その一瞬だけでいい

 弾けるような笑顔とともに、おにいちゃん、と上げられた声に思わず顔がほころびかけたのも束の間、そいつはまるで俺の姿など目に入っていないかのように俺の横を走り抜け、勢いよく直紀の腕に抱きついた。


 俺のほうが明らかに顔を合わせた回数は多いはずなのに、わーい、あいたかった、と飛び跳ねんばかりに喜ぶそいつは完全に直紀しか見ていない。

 直紀も笑顔で、自分の腕に額をすり寄せる小さな子どもの頭を優しく撫でている。やたら打ち解けた様子の二人に呆気にとられていると、奥からみなが顔を出した。

 入ってー、と促され、靴を脱いで部屋にあがる間も、そいつは直紀にひっついたまま、こちらには目もくれなかった。


 両親の結婚記念日に、みなが贈ったのは、一日夫婦二人水入らずの休日らしい。

 幼い娘がいるため、なかなかゆっくり出かける機会がないという彼らに、その幼い娘は姉である自分が責任を持って預かるので二人で存分に楽しんでくればいい、という、みななりに精一杯気を利かせたプレゼントだった。

 みなの両親はとても喜んだらしい。娘をみなに預けることにも抵抗を見せることはなかった、と、そう俺に話すみなも、ひどく嬉しそうだった。


 おにいちゃんにあいたい、との彼女の希望で俺たちもみなの家までやって来たのだが、どうやら彼女の言う“おにいちゃん”とは、直紀のことだったらしい。

 つい先日まで、おにいちゃんといえば俺のことだったはずなのに、いつの間に追い抜かれていたのか。地味にショックを受けていると、みなが目ざとく気づいて

「さすが、加奈ちゃんはちゃーんと優しい人がわかるんだねー」

 と、にやにやとこちらを見ながら、当然のように直紀の膝の上に座る妹の頭を撫でた。

 みなにも、「うん!」と遠慮なく頷いてみせたそいつにもむっとしてしまったが、さすがに大人げないので、無視して出された紅茶を啜ることにする。

 直紀のほうは、なんだか慣れた様子で相手をしていた。舌っ足らずな口調で、ひっきりなしに喋り続ける小さな子どもの話を、優しく相槌を打ちつつ聴いている。

 みなはといえば、可愛くて仕方ないというように思い切り表情を緩ませて、そんな、はしゃぐ妹を眺めていた。


 二人がそんな様子なので、退屈になった俺は何とはなしに携帯を取り出してみる。

 なんだかんだ、直紀も好かれるのは悪い気はしないらしい。自分にくっついて離れない子どもに優しい笑顔を向けている今の直紀を、写真に撮ってあの一年生に送ってやろうか、なんて、子どもじみたことを考える。

 あの一年生は、きっと、今のこの状況で、俺に近い感情を抱いてくれる数少ない人物だろうから。あの小さな子どもにデレデレするのではなく。


 そんなことを考えているうちに、例の子どもは直紀の首に腕を回し、思い切り抱きつこうとしていたので、俺はそいつに、「おい加奈」と声を掛ける。

「そのおにーちゃんな、コイビトいるぞ」

 無表情のまま短く告げれば、そいつは、えっ、と声を上げ目を見開いた。

 その反応を見た直紀とみなが、そろって非難するような視線を向けてきたことに、俺はますます不機嫌になって

「残念だったなー」

 と無愛想に言葉を投げる。

 みなが、「最低!」と声は出さずに唇を動かしたのがわかったが、無視して視線をそらす。困ったことに俺はひどく沸点が低い。大人げないとは重々わかっているし、この場にいる誰に嫉妬したのかもはっきりしないけれど、どうにも苛立ってしまったものは仕方がない。

 むすっとしたまま三人から顔を逸らしていると、しばらくして、年齢のわりにやたら大人びた声が聞こえた。


「じゃあ、しょうがないな」

 見れば、まるで小さな子どもを見るかのような目で、こちらを見ている五歳児。

「しゅんでいいや」

 は? と声を上げるより早く、そいつは立ち上がり、早足にこちらへ歩いてきた。すとんと、当然のように俺の膝の上に腰を下ろす。

 俺はしばし、その後頭部をぽかんと眺めた。

 そのあとで、ようやくこいつの思考を理解した俺は、そういうことじゃねえよ、と心の中でだけ叫ぶ。そもそもなんで直紀は「おにいちゃん」で俺は「しゅん」なんだ、だとか、言いたいことは一挙に押し寄せたけれど、結局なにも言えなかった。

 遠慮のかけらもなく全体重をかけてくるそいつを、眉を寄せて眺めながら


「なんか似てきてねえ? お前に」

 みなのほうを向いてそんなことを言えば、彼女は一瞬目を丸くして俺を見つめたあとで、顔をほころばせた。「そりゃあ」弾んだ声で、言う。

「みなの妹だもん」

 ね! と笑顔を向けるみなに、膝の上の彼女も、ねーっと歯を見せて笑みを返していた。

 ああもう。心の中で呟く。さっきの大人げない苛立ちなんて、あっという間に馬鹿馬鹿しいものに変わっていた。

 目の前の小さな頭をぐしゃぐしゃと撫でれば、やめてよー、と不満げな声が上がる。素早くこちらに向き直り、反撃とばかりに俺の髪へ手を伸ばしてきたそいつに、今日初めて、笑顔を向けることができた。


 結局、こいつが心底嬉しそうに笑うなら、もう、何でもいいのだ。

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