォンを持ったまま肩を落とした。
「身内かぁ……」
「ごめん……良かれと思って」
ずっと視線を合わせないままのあさきが、小さないたずらを素直に謝れない子どものように思えて、結衣は笑ってしまう。
「まー、そういうことならいっか」
「がっかりさせちゃった? ごめん」
今度はちゃんと結衣の方を向いて、心配そうな顔つきで謝罪を口にするあさき。結衣はそんなあさきに、笑顔を向けて応える。
「ううん、ありがと」
結衣の言葉に、あさきは胸を撫で下ろす。
「あ」
「あれ」
結衣がスマートフォンに目を落として、あさきがノートパソコンに視線を戻すと、サムズアップの横の数字が一から二に変わっていた。
***
北向きの窓しかついていないゲーム制作部の部室は、今日の放課後も夕陽は届かない。
結衣は短歌部の本棚に納められていた過去の日誌を読んでいる。短歌だけでなく、二人の女性歌人の楽しそうなやりとりが併せて収められていて、読んでいて飽きなかった。
その過去の部員と思しき二人のあたたかな世界を読みながら、結衣はなんとなく日誌から顔をあげて、あさきの顔を覗く。
いつになく真剣な面持ちで、モニターに食い入るように見入っていた。
「あさきちゃん?」
「ん?」
なんとなくその様子が気になり、結衣はあさきに声をかける。
モニターから視線を滑らせるように横に投げて結衣の顔を見ると、幾分穏やかな表情に変わる。
「どうかした?」
「ん? 何が?」
「えっと、なんか、真剣だったから」
結衣の疑問に、ああと納得したように相槌をうった。
「今日、コンテストの結果発表なんだ」
「あ!!」
結衣は自分でも大きな声が出たことに驚いてしまう。
二人で黙ったまま笑いながら、しばらく残った残響が消えた頃、改めて結衣はあさきの目を見る。
「……そうなんだ」
「うん、何時とかは出てなかったから、もしかしたらそろそろかなって」
「おお……」
「さっきからリロードしてるんだけど」
あさきは苦笑する。
「この間の遊ばせてくれたやつ?」
「うん、既知のバグは全部なくなったし、UXも良くしたから、そっちのバージョンで審査してくれてれば、通る気がする」
「おおお……」
あさきの珍しい強気な発言に、結衣も思わず期待してしまう。
「楽しみだね」
「うん、結衣のおかげ」
「お?」
あさきは柔らかに微笑む。やはりいつも見ないような表情で、少しテンションが高いのだろうと結衣は判断した。
同じように微笑んで返すと、あさきも楽しそうに目を細めた。
「よし、じゃあおめでとうの短歌を詠むよ」
「何それ」
またあさきが笑って、結衣はルーズリーフに文字を書き始める。
そのまま暫く、時間が流れる。結衣がルーズリーフに向かいペンを動かす音と、あさきがタイピングする音。
幾らか経った頃に「でた」とあさきが呟くと、結衣も顔をあげた。
結衣と視線を合わせた時のあさきに表情は、結衣には何か怯えたような表情に見えた。その表情に、ふと結衣は提案した。
「一緒に見よ」
「……うん、ありがと」
素直に頷くあさき。結衣はパイプ椅子ごとあさきの隣に移動した。
横から覗き込んだ画面には、コンテストのホームページが表示されており『一次審査結果発表』の文字のお知らせが載っている。
その下部にあった『結果はこちら』というリンクをタップすると、ずらりと作品名と作者名が並んでいた。
あさきは上から指差しながら、ひとつひとつ確かめる。
指が画面の一番したまで移動して、あさきはトラックパッドに二本の指を乗せる。画面がスクロールすると、次々に名前が出てくるが、どれもあさきのゲームのタイトルではなかった。
右側に表示されているスクロールバーが、徐々に下の方に近づいていく。
ひとつひとつ、指をさす。
しかしそこに、望んだ名前は載っていなかった。
「……ないね」
これ以上スクロールしない、画面の一番下まで移動したことを確認してから、あさきは呟いた。
結衣はあさきの横からトラックパッドに手を伸ばして、一番上から再度少しずつ動かした。
他の作品たちの名前が流れていく。
けれどそこには、何度見てもあさきの作品の名前はなかった。
「まあ次回もあるから」
ぼんやりとした表情で画面を見続ける結衣に、あさきは困ったように笑いながら声をかけた。
「今回で最後じゃないし、落ちたのも初めてじゃないし」
ね、とあさきが水を向けると、結衣は真剣な表情であさきに向き直る。
「これは、あさきちゃんのやつより面白いの?」
画面の中の適当な作品名を指差し、結衣はあさきに尋ねた。
「えっと、やってないけど、たぶん」
あさきはそう答えるけれど、結衣は不満そうな表情のまま画面を睨みつけている。
「やっぱり通る作品は、それぞれいろんな魅力があるものだから」
「あさきちゃんのやつも、面白いよ」
「うん、結衣がそう言ってくれて嬉しい」
「そうじゃなくて……」
結衣は俯く。
あさきはどうすれば良いかわからず、困惑した表情で結衣を見守るしかできない。
そのまま、室内を沈黙が包む。
「怖くないの?」
暫くした頃に、俯いたままの結衣が呟いた。
「夢が、叶わなくなっちゃうかもしれないのに……」
結衣は怯える様、腕を抱くような格好をとる。
誰に向けた呟きなのか、結衣自身にもわからなかった。
結衣はあさきの努力が、世間に認められなかったのが恐ろしかった。
あさきは素敵な魔法が使える。それは日々の努力で獲得した素敵な力だ。降って湧いた力ではない。努力と時間をかけて獲得した魔法。
あさきが世間に認められなかった時、あさきの夢は叶わないのだろうか?
あさきの夢が叶わなかった時に、あさきはどうするのだろう?
あさきの努力は、全て無駄になってしまうのだろうか?
「もちろん、そういうこともあるよ」
結衣は顔をあげる。あさきは困った様に笑っていた。
「怖くないの?」
「怖いよ、だから私は、毎日夢が叶うように努力している」
あさきは柔和に微笑むと、結衣を落ち着かせる様に結衣の背中に手を回した。
「私は大丈夫だから」
微笑むあさきの正面を向いて、結衣は手を握る。
「……わかった」
でもね、ともう一度結衣は呟いてから握る両手に力を込める。
「あさきのゲーム、良かったよ! だってあさきは、頑張ってるもん!」
その言葉を、気持ちを、あさきには届けたかった。
あさきの努力は自分が知っている。
あさきの夢がもし叶わなくても、自分はあさきの努力を知っている。
そのことを、あさきに届けたかった。
それが、どれほどあさきにとって力になるかは、結衣にはわからない。
それでも結衣は自分があさきを見ていることを伝えたかった。
結衣にはひとつわかることがある。自分で短歌を作ってみてわかったこと。
あさきが辛くないはずがない。大丈夫なはずがない。
時間をかけて着飾った、大切な自分の一部。
否定されたようで、辛くないはずがない。
それがわかっているから、結衣は届けた。
「あさきちゃんのこと、私が、ちゃんと見てるから……!」
「ありがと……」
そう呟いたあさきは、ゆっくりと俯く。
細切れになった呼吸が、聞こえる。
気付くと、あさきの膝のあたりに染みが出来ていた。
結衣も同じ様に俯いていた。
静かな室内に、暫く二人の嗚咽が響いていた。
幾らか経過した、その後。
明かりを灯さない室内は、手の届く範囲でも判然としない程の暗さになっている。
しかし、今の二人の距離では相手の表情まではっきりと視認できたし、相手のどこに何があるかは、触れて確かめ合うこともできた。
「進路調査票はさ」
「ん?」
結衣の甘える様な声音に、あさきはそのまま甘やかす様に喉を鳴らして聞き返した。
「歌人、て書いとこうかな」
結衣があさきに告げると、あさきは声をあげて楽しそうに笑う。つられて、結衣も頬を緩ませた。
「もう、怒られるよ?」
「でもあさきちゃんも、ゲームクリエイターって書くんでしょ?」
「まあ、そうだね」
「怒られるんじゃない?」
「私は本気だもん」
「私も本気だよ」
「そう?」
「うん」
ふーんと呟いて、あさきは目を細める。その瞼の間から、目の前の少女の瞳の奥から睫毛の先までじっくりと眺めて呟いた。
「じゃあいいか」
「うん」
くつくつと、二人は笑い合う。笑い合ってから、まあでもさ、結衣は続ける。
「私は別に、プロになれなくてもいいけど」
その言葉を聞いて、ん、とあさきは首を傾げる。
「好きなことは好きなことで、ずっと続けていくよ」
結衣が笑いかけると、あさきも同じように微笑んだ。
「恋におちた?」
あさきの言葉に、結衣はしっかりと頷く。
校舎から離れた部室等の端っこ。隔離された暗闇に四つの瞳が浮かぶ。
「ね」
「うん」
「さっき詠んだ短歌、詠うね」
結衣があさきに告げる。
恥じらう様に俯いて、顔を上げてはにかんで、もう一度俯いてから、結衣はあさきの瞳を捉えた。
「あとどれくらい見ていられるのでしょうか、きっと私はまた恋をする」
いつもよりも少し高い声で、でも目の前の人にだけ届く様な幽かな声で詠いあげる。
また結衣は、恥ずかしそうに目をそらして俯くけれど、すぐに顔をあげた。
結衣の瞳の中にはあさきが映っていて、少しずつ近づいてきて、そして。
歌を詠む。機械と話す。魔法を使う。 @yu__ss
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