第41話 夏

 それは片手に載るほどの、小さな骨壺だった。

 名前すらない。生まれることも叶わなかった、みなの妹。

 その小ささを自分の目で確認するのは、初めてだった。みなには、ここへ来る資格なんてないと思っていた。だけど、結局のところそれは臆病な自分へ言い聞かせるための言い訳でしかなかったのだろう。

 本当は、単に来たくなかっただけ。この場所で、みなが殺した妹の眠る場所で、お母さんと鉢合わせたりしたら耐えられないから。どんな顔をすればいいのかわからないから。だから怖かったのだ。ただ、それだけだった。


 骨壺の脇には、お菓子と缶ジュース、それから小さなぬいぐるみが供えてある。みなも肩に掛けている鞄を開けて、中を探ってみた。中身が半分ほど残った飴の袋を見つけた。残りを全部手のひらに出してから、そっとぬいぐるみの隣に置く。それから、骨壺へ手を合わせた。

 目を閉じる。けれど、なかなか言葉が出てこなかった。考えたところで、みなが言わなければならない言葉も、言える言葉も、どうしたって一つしかなくて、結局それを何度も繰り返すだけだった。

 ごめんなさい。――十年間、みなはそれすら言っていなかった。


 目を開け、顔の前で合わせていた手を下げる。それでもまだ立ち去りかねて、ぼんやり骨壺を見つめていたときだった。

「――みなちゃん」

 ふいに懐かしい声がした。一瞬、身体が強張る。

 ゆっくりと振り返れば、位牌と骨壺を収めたロッカーが並ぶ中を、お母さんがこちらへ歩いてきていた。

 艶のある黒髪は低い位置で一つに束ねられていて、右手は、いつものように娘の小さな手を握っている。落ち着きなく辺りをきょろきょろと見渡す娘を引っ張るようにして、お母さんはみなの前まで歩いてきた。


 目が合うなり、みなは思わず顔を伏せてしまった。

 とりあえず「お母さん」と呟くように口にすれば

「来てくれたのね」

 思いがけなく柔らかな声で、お母さんはそう言った。顔を上げる。まだぎこちなさは残る、けれどたしかに穏やかさの含まれた笑顔があった。

 言葉に詰まる。なんだか余計に困惑して、また視線を落とす。

 変な言い回しだと思った。ひどく違和感があった。

 来てくれた、なんて、まるでみながお母さんに感謝されているような言い方は変だ。みなが感謝されるようなことは、何もない。絶対にない。十年間も足を運ばなかったことを責められるか、それとものこのここんな場所へやって来たことを責められるか、どちらかのはずだった。


 何と言えばいいのかわからず黙っていると、お母さんは続けた。

「命日、覚えていてくれたんだ」

 まただ。

 堪えきれず、みなは強く首を振った。お母さんが少しきょとんとした顔をする。

 妹の命日を、覚えていたわけじゃない。忘れられなかっただけだ。その日は、みながお母さんを失った日だった。一番欲しかったものを決定的に失った日を、ただ忘れられなかっただけだった。

 だけどそんなことは言えなくて、みなはただ何度も首を振った。するとお母さんが困惑したような顔になったので、なにか言いたいことがあったわけではないけれど、みなは口を開いていた。

 こぼれたのは、さっき骨壺に向けて繰り返したのと同じ言葉だった。

「ごめん、なさい」

 それは掠れていて、聞き慣れない自分の声だった。

 死んでいったあの子と同じぐらいに、いや、きっとそれ以上に、みなは目の前の人へこの言葉を向けなければならなかった。何度繰り返しても足りないぐらいに、言わなければならなかった。なのに十年間、みなは言わないままだった。


「ごめんなさい、お母さん」

 何度繰り返したって、足ることはない。そもそも謝って済むことじゃない。そう思っていた。だから最初から謝らない、なんて、そんなの言い訳にもなっていない。本当は、目の当たりにするのが怖かっただけ。怒りや憎しみを真正面から受け止めるのが、嫌だった。

 全部から、逃げていた。十年前のことはできるだけ遠ざけて、見ないようにして、そのうち状況は変わると期待した。それが一番、許されないことだった。

「お母さんの赤ちゃん、死なせて、ごめんなさい」

 声が震えた。だけど精一杯に、最後まではっきりと告げた。

 お母さんは、黙ったままみなの顔を見つめていた。その視線から逃げたくなるのを堪えて、みなもお母さんの顔を見つめた。そうしなければならないと、強く思った。もう、逃げたくはなかった。


 やがて、お母さんはふっと目を伏せた。

「……みなちゃん、私ね」

 小さな笑みが浮かぶ。それは穏やかな笑みなのに、どこか苦しさが滲んでいた。

「みなちゃんのこと、憎んでないのよ」

 え、と掠れた声が漏れる。

 みなの顔に戻ってきたお母さんの視線は、すぐに横へ滑った。視線の行方を辿れば、お菓子やぬいぐるみに囲まれた小さな小さな骨壺がある。

「でも、つらい。いろいろ思い出しちゃうの、どうしても。もしあの子が生きていたら、今何歳なんだな、とか。みなちゃん見ていたらいろいろ考えちゃって、あのときのことも思い出しちゃうし、そうしたら」

