後編
朝起きたら、私の目からは涙が流れていた。
いつもの事だ。虐められていた頃の夢を見て、誰かに助けられて、涙する。
私のことを助けてくれた人は、いつも顔が黒く塗りつぶされていて、誰なのか分からない。幾ら考えても、目を凝らしても、その黒が剥がれることは無い。
たった一度の記憶は、どんなに大事な思い出でも、簡単に忘れてしまう。
私にとっての恩人のはずなのに、何故か忘れてしまう。それが、たまらなく悔しい。
そのうち、私は何もかもを忘れてしまうんだ。恩人の顔だけでなく、服装も、姿かたちも。時を積み重ねていくうちに、忘却という沼へ記憶を投げ捨てていくんだ。
私は薄情な人間だ。
「やっほー!」
「や、やっほー」
バス停で待ち合わせをしていると、絵里が大きな声を上げて飛びついてきた。
恥ずかしいから、人が多いところでそれはやめてほしい。
「なんでそんなに元気なの?」
「だって、久し振りに二人でお出かけでしょ?」
お出かけじゃなくて、高校見学なんだけどなー。まあ、終わったあとに何処かで遊ぶくらいならいいかもしれない。
「美夜がいてほんと助かったよ。私、まだ全然学校とか考えてなくてさ。ざっくりこのくらいの偏差値って言うのはあったけど、まだそのレベルにもなってないし、焦ってたんだよね」
「そうだったんだ」
「そうなの。だから、ありがとね」
「え、そ、そんな改まらなくても」
絵里と話していると、遠くから、重たいエンジン音が聞こえてきた。バスは2分ほど遅れて到着した。渋滞でもしていたのだろうか。
バスに乗ってみると、何人か同じ歳くらいの子が乗っている。この人たちも、学校説明会に行くのだろう。
ゆらゆらと揺さぶられながら、中心街から離れていく。今日私たちが行く高校は、木々に囲まれた自然豊かな場所にある。少し前に改修工事が行われたらしく、見た目は私立と比べても遜色ないレベルだ。
そんなこともあり、先生は倍率が例年より高くなる可能性がある、みたいなことを言っていたけど、それでもここは私の第一志望だ。
終点の4つ前のバス停で、色んな制服を着た学生が、ゾロゾロと降りていった。その列に、私と絵里は続いた。
目の前にある高校を見て、倍率が高くなる理由がよく分かった。偏差値はそこまで高い訳では無いのに、ここまで綺麗な校舎なら、自ずと人が集まってくるはずだ。
説明会は体育館で行われるので、誘導のままに体育館へと向かった。校舎は比較的新しくなっているのに関わらず、体育館はそこまで新しいようには見えなかった。鉄骨や、壁にはかなりの年季が感じられた。
椅子に座り、高校の先生の話が始まると、体育館の中は静寂に包まれた。
学生は皆、緊張感が表情に出ていた。皆、志望度が高い人達ということなのだろうか、気合が入っているようだ。
だが、それと同時に、私はとある感覚に頭を悩まされることになった。
……胸が痛む。
私の胸に刺さる矢。その場所から、ジクジクと嫌な痛みが襲ってきた。傷口をえぐられていくような、そんな苦しい痛みだ。
こんな時になんで……。
今まで、うんともすんとも言わなかった矢が、今になって、私の体を蝕み始めたのだろうか。
薄らと耳に聞こえてくる、教員の説明。しっかりと話を聞くようにと、担任の先生には言われていたが、正直、この説明会の何が為になるのか、分からなかった。そんなことするくらいなら、ホームページに書いてある文言を見るだけでも、十分な気がした。
だから、早く終わらないだろうか。
説明会の間、常に悩み続けた痛みは、終わったあとも引くことは無かった。
――もしも、この矢が幻想で、とんでもない病を抱えているのだとしたら。
そう考えた瞬間、さーっと血の気が引く音がした。また、私は生と死の境目を彷徨う事になるのだろうか。いじめから開放されたのに、何故、またこんな仕打ちに遭わなきゃいけないのか。悔しい。
「……ねぇ、美夜。大丈夫?」
説明会が終わって、椅子から立ち上がろうとしない私を気にして、絵里は声をかけてくれた。
顔を上げて、絵里の顔を見ると、少しだけ、痛みが和らいだような気がした。
「うん、大丈夫だよ。気にしないで」私はそう言って、立ち上がろうとした。
しかし、絵里の後ろを1人の男子が通った瞬間。私の矢は、私の心臓を突き抜け、そして、一瞬鼓動が跳ねたかと思うと、急に、意識が鮮明になった。
頭が異常な速さで回転し、私の記憶が雑に掘り起こされる。見えてくるのは、いつの日か、私を助けてくれた。顔のない誰か。
だけど、今日は違かった。顔のない誰かは、まさに今、絵里の後ろを通り過ぎた人そのものだった。
私は驚いて、目を見開き、雷に打たれたかのように動けなくなった。
このまま立ち尽くす、それじゃ駄目だ。私はまだ、あの子に心からありがとうを伝えていない。
「み、美夜!?」
「校門で待ってて!」
すっと立ち上がり、出口へと向かう人を掻き分けて、私は恩人のシルエットをひたすら探した。
体育館を出ても、見えない。でもまだどこかにいるはず……。
必死に視界を右往左往するが、人が多すぎて、見つけられない。
――どうすればいい? どうすれば。そうだ! バス停!
走ってバス停へ向かう。だけど、ローファーが邪魔をする。靴が脱げて、それを履いてなんて、そんな時間さえも惜しいのに。
――お願い。お願い。お願い……!
この1度を逃したら、次なんてあるわけが無い。きっと今度こそ、顔も、姿も、全部忘れて、思い出から消えていくんだ。
曲がり角を曲がって、バス停に辿り着いた。
「あ……」
目の前に見えたバスは丁度ドアが閉まり、発車した。ゆっくりと私の目の前を通りすぎて、風が私の髪の毛を揺らした。
遠くなっていくバスを、私は呆然と見つめることしか出来なかった。
バスを引き止める勇気も、追いかける気力さえも、私には残っていない。あるのは、ひたすら続く砂漠に吹き付ける、無機質な風のような、救いようのない虚しさだけだった。
「やっと追いついたー」
後からやってきた絵里が、息を切らせながらバス停へとやってきた。
「もう。男の子を見た瞬間どっか行っちゃうんだから。もしかして。あの子がキューピッドの矢の持ち主?」
「……うん」
「へー。校外の子だったかー。それはびっくりだなー。それで、話はできた? ……って、美夜の顔で何となく察しはつくけど」
絵里は、無理やり明るく振舞っているのか、私を励まそうとしているような気がした。それが、たまらなく虚しい。
私じゃ、何も出来ないのかな。何も、手に入れられないのかな。ネガティブな、ドロドロとした感情が渦巻いた。だけど、そんな私を知ってか知らずか、絵里の表情は明るかった
「大丈夫だよ! あの子もここ受けるだろうし、きっと、受かるって! だから、そんなに気負わなくてもいいよ」
「もし、忘れちゃったらどうしよう。私、それが怖くて……」
「大丈夫、美夜はどんな事があっても忘れるなんてこと、しないよ」
「なんで、そんなことが言えるの?」
「うーん。勘かな。でも、運命的な出会いなら、きっと忘れることは無いし、絶対会えるはずだよ! 美夜も、信じてみたらどう? この出会いはきっと、運命なんだって」
そうは言っても、そう簡単に、切り替えられる訳では無い。
簡単に忘れてしまうような無責任な私に、神様が慈悲でくれたような奇跡。
それを、あっさりと無下にしてしまって、私の心には、ひとつポッカリと大きな穴が空いた。
私の胸には、ゆっくりと、光の粒となって消えていく矢が1本。周りの人の矢も、私と同じようにすーっと消えていった。まるで、何かの呪縛から解き放たれたかのように。
きっと、私の見えていたものは、幻覚、幻想だったんだと、誰もが思うだろう。一時期、精神をすり減らした、その反動で何かが起きたのだと、そう思うだろう。
でも、私はそうじゃないと思う。きっと、あの矢は幻想なんかではなく。今も、この胸に深々と刺さっていることだろう。
見えないんじゃない。見てはいけないんだ。そう簡単に、気付いてはいけなかったんだ。だから、これでよかった。
――私の胸には、深々と矢が刺さっている。
どこまでも青く澄み渡っていた いちぞう @baseballtyuunibyou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。どこまでも青く澄み渡っていたの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます