言葉だけじゃ足りない

 真昼の白い日差しが、無人の図書室を柔らかく照らしていた。

 先客なんているはずがないことはわかっていたけれど、それでも一応辺りを見渡して、誰もいないことを確認してから中に入る。足を進めると、しんと静まりかえった空間に、自分の足音がいやに大きく響いた。


 クラスの教室よりずっと馴染みがあるはずのこの場所も、他に人がいないというだけでどこか見知らぬ場所みたいに見える。

 そのことにわけもなく緊張しながら、私はカウンターのほうへ歩いていった。裏に回り、いつものように席に着く。それから右手に握っていた鍵を、そうっと机の上に置いた。


 昨日、司書の先生に頼み込んで、特別に貸してもらった図書室の鍵。きっと先生にこんなわがままを言うのは、後にも先にもこの一度きりだろう。

 気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと息を吐く。耳を澄ますと、遠くからかすかに喧噪が聞こえてきた。

 きっと、お世話になった先生たちにお礼を言ったり、級友との別れを惜しんだりしているのであろう、その声。先輩もあの中にいるのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、私は改めて無人の図書室を見渡してみる。もう何度眺めたかわからない、その景色。だけど何度眺めても飽きることなんてなかった。それは私の、世界でいちばん好きな景色だった。



 ふたたび図書室のドアが開いたのは、それから十分と経たない頃だった。

 軽く三十分は待つ覚悟でいた私は、あわてて頬杖をついていた顔を持ち上げる。

 ドアの向こうから顔を見せたのは、もちろん先輩だった。両手に小さな花束と賞状筒を抱え、いつもよりきちっと着た制服の胸元には赤い花をつけている。

 彼は私の姿を認めると、「あ、いた」と小さく呟いてからこちらへ歩いてきた。


「せ、先輩」

 私は驚いてあたふたと立ち上がる。

 卒業式のあとここへ来てほしいと頼んでいたのは私だけれど、思いのほか早くやって来てくれた彼に、嬉しさよりまず心配が先立ってしまい

「あの、だ、大丈夫だったんですか?」

「え、なにが」

「だって、ほら、みんなにお別れの挨拶とか、写真とか……」

 もごもごと言う私に、先輩は「ああ、大丈夫」とあっけらかんとした調子で首を振って

「べつにそんな別れ惜しむような相手もいないし。一応ちょっと話くらいはしてきたけど」

「でも、あの、園山先輩たちとか」

「ああ、みなたちとは朝のうちに目一杯写真撮っといたから。ホームルーム終わったら速攻でここ来られるように」

 当たり前みたいにそんなことを言い切る彼に、思わず顔が熱くなる。

「そう、ですか」私はぼそぼそ呟きながら、あわてて顔を伏せ

「それなら、よかったです」

 言うと、うん、と先輩は穏やかな声で相槌を打った。

 それからカウンターの前まで歩いてくると、手にしていた花束と賞状筒をカウンターの上に置いた。

 私はふと気になって、これ、と春らしい色で統一されたその小さな花束を指さす。


「どうしたんですか」

「学校からもらった。卒業祝いって」

「……卒業祝い」

 先輩の口にした言葉にはっとする。

 突然顔を強張らせた私を見て、彼は怪訝そうに「なに、どうかした?」と訊いてきた。私は顔を引きつらせたまま、あの、と口を開き

「そ、そういえば私、卒業祝い、何にも用意してな」

「そんなのいいよ、べつに」

 言いかけた私を遮り、先輩は笑いながら首を振った。肩に提げていた鞄をカウンターの上に降ろす。

 それから、でも、と言い募ろうとした私をさらに遮って

「つーか白柳、なんでそんなとこ座ってんの。今日は誰も本借りに来ないだろ」

 カウンターの向こうから、おかしそうにそんなことを訊いてきた。

 それでようやく思い出した私は、あの、と続けて口を開き


「先輩も、ここに座ってくれませんか」

 言って、私の隣の席を指さした。

 先輩はきょとんとした顔をしながらも、言われたとおりこちらへ歩いてきてくれた。

 貸し出しのお世話をする図書委員のため、カウンターの前に二つだけ並べられた席。いつもと同じように、先輩はその右側のほうの席に座る。そうしてしばしさっきの私と同じように無人の図書室を眺めたあとで


