2-4
その晩。夢の中。雪仁は屋敷の縁側に寝転がって外を眺めていた。桃色に曇った空からは大福の様なものが、雪の如くぼたぼたと落ちてきている。平和な夢だった。
目の前に落ちてきたものを一つ、手を伸ばしてちょいと拾うと、どうやらそれは丸餅のような風体をしたウサギだという事が判明する。もちもちとよく伸びる身体に、丸く小さな尻尾と、長い耳。そして無機質な黒い点の目。何かのマスコットかの様にキャラクタライズされたかわいいユキウサギだった。
ひんやりすべすべとした触り心地の良いそれを手で弄んでいると、意外にも意思ある生物だったらしく、身をよじって雪仁の手のひらから逃げ出した。見れば、地面いっぱいに落ちている他のウサギ達もうごめいている。各々自由に跳ねてみたり、駆けてみたり。可愛らしいようで、集合するとなかなかに気持ちが悪い光景ではある。
その様子を眺めながら、雪仁はぼんやりと苺大福が食べたいな、などと考えるが、雪仁の前に大福が現れることは無い。今日も今日とて、雪仁の夢の中での全能性は失われたままのようだった。空から大福だかウサギだかが降ってくるこの光景を、ちゃんと夢だとわかって見ているので、変わらず明晰夢ではあるのだが。
「なんでなんかねぇ……」
そうぼやきながら、ぼんやりと左手を閉じたり開いたりしていると、ふと、視界の端をウサギの白以外の色彩が横切った。
「……?」
興味を引かれ起き上がる。異物を探して辺りを見回す。ユキウサギにまみれた、こぢんまりとした日本庭園。空の桃色の他には色彩を失っている冬の世界で、唯一色を持ったものは――……いた。
庭の柵の向こうに、赤い傘を持った人間が立っていた。雪仁は眉をひそめる。平和な夢だったのに、邪魔者がやってきた。そいつは柵越しに庭の松の木に積もるウサギを眺めている。その顔は見えないが、スカートが見える。そしてそのスカートは雪仁が入学した高校のものだった。
目障りだったが、今の雪仁にはどうすることもできない。普段なら真っ先に排除してから夢の世界を楽しむのだが、邪魔者を排除できる全能性は今の雪仁にはなく、この夢は平和すぎて夢の中の物を利用して邪魔者を排除する――殺すことも叶わなかった。
お気に入りのシャツにソースが染み付いたような不快感。雪仁は顔をしかめて、赤い傘を視界から外した。どうしようもないなら見ないのが一番だ。
しかし、その赤はあろうことかこちらに気付くと、門を開けて近づいてきた。
地面に所狭しと並んでいるウサギ達を払いながら、彼女はずんずんと一直線に雪仁に迫ってくる。ウサギ達を踏まないでいてくれているのは好印象だったが、そもそも『夢に現れた他人』の段階で存在からして不快なので排除したいことに変わりはない。
彼女は雪仁のいる縁側の前まで来ると、傘を畳んだ。傘に積もったウサギがばたばたと落ちていく。そして勢いに若干引き気味の雪仁に向けて、ぺこりと丁寧に頭を下げた。ピンクブラウンのボブヘアが揺れる。
「突然の訪問失礼します。貴方がこの夢の『主』ですか?」
「……………………はぁ?」
予想外の言葉に、雪仁は思わず頭を傾けた。平和な夢だと思っていたが、どうやら今日の夢は混沌としているらしい。なんだその筋書きは。なんだこの女は。
「…………ッ、?」
高校の制服を着ているからには、この女は今日学校で出会った人間のどれかだろうと考えながらその頭を見ていた雪仁は、数秒して上げられた彼女の顔に愕然とする。
――僕はコイツを、知らない。
雪仁の夢に現れる人間達は誰一人として例外なく、雪仁がそれまでに会ったことのある人間達だった。『会っている』ではなく、正しくは『雪仁の視界に入っている』だが。例えば家族、例えばクラスメイト。或いは廊下ですれ違う生徒、街行く人々。雪仁の記憶の中の人間達だけが、雪仁の夢に現れる。例外はない。筈だ。
夢は雪仁の頭が作り上げている。雪仁の記憶と雪仁の思考を素にして作られている。他の人間の夢がどうか知らないが、雪仁の夢にはしばしば現実世界の要素が現れた。時々現れる『人間』はその最たるものだった。
雪仁は自分の記憶に絶対的な自信を持っている。一度見たこと、一度聞いたことは絶対に忘れない。すれ違った人間の顔やコマーシャルなど、日常の背景と化しているものでもぼんやりと覚えている。少なくとも、街ですれ違った人間の顔を『すれ違った』と気付けるくらいには。幼少期はもっと記憶力が良く、それはそれで困ったものだが今は関係ないのでその話は割愛する。今問題なのはそう――目の前の女の顔だった。
