3-3



 おはよう、おはよう。と、相手を変えて何度も繰り返される挨拶に、雪仁は作り物の笑顔で応じる。騒がしい廊下を抜け、教室にある自分の席について、雪仁以外のクラスメイトと談笑している前後の席の生徒を余所に、文庫本を開いた。



 隣の席は空席で、席の主――笹木鳴はまだ登校していないようだった。


 本を開いたまま、今朝の夢を思い出す。会ったことが無いはずの隣席のクラスメイト、笹木鳴が現れ、幼少期に出会ったことがあると主張する、奇怪な夢。

 会ったことはない――筈、だった。しかし正直なところ、雪仁は、自分が鳴に会ったことがあるのか、それとも無いのか、言い切ることはできなかった。



 雪仁は記憶力が良い。大抵のことは忘れない。しかし、そんな雪仁にも穴が開いたようにぽっかりと抜けている記憶があった。


 今はどうでもいい情報は聞き流しているし、どうでもいいものは見てもさして覚えようとしないことで、それなりに普通に生きているが、幼い頃の雪仁はものを『覚えない』『忘れる』ということがそもそもできなかった。

 雪仁の意思に関わらず全ての情報は目から耳から無秩序に流れ込み、ちょっとした事も、嫌がらせも、理不尽も、その全てを片っ端から詳細に覚えていた。覚えていることその全てが平等に頭の中に詰まっており、優先順位も区別もなかったため、思い出すべき事柄を探し出すのに時間がかかり、混乱し、日常生活には困難が生じていた。

 その頃に比べて雪仁の記憶力はいくらか落ちている。『異常』な記憶力から、『他人より頭一つ出ている』くらいに留まっている。悠仁の研究に関わる事なのか、雪仁の記憶力を測った彼は、雪仁の記憶力をざっくりと『一般的にすごく良いと扱われる人々より、まぁ更にちょっと良い』くらいと形容した。

 記憶力が落ちた原因はわからないが、いつその異常性が消えたかはよくよく覚えている。そして、雪仁の記憶がごっそり抜け落ちている時期も、気味の悪いことにぴったりと重なっていた。


 それは――


「おはよぉ」

「――ッ!」


 考え事の最中に、顔を覗き込まれ、雪仁は大きく仰け反った。ガタン、と机が大きな音を立てる。雪仁の動揺に、ざわついていた教室が一瞬だけしんと静まり返った。


「…………?」

「……おッ、おはよ、う――ッ!?」


 教室がさわさわと再び騒がしさを取り戻す中、雪仁は話しかけてきた人物の顔を見て、再び机を蹴飛ばしかけた。


「おとなり、よろしくねぇ。キリハラ君」


 ふわぁ、と欠伸混じりに微笑んで見せた、少女の眠たげな目と黒髪は、朝すれ違った女子のもので、そして雪仁の隣人の女子、笹木鳴のものだった。

 雪仁は今朝の夢の中で鳴が口走った「むこうだと黒髪なので……」という言葉の意味を思い知る。動揺している雪仁を目をこすりながら怪訝そうに眺めている少女の姿形は、そっくりそのまま、夢の中で出会った『笹木鳴』と同じだった。


 しかし、夢の中では人間離れしたピンクの髪に金色の目だった彼女だったが、今隣にいる彼女は日本人らしい黒髪に黒色の目だった。


「よ、よろしく……」


 どうにかこうにか笑みだけ作り返事をしたが、雪仁の頭は混乱の真っ只中だった。一体全体これはどういうことなのか。呆然としたまま、雪仁は鳴に尋ねる。


「あ、のさぁ。笹木さんて、ど……っか、で会ったこと、ある?」

「――――……」


 眠たげな瞳のまま、ゆっくり口を開きかけた鳴の前に、ずい、と割り込んだ人影があった。


「――あぁ〜っ、何それぇ! 新手のナンパ〜? キリハラくんってそういうことするタイプのヒトだったんだぁ、意外〜!」

「えっ? いや、」

「ササキさんが可愛いからって、登校初日にアタックしちゃうの?セッキョクテキぃ!ひゅうひゅう!」

「いや、そんな、アハハ……」


 後ろから割り込んできたクラスの女子たちに阻まれて、鳴は口を閉ざした。姦しく雪仁の周りで話を始める女子に囲まれながら、雪仁は白々しい笑いを浮かべる。女子の壁の向こうで、眠たげだった鳴が机に突っ伏してどうやら寝始めたらしいことを察すると、内心大きな舌打ちをした。


 ――いま鳴が答える所だっただろうがよ。


「 …………。」


 お前らのコミュニケーションに僕を巻き込むな、と口に出しかけたのをそっと引っ込める。そんな言葉をわざわざ口に出して自ら和を乱すほど雪仁は馬鹿ではない。雪仁は平和を愛し、何もない日常を何より大切にしているのだから。

