やさしくない世界の中で (2)
家族。
最初にその言葉を口にしたのは、みなだった。
会話の途中、彼女が何気なく自分たちのことを家族みたいだと表現したとき、俺はきっと、ひどく真剣な表情でその言葉を肯定していたのだろう。
俺の反応を見たみなはすぐに真顔になって、今度は、家族みたい、ではなく、家族だと言った。
みなが繰り返したその単語は、目眩がするほど甘美に響いた。
それから俺たちは、馬鹿みたいにその単語を繰り返すようになった。刻み込むように、塗り固めるように、何度も何度も。
自分がどうしようもないほど欲していたものに、そのとき初めて気づいた。
「気をつけろよ」
みなの指に絆創膏を貼りながら、ため息混じりに呟く。
彫刻刀を使うと聞いたときから、なんとなく不安はあったのだが、こんなにも見事に的中するとは思わなかった。
「ちょっと考え事してたら、ずるっといっちゃった」
みなは少し恥ずかしそうに笑って言う。
美術の授業中、彫刻刀で指を怪我したみなを連れて保健室へ行ったのだが、中には誰もいなかった。しかし、みなの怪我を見てみればさほど酷くはなかったため、先生を呼びに行くより俺が手当してしまうことにした。
消毒液と絆創膏をちょっと拝借して簡単に治療を済ませたあと
「お前さ、粟生野と仲良いの」
ふと、先ほど、俺より先にみなの怪我に気づいて、彼女に駆け寄った一人のクラスメイトのことを思い出し、そんなことを尋ねてみた。
「んー、べつに」と、みなはすぐに首を振る。
「仲良くすりゃいいじゃん。あいつ、いいやつそうだし」
今更授業に戻るのも億劫で、俺たちは何をするでもなく保健室に留まっていた。穏やかな風が、真っ白のカーテンを小さく揺らしている。
「えー、いいよ」
けっこう真面目に提案してみたのに、みなはにべもなく言った。
「みな、ああいう、非の打ち所がない優等生ってなーんか苦手なんだもん」
「なんだそれ」
「なんかね、ああいう子、神様に愛されてるー、って感じするでしょ」
「あいつはあいつで苦労してると思うけど」
みなは、とにかくいいよ、ときっぱり言い切ると
「駿だけでいいの。みなは」
俺は黙って頷いた。みなだけでいい。みなだけがいい。そう思う気持ちは確かに俺にもあるけれど、それとは別に、みなには俺以外にも親しい友人が出来ればいいと思った。そのほうが、みなは学校でより楽しく過ごせるだろうと、ただ純粋に、そう考えたから。
そんなことを思う自分が、少し不思議だった。
日差しが燦々と照りつける道を、なるべく日陰を探しながらのろのろと歩く。アスファルトは、きっと焼けるように熱くなっているだろう。前を見れば、熱せられた地面の上の景色はゆらゆらと揺らめいていて、それが余計に不快感を増幅されるようだった。
真夏の真昼。隣を歩くみなは、ついさっき担任から渡された通知表で、ぱたぱたと顔を扇いでいる。そのうちしわになるのではないか、とぼんやり心配しながら、みなの手にある通知表を眺めていると
「ね、駿の通知表、見せて?」
ふいに思いついたように、みなはこちらを向いてそんなことを言った。
この暑さでは、肩に掛けた鞄を開け中を探るのすら面倒で、「なんでだよ」と素っ気なく返せば
「もしかして、オール5とかとっちゃってるのかなあって。みな、一回見てみたかったんだよね。5がずらーって並んでる通知表」
「残念だけど、オール5じゃねえぞ。音楽が3だった」
言うと、みながすぐに納得したように頷いたことに少しむっとしたが、文句を言うことすら億劫な暑さだった。
「つか、お前、大丈夫だったのかよ」
ふと心配になってそう尋ねてみれば、みながきょとんとしたので、通知表、と付け加える。彼女は笑って頷くと
「大丈夫だよ。思ってたよりよかったんだよ。数学は2だったけど」
「……それ、大丈夫なのか?」
「でも数学以外は、全部3以上だったよ」
満足げに言うみなに、ため息を吐く。歩くたびにどんどん汗が滲んで、シャツの襟に指を引っかけ前後に引っ張った。
「――夏休み、嫌だね」
唐突に、みながぽつんと呟いた。今までなんとなく見ない振りをしていた話題だった。短く相槌を打つ。「駿はどうするの」とみなは聞いた。
「町の図書館にこもってるだろうな。多分」
「町の? 学校じゃだめなの?」
「学校より涼しいし、人少ないから」
みなは、ふうん、と呟いたあとで、「じゃあみなもそうしよ」と、あっさり決めた。
「数学教えもらおっと。よろしくね」
「当然のように言うな、お前」
言いながらも、いつの間にか、俺の中でもそれは当然のことになっていた。そしてそれが、心地良いと感じた。
駿の家に行ってみたい、と、しばらく歩いたところでみなが出し抜けに言い出した。
「いいけど」とりあえず頷いてから、「家にはあげらんねえぞ。悪いけど」
みなは、いいよ、とすぐに頷いた。
「駿の家に行ってみたいだけだから」
彼女の意図はよくわからなかったが、頷いて、俺の家へ向かい歩き出した。
その途中だった。ふいにみなが思い出したように
「駿って、好きな子とかいないの?」
と尋ねてきた。
「なんだいきなり」
「そういえば聞いたことなかったなあって思って」
答えようとして、ふと思い直す。みなのほうを見た。
「いるって言ったら、お前、どうすんの」
何とはなしにそんなことを聞いてみれば、みなはこちらを向いて、無邪気に笑った。
「協力してあげるよ。もちろん」
もしその子に他に好きな人がいたらね、みなはその好きな人のほうに近づいて、奪っちゃうとか。そういうことやってあげる。
さらっとそんなことを言うみなに、思わず噴き出した。
「なんでお前、発想がそんな不健康なんだよ。つーか、みなにそんなこと出来んのか?」
「わ、失礼なー!」
唐突に、強く思う。俺はこいつの幸せを願って、こいつの幸せのために手を尽くして、なによりもそのことに必死になって、生きていきたい。みなのためではなくて、俺のために、俺はみなを大事にしたかった。
「じゃあ俺も、そうしてやるよ」
「え?」
「たとえばさあ、みなに好きな人が出来て、それでお前にライバルがいたら、俺はそいつに嫌がらせでもして、その好きな人に近づかせないようにするとか」
みなは楽しそうな笑い声をたてて、頼りにしてますー、と軽い調子で言った。
家に着くと、みなは、ほー、と呆けたように声を漏らして
「大きな家だねえ」
まじまじと家を眺めながら呟いた。
「そうか?」
「みなの家の倍くらいあるよ」
彼女の言葉に、妙な違和感がこみ上げる。みなにはみなの家があるのだと、当たり前のことを今更実感した。
どこか真剣な表情で俺の家を見つめているみなの横顔を、ぼんやり眺めた。俺の家に行ってみたいと言った彼女の真意を、ようやく理解する。
「……じゃ、次、お前の家行くぞ」
「へ?」
そう言って踵を返すと、みなもあわてて追いかけてきた。
「でも、みなの家遠いよ? それに、みなの家もあげられないし」
「いいよ。行ってみたいだけだから」
――みなのいる場所を、知っておきたいだけ。みなには、俺しかいないのだから。
みなは柔らかく笑うと、俺の隣に並んだ。
一学期の最終日、通知表を団扇代わりに扇ぎながら、真夏の太陽の下を、そうしてみなと長いこと歩いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます