やさしくない世界の中で (3)
中三の、秋の終わり。高校入試を、まだ先の話だと言えなくなってきた頃だった。
俺は初めて、みなが泣くのを見た。
「見て見てー」
みなが自慢げに、返却されたテストを掲げる。
一年の頃と比べ、みなの成績は着実に伸びていっていた。そのことは担任からも褒められたらしい。数学も、もう通知表に2がつく心配はなさそうだった。
「すごいでしょ、今回のテスト、ぜーんぶ70点以上だったんだよ。こんなの初めてだよ」
「だいぶ俺のおかげだよな。感謝しろよ」
してるしてる、とみなはさらっと流してから
「この成績ならね、篠野も大丈夫なんじゃないかって、今日先生が言ってたんだよ」
「なに、お前、篠野行きたいの?」
「んー、今までは篠野なんて絶対無理だって思ってたから考えてなかったんだけど、可能性あるって言われたら目指したくなっちゃった。駅から徒歩三分はやっぱり魅力的だし」
ふうん、と相槌を打つと、みなは「駿は?」と聞いてきた。
「どこ受けるの? やっぱり福浦?」
それは、当然顎を引くはずの問いだった。しかし、俺は咄嗟に頷けなかった。少し迷ったあと、「まだ決めてない」と曖昧な答えだけを返しておいた。
みなの成績と反比例するように、俺の成績は下がる一方になっていた。
もちろん、それをみなのせいなどと言う気はないし、事実みなに勉強を教えるようになったことと俺の成績が下がったことは何の関係もない。
単に、俺が昔ほど必死でなくなっただけだ。届くはずのないものに手を伸ばすことに、疲れただけだった。
昔は、諦めることなど考えられなかったものだった。それ以外に、見えていなかった。だけど今は、もう違う。みなと出会って、俺は諦めがよくなった。それが正しいのかどうかなんてわからないけれど、もう、どちらでもいいと思った。俺はただ、そうしたかったのだ。
「信じらんない。なにこれ」
俺の成績表を前にしたときだけ、その人の声は半オクターブほど高くなる。
いつもは教師らしい落ち着いた話し方が、途端に、教室で騒ぐ女子たちと大差ないような、いやに幼い早口に変わるのも、いつものことだった。
耳を塞ぐわけにはいかないので、俺はなるべく聞き流そうと努めることにする。それでもその声は、鼓膜に痛いほど突き刺さってきて、そしてそのまま貼り付いて、なかなか消えてくれない。
中学校の定期テストなんてたかがしれてるでしょう。範囲は狭いし問題も簡単だしそこだけ完璧に覚えておけば済む話なのに。なんでこんな点しかとれないの。ああもう嫌になる。昇はあんなに――
捲し立てられる母の言葉に、本気で傷ついていたあの頃のことを思った。馬鹿だったと思う。俺は気づかなかった。この人だって、かわいそうだったのだ。土日、父が家にいることは、もうほとんどなくなっている。昨日も一昨日も、彼の帰宅は深夜だった。もちろん今日も、まだ帰っていない。
どうしようもなく不幸な人だ。この人はこの人なりに、必死に自分を守っているのだろう。俺がそれを、みなに求めているように。気づいてしまえば、また少し、諦めがよくなった気がする。
母の小言が終わったので、リビングを出て二階へ上がると、なぜか階段の上で兄が待ちかまえていた。
「駿、ポストから手紙とってきて」
目が合うなり、いきなりそんなことを言われた。「は?」と声を上げれば、
「今日の夜、学校から手紙が届く予定だったんだよ。八時には届くって言われてたから、多分もう届いてる。とってきて」
当然のような顔をして、兄は続けた。
「自分で行けよ」と言ってみれば、「外寒いだろ。お前のほうが厚着なんだから」などと訳のわからない理屈を述べていた。
なんだか反論するのも面倒で、黙って上ってきた階段を引き返す。
玄関のドアを開ければ、冷たい風が吹き付けてきてすぐに身体が冷えた。背中を丸め、早足でポストのほうへ向かう。ポストに入っていたのは、近所にある飲食店のダイレクトメールだけだった。兄の言っていた、学校からの手紙は見あたらない。
なんだよ、と毒づきながら、とりあえずそのダイレクトメールを取り出した。そして、さっさと家に戻ろうとしたときだった。
門の前に、影が見えた。
驚いて目をこらす。暗闇の中でも、明るい茶色の髪はすぐに捉えることができた。
「――みな?」
目が合うと、彼女はにこりと笑った。それから、「わあ、偶然」と片手を挙げる。
俺は心の底から戸惑って「は?」と間の抜けた声を上げていた。
「いや、なに、お前。なにやってんだよ」
「散歩」
みなはあっさりと言い切った。
「散歩って」随分前に日が沈んでしまった暗い空に視線を移して、彼女の言葉を繰り返す。困惑しながらも、とりあえずみなの元へ歩いていくと、彼女は笑顔のまま
「駿もちょっと散歩しようよ」
相変わらずあっさりとした調子で、そんなことを言った。
「お前、いつからいたんだよ」
公園に入っていくみなの背中に、質問を投げる。彼女は振り返ることもなく、「二十分前くらいかな」と答えた。
俺も部屋着のままなのでだいぶ薄着なのだが、それ以上にみなは薄着だった。ワンピースから伸びる剥き出しの足がいかにも寒々しい。
みなの家は、俺の家からは一駅分ほど離れている。歩いてくるには、三十分以上はかかるだろう。あの格好で三十分も歩いてきたのか。そんなことを考えていると、ふいにみながこちらを向いて
「ちょっと恥ずかしかったなあ」
とはにかむように笑った。なにが、と聞き返せば
「駿の家の前にいるとき、駿のお兄さんが窓から外見たからね、みな、駿のお兄さんと目が合っちゃったんだ。怪しまれたかな」
俺は、手元に目を落とした。思えば、兄からこんな頼まれごとをしたのは初めてだったと考えながら、握ったままのダイレクトメールを眺める。
「みな」
名前を呼ぶと、彼女は足を止めて「ん?」と聞き返した。
「何かあったのか」
一瞬だけ、みなは表情の消えた目で俺を見つめた。
しかし、すぐにその顔に笑みを戻すと
「ああ、うん、そうなの。あのね、嬉しい報告があるんだよ」
奇妙に明るい声で、言った。小さな公園には街灯などなくて、みなの細かな表情は暗闇に塗りつぶされてしまっている。「みなね」身体ごとこちらを向いて、彼女は続けた。
「一人暮らしするんだよ。高校生になったら」
いいでしょ。にっこりと笑うみなの顔を、俺は見つめた。
「楽しそうだよね。すっごく自由だよ、きっと。そうしたら、駿も、いつだって遊びに来られるし」
「……みな」
「図書館とかじゃなくて、今度からはみなの家にいられるよ。ずっと。あっ、泊まってってもいいよ」
「みな、俺さ」
冷たい風が、みなのワンピースの裾を揺らしている。本当は、もっとずっと長い時間、あの場所にいたのかもしれない。みなの頬や鼻の頭は、すっかり赤くなっていた。
「高校、篠野受けるよ」
みなが驚いたように目を見開く。
それから、無言で何度かまばたきをしたあと、
「ほんとに?」
と、ゆっくり聞き返した。
俺は、笑って頷いた。少し間を置いて、みなの顔に笑みが満ちていく。そこにたしかに嬉しそうな色があったから、もう、それだけでいいと思った。迷いなんて、一瞬で一欠片も残らず消えた。
「お前、頑張って受かれよ?」
みなは満面の笑みで、うん、と大きく頷いた。
しかし、直後だった。彼女の顔からふっと笑みが消えた。俺の顔を見つめて、唇を噛んだ彼女の頬がゆっくりと赤みを帯びる。かと思うと、すぐに目を伏せ、くしゃりと顔を歪めた。
噛みしめた彼女の唇が震える。どうしたのかと尋ねようとしたとき、いきなりみなが俺の胸に額を押しつけてきた。
すぐに彼女の肩が震えだして、連続した嗚咽がしんとした夜の公園に響く。幼い子どものように声を上げて、みなは泣いた。長いこと、泣き続けた。
みなの涙を見るのは、それが初めてだった。
「駿だけなんだよ」
喉を引きつらせながら、縋るように、みなは言う。
「みなには、駿しか、いないんだよ」
絶えずこみ上げる嗚咽に邪魔されながらも、精一杯に彼女は紡いでいた。うん、と静かに頷く。震えるみなの頭を、優しく撫でる。自分が、こんなにも誰かに優しく触れることができるなんて、知らなかった。
誓いを立てるように、みなはもう一度、繰り返した。
「駿だけ、なんだよ」
――その言葉が、真実でなくても構わなかった。
独占なんて望まない。いつかみなに友達や恋人が出来て、みなの言葉が嘘になろうと、嬉しいときもつらいときも彼女が真っ先に俺の元へ来て、笑ったり泣いたりしてくれるのなら、それだけでいい。
みなから、与えてほしいものなんて何もなかった。ただ、幸せを願っていたかった。それだけで、俺は勝手に欲しいものを得ることができる。どうしようもないほど、救われる。
好きな人が出来たと、みなが言ったのは、高校生活が二年目に入ってすぐのこと。
相手は俺もよく知っているやつだったから、俺は本当に、心から、よかったと思った。別に、そいつがよく知らないやつだったとしても、よく知っている嫌なやつだったとしても、俺のやることは変わらなかったけれど。三年前に、決まっている。みなに好きな人が出来たとき、俺がすること。
もしそいつが嫌なやつで、みながひどく傷つけられたとしても、それはそうなってから思い切り殴るなり何なりすればいい。今はただ、みなは幸せのために、力を尽くしたかった。
これからも、ずっと、そうしていたかった。
「駿、聞いて聞いて! 今日直紀がね――」
それだけで、俺は、このやさしくない世界の中でも、生きていける。
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