3-2
家を出ると、吐く息が白かった。刺すような冷気に、雪仁は首を縮めてマフラーに顔をうずめる。庭の池にも氷が張っていた。それを見て雪仁は、今日は一段と寒いという話をニュースキャスターがしていたことを思い出す。都心では昨晩の雨が凍結しているらしいという話も同時に。
家の門から学校に向かう道路を見やって、その表面がやはり凍結しているらしいことを察すると雪仁は大きなため息を吐いた。とぼとぼ歩き始めると、凍っているように見えない箇所の方が密に氷が張っていて滑りやすそうなことに気付く。
「お兄様!」
「…………白雪?」
家を出て数分。早くも学校に行くのが面倒になってきた雪仁の背中に、妹の白雪の声が投げられた。雪仁が振り返ると、真新しい制服にぴかぴかの鞄を背負った白雪が、走ってきていた。
嫌な予感がして立ち止まると、案の定白雪は雪仁の元まで走ってきて、立ち止まろうとして――転けた。一見して凍っていないように見える凍結路面に足を取られ、前のめりに倒れる。通常ならそのまま地面に転がって、綺麗な制服を泥に汚したことだろうが、予期していた雪仁は倒れこんできた白雪をしっかりと受け止めた。
「はわ……あ、ありがとうございますお兄様」
「どういたしまして。そしておはよう白雪。今日は地面が凍ってるから歩くときは気を付けて」
「おはようございますお兄様。すみません、お兄様の背中を見かけて、つい走り出してしまいました」
照れ照れと顔を赤らめる白雪に、雪仁は微笑んだ。
中学校に電車で通学する白雪と、徒歩で高校に向かう雪仁の通学時間が重なる事は無いはずだったが、この様子からしてどうやら、今日は白雪の学校は始業が遅いらしい。
「今日は遅い電車なんだね。オリエンテーションか何か?」
「はい。そうなんです。今日から一週間ほど学校施設案内とクラス行事が続くみたいで、授業は始まらないんです。初めて一人で電車に乗る生徒も多いですから、暫くは二時限目始まりなんですって! 」
そうして白雪は、嬉しそうに話し始める。
昨日の入学式で新入生代表として壇上で挨拶を読み上げたこと、担任の先生が優しそうだったこと、出席番号の前後の子と仲良くなったこと、気になっている部活があること、今日はクラス委員を決めること、仲良くなった子と同じ委員になろうか昨日から話していること。
雪仁はその一つ一つを、うんうんと丁寧に聞いた。白雪の中学校生活が楽しいものになりそうで、雪仁は本当に嬉しく思った。白雪が笑顔で、雪仁に最近の出来事を報告するのを、こうやって聞けることのなんと幸せなことか。
雪仁の人生は既に立て直しようのない程に失敗している。もう、滅茶苦茶だ。雪仁は失敗作の人生を生きている。失敗作に期待するだけ無駄なので、雪仁は自分の日常に何の期待もしていない。自分の日常はただ平坦で、特別なことなど何も起こらないで過ぎてくれればそれでいい。そう、雪仁は思っていたが、妹の白雪の人生に対しては反対に、自分の人生とは比べ物にならないほど強く思いを寄せていた。
人生の不幸なら白雪はもううんざりするほど味わった。だから、白雪には幸せになってほしい。楽しい毎日を過ごして、友達をたくさん作って、たくさん笑って、世界の中心で日の光をたくさん浴びて幸せに生きてほしい。
――……白『雪』にその表現はちょっと違うか?
「お兄様?」
「……ん、なぁに? 白雪」
「いえ、少しぼうっとしてらっしゃるように見えたので……」
「あぁ、ちょっと考え事。大丈夫、白雪の話はちゃんと聞いていたよ」
「そうですか?」
「もちろん。白雪の素敵な学校生活の話だろう?」
「もう!お兄様、最後の大事な所が欠けていますわ」
「大事な所?」
「明日も白雪と一緒に学校に行ってくれますか?って、最後に白雪はお兄様に聞いたんですよっ」
「 ………………。」
唇を尖らせる白雪に、雪仁はざっと自分の記憶を振り返る。入学式の話。先生の話。友達の話。部活の話。クラス委員の話。クラス委員の話。友達の話。隣の子の話。男子の話。教室の話。クラスの話。部活の話。先輩の話。制服の話。あとは――……。
「こら」
一通り思い返して、雪仁は白雪の額を指で小突いた。白雪は顔を赤らめながら悪戯っぽく笑う。白い息がほこほこと空気に溶けた。
「してもいない話をさもしたかのように混ぜ込まない」
「えへへ……、お兄様が本当にぼうっとしてらっしゃったので、つい」
「全く、悪い子め。悪い子とはここで別れちゃうよ?」
雪仁は、駅と高校の分かれ道で、高校の側を指差して言った。白雪は一瞬きょとん、とするが雪仁の言葉の真意に気付くと、目を輝かせる。
「駅まで一緒に来てくれるのですかっ!」
「さて、どうだろう? 良い子の白雪は駅まで送って行ってあげるけど、悪い子の白雪とはここでお別れだから……」
「良い子ですっ!白雪は良い子なので一緒に来てほしいですっ!」
「こらこら、わかったから跳ねない。また転けるよ」
ぴょんぴょんと跳ねる白雪を宥め、雪仁は駅の方に向けて歩き出す。そうこうしている間に後ろから歩いて来ていた女子生徒とすれ違った。すれ違いざま、何故か目が合う。その気怠く眠そうな目と黒髪がとても気になった。
「………………。」
「お兄様? どうかされましたか?」
「あぁ、いや、なんでもないよ。行こう」
怪訝そうな白雪の声に我に返る。雪仁は白雪の手を引いて駅へと歩き出した。白い息が、空気に溶けていった。
短い駅への道中、白雪は八回転けた。
明日も駅まで送る約束をして、改札で白雪を見送った後、笑顔を消した雪仁は無表情で踵を返した。
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