「……なあ白柳、なにこれ」

 ちょっと困惑したようにこちらを向いて尋ねてきた。苦笑混じりに、続ける。

「せっかく今日は何にも仕事しなくていいんだし、どうせなら俺は向かい合って話したいですけど」

「でも、最後だから」

 私はじっと前方を見つめたままぽつんと呟く。

「最後?」と怪訝そうに聞き返してくる先輩に、私は短く相槌を打ってから

「私と先輩が学校で話すときって、この場所でこうして話してることが、いちばん多かった気がするんです」

「まあ、そうだなあ。学年違うと教室じゃあんまり話せないし」

「だから私にとっては、ここが、先輩との思い出の場所なんです」

 言いながら、自分の口にした言葉に急速にしんみりした気分が湧いてくる。

「思い出って」先輩のほうは、なんだかおかしそうに私の言葉を繰り返してから

「そんな感傷的になるようなことじゃないだろ。卒業したらもう会えなくなるってわけじゃないんだし。だいたい俺、どっか遠く行くわけでもないし、大学も実家通いなんだしさ、会おうと思えばいつでも会えるよ」

「だけど、今までみたいに学校で会うことは、できなくなります」

「まあ、そりゃそうだけど」


 言い募る私に、先輩はちょっと困ったように笑ってから

「なに、寂しいなら、明日からは迎えに来てやろうか。白柳のこと」

 からかうように、けれどあながち冗談にも聞こえない口調で、そんなことを言った。

 え、と私が思わず弾んだ声を上げてしまうと

「どうせしばらくは暇だし、学校が終わるくらいの時間になったらここ来て、白柳のこと待ってたっていいよ。白柳が一人で寂しくないように」

 そう言って悪戯っぽく笑う先輩に、私は一瞬浮かれた気持ちになりかける。

 だけどすぐに思い直し、ゆるみかけた口元を引き締めた。それからゆっくりと、首を横に振る。

「それは、いいです。駄目です」

「駄目?」

 思いも寄らぬ返答だったのか、ちょっと面食らったように聞き返してくる先輩に

「だって、これからは、慣れないといけないから」

「何に?」

「先輩と、今までどおり会えなくなることに」

 言うと、ますますしんみりした気分になってきてしまった。気を抜くと震えそうになる声を必死に抑えながら、「だから」と続ける。

「今、私は、あんまり先輩に甘えてちゃいけないんです。ちょっとずつ、一人に慣れていかないと」


 なんとかそれだけ言い切れば、先輩はしばしぽかんとした顔で私を見つめた。

 数秒間の沈黙のあと、やがてため息をつくように小さく笑う。それから指先で軽く頬を掻いて

「そういうこと言うなよ、白柳」

 少し幼さの混じる声で、ぼそりと言った。

 私が、だって、と口を開こうとしたら