雪仁が『知らない』人間が、雪仁の夢に出てきている。雪仁の記憶がおかしくなっているのか。それともこれも最近の夢のイレギュラーの一部なのか。雪仁に凝視され、彼女は目を瞬かせながら恥ずかしそうに髪をいじった。
「えっと……、聞き方が悪かったですか? この夢は、あなたの夢ですか? あなたが……キリハラ ユキヒトさんですか?」
「…………そうだよ、僕が雪仁だ。そしてこれは、僕が見ている夢だ。
間違いなく、そうだけど…………そういうあんたは、誰。」
「 …………。」
警戒する雪仁に、何故か彼女の表情はかげる。眉が下がって、しゅんとしている。明らかに傷付いた様子の彼女に、雪仁は顔をしかめた。本当になんなんだこの夢は。
「私、ササキメイっていいます。……えっと、私のこと、覚えていませんか?」
「…………ササキ、メイ?」
その名前には覚えがあった。
「お前、同じクラスの僕の隣の席の女だろ。でも、今日の入学式も、その前のガイダンスでも休んでた。僕がお前に会ったことはない…………筈だ。僕の記憶が正しければ」
言葉を連ねる雪仁に、鳴の表情がみるみる崩れていくのを見て、雪仁は最後の言葉をごにょごにょと付け足した。
何をしているんだ、僕は。夢の中の人間に対して。と、雪仁は自分の行動に頭を抱えたくなる。この反応、この表情、まるで〝本物の〟人間と話している様だった。雪仁の夢の登場人物ではなく、現実に生きている人間の精神が、雪仁の夢に紛れ込んでいる様な、そんな馬鹿げた想像すら抱いてしまう。目の前にいるのは、所詮、雪仁の頭が作った作り物なのに。
鳴は涙目になりながら、困ったように前髪をいじる。涙に濡れた彼女の金色の目が忙しなく瞬いた。
「見覚えくらいはありませんか?」
「ない。大体、その髪色とその目の色を忘れる訳がない」
「〝むこう〟だと黒髪なので……」
「………………はぁ?」
「うぅ、ほ、本当に覚えていませんか? 私のこと……」
「だから、覚えているも何も、会ったことがない」
「会ったこと、あるんですぅ……最近じゃなくて、もっと昔……病院、でッ!?」
「――……黙れ」
「…………ッ!?」
ゴォ、と雪仁の心の中で炎の様なものが吹き上がった。彼女が言い切る前に、雪仁は立ち上がり、彼女の首を掴み上げた。唐突に首を掴まれて、鳴は目を白黒させる。薄い唇から、かひゅ、と息が漏れた。
邪魔者は殺せば消える。雪仁が、殺せば消えると思っているから、殺すと消える。この世界は平和で、全能性を失った雪仁に彼女をどうこうする術は無いように思えたが、まだテはあった。道具は作り出せないが、この手があれば十分だった。人一人絞殺するのに、この両手があれば十分だ。
「その忌々しい口を閉じろ。人間。二度と喋るな。何もできないから殺さないでいようと思ってたが気が変わった。耳障りだ。今すぐ失せろ。死ね」
「 ……、……! ……ッ、」
「『病院』? ハ、なんだ、それは。なんなんだお前は。なんでお前がそれを知っている。なんでお前が、それを知っていることになっている――ッ」
ぎりぎりぎりと激情のままに彼女の細い首を締め上げる。握り潰す。雪仁の手の中で彼女の気管がみしみしと悲鳴をあげていた。
『病院』、それは雪仁の中の最大のトラウマだった。雪仁が病院にかかることになったのは人生で二回。そのうち入院が一回。病院にかかることになった経緯から何から、その全てがことごとく雪仁の中に人生最悪の記憶として刻み付けられていた。なまじ記憶力が良いだけに忘れることもできず、今も雪仁の心をズタズタに刻み続けている。雪仁の孤立も、雪仁の人間嫌いも、全てはそこから始まった。
「ハハ、ハ、なぁ、〝どっち〟だ? なぁ、答えろよササキメイ。お前と僕が出会ったのはどっちの事だよ。なぁ?僕が精神異常者としてのレッテルを貼られた時か? それともおかしくなった母さんに殺されかけた時か? なぁ!!」
哄笑を上げながら、雪仁は身を焼かれるような苦痛に喘いでいた。嫌だ。熱い。痛い。苦しい。怖い。溶岩のように煮え滾る何かが雪仁の心の中心からどろり、と溢れ出して、雪仁の全てを燃やし尽くしていくようだった。鳴の言葉をきっかけにして、閉じていた感情の蓋が開いて、憎しみが、怒りが、噴き出して止まない。
病院に初めて行った日。雪仁にとっての〝普通〟が周りにとっては〝異常〟だったと突きつけられた日。それまで友達だった筈の人間が全員、雪仁の敵に回った日。雪仁の居場所がこの世からなくなった日。今でもありありと思い出せる、奇異なものを見る目。異物を見る目。差別の目。
分別を失った狂人がお前のせいだと雪仁をなじる。急に降りかかった世界の理不尽に対する憎しみを、やるせない怒りを、雪仁にぶつける。雪仁は助けを求められない。誰も雪仁を助けようとしない。雪仁も、雪仁の夢も壊れていく。そして二回目。心肺停止で救急搬送されて、雪仁は初めて病院に入院する。白い隔離病棟。白い地獄。そして、雪仁の元には、誰も、来ない。
「――――ッッ」
いらない。いらない。いらない。こんな感情は、こんな記憶はいらない。雪仁の唯一の平穏、唯一の居場所の、夢の中でまで、こんな感情は付いて来なくていい。せめて夢の中くらい、静かに、平穏に過ごしたい。いらない。いらない。いらない。こんなもの、消えてしまえ――雪仁は、鳴の細い首を絞めながら全てを拒絶する。
鳴の首がみし、と軋んだ。鳴の首がへし折れるのは時間の問題だったが、その前に雪仁の方が壊れそうだった。雪仁の心が、自分を貫く激情に、強すぎる感情の波に、耐えることができず悲鳴をあげていた。痛い。痛い。苦しい。自分の心を守るために、自分の心が壊れる前に、雪仁は更に強く鳴の首を絞める。かつての自分が、母親からそうされたように。かつての母親が、雪仁にそうしたように。
不意に、鳴が手を伸ばした。びく、と雪仁は怯えたようにそれを避けるが、鳴はそれでも手を伸ばして、雪仁の頬に触れた。冷たく、柔らかい手のひらは雪仁の頬を優しく撫でる。頰の濡れた感覚に、雪仁は自分が泣いている事に初めて気付いた。鳴は、血の気の引いた唇で言葉を絞り出す。
「……泣か、ない、で、……ユキちゃん」
「――――!」
その言葉に、雪仁は弾かれたように彼女の首から手を離した。支えを失った鳴は地面に崩れ落ち、喉を押さえながらげほげほと苦しげに咳き込む。
雪仁は呆然と立ち尽くす。彼女の冷たい手のひらの感覚が、頰にまだ残っている。あんなに煮え滾っていた激情の発作は、いつの間にか治まっていた。今はただ泣き疲れたような虚脱感が残るのみ。
雪仁はしゃがみこんで咳き込む鳴を置いて、ふらふらと縁側に戻った。倒れ込むように腰掛けると、ウサギ達が労わるように雪仁の足にまとわりついた。
「………………何でその呼び方で僕を呼ぶ?」
『ユキちゃん』なんて呼び方は雪仁の名前からしてさして珍しい呼び名ではない。しかし問題はそこではなかった。かつて雪仁をそう呼んだ人達はいた。友達や、両親は、雪仁を、『ユキちゃん』と呼んだ。しかし、今も雪仁をそうやって呼ぶ人間はもう誰もいないはずだった。
友達は失った。そして、友達は作らなかった。今の雪仁に友達はいなかった。両親は雪仁を腫れ物の様に扱った。そして、いないものとして扱った。今は会話すら無い。だから雪仁が『ユキちゃん』と呼ばれる筈がないのだ。
「ユキちゃんは、本当に覚えてないんですね」
「……その呼び方をやめろ。胸がざわついて、不快だ」
雪仁の言葉に、鳴はまたうっすらと涙目になる。そして俯くと、何かに気付いたようにぽつんと言う。
「……………………すみません、急ぎすぎました。今日はこれで失礼します」
「――はっ? いや、待て。質問に答えろ。なんでお前が僕をそう呼ぶんだ」
「今日は学校に行きますから、教室で会いましょう。キリハラ君。……ほんとは入学式、出たかったんですけど、いかんせん事務所の引越しの片付けが終わらなくて……所長は勝手に出てっちゃうし……」
「勝手に話を進めるな。僕の話を――」
「それは無理な相談です」
「は?」
彼女は、へにゃ、と笑って天を指差した。いつの間にか降り続けていた大福のユキウサギは止み、桃色の雲は晴れて太陽が現れていた。
「だってもう、朝ですから」
夢の世界が薄れていく。
ばいばいと彼女は手を振る。その顔は少々照れ臭そうで、そう、幼馴染かなんかに手を振るような顔で。お前は僕に首を絞められたことをなんとも思っていないのか、と雪仁はツッコミを入れたくなるが、馴れ馴れしく接するのも癪なのでぐっと我慢してそっぽを向いた。
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