哀歌 後日談
映画よりも見ていたいもの
心臓がうるさい。顔が熱い。右手はもっと熱い。
暗くてよかった、とぼんやり思う。きっと今の私の顔は、ゆでだこみたいに真っ赤になっている。
目の前の大きなスクリーンでは、禍々しい見た目の化け物に主人公たちが襲われている。派手な血しぶきが上がり、画面と観客の双方から悲鳴が上がる。
映画のクライマックスとも言える場面なのに、私はちっとも鑑賞に集中できていなかった。
さっきから私の意識が集中しているのは、自分の右手。
数分前、映画が佳境に差しかかったところで、ふいに隣に座る先輩が私の右手を握ってから、私はもう映画どころではなくなってしまった。
ずっと観たかった映画なのに。どうしても先輩といっしょに観たくて、それほど興味がなさそうだった先輩にお願いして、わざわざ付き合ってもらっているのに。
ちゃんと映画を楽しまなければ先輩に申し訳なくて、意識をスクリーンに戻そうとするのだけれど、そこで先輩がぎゅっと私の手を握る手に力を込めるから、ますます心臓がうるさくなって台詞も聞こえなくなる。
先輩と手をつなぐことはあんまりない。
二人きりだとつないでくれたりもするけれど、周りに人がいたらまずつながない。私も人前でべたべたしたりするのは恥ずかしいからそれでいいのだけれど、でもときどき、寂しくもなる。
普通に街中でデートをしていたら二人きりになれる機会なんてあまりなくて、まったくつながない日もよくある。今日も、映画の時間までは近くのショッピングモールをぶらぶらしていたけれど、手なんて一度もつながなかった。
それがちょっと、寂しいな、とも思っていた。今日もつながないのかなあ、なんて。
先輩は、気づいていたのかな。だから今、手を握ってくれたのだろうか。
ちらっと先輩のほうを窺えば、まっすぐにスクリーンを見つめる横顔があった。かっこいいなあ、なんてぼんやり思って、また顔が熱くなる。もう映画よりこのままずっと先輩の横顔を眺めていたくなって、少し困った。
***
おどろおどろしい化け物や血しぶきが消え、スクリーンにエンドロールが映り出されたとき、ようやく身体から力が抜けた。ふう、と息を吐く。
終わった。やっと終わった。
白柳の手前、目を瞑るのは必死に堪えた。できるだけ映像が視界に入らないよう、スクリーンの隅のほうを凝視することで耐えていた。
それでもグロテスクな化け物や鮮やかな血の赤は容赦なく目に飛び込んでくるし、おそろしいうめき声や悲鳴は否応なく聞かされるし、もう目も耳も心臓も疲れた。二時間ちょっとの映画だったはずだけれど、五時間ぐらいは観ていた気がする。
この映画を観たいと言ったのは白柳だった。先輩といっしょに観たいんです、なんてまっすぐな目で言われたら断れるわけもなく、いいよもちろん、なんて気前よく答えてしまったのだけれど。
次は断ろう、と俺は固く決意する。映画は予告で見ていた印象以上に恐ろしかった。苦行のような二時間だった。
白柳は本当にあんな映画を楽しめたのだろうか。ふと気になって隣の白柳を窺う。すると、前を向いていると思った白柳が思いがけずこちらを見ていて、ちょっと驚いた。
あ、と小さく呟いて、白柳があわてたように視線を逸らす。恥ずかしそうにうつむいた彼女の視線が自分の膝に落ちる。そこでふと、気づいた。
なぜか、俺は白柳と手をつないでいた。
「……へ?」
一瞬わけがわからなくて、ぽかんと自分の手を見下ろす。
つないでいるというより、俺が白柳の手をつかんでいる。白柳もゆるく握り返してくれてはいるけれど、明らかに俺のほうが強い力で彼女の手を握りしめている。まるで縋るみたいに。
え?
え、いつから?
混乱しながら、いそいで記憶をさかのぼってみる。
思えば、映画の終盤はスクリーンの隅を凝視することに必死で、あまりそれ以外の記憶がない。そのときに無意識に握っていたのだろうか。助けを求めるみたいに。
「ご、ごめん」
思い至った途端ぎょっとして、あわてて白柳の手を離そうとしたとき
「先輩」
遠慮がちだけれどしっかりとした力で、白柳のほうが俺の手を握ってきた。
「映画」
「え?」
「映画、すごく、よかったです」
「あ……うん」
「先輩といっしょに観られて。すごく、よかった」
うつむきがちに、はにかむような笑顔でそんなことを言う。それだけで、ついさっきした固い決意が脆く崩れ去りそうになるのを感じた。
「あの」きゅっと彼女の小さな手が俺の手を握りしめる。まだ暗い館内でも、ふわりと笑った笑顔の可愛さはよく見えた。見えてしまった。
「また、先輩といっしょに、映画が観たいです」
「……うん」
もういいや、と、その絶対的なまでに無邪気な笑顔を目にしてしまうと、あっさりあきらめて思う。
「また行こう」
白柳が楽しいなら。苦行みたいな二時間でも、終わったあとに白柳のこの笑顔が見られるなら。それだけで充分お釣りがくると思ってしまう俺は、きっとずっと、彼女に敵わないのだろう。
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