最終話 花火

 その日も白柳は、いつものように、真剣な表情で手元の文庫本の文字を追っていた。

 俺が彼女のほうへ歩いていくと、ぱっと本から顔を上げ柔らかく笑う。それから「先輩」と呟き、すぐに本を閉じた。俺もいつものように、白柳の隣に腰を下ろす。


 図書室には俺たちの他に五人ほどの生徒がおり、皆机に腰掛け、勉強に励んでいるようだった。いつも通りだ。今日も仕事は少なそうだ。

 そんなことを考えながらふっと視線をずらした先に、七月に変わった卓上カレンダーがあって

「もうすぐ夏休みだなあ」

 そう呟けば、そうですね、と白柳が相槌を打った。

 まあ、とすぐに俺はため息混じりに続ける。

「どうせ課外はあるんだけど」

「そうですね」

 今度の「そうですね」は妙に嬉しそうな調子だった。ふと怪訝に思い

「白柳、課外が嬉しいのか?」

「あ、いえ、そういうわけじゃないんですけど」

 彼女は首を振ってから、ちょっとはにかんだようにして続けた。

「課外があると、その間も図書室が開いてるから」

 なるほど。すぐに納得して、頷く。白柳らしいと思って、俺も笑った。


 そのとき、書庫の整理に行っていたらしい新井さんが戻ってきた。ついでに目当ての本を見つけてきたらしく、貸し出しお願いします、と笑って新井さんは書庫から持ってきた本をこちらへ差し出した。

 白柳が頷いて、本を受け取る。それから貸し出しの手続きを始めた。

 その間、新井さんはふっと窓の外へ視線を移し

「あ、よかった、晴れてる」

 と呟いた。俺も窓の外のほうへ目をやる。昼間から浮かんでいた厚い雲はだいぶ風に流され、隙間から陽が覗いていた。

 それを嬉しそうに眺めている新井さんに

「なに? 今日、何かあるの?」

 と尋ねてみれば、彼女はこちらを向いて、笑顔で頷いた。

「隣町で花火大会があるんですよ。ちょっと遠いから直接見には行かないんですけど、家のベランダから結構見えるんです」

 へえ、と俺が相槌を打つのと、白柳のへえ、という声が重なった。

 見ると、白柳は作業をしていた手を止めて新井さんのほうを見ていた。

「いいなあ」

 幼い口調で、白柳が呟く。目を輝かせたその表情も、ひどく幼く見えた。

「柚ちゃんの家からは見えないの?」

 新井さんの質問に、白柳は「うん、全然見えない……」と力なく頷く。彼女の口元に寂しそうな笑みが浮かぶのを、俺はぼんやり見つめていた。



 学校を出たときには、空はもう暮れかけていた。

 夕日に照らされ、景色はどこもかしこも赤みを帯びている。昼間の曇り空が嘘のように、美しい黄金色の夕焼けだった。

 校門を出たとき、ちょうど校門の前の道を浴衣姿の女性が横切っていった。隣町の花火大会へ向かっているのだろう。

 なあ、と、隣を歩く白柳に話しかけようとして彼女のほうを向くと、白柳は熱心に前方を見つめているところだった。視線の行方を追う。浴衣を着た女性の後ろ姿があった。

「白柳」

「……え? あっ、はい」

 呼ぶと、ようやく我に返ったらしく、白柳はあわててこちらを向いた。


「――行く?」

「えっ?」

「花火大会」

 言われた言葉の意味を理解しかねているらしく、きょとんとしている白柳へ「今から、二人で行く?」と続けた。

「俺、前に行ったことあるんだけど、隣町でも駅の近くだから電車で行けばすぐだし」

 そこまで言ったところで、ふと現在の時間を思い出した。「ああ、でも」携帯で時間を確認してみる。もう六時を過ぎていた。

「遅くなるし、厳しいか。俺はよくても、やっぱ白柳は――」

「い、いいえ!」

 呆気にとられてたようにして俺の顔を見つめていた白柳が、そこで突然声を上げた。驚いて彼女のほうを見れば

「大丈夫です。行きたいです、花火大会」

 白柳は顔を輝かせ、意気込んで言葉を続けた。

「家には、連絡しておけば大丈夫です。だから、あの、行きたいです!」

 かすかに頬を染め、白柳が繰り返す。

「そっか」無邪気な笑顔に、自然と頬が緩むのを感じた。

「じゃあ、行くか。花火大会」

 白柳は、「はい!」と元気よく返事をして、俺の隣に並んだ。


 電車に揺られながら、白柳は言っていた通り、親へメールを打っていた。

 送り終えると、携帯をぱたんと閉じてから、ふふ、と堪えきれないように笑みをこぼした。心底嬉しそうな様子の彼女を眺めながら

「そんなに好きなのか?」

 尋ねると、へ、と白柳は顔を上げた。「花火大会」と付け加える。

 すると白柳は、しばし考えるように視線を彷徨わせたあとで

「初めてなんです」

 少し恥ずかしそうに笑って、答えた。

「あ、すごく小さな頃に行ったことはあるらしいんです。でも、全然覚えてなくて。だから、間近で花火見るの、今日が初めてみたいなもので、すごく楽しみで……ご、ごめんなさい、一人ではしゃいで」

 責められているとでも思ったのか、白柳があわてたように付け加えてきた言葉に「いや、いいけど」と首を振ってから

「そっか。初めてなら、感動するだろうな」

 言うと、白柳は目を輝かせた。

「本当ですか?」

「うん。すげえぞ。めっちゃ綺麗」

 わー、と楽しそうな声をこぼしながら、白柳は待ちきれないように、まだ花火が上がる気配はない窓の外の空を見つめていた。


 駅前はたくさんの人で賑わっていた。浴衣の人も多い。やはりほとんどが花火大会へ向かうのだろう。人の流れに乗って、俺たちも歩いた。

 先ほどから、何度も空を見上げながら歩いている白柳に

「まだ始まんないって」

 苦笑してそう声を掛ければ、白柳ははっとしたように視線を下ろして

「そうですよね」

 と照れたように笑った。そんな笑顔も、ひどく幸せそうに見えた。じわりと、温かいものが胸の奥に広がるのを感じた。

「……夏休み」

「え?」

「夏休みになったらさ、どっか行きたいな」

 ふっとそんなことを口にすれば、白柳が驚いたように俺の顔を見た。

 一拍置いて、彼女の顔には弾けるような笑みが満ちる。ぱっと頬を赤らめ、こくこくと頷く。

「そうですね」

「白柳、どっか行きたいとこある?」

 尋ねると、白柳は少しだけ考えてから

「いっぱい、いっぱいあります」

 これ以上なく幸せそうに、はにかんだ。

 そう答えたあとで、どんどん具体的なことが浮かんできたのか、「あっ」と声を上げて

「この前、那珂鶴のほうに新しく遊園地が出来たんです。知ってますか?」

「あー、知ってる。すげえでかいらしいな」

 先日健太郎が、夏休みに桜さんと一緒に行くのだと自慢していたのを思い出す。

「そこ行きたいのか?」

「はい! あの、そこのお化け屋敷がすっごく大きくて、怖くて、楽しいらしいんです。私、すごく行ってみたいなあって思ってて」

 それには思わず、「え……」と気乗りのしない声を漏らしてしまったが、白柳の耳には届かなかったらしい。もう一つ思いついたのか、彼女はまた「あっ」と弾んだ声を上げて

「それからですね、八月に公開される映画で、すごく観たい映画があるんです」

「……ホラー?」

 ほとんど察しはついていたが、一応尋ねてみる。白柳は、予想を裏切ってくれることはなかった。

「はい! すっごく怖くて、面白そうなんです」

 ――きっと俺は行くのだろう。お化け屋敷にも、ホラー映画にも。

 苦笑が漏れる。こんなにも嬉しそうに語る白柳を前にして、彼女のお願いを突っぱねられる自信などまるでなかった。



 どん、と腹の底に響くような低音が鳴る。日の沈んだ空が、ぱっと鮮やかに照らされた。

 屋台の並ぶ土手に着いた頃、花火が始まった。白柳が驚いたように空を見上げる。しかし人混みが壁になっておりよく見えないのか、ぴょこぴょこと飛び跳ねながら顔を揺らしている。

「白柳、あっちのさ、土手の端のほうに行こう。人少ないし、よく見えるから」

 前に来たときそこで花火を見たことを思い出し、そう提案した。

「はい!」

 白柳はすぐに頷いた。相変わらず元気の良い返事だった。

「じゃあ、行こう」と歩きだそうとして、目の前から長く伸びている人混みに目を留める。後ろを振り返った。もうすっかり花火のほうに気を取られている白柳に、手を差し出す。

「白柳」

「はい?」

 呼ぶと、彼女の視線がこちらへ戻ってくる。

 白柳は差し出された手に気づくと、一瞬きょとんとしたあとで、瞬く間に赤くなった。「え、え、あの」混乱したように口走る。

「はぐれるだろ」

 また一拍置いて、白柳は花が咲いたような笑みを見せた。

 こくりと一度大きく頷く。それから、おずおずと手を差し出してきた。

 包んだのは、思いのほか小さく、柔らかな手だった。そっと力を込めれば、白柳もしっかりとした力で握りかえしてくる。歩きだそうとして、その前にもう一度白柳のほうを見た。目が合う。

 どちらともなく、笑みがこぼれた。








End.

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