図書室の姫君
日曜日の遊園地は、予想通りの混み具合だった。
長さの差はあれ、どのアトラクションも、もれなく人々が列を作っている。
その中でもひときわ長い行列の最後尾に、俺たちは並んだ。
前方に見える目的の建物は遠い。きっと三十分はこうして過ごさなければならないのだろう、と、途方もなく長い行列を眺めながら考えた。
そして三十分待った先にあるものを、たいして楽しみとも思えないというなんだか悲惨な状況なのに、今の状況がちっともつらくないのは隣にいる彼女のせいだろう。
「楽しみです」
心の底から楽しみだという声で、白柳が言う。
彼女のほうを見れば、にこにこと笑いながら行列の先を見つめる横顔があって、ぽつりと漏らそうとした、すげえ行列だな、という一言の愚痴も呑み込んだ。
おそらく一年で最も暑い時期の、最も暑い時間帯。白柳がいなかったら、間違いなくこんな炎天下にこんな長さの行列に並ぶなんて酔狂なことはしなかった。燦々と容赦なく照りつける日差しに汗が滲むが、
「本当に大きいですね。わくわくします」
そう言って白柳が嬉しそうに笑うから、それだけで真夏の日差しも何てことはなくなる。
当然、今日の白柳は見慣れた制服姿ではなかった。膝丈のスカートにキャミソールを着て、上に淡い色のパーカを羽織っている。ついでに、いつもは自然に下ろしているセミロングの髪が、今日は低い位置で横に束ねられていた。
珍しいと思ってそれを指摘すると
「お、おかしいですか?」
恐る恐るそんなことを聞かれたので、首を振った。
この白柳を見られただけで、今日は有意義な一日だったと思えるほどには可愛い。などと思ったが、さすがにそこまでは言えず「いや、似合うよ」とだけ返しておいた。
それでも白柳はぱっと顔を輝かせ、「よかったです」と心底ほっとした声を上げる。
「瑛子ちゃんに手伝ってもらったんです。私、可愛い髪型とか全然わからなくて、自分じゃどうにもできなかったから、瑛子ちゃんから教えてもらいながらいろいろ練習したんです。よかったです。頑張ったかいがありました」
無邪気な笑顔で、臆面もなくそんなことを言う。俺は、咄嗟に返す言葉を見つけられなかった。
今日のために、新井さんと一緒にあれこれ髪をいじっている白柳を想像してみる。とりあえず、今日俺は、白柳のわがままなら何でも聞いてしまうのだろう、と頭の片隅で思った。
真夏の炎天下に並んだ三十分の行列も、終わってみれば思いのほか短く感じた。
白柳が弾んだ足取りで、おどろおどろしい外観の建物のほうへ歩いていく。お化け屋敷のなにがあんなに楽しみなのかと不思議に思いながら、相変わらずにこにことした白柳の横顔を眺めた。
係員にチケットを渡し、入り口へ足を進めたところで
「楽しみですねっ」
白柳がこちらを向いて、弾けるような笑みを見せた。心底楽しそうな笑顔だった。とりあえずその笑顔だけで、先ほどの三十分にはお釣りが来ると思った。それから、そんなことを思う自分に、心の中で苦笑した。
お化け屋敷なので、中はもちろん暗く、そして静かだった。
足下を照らすかすかな光だけを頼りに、前へ進んでいく。白柳の足取りはしっかりとしたものだった。横顔を窺い見れば、怖がっているというより明らかにわくわくしている。
「あっ、あそこ」
ふいに白柳が前方を指さして声を上げた。本当に楽しそうだ。
「なにか出そうですね」
言われた方向を見てみれば、突き当たりには壁があって曲がるよう示されていた。たしかに、あの壁の向こうになにやら潜んでいそうだ。
曲がったところで出くわすのだろうな、と考えて少し憂鬱になりながらも足を進める。それでも白柳が先読みをしてくれたおかげで、心の準備が出来てよかった、などと思っていたとき、いきなり頭上から生首の作り物が落ちてきた。完全な不意打ちだった。
「うわっ」
俺の意識は、すっかり曲がり角の先に出てくるであろうお化けのほうにばかり向いていたため、心臓が止まるかというほど驚いた。
わ、と白柳もびっくりしたような声を上げる。けれど明らかに俺の声のほうが大きかった。だいぶ盛大に悲鳴を上げてしまっていた。
白柳がこちらを見た。未だどきどきとうるさい心臓を、なんとか落ち着けようと深呼吸をする俺を、まじまじと見つめる。
いや、たしかに情けないぐらい遠慮なく悲鳴を上げてしまいましたけど、そこまでびっくりした顔しなくても、と、わずかに顔が熱くなるのを感じつつ彼女のほうを見つめ返せば
「あっ」
はっとしたように白柳が声を上げる。足を止めたまま、彼女は質問を続けた。
「先輩、苦手なんですか? こういうの」
俺は思わずぽかんとして、白柳の顔を見つめた。
俺の答えを待たず、白柳は困ったように
「ご、ごめんなさい。私てっきり、先輩も好きだとばっかり……そういえば、この前瑛子ちゃんにも注意されたんです。私、私の好きな人は、その人も私の好きなものを好きだって思いこむ癖があるみたいで」
もごもごと呟く。本当に申し訳なさそうに白柳が項垂れるので、俺は慌てて首を振った。
「いや、大丈夫だから。それより早く進まないと、後ろの人と合流するぞ」
もうここまで来てしまったのだから仕方がない。促すと、白柳は「そ、そうですね」と頷いて歩き出した。
しかし、曲がり角にさしかかったところで、彼女はまた足を止める。
「なに、どうした?」
「――先輩」
白柳は、やけに真剣な表情で、まっすぐに俺のほうを見ていた。妙に勇ましい様子の彼女に、なんとなく嫌な予感がこみ上げる。
白柳は、すう、と短く息を吸った。そして
「大丈夫です!」
力強く、そんなことを言った。
「私がついてますから!」
白柳は満足げににっこりと笑っている。その笑顔がとことん無邪気だったので、何とも言えない気分になりながらも、俺も思わず笑っていた。
少し迷ったあとで、とりあえず「ありがとう」と返せば、白柳は嬉しそうに笑って首を振った。
俺としては早く進んで早く外へ出たかったので、もう一度白柳を促そうとしたが、それより先に、なにか思いついたらしい白柳が、あ、と声を上げて
「あのっ、先輩、手――」
照れたように、おずおずと提案してくる。
「手、つなぎますかっ」
それ自体は、もちろん嫌なことではない。むしろ嬉しい提案だったが、白柳のほうから、しかも明らかに俺が怖くないようにと気を遣われているのをひしひしと感じて、少しだけ悲しくなる。
それでも、頷いて握った彼女の手のひらの柔らかさに、自分でも不思議なほど満たされた気分になって、すぐに、まあいいか、と思った。
「大丈夫ですか?」
お化け屋敷を出たあと、適当なベンチを探して座ると、俺はそんなに疲れた顔をしていたのか、白柳が心配そうに顔を覗き込んできた。
白柳のほうは、驚いて声を上げたりはしつつも終始楽しそうだったというのに、いろいろと情けない。力なく笑って、「大丈夫」と返した。
「楽しかったか?」
尋ねてみると、白柳は満面の笑みで大きく頷いた。
「なら、よかった」
心からそう思って、呟く。
高い位置にある太陽から、燦々と日差しが降り注いでいる。日が沈むにはまだ当分時間がありそうだ。
もともとお化け屋敷が目的でこの遊園地へ来たため、これからどうしようか、とぼんやり考えながら、まだまだ減る気配のない人混みを眺めていると
「何の行列でしょうか、これ」
白柳が、俺たちのいるベンチのすぐ脇にまで伸びている、これまた長い行列を指して言った。
「なんだろ」と返しながら行列の先を辿ってみると、遊園地の象徴ともいえる、空をゆっくりと回るゴンドラが見えた。
「ああ、観覧車だ」
お化け屋敷以上に長い行列だった。おそらく一時間近く待たなければならないのだろう。そんなことを考えながらも、白柳が、観覧車、と目を輝かせて呟くのを見たとき、
「乗る?」
気づけばそう尋ねていた。白柳はまた、満面の笑みで大きく頷いた。
あれほど高い位置にあった太陽が傾きかかり、降り注ぐ光が赤く変わってきた頃、俺たちはようやく観覧車に乗り込んだ。
空へ上るにつれて、窓の外に広がる景色がだんだんと遠く、小さくなる。向かい合って座る白柳も、興味深そうに変わっていく景色を見つめていた。
しかし、やがて彼女の表情は硬くなり、視線が窓から足下へ落ちる。それきり、白柳は視線を動かそうとしないので
「どうした?」
怪訝に思い、聞いてみる。
白柳はうつむいたまま、いえ、と小さく首を振った。
「外見ないの? すげえぞ、ほら、海」
促せば、白柳は視線を上げようとして、途中で思い直したように慌てて下げた。ふと、彼女が膝の上でぎゅっと拳を握りしめているのに気づく。まさか、と思った。
「え、もしかして、高いところ苦手とか?」
戸惑い気味に聞いてみれば、白柳のほうも戸惑った様子で
「いえ、あの、自分ではそんなことないって思ってたんですけど、思ってたより高くて……それに、結構揺れるんですね、観覧車って」
いつも以上に小さな声で、白柳がもごもごと言う。
彼女が困ったように笑うのを見ながら、俺は思わず口元が緩むのを感じた。
白柳がうつむいていてよかったと、頭の隅で思う。今の俺の表情は、あまり見られたくなかった。きっと、ひどく嬉しそうに、にやっと笑っていただろうから。
「白柳」
立ち上がると、ゴンドラが揺れた。白柳がぎょっとしたように顔を上げる。
「わっ、駄目ですよ! 立ったら危ないです! 傾いちゃいま――」
彼女の言葉が終わる前に、抱き寄せた。途端に声が途切れ、同時に、白柳の身体が固まる。
前を見れば、夕日に照らされた遊園地と、その向こうには陽光をきらきらと反射させる海があった。図らずも、夕暮れ時の絶景を望むことができたらしい。なんだかひどく満たされた気分になって、ぽんぽんと白柳の頭を優しく撫でた。
「大丈夫」
ここぞとばかりに、言ってみる。
「俺がついてるから」
言い切って、一人で満足しほくほくしていると、腕の中から小さな笑い声が聞こえてきた。それから、はい、とはにかんだ調子の返事がした。
やがて、白柳は恐る恐る顔を回し、窓の外へ目をやる。同時に上がった彼女の手が、俺の服の裾を掴んだ。
「綺麗ですね」
縋るように裾を掴んだままだが、それでも白柳は心底感嘆したように声を上げた。頷いて、視線を下ろす。先ほど入ったお化け屋敷が、おもちゃのように小さく見えた。
「あ、先輩」
ふいに白柳が弾んだ声を上げる。右手を持ち上げ、窓の外に見える一つのアトラクションを指すと
「次、あれに乗りたいです」
そんなリクエストだけははっきりとした調子でするので、笑ってしまった。
いいよ、と頷いてから、今度は並ばなくていいといいな、とぼんやり考えた。しかしそのあとで、今日だけは並ぶのもそれほど苦ではなかったことを思い、べつに並んでもいいか、とすぐに思い直した。
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