 ふいに言葉が途切れる。お母さんは思い直したように一度口を噤んでから

「みなちゃんは、あんな小さな頃に急にお母さんがいなくなったでしょう。それがどれだけ寂しかったかってことは想像できるし、そうじゃなくても小さな子って、妹や弟が生まれるとお母さんを取られる、って思うものでしょう。だから、どうしてみなちゃんがあんなことしたのかってことも、理解できてるつもりなの」

 でもね。なんだか悲しそうな目をして、お母さんは言った。

「どうしても、まだみなちゃんのこと、どこかで怖いって思う。一緒にいるのがつらいって感じる。それって、もしかしたら、まだみなちゃんを許せていないってことかもしれない」

 みなは黙って頷いた。お母さんの言葉をしっかり噛み砕いて、呑み込もうとする。

 お母さんはそこで一旦言葉を切ると、骨壺を見つめていた視線をみなのほうへ移した。

「でもね」みなの目を真っ直ぐに見つめて、はっきりとした口調で続ける。

「私はみなちゃんを許したいのよ。心から許せて、一緒にいられたらいいなって思ってる。本当はね、みなちゃんが謝ってくれたらそれだけで充分だった。でもごめんね、私、気持ちの切り替えがすごく下手みたいで、もう少し時間がかかるかもしれないけど」

 思わず強く首を振った。するとお母さんは少し表情を柔らかくして

「でも覚えていてね。私は本当に、みなちゃんを許したいの」

 それだけで、充分だった。充分すぎるほどだった。

 笑みがこぼれる。なにか言いたかったけれど、言葉なんて一つも浮かばなかった。ただ大きく頷いた。何度も、頷いた。


 無造作に身体の横に添えていた左手に、ふっとなにかが触れた。

 驚いて目をやる。キラキラとした大きな瞳が、こちらを見上げていた。

「おねえちゃん」

 ツインテールにされた、母親とよく似た艶のある黒髪が、彼女が首をかしげるのに合わせて揺れた。小さな手が、か弱い力でみなの指を握っている。

「これ、かわいいねえ」

 そう言う彼女が見つめているのは、みなの手首にはめられたブレスレットだった。誕生日、直紀と一緒に買い物に行ったときに買ったもの。

 食い入るようにブレスレットを見つめる彼女に、思わず笑った。小さくてもやっぱり女の子なんだな、とぼんやり思う。

「――加奈ちゃん」

 名前を呼ぶ。しゃがんで、視線を合わせた。

「あげよっか。これ」

 言うと、目の前で無邪気な笑顔が弾けた。

 手首からブレスレットを外す。そして妹の手を取り、その細い手首にブレスレットをつけてあげた。

 わあ、と歓声が上がる。その声も、自らの手首に移ったブレスレットを見つめる目も心底嬉しそうで、みなまでなんだか温かい気持ちになる。

「ママ! みてみてー」

 加奈ちゃんは嬉しそうに腕を上げて、お母さんにブレスレットを見せに行く。しかしお母さんは駆け寄ってきた加奈ちゃんではなく、みなのほうを見ていた。

「みなちゃん、いいの?」

 お母さんが遠慮がちに尋ねてくる。ブレスレットのことだろう。みなは笑った。

「いいよ。元々、加奈ちゃんにって思って買ったんだもん」

 すぐにそんな嘘を思いついたみなは、ちょっと賢くなったと思う。おかげでお母さんも嬉しそうに笑った。

「ありがとうね」

 お母さんはそう言ったあとで、はっとしたように「ほら、加奈もちゃんと言いなさい」と、娘の背中を軽く押した。それで加奈ちゃんは思い出したようにこちらに向き直って

「ありがとう、おねえちゃん!」

 弾けるような笑顔を見せた。



 納骨堂を出て、地面へ伸びる階段を下りていく。

 足音が耳に届いたのか、壁の側の日陰で携帯をいじっていた駿が、ふっと顔を上げた。手を振ると、彼は壁から離れてこちらへ歩いてきた。

「ちゃんと待っててくれたんだ」

 わかっていたことだけど、なんとなく言いたくなってそんなことを言ってみれば

「お前が何か酷いこと言われて、ショックでそこの川に身投げでもしないかと思って」

 聞き覚えのある台詞に、笑う。すると、駿もなんだかほっとしたように笑うのがわかった。

 それはないよ、とみなは言った。声が弾むのは、どうしようもなかった。

「みなのお母さんは、すっごく優しいから」


 見上げれば、抜けるように青い空が広がっている。

 雲一つない。高い位置にある太陽は、燦々と照りつけ気温を上げている。木々の緑もずいぶんと深くなって、日差しを受けて輝いていた。

 眩しさに目を細める。とても綺麗だった。ずっと見てきた景色なのに、初めて気づいたような気がする。

 いつの間にか、頬や腕に触れるのは、さらっとした乾いた風に変わっていた。この前まで吹いていた、まとわりつくような重たい風とはまったく違う。まだ梅雨明けは発表されていないけれど、もうほとんど明けたようなものだろう。そんなことを考えながら、空を仰いだ。

 夏が、すぐそこまで来ていた。

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