「俺は白柳と会えなくなることに慣れるなんてできそうにないし、別に慣れようとも思ってなかったけど」

 とても優しい口調で続いた言葉に、私は驚いて彼のほうを見る。

「だからさ」彼は口調と同じくらい優しく笑って、さらに重ねた。

「俺は我慢しないで会いに行くつもりだったし、会いに行かせてよ」


 ――その瞬間、急にまぶたの奥で焼けるような熱が弾けた。

 喉が引きつる。堪える暇もなかった。

 間を置くことなく涙は勢いよくあふれ出し、なにかの堤防が壊れてしまったみたいに、必死にせき止めていたものが一気に押し寄せてくる。

「わ、白柳?」と先輩がぎょっとしたように声を上げたけれど、もうどうしようもなかった。

 涙を拭う余裕もなく、滲む視界に先輩の困惑した顔を捉えながら、「ほ、ほんとうは、わたし」と震える声を押し出す。


「ま、まい、にち、先輩に会いに、学校、来てたんです」

「は?」

 今度は素っ頓狂な声で聞き返されたけれど、やはり気にする余裕はなく

「だから、明日からは、先輩、いないんだって思うと、ちゃんと、これからも、学校、通えるのかなって、ふ、不安で」

 嗚咽に邪魔されながらも、急き立てられるように続ける。

 先輩は苦笑しつつこちらへ手を伸ばすと

「いや、大丈夫だって。べつに明日からも何にも変わんないよ。だいたい俺らって、今までも学校じゃあんまり会えてなかったじゃん。学年も違うんだし、昼休みと放課後くらいしか」

 言って、宥めるように私の頭を撫でた。だけど私はすぐに首を横に振り

「でも、私にとっては、その昼休みと放課後が、すごく、大切な時間、だったんです。いつも、その時間を楽しみに、学校、来てたのに」


 そこまで言ったところで、ふいに喉が引きつった。嗚咽が連続して漏れる。

 先輩は困ったように笑ったまま、また何度か私の頭を撫でた。それから、「白柳」と穏やかな声で私を呼び

「だから言ってんじゃん、会いに行くって。そりゃ学校の中じゃ会えなくなるけどさ、その分外で会えるならべつにいいだろ。俺、本当に毎日迎えに来たっていいくらいなんだけど」

「で、でも、先輩だって、いろいろ忙しくなると思うし、学校が違うと、時間も合わなくなるだろうし、やっぱり、今までみたいには、会えなくなるんじゃ、ないかって」

 言いながら、自分の口にした言葉によけいに涙があふれてくる。下を向くと、カウンターの上に涙がぼろぼろ落ちていった。

 そんな私の頭を、先輩は相変わらず駄々をこねる子どもをあやすような調子で撫でながら

「まあたしかに、そうなるかもしれないけどさ。でもそんなの、頑張ればなんとかなるよ。つーかそれは、これから俺と白柳が、お互いに努力していかないといけないとこなんじゃねえの」

「だ、だけど」


 諭すように柔らかく言われた言葉にも、私がさらに言い募ろうとしたときだった。

 先輩の困り果てたようなため息が間近で聞こえ、同時に、彼の手がくしゃりと私の前髪をかき上げた。つられるように顔を上げる。

 けれど、目の前にあるはずだった彼の表情を捉えることはできなかった。捉えるより先に、ふっと視界が黒く覆われた。かと思うと、目を閉じる間もなく唇が触れる。

 途端、辺りから音が消え、今し方口にしようとしていた言葉もたちまちのうちにかき消された。


 私が呆然としている間に彼は体を離すと、「あ、ほんとに泣きやんだ」とちょっと驚いたように呟いた。

 私のほうはまだ動けずに、ぽかんとしたまま目の前にある先輩の顔を見つめる。先輩は、そんな私の頭を再度ぽんぽんと撫でてから

「あのさ、白柳」

 ため息混じりの、だけどどうしようもなく優しい口調で口を開いた。

「たぶん俺、白柳が思ってるよりはずっと、白柳のこと好きだよ」

 唐突な言葉に、へ、と思わず間抜けな声が漏れる。

 短くまばたきをしながら先輩の顔を見つめると、彼は少しだけ照れたように笑って

「できるなら、毎日でも会いたいって思ってるぐらい。なんかさっきから話聞いてると、白柳のほうはそこまでする気はないみたいだけど」

 悪戯っぽい口調で続いた言葉に、私はびっくりして首を横に振る。

「そ、そんなことはないです! ただ、それは時間的に難しいというか、だいいち、そこまでわがまま言うのは、先輩の負担に」

「だからさあ」

 ちょっと呆れたような、だけどやっぱり優しい声が、私の言葉を遮る。

「会いたいのは俺も同じなんだから、負担とかじゃないって。だいたい時間なんて作ればいいじゃん。俺さ、たぶん」

 先輩はそこで軽く言葉を切ると、穏やかに笑って

「白柳のためなら、いくらでも作れるよ。時間」

 なんともさらっとした調子で、そんなことを言い切った。

 一瞬だけぽかんとしたあとで、ぱっと火がついたみたいに頬が熱くなる。

 隠すように、私はあわてて顔を伏せた。自分で頬に触れたら冗談みたいに熱くて、なんだかよけいに恥ずかしくなりながら

「……そ、それは、私も」

 うつむいたまま、小さな声でぼそぼそと答えた。

「先輩のためなら、いくらでも、作れます、時間」

 先輩はまた穏やかに笑って、私の頭を撫でた。それでようやく暖かい気持ちがこみ上げてきて、私もつられるように小さく笑う。


 涙はいつの間にか完全に止まっていた。

 遠くのほうからは、先ほどと変わらず、卒業生たちのにぎやかな喧噪が聞こえてくる。

 私は制服の裾でごしごしと目元を拭ってから、顔を上げた。そうして先輩の顔を見ると、彼は私が泣きやんだことにほっとした様子で息をついて

「そういや、学校であんなことしたの初めてだな」

 ふと思い出したように、そんなことを呟いた。

「あんなこと?」聞き返しかけて、すぐに思い当たる。

 途端、せっかく収まりかけていた頬の熱が勢いよく広がり、私は弾かれたように視線を逸らした。


「あっ、そ、そう、ですね」

 思い切りぎくしゃくした相槌を打ってしまい、漂う気まずさを散らすように

「ま、まあ、でも、最後ですし、きょ、今日ぐらいは」

 自分でもなにを言っているのかよくわからないまま口走っていると、先輩は妙に真面目な顔でこちらを見た。

「そっか、最後なんだよな」なにか考え込むような口調で、小さく呟く。

 そんな彼の顔を私がきょとんとして見つめ返していたとき、ふいに彼の両手がこちらへ伸びてきた。と思った次の瞬間には両足が床を離れ、一瞬だけ身体が宙に浮く。

 へっ、と喉から素っ頓狂な声が漏れた。バランスを失った身体はしかし倒れることはなく、すぐ後ろにあった低い机に腰掛けるような形になる。

 わけがわからないまま先輩の顔を見上げると、思いのほか至近距離でこちらを見つめる真剣な眼差しと目が合った。


「え、え?」

「なあ白柳」

 思い切り混乱する私には構わず、先輩はにこりと笑って

「今日、俺、卒業式だったんだよ」

 なんだか楽しそうに、そんなことを言った。

 私は、知ってます、と答えようとしたけれど、だから、と先輩が言葉を続けるほうが早かった。机に座る私の身体の横に手をついた彼は、また少しこちらへ身を乗り出し

「卒業祝いってことで」

 言って、軽く首を傾げてみせた。へ、とふたたび間の抜けた声がこぼれる。

 どうすればいいのかわからず身を強張らせていると、机についていなかったほうの先輩の手が私の頬に触れた。

「やっぱりさ」またどこか幼さの混じる声で、彼が言葉を継ぐ。

「俺にとっても、ここが、白柳との思い出の場所だから」


 そう言って子どもっぽく笑う彼に、けっきょく、私はそれ以上なにも言うことができなかった。

 見慣れた図書室の机も椅子も、差し込む白い日差しも、校庭のほうから響いてくる明るい笑い声もすべて、彼の体温が触れたその一瞬で遠ざかってしまった。冷静な思考はあっという間に断ち切られ、ふっと全身から力が抜ける。

 最後なんだし、なんて頭の隅で言い訳みたいに考えながら、あとはただ身体の芯まで彼の温もりに包まれたくて、他のものはすべて閉め出すように、ぎゅっと目を閉じた。

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あの日のぼくら 此見えこ @ekoko

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