曖昧な境界
机の上に置かれたデジタル時計の日付が切り替わった瞬間だった。待ってましたとばかりに携帯が鳴った。
相手はわかっているので、画面に映る名前は確認することなく電話に出る。こんな時間に電話を掛けてくるやつなんて、一人しか思い当たらない。
『駿! おめでと!』
耳元へ持って行くなり聞こえてきた無駄に大きな声は、予想した通りのものだった。俺は右手に握っていたシャーペンを置いてから、「ありがと」と返す。
『今なにしてたの?』
「勉強」
『おー、さすがですね』
感心したように呟くみなに、お前は、と尋ねようとしてやはり呑み込んだ。
携帯の向こうから、かすかに風の音が聞こえるのに気づいた。
まさかと思いつつ立ち上がる。「なあみな」と呼べば、『んー?』という呑気な声が返ってきた。
「お前、今どこいんの?」
尋ねながら、俺はもうほとんど予想がついていた。窓のほうへ歩いていき、カーテンを引く。彼女から聞くより先に、答えは見つかった。暗闇の中でも、その見慣れた明るい髪色はすぐに目についた。
『あ、やっほー』
目が合うと、みなはへらっと笑って手を振ってきた。視線の先で彼女の唇が動いたとおりに、耳に当てた携帯から声が聞こえてくる。
「……なにやってんだよ」
俺の呆れた声には答えず、みなは楽しそうに笑ったまま
『駿もちょっと下りてきてよ』
と、窓の外から当然のように手招きをした。
外に出るなり、刺すように冷たい風が容赦なく吹きつける。
耳に触れるその冷たさは痛いほどで、俺は思わず着ていたパーカのフードを被った。さらに首もとのマフラーを顔まで引き上げ、出来るだけ空気に触れる皮膚の面積を少なくしてからみなのもとへ歩いていけば
「なに、その完全防備!」
遠慮のかけらもなく、みなは俺を指さして盛大に笑った。
ひとけのない静まりかえった路地に、彼女の声はいつにもまして大きく響く。周りにあるほとんどの家はもう電気が消えていて、俺は声量を落とすようみなに注意してから
「いいんだよ、お前しかいないんだから」
言って、両手をポケットに突っ込んだ。それからふと目の前の彼女の格好に目を留め
「つか、なんでお前はそんな薄着なの」
ちょっと顔をしかめ、指摘する。一応暖かそうなダッフルコートは着ているが、マフラーだとか手袋だとかの防寒具はとくになにも身につけておらず、剥き出しの首筋や手の甲は冷たい空気にさらされたままだ。
みなは、ああ、と笑ってから
「家出るときはちゃんと着てたんだけど、ここまで歩いてくる間に暑くなっちゃって外しちゃった。マフラーも手袋も」
「なにお前、歩いてきたの」
ぎょっとして聞き返せば、みなは、うん、と当然のように頷いた。
「だって荷物が多かったから、自転車のかごに入りきらなかったんだもん」
たしかに彼女の両手には、二つの大きな紙袋が提げられている。「それにね」と、みなはそのうちの一つを持ち上げ
「これ、ケーキだから。揺らしたらいけないでしょ」
そう言って、にこりと笑った。「だからって」俺はため息をついてから暗い路地に目をやる。
街灯もほとんどない夜中の住宅街は、不気味なほど静まりかえっている。みなの住むアパートと俺の家は結構離れていて、歩いてくるには三十分以上はかかるはずだ。
俺が眉を寄せていると、みなは俺の言いたいことを察したように
「大丈夫だよ。このへんは田舎だし、平和だもん」
いつものように、根拠のないことを自信満々に言い切っていた。
「……まあ、たしかにお前は大丈夫そうだな」
呆れて呟けば、「そうそう」とみなはなぜか自慢げに頷いてから
「それより、あらためて誕生日おめでとう! はいこれ!」
また無駄に大きな声を上げ、紙袋を一つ差し出してきた。
「誕生日プレゼント! みなと直紀二人からね」
とりあえず、どうも、と礼を言ってそれを受け取る。それから「なにこれ」と尋ねれば、「開けてみて」とみなは笑って促した。
