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「 ……………………………………。」
――good morning. まるで別れの挨拶かのように「おはよう」を言った鳴の声の残響を聞きながら、雪仁は仏頂面で起き上がった。
そこは元の雪仁の寝室。カーテンを閉めきった暗い部屋。下のキッチンから、通いの家政婦が朝飯を作る音が聞こえてくる。雪仁は大きなため息を吐いた。眠った筈なのに随分と疲れていた。
――なんだったんだ、今日の夢は。
のそのそと学ランに腕を通し、鞄に荷物を詰めて降りる。会ったことのない相手が現れる夢。妙にリアルな挙動で、幼い頃に雪仁と会ったことがあると主張する笹木鳴。洗面台の鏡の前で雪仁は小さく笑う。自嘲的な暗い笑い。夢のイレギュラーもここまで重なると滑稽だった。
ダイニングに向かうと、家政婦はすでに家を出た後だった。食卓には湯気の立つ朝食が並んでいる。雪仁は一人で「いただきます」と呟き、誰もいない部屋で朝食を食べる。家に他の人間の気配はなく、雪仁の箸の音と、今朝のニュースを読み上げるキャスターの声だけが、空虚に響く静かな朝食。
そうやって温度のない時間を過ごしていると、ふと〝普通〟の家はこんな朝は過ごさないのだろうか、と自分とは縁遠き事に思いを馳せて見たくなったりする。漫画や、ドラマや、小説などの物語で描かれる朝は、だいたい賑やかだ。少なくとも、母親が朝食や弁当を作っていたり、父親が先に朝食を食べていたりする。雪仁のように一人で食べる朝食の描写は殆どないか、あったとしても、とても異質なものか例外的なものとして描かれている。つまり、普通の朝は雪仁のそれよりももう少しだけ、賑やかで騒がしいものなのだろう。現実に、そうやって普通の朝とされるものを過ごしている人間がどのくらいいるかはまた別の物として。
雪仁は一人だ。一人でこの家に――離れ家に住んでいる。父親や母親や、妹の白雪は母屋で暮らしていて、兄の悠仁は家を出ている。一人といっても、母屋と同じように家政婦が掃除や食事の準備、洗濯はやってくれている。だから一人暮らしをしているというよりかは、雪仁は一人『隔離されている』と言った方が正しいのかもしれない。父親と母親が雪仁を抜きにして、白雪と母屋で『普通の家族』の生活を営むために。
雪仁は母親と言葉を交わさない。雪仁は母親に話しかけないし、母親からの言葉は全て沈黙をもって返している。雪仁は母親が嫌いだ。憎しみを持っているといってもいい。声など聞きたくもないし、視界に入るのも忌々しい。雪仁は自分のこの態度を実に正当なものだと思っていたし、自分はそうしてもいいだろうと思えるほどの仕打ちを奴から受けていた。あそこまでの事をしておいて、今更、母親ぶって、雪仁と幸せな家族ごっこをしようだなんてちゃんちゃらおかしいと、今でも心の底から思っている。
しかし、そんな雪仁の態度は許されなかったし、母親の弱い心は雪仁のそういった態度に耐えられなかった。結果として『過去と折り合いの付けられなかった』雪仁は、金にものを言わせて敷地の端にぽつんと建てられたこの離れ家に隔離された。
それは、雪仁の拒絶に耐えられない母親のための処置だったのかもしれないし、母親の存在を憎み続ける雪仁のための恩情だったのかもしれない。どちらにせよ、あの家に雪仁の居場所はなくなり、雪仁は孤独になった。
両親の下した拒否権のない決定を、雪仁は甘んじて受け入れることとしたが、悠仁と白雪は随分と反対してくれたようだった。表には出さなかったが、その事が、少しだけ嬉しかったことを覚えている。その決定は両親から『悪いのは雪仁だ』と突きつけるような理不尽なものだったが、過去の経験から雪仁は抵抗すら諦めていた。雪仁がどう思っていようと、周りからすれば悪いのは雪仁で、雪仁が何を言っても誰も聞いてくれないし、助けを求めても誰も助けてくれない、と。
そんな中で、雪仁のために怒ってくれる人間がまだいたことに驚いたし、嬉しかった。あの家から雪仁がいなくなる事を嫌だと思ってくれる家族がいたことも、同じように。そうして雪仁のために怒ってくれた二人を、雪仁は愛しているし、二人も雪仁を大事に思ってくれている……筈だ。
――
今は家にいない、年の離れた兄の事を考える。悠仁は海外に留学中で、居場所は不明だった。悠仁が突然何処かへ行ってしまうのはそれなりによくあることなので、雪仁は連絡は取っていない。雪仁はしていないというだけで、他の家族はやっているのかもしれないが。昨日の入学式の最中に思い浮かんだ悲しい想像を思い出して、雪仁は顔を伏せた。
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