第0章 前日譚

やさしくない世界の中で (1)




 そいつは、いつも一人で、窓の外ばかり見ていた。






「お前さあ、いつも何見てんの」

 薄暗い廊下で、窓枠に寄りかかるようにしてぼうっと外を眺めている彼女を見つけたとき、何とはなしに近づいて、そんなことを尋ねてみた。

「何も見てないよ」

 視線を動かすこともなく、彼女は答える。「物思いにふけってるんです」

 口調は幼いのに、その声にはどこか冷めた色があった。

 彼女の隣に立って、同じように窓の外を眺めてみる。前方には隣の校舎があるだけで、見下ろした先に見えるのも、ひとけのない駐輪場くらいだった。

「ここで何やってんの」

 面白くも何ともない景色を眺めながら、質問を続ける。そいつは相変わらず、熱心に窓の外を見つめたままだ。俺が隣に立っても、とくに何の反応も見せない。

「教室、うるさいもん」

 返ってきたのは答えになっていないような答えだったが、俺はなんとなく理解できた。彼女のほうを見る。表情の消えた横顔が、ぼんやりと遠くを見つめていた。

「家、帰りたくねえの?」

 初めて彼女がこちらを向いた。答えなんて聞かなくてもわかっていたから、彼女がなにか言うより先に

「俺も、あんま帰りたくねえんだよな」

 そんなことを呟けば、彼女はしばし俺の顔を見つめたあと、そっか、とだけ言って、小さく笑った。

「家族のみんなと仲良くないんだ?」

 なんとなく嬉しそうに、彼女が聞いてくる。頷こうとして、やはり止めた。急に、今まで考えもしなかった願望が、ひどく鮮烈に湧き上がってきた。

「……いないんだよ」

 彼女がふっと真顔になる。

「俺さ、家族、いないの」

 彼女は、なにかを探すように俺の目を覗き込んでいた。やがて、ひどく嬉しそうに微笑む。その笑顔を見たとき、初めて気づいた。どうしようもなく、欲しいものがあったのだ。

「……みなもね」

 自分の言葉をしっかり噛み砕いて呑み込むように、彼女は言う。

「いないよ。家族」

 それが、みなと言葉を交わした、最初の会話だった。



 翌日も、彼女はそこにいた。

 今日は、俺が声を掛けるより先にみなはこちらを向いて、にこりと笑った。

 昨日と同じように、俺も彼女の隣に立つ。当然、見えるものも昨日と変わらない。無機質な灰色の校舎と、乱雑に並ぶ自転車だけだった。

「放課後、いっつもここにいんの?」

「いつもここってわけじゃないよ。教室に人がいなかったら教室にいるし、あとは、校内ぶらぶらしてたり」

 初めから、彼女に家に帰るという選択肢はないらしかった。

「いつまで残ってんの?」

「六時半まで」

 きっぱりとした答えが返ってくる。考えるまでもなく、わかった。俺にも馴染みのある時間だ。六時半。この学校で決まっている、最終下校時間だった。

 ふうん、と呟いて踵を返そうとすると、あれ、とみなが声を上げた。少し首をかしげ、聞いてくる。

「帰っちゃうの?」

「いや、まだ帰んないけど」

「じゃあどこいくの」

 わずかに寂しそうな色が滲む彼女の顔を眺めているうちに、

「お前も来る?」

 気づけば、そんな言葉を投げていた。

「へ?」と聞き返すみなに、「図書室」と続ける。

「俺、いつもそこで勉強してんの」

 みなはまだ不思議そうな表情を浮かべていたので

「教えてやろうか。勉強」

 そう付け加えれば、目の前でぱっと笑顔が弾けた。

 大きく頷くと、彼女も窓から離れ、俺の隣に並んで歩き出した。


「きみさー、頭良いんでしょ」

 シャーペンを意味もなく揺らしながら、みなは思い出したように言った。

 この学校の図書室は、いつも利用者が多く、わりと騒がしい。そのため、とくに声量を落とすことなく私語をしていても咎められることはなかった。

「良いよ」

 短く頷けば、「わ、否定しないんだ」と彼女は楽しそうに笑う。

 ふと目の前の笑顔を見つめてしまうと、みなはきょとんとして首をかしげた。

「お前、けっこう喋るんだな」

 そんな素直な感想を述べれば、彼女はますます不思議そうな顔をしていた。

「教室じゃ全然喋んないじゃん」

「そりゃ、喋る人がいなかったら喋れないしねえ」

「話しかけられてもほとんど喋んねえだろ。お前さ、相当変なやつだって思われてるよ。クラスのやつらから。いつも窓の外ばっか見てるし」

 みなは、へえ、とまるで他人事のような相槌を打った。

 ともすればクラスメイトからの反感を買ってもおかしくない状況をそれとなく忠告してやったつもりだったのに、彼女のほうはまったく気にする様子がないので、まあいいか、と思い直す。それに今も、女子のほうの学級委員が上手いこと取り持ってくれているようなので、あまり心配はないだろう。


「それより、早く勉強教えてよ」と彼女が言ってきたので、頷いて教科書を取り出したというのに、二十分も経たないうちに、疲れた、と言って、みなはやりかけの問題を放ってシャーペンを置いた。

「早すぎだろ」

 大きく伸びをする彼女を眺めながらため息を漏らせば、

「みなの集中力は三十分が限界なんです」

「まだ三十分経ってねえよ」

「ていうか、きみ、本当に頭良いんだね。いつもどれくらい勉強してるの?」

 さっさと話を逸らして、みなはそんなことを聞いてきた。

「五時間ぐらい」

「は?!」

 素っ頓狂な声が上がる。周りの生徒から不審そうな視線が飛んできたが、みなは気にした様子もなく

「なにそれ、毎日? 毎日五時間?」

「そう」

「そんなにたくさん、いつやってるの?」

「朝早くと、夕方のこの時間と、あとは夜」

 ふへー、とみなは感心したように俺の顔をまじまじと見つめて

「なんでそんなに頑張るの?」

 と、質問を続けた。

 俺はみなの顔を見つめた。ただ不思議そうな表情で、彼女はこちらを見ている。


 なんで。彼女の言葉を反芻する。

 なんでそんなに頑張るの。

 答えなら、はっきりとしたものを持っているはずだったのに、途端にそれは色褪せて、ひどくおぼろげなものに変わっていった。

 掴みたいものがあった。それがたしかに見えていたから、掴もうと頑張っていたはずなのに、急に、その行為に意味が見出せなくなった。

 苦い笑いが漏れる。俺もシャーペンを置いた。

「……なんでだろうな」

 本当は、俺は気づいているのかもしれない。ただ、見ない振りをしているのだと思う。こんなことをしたって、きっと、掴みたいものに手が届くことなどない。だけど、きっと俺は止めないのだろう。止めることなど出来ない。どうしようもないほどそれがわかって、なんだか途方に暮れた。


 やがて、みなはふっと大人びた表情になると

「ねえ」静かな口調で、言った。「明日の授業参観、誰か来る?」

 前の話題とはなんの繋がりもない質問のはずなのに、なぜか一続きの会話のようだった。

「誰も来ない」

 笑ってそう答えれば、みなも笑った。「みなも」と返したあとで、彼女は楽しそうに「じゃあさ」と続ける。

「サボっちゃおっか。二人で」


 救ってほしいと思ったわけではない。俺だって、彼女を救いたいと思ったわけではないし、そもそも救えるだなんて思っていなかった。

 みなの家庭事情について彼女から聞いたのは、それからしばらく経ったあとのことだったけれど、知ったからといって何も出来ることはなかった。それもよくわかっていた。

 どうにもならない。俺が欲しいものも、みなが欲しいものも、どんなに足掻いたところで手が届かない。だから、俺はみなと一緒にいたかった。



 屋上に行ってみたい、とみなは言った。

 多分鍵が掛けられているだろう、と思いながら駄目もとで行ってみれば、案の定「立ち入り禁止」という大きな張り紙が貼られた扉は、開く気配がなかった。「ぶー」と頬を膨らませ、みなは上ってきた階段の一番上にそのまま腰を下ろす。

「お前さ、クラスのやつらともうちょっと仲良くしたがいいんじゃねえの」

 俺も彼女の隣に腰掛けてから、ふと気に掛かっていたことを思い出して、軽い調子でそんなことを言ってみる。

 みなはきょとんとして、「へ、なんで?」と聞き返した。

「なんでって」呆れて彼女の言葉を繰り返す。

「そのほうがいいだろ。いろいろと」

 お世辞にも、今の、みなのクラスでの評判は良いとは言えない。今は、変なやつだと陰で時折囁かれる程度で済んでいるが、暇をもてあます中学生のこと、いつ厄介な事態に発展してもおかしくはない。

 話しかけてきたクラスメイトに素っ気ない対応をしているみなを見るたび、俺はそんな心配をしていたというのに、みなのほうはまったく気にしていないらしく

「いいよ、べつに」

 あっけらかんと笑って返す。

「駿がいるもん」

 下の段へ投げ出された自分の足を見つめながら、彼女はあっさりとした口調で言った。俺は彼女のほうを見た。ひどく静かな横顔が、言葉を継いでいく。

「みなは、駿だけでいいよ」

 言ったあとで、みなはすぐに、ううん、と呟いて

「駿だけが、いいの」

 

 みながよかったのは、欲しがるものが同じだったからで、そして絶対に、彼女もそれを手にすることが出来なかったから。

 みなの欲しいものならわかる。だからみなになら、俺は与えられるものがある。そしてみなには、俺以外にそんな人間はいない。

 人は二人以上の人を平等に愛することなど出来ないのだと、いつだったか、みなは言っていた。

 俺だって、よく知っている。だから、一人だけがいい。みなだけでいいのではなくて、みなだけがいい。ただ、大事にしたかった。それだけに一生懸命になりたかった。真実なんて、眺める暇もないくらいに。

 彼女にしてほしいことなんて、何もない。ただ傍にいるだけ、それだけでよかった。それが俺の、何よりも欲しいものだったのだ。


「……俺も」

 みなへ向けてというより、自分自身に刻みつけるように、呟く。

「みなだけが、いいよ」

 偽物だろうと、これからずっと築き上げていけば、そのうち本物と違わないものになると信じた。




 こいつのためだけに、生きていければいいのに。

 薄暗い階段で、俺はそんな途方もないことを願っていた。

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