最後の人間

真花

最後の人間

 致命傷の場合は残りの命を森への感謝で尽くす。例外はない。

 ペタの腹から血が流れている。狩りから巣へ戻る途中で見付けたときにはもうその状態で、肩を貸してようやく巣に辿り着いたらもう、ペタは起き上がれなくなった。

「大丈夫か?」

「ダメだ。俺は助からない」

 傷口を見てみたがペタの言う通り、これは死ぬだろう。

「森に感謝する時間のようだな」

「ああ、そうするよ。ハル、すまない、一人にしてしまう」

「いずれどちらかがそうなった。気にするな」

 何十人も居た人間が病気で一気に死に、怪我で死に、あっと言う間に俺達二人だけになった。世界に男が二人だけ居ても殖えることが出来ないが、森は生きることを停滞させたら死がすぐに訪れる場所だから、俺達はそれまでと同じ巣を根城にしながら同じように狩りをして生活をしていた。

 ペタの腹に葉を何枚も重ねて匂いがしないようにする。少しでも獣を近寄らせないための知恵だ。

 処置を終えて、ハルはペタの横に座る。

「ハルが最後の人間になる訳だな」

「そうだな。何かすべきことはあるだろうか」

「死ぬときには、一族全ての分の感謝を森にして欲しい。長い歴史の最後をちゃんと森に繋げて欲しい」

 ハルは深く頷く。それがペタの望みならきっとしよう。

 俺達は森に生まれて森に死ぬ。全ての人間がそうであるように、俺達は森の一部であり続けるが、命ある内は少し森からズレている。死ぬと森と同じに戻る。祈りと感謝がその隙間にある。

「ペタ、食事はどうする?」

 返事がない。

 見れば既に死者の目をしていて、呼吸も止まっていた。さっきの言葉が最後の言葉になった。

 ペタは喋りながら感謝が出来ただろうか。いや、していた筈だ。

 改めてペタの亡骸を見る。やはり死んでいる。もう、ハル、とは言わない。

「ペタ、森に戻れ」

 まだ司祭のリンゴが生きていた頃にバタバタ死んだ同胞達に最後に投げかけていた言葉を真似る。

 奥にある大木のところに死者は連れて行く。早速、ペタを抱いて向かう。

 距離は遠くはないが、生きる範囲とは別の場所だ。

 大木の根元にそっとペタを置く。

「じゃあな、ペタ」

 振り向かずに帰る。ペタはこれで間違いなく森に還れるだろう。


 巣に戻ると、ペタが居たときにはそんなことはなかったのに、多くの人間が生きていたときのままの姿で生活をしている姿が見える。ついさっき葬ったばかりのペタまで居る。幻覚だ。

 ハルはしかしそれを慰めとは取らない。悪霊か何かが自分を惑わしていると考える。

「俺が一人になったと言うことがそんなに面白いか」

 リンゴの遺品の中から魔除けを取り出し、巣の真ん中に置く。しかし幻覚は消えない。

 魔除けが効かないとなると、悪霊ではないと言うことになる。その知恵をくれたリンゴはこう言っていた。

「悪霊に一番よく似ているのは自らの感情だ」

 そう言うことなのか。

 これは俺の感情が見せているのか。

 無視を決め込んでいた感情があることが、遺された助言によって暴かれる。

 ハルは魔除けを胸に抱いて、座して目を瞑る。

「俺の感情は、何だ」

 胸の内側の旅。その最初。

「俺は、ペタが死んで寂しい。悲しい。森とたとえ一つになって俺を見守ってくれると言っても、それはペタではない。ペタは仲間で、友人で、家族だった。かけがえのない最後のもう一人の人間だった」

 ペタの死を認めたと言うよりもペタの永遠の不在が現実となったことが、ハルの胸を鉤爪のように裂いた。

 胸が痛い。締め付けられる。

 そうやって絞り上げた分の涙が漏れた。

「ペタはもう居ない」

 自分で追い打ちをかけたら、応じるようにさらに涙が出る。

「ペタはもう居ない」

 徐々に慟哭に向かう。

「ペタはもう……」

 三回目からは言葉にならなくなった。

 誰も咎める者も居ない、永遠に泣いていてもいいのだ。獣が来さえしなければ飢え死ぬまでこのままでもいいのだ。

 そう思ったら涙の出が悪くなる。「ペタ」と言ってみても再び涙勢は増さない。

 そうだ。このままじゃいけない。悼む気持ちはあっても、生きなくてはならない。生きなければ死ぬ。

 顔を拭って、辺りを見る。まだ居る。

 ペタの死よりもう少し奥を探る。

 俺は何を感じて、どんな感情を持っているのだ。

 死んだみんなが見えると言うことは、みんなと会いたいと言うことなのかも知れない。

「俺は、たった一人になったと言うことに、最後の人間になったと言うことに、何かを感じている」

 内省が急に俯瞰させる。

「森の中に、どこまで続くか分からない森の中にたった一人、俺が居る。点だ。人間は俺で全てで、それはただ一つの点。……恐ろしい。俺はこのまま森に喰われるのかと怯えている。死ねば森に戻るのは普通のことなのに、森が怖い。畏れとは明らかに違う、獣と同じ怖さだ」

 横に他の人間が居るときには森の全てについて思いを巡らすことなどなかった。もっと人数がいる時は尚更だ。生きるために行動する範囲より外のことなど考える必要もないし、動機もない。生活圏と言う膜で覆われていた場所の外側に初めて意識が向く。ハルは世界の果てを想像しようとも思い描けず、その永遠の距離に圧倒される。同時に、手が届かない筈なのにリアリティーが皮膚に触る程にある。

「ちっぽけだ。俺は森の中で一人になった途端、ちっぽけになってしまった」

 ハルは恐怖に身を縮める。遠くの鳥の声にビクッとする。そんなことは生まれてからずっとなかった。

「だが、その中でも生きなくてはならない。怖れに負けるならそれは死ぬことだ」

 狩人にとって必要な慎重さは怖れとセットだが、大胆さは勇気と組みになっている。ハルは優秀なハンターだ。怖れを単独で持つ無意味と、勇気と共に持つ価値の両方の重みが体に染み付いている。だから、総身の恐怖を持ったままでも前に進むことが出来ると知っている。もう一度別の鳥が鳴く、もう怯えない。

 しかし幻覚はまだある。

「みんな……」

 ハルは気付く。みんなから一人になった。

「そうか、俺は殖えたいんだ。このまま人間が終わってしまうのが、受け入れられないんだ」

 ペタと過ごしている間には男同士だし殖えることは不可能で、かと言ってそれに対して何か手を講じると言うことはしなかった。人間が居なくなるのが時間の問題という状況は同じだったのだが、もう一人誰かが居ると言うことが事態の緊急性を曖昧にしていた。

「みんなと同じ人間が生まれることはない。それは分かっている。でも、人間の中で生きたいと、思っているんだ」

 ハルの幻覚は、ふ、と消える。

 このままでは人間が居なくなる、と言うことではなくて、俺が人間と一緒に暮らしたい、そう言うことなのだ。

 ハルは魔除けを地面に置く。

 仰向けに大の字になる。

「つまり、森の他の所にも人間が実は居る可能性に賭けてこの地を離れて旅人になるか、このまま巣に留まって生きるだけ生きて死ぬか、その選択をすればいい訳だ」

 風が通り抜ける。

「森のどこかに人間が居ると言う話は、リンゴも長もしてなかった。他でも聞いたことがない。だからかなり曖昧なものを探しに行くことになる。宝探しのようなものだ」

 木々のざわめきが聞こえる。

「それでも森は森だ。家族と距離は離れても、同じ森の中には居る」

 ハルは深呼吸をする。

「あやふやな希望か、確実な絶望か。それを今選ばなくてはいけない」

 もう一度吸って吐く。

 立ち上がる。

 食料を確認して持てるだけ持つ。狩りの道具も。

「ペタ、俺は自分で動くことにするよ。約束の感謝は森の中なら同じってことにしてくれ」

 ハルは巣を後にして、森をずっと進んで行った。


 三年後、ハルは森の終わりに到達する。そのさらにずっと先、硬くて平らな地面と木ではない大きな箱のようなものがある場所で、人間そっくりの生き物の群れと出会う。言葉は通じないし格好も違う。それでも連れられ、囲まれ、見たことのない食事を出される内に確信する。彼等は人間だ。

 人間がたくさん居る。希望が繋がった。

 ハルの目に涙が浮かぶ。だが、他の誰にもその涙の理由は分からない。



(了)

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