紙袋の中には、包装紙で丁寧に包まれた一つの箱が入っていた。取り出して包装紙を剥がしていく間、みなは楽しくてたまらないといった様子で鼻歌を歌いながら、俺の手元を見つめていた。
出てきたのは、青と白のボーダー柄のマグカップだった。全体的に丸みを帯びた形をしていて、取っ手が大きい。見るからにみなの好きそうなデザインだと思った。取り出してまじまじと眺めながら
「なんか、やたら可愛いな」
言うと、みなは「可愛いでしょー」と自慢げに笑った。
「みなの趣味で選んだからね」
「そうだろうな」
「あっ、しかもね、喜べ駿!」
みなはよりいっそう誇らしげな顔になって声を上げると
「それ、おそろいなんだよ。みなと直紀と柚ちゃんと。みんな色違いで同じマグカップ持ってるんだよ、すごいでしょ」
へえ、と呟いてマグカップに視線を戻した。「あのね、色はね」と、みなは弾んだ声で説明を続ける。
「みながオレンジで、柚ちゃんがピンクで、直紀が緑で……あっ、そうだ、直紀がね、駿が青より緑のほうがいいって言ったら、代えてもいいって言ってたよ。まだ使わないでとってあるんだって。ああ、あと柚ちゃんも。駿と交換してもいいようにまだ使ってないんだって。駿は間違いなくピンクなんて選ばないから、柚ちゃんは気にしないで使っていいよって言ったんだけど」
みなの話に、思わず苦笑が漏れる。両手で持ったマグカップを眺めながら、ふうん、と相槌を打てば
「他の色のほうがいいなら遠慮しないで言ってほしい、って言ってたよ、二人とも。どうする? 駿、青でいい?」
みなの質問には、とくに迷うこともなく頷いた。それから、青でいい、と続けようとして、やはり思い直す。言いかけた言葉は呑み込んで、代わりに
「青がいい」
と返した。みなは「そっか!」と嬉しそうに笑った。
みなの言葉どおり、もう一つのほうの紙袋にはケーキが入っていた。
しかし、箱を開ける前にみながケーキが入っていると前置きをしていたおかげで俺はそれをケーキだと認識できたようなもので、前情報がなかったなら、きっと「なんだこれ」と心の底から尋ねてしまっていただろう。
「ケーキ見て、汚いって思ったの初めてだ」
ちょっと感心するほどの惨状を目にして、しみじみと呟く。
みなの手作りだと聞いたときから不安はあったが、まさかこれほどとは思わなかった。しかし「大丈夫だよ」とあっけらかんと笑って言うみなに、めげる様子はみじんもない。
「みな一人じゃなくて、直紀と一緒に作ったんだから」
「別に心強くねえよ、それ」
直紀にケーキ作りの腕があるとも思えない。むしろみなと似たようなものだろう。せめてあの一年生が一緒だったなら少しは頼もしかっただろうに。そんなことを考えながら、何ケーキなのかよくわからないそれをまじまじと眺めていると
「腐っちゃうといけないから、今から食べよ」
みながそんなことを言い出したので、「今はいいや」とすぐに首を振っておいた。
「なんでー」と頬を膨らませるみなに
「だいたい、そんなすぐには腐んねえよ。一日ぐらい大丈夫だって」
「でもみな、ケーキが腐る前に食べてもらわないとって思ってわざわざこんな時間に駿の家まで来たんだよ」
マジかよ、と口の中で呟く。みなのほうを見れば、彼女は実に真剣な顔でこちらを見つめていた。
ため息をつく。それから、ふたたび真っ暗な路地へ目をやった。人どころか、車の一台も通っていない住宅街はおそろしく静かだ。頬に触れる風は、相変わらず痛いほど冷たい。
「マジでこれ渡すためだけに来たのか?」
尋ねると、みなは当たり前のように顎を引いてみせる。
「じゃあまた今から三十分かけて帰るのか」
みなはきょとんとして、「そりゃそうだけど」と言った。俺はもう一度ため息をつく。それから
「どうせなら明るくなってから帰れば」
と提案してみた。みなはますますきょとんとしていたので
「お前なら大丈夫だろうけど、こんな中一人で帰らせんのはなんか気になるし、かといって俺が送っていくのは嫌だし、もう明るくなるまで俺の家にいれば」
だいたい、こんなとこでケーキ食べられないだろ。続ければ、みなはぱっと目を輝かせ声を上げた。
「へ、駿の家にあがっていいのっ?」
「本当は良くないけど、もう来ちゃってんだし」
「わーい! 駿の家あげてもらうの初めてだー」
くるりと踵を返し、弾んだ足取りで玄関へ向かおうとする彼女の背中に
「見つからないようにしろよ」
と声を投げれば、みなは楽しそうに「わかってるわかってる」と返した。
ふと家の窓を見上げてみる。両親の部屋はもう電気が消えているが、兄の部屋はまだ明るい。みなのほうへ視線を戻せば、今まさに彼女は玄関のドアを開けようとしているところだった。俺は、ちょっと待った、と声を投げようとしたが、それより先にみながドアノブを引いた。
開いたドアの向こう、真っ先に飛び込んできたのはこちらを向いた兄の顔だった。
見つからないように気をつける間もなかった。ちょうどリビングに下りてきたところだったらしい彼は、驚いたようにこちらを見つめて固まっていた。みなもしばし固まったように兄の顔を見つめたあとで、俺のほうを振り向く。
あー、と唸るような声が喉から漏れた。しかし咄嗟に言い訳も思いつかず、無言で兄の顔を見つめてしまったものだから、しばらく気まずい沈黙が流れる。
どう破ればいいのか判断がつかずにいたその沈黙は、兄の小さなため息で唐突に壊れた。続いて、「靴」とおもむろに言葉を投げられる。
「へっ?」と素っ頓狂な声を上げ兄のほうを振り向いたみなに
「靴、ちゃんと部屋に持って行きなよ」
彼はそれだけ言って、踵を返した。
一瞬ぽかんとしたあとで、みなが「ああ、はいっ」とあからさまに緊張した声で頷く。彼女はばっとこちらを振り向き、嬉しそうに笑った。それから、早く早く、と小声で言って手招きをする。
頷いて、俺も中に入ったとき
「駿」
名前を呼ばれて顔を上げる。見ると、兄がリビングに入ろうとしていた足を止め、こちらを見ていた。なに、と聞き返すのと同じタイミングで
「誕生日おめでと」
俺がぽかんとしているうちに、彼の背中はリビングに消えていた。
「駿のお兄さんってさ」
部屋に入るなり、みなが俺の服の裾を引っ張り、なぜか潜めた声で言ってきた。片手には、兄に言われたとおり履いてきたブーツをぶら下げている。
「なんだかんだ、駿に優しいよね」
ふたたびぽかんとしてみなの顔を見れば、彼女は楽しそうに、ふふ、と笑った。俺が返す言葉を探しあぐねているうちに、「ていうかさ」と弾んだ声が続く。
「前から思ってたけど、駿のお兄さん、かっこいいね」
「は?」
今度は、素っ頓狂な声が溢れた。思わずみなの顔を凝視してしまった俺には構わず、彼女はにこにこと笑ったまま
「しかも、あれでめちゃくちゃ頭良くて、福浦の生徒会長さんなんでしょう」
などと続けたので、俺は妙にあわてて口を開いていた。
「悪いけど、それだけは協力しねえからな」
えー、とみなは口をとがらせながらも楽しそうに笑って
「でもさ、今気づいたんだけど、もしみなと駿のお兄さんが結婚すれば、みなたち本当の家族になれるよ。すごくない?」
これ以上ない名案が見つかったという調子で、そんなことを言った。目を輝かせてこちらを見つめてくる彼女の顔を眺めて、一つため息をつく。そんなの。
「別に兄貴とじゃなくて、俺とすれば」
言いかけて、口を噤む。よく聞こえなかったらしく、「え、なにー?」と不思議そうに聞き返してくるみなには、「や、なんでも」とすぐに首を振った。なんだか、恐ろしいことを言いかけた気がした。
みなのほうを向けば、小さく首を傾げた彼女と目が合う。相変わらず両手に紙袋とブーツを抱えたまま突っ立っている彼女に
「皿とフォーク持ってくる」
言うと、それでようやく思い出したように、みなは「あ、うん!」と元気よく頷いた。それから
「紅茶もあると嬉しいな!」
遠慮のかけらもなく、背中に催促の言葉を投げてきた。
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