 そうやって彼女らの会話に軽く返しているうちに朝のチャイムが鳴った。




 黒板に今日の予定を書き込んでいる教師を眺めながら、雪仁は考え事を再開させた。隣の鳴は、出席の点呼に眠ったまま器用に手を上げた後、すやすや寝息を立て続けている。


 もし、過去に雪仁と鳴が会ったことがあったとして。それなら昨晩の夢に出てきた鳴は、雪仁の記憶の中の幼い鳴をそのまま成長させたものの筈だった。つまり、ピンクの髪も、金色の目も、鳴のものの筈で、その流れで行くと今の鳴はピンクの髪で金色の目でなければならない。しかし隣にいる笹木鳴は黒髪に黒色の瞳だった。染めて、カラーコンタクトかなんかを入れているのか、とも思うがそもそもああいったピンクの髪は――正しくはピンクにかなり寄ったピンクブラウンなのだが――現実的にありえる髪色なのだろうか。


 疑問は尽きない。雪仁の夢に現れる現実の人間に、一人でも現実と髪色やら姿やらが違う人間がいたらここまで悩むことはなかったが、そんな人間は一人もいなかったのでこうして雪仁は悩んでいた。


 ――本当に、最近の夢はイレギュラーが過ぎる。



「昨日は欠席していたから、自己紹介をお願いできるかしら? 笹木さん」

「………………。」

「笹木さん?」


 担任が鳴を呼んだ。鳴はすやすや眠っている。もう一度名前を呼ばれるが鳴は寝息を立てたままだった。クラスに微妙に気まずい空気が流れ、雪仁は鳴の肩を軽く揺すった。


「笹木さん、呼ばれてるよ」

「ふにゃ……はい、すみません」


 雪仁に呼ばれ、熟睡から微睡みくらいまでは目覚めてきた鳴は寝ぼけ眼をこすりながらゆらゆら立ち上がった。雪仁は隣から、その様子を他のクラスメイトたちと同じくらい呆れたような素振りで眺めたが、内心は彼女が今にも倒れそうで気が気でなかった。鳴は椅子に掴まってどうにか立っているが、その体はぐらぐら揺れていた。


「えっとぉ……じこしょう……かい、ですよね」

「え、ええ。そうです」

「 …………………………………………。」



 鳴が立ったまま寝たんじゃないかと、恐らくクラスの全員が危惧したであろう長い長い間の後、鳴は口を開いた。


「笹木、鳴です。一昨日までドイツにいたので、出身中学はドイツの、中学校です。あ、でも、昔はこの辺に住んでました。好きなものは……何ですかね、甘い物が好き、でした、たぶん。

 ちょっと、持病で……いつもだいたい……こんなかんじで、ねむくて……ねむねむ……ねむいんですけど……ふぁ」


 意外とハッキリ喋り始めた鳴に、雪仁は少しだけ驚くが、だんだん、その目はとろんと眠気にとろけ、最後に一つ欠伸をするとまた暫く鳴は黙った。そして再び目を開くと、ハキハキと喋り出す。


「………………。これでも一応治療中で、かなり良くなった方なので、大目に見てくれると嬉しいです。学校側には説明してあるんですけど、教室移動とか、下校とか、号令とか、寝てたら、……起こしてくれるとうれしいです」


 クラスの全員に向けて話す都合上、雪仁に背を向けている彼女の後ろ姿を、雪仁はなんとはなしに眺めていたが、ふと気付く。


 鳴は、背中側に隠した手首に、血が滲むほど爪を立てていた。


「すっっっごく頑張れば、こうやって、ちゃんと喋れるんですけど……、でも基本的にうとうとしてると思うので、寝言みたいな答えを返すことも多いと思いますし、声かけられても反応できないかもしれないんですけど……」


 また言葉が途切れかけるが、鳴は手首に更に強く爪を立てた。手首に血の玉が生まれ、手のひらを伝った。


「いじわるとか、無視してるつもりはなくて、ちゃんと聞いてるので、そういうときは、もう一回聞き返して下さい。……よろしくお願いします」


 そう言って鳴はぺこり、と頭を下げた。彼女の陰で、雪仁はほんの少しだけ顔を歪める。頭を下げたまま、鳴は手のひらの血をこっそり隠していた。

 なんとも痛ましい努力だった。恐らく、彼女の言う『すっっっごく』頑張るとは、このことを指すのだろう。大事な場面で眠りそうになる意識を、痛みで無理矢理に覚醒させるという、この行為を。



「――あ。」


 雪仁が、沈痛な面持ちで同情しているとは恐らく夢にも思っていないだろう鳴は、一つ言い忘れたと言わんばかりに顔を上げた。


「特技は、授業の丸暗記です」


 一年間よろしくお願いします。本当とも、冗談とも取りにくい彼女の言葉に静まり返った教室に、彼女の挨拶はよく響いた。



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夢を喰む くろふる @kuro_kusu

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