第40話 欲しかったもの
大変だったんだぞ、と直紀はため息混じりに言った。
落ち着いたあと粟生野は教室を出て行こうとしたので、どこへ行くのかと尋ねてみれば、家に帰るのだとさも当然のように返された。さすがに気に掛かって、柄にもなく送ってやろうかなどと提案してみたが、彼女にはこれ以上ないほどきっぱり断られた。
代わりに、こちらを向いた粟生野は
「それより、園山さんを早く病院に連れて行ってあげてよ」
それだけ言うと、あとは振り向きもせずに立ち去った。それが俺の聞いた粟生野の最後の言葉で、粟生野の姿を見たのも、それが最後になった。
その後は、粟生野がいなくなるまでは我慢していたらしいみなが、途端に痛い痛いと騒ぎ出したので、俺たちもすぐに学校を出て近くの病院へ向かった。
時間も遅かったため病院はひとけがなく、電気もところどころ消えていて薄暗かった。他に誰もいない待合室で、直紀と二人、治療を受けているみなを待った。
そのとき、ふっと疑問を思い出して
「そういや、お前らなんであんなとこいたんだよ」
こちらを向いた直紀は、ちょっと怒っているような口調で
「たまたまあんなとこにいたわけねえだろ。駿を捜してたんだよ。めっちゃくちゃ捜したっつの」
「は? なんで」
聞き返すと、直紀は一度ため息をついたあとで説明を始めた。
「みなから電話がかかってきたんだよ。駿がいなくなったって。ああ、みなは駿のお兄さんから、駿が家にいないんだけどどこにいるのか知らないか、って感じの電話があったらしくて、それで」
「ちょっと待った」
直紀がさらっと言った一部分が引っかかって、思わず口を挟んだ。
「なんで兄貴が、みなの携帯の番号とか知ってんだよ」
そう尋ねたとき、初めて直紀にあからさまに呆れた顔をされた。「駿、お前さ」直紀はもう一度ため息をついてから
「携帯どうした?」
数秒間ぽかんとしたあとで、ようやく気づく。あー、と意味もなく呟いてから、とりあえず「家」と答えれば、「そうだろ」と直紀がまだ呆れたような口調で返した。
「鞄も携帯も家に置きっぱなしなのに駿がなかなか帰ってこないから、駿のお兄さんが心配して、駿の携帯からみなに電話したんだよ」
そこで俺が口を挟みかけたのを察したらしく、
「心配してたんだよ、駿のお兄さん。駿のこと」
反論する隙などまったく与えない口調で、直紀は言った。
俺が黙っていると、ふいに直紀は声のトーンを戻して
「でもさ、マジで大変だったんだぞ」
と苦笑いを浮かべた。そう言うわりに、口調は軽かった。
「捜してもなかなか見つかんないから、だんだんみながパニクってきて。このまま見つからなかったらどうしようって、もう泣いて泣いて」
「泣いた?」
思わず聞き返すと、直紀は強く相槌を打った。
「初めて見たよ、みながあんな取り乱したところ。なんか、もうこの世の終わりみたいな顔して」
何と返せばいいのかわからずただ黙って頷くと、なあ、と直紀が唐突に呟いた。静かだが、おそろしく真剣な声だった。
「駿、前言ってたろ。自分はみなに何もしてやってないって」
短く相槌を打てば、「でもさ」と、直紀は続けた。
「別に何もしてやらなくても、駿がいる、ってことがみなには何より大きなことなんじゃねえの」
そっと直紀の表情を窺えば、それとなく非難するような声色とは反して、ひどく穏やかなものだった。俺が返す言葉を選びかねているうちに、彼は付け加えてきた。
「駿だって、そうだろ」
――大きさなんて、考えたことはなかった。みながいる。それはどうしようもないほど当たり前のことで、変わることなどない。みじんの迷いもなく、思っていた。その当たり前が崩れるなど、あまりに非日常なことで、そもそも想像することすら難しかった。
ああ、だけど俺はみなの前から姿を消そうとしていた。今更気づく。それがどれほど重大なことなのかということすら、想像もつかないというのに。
何も返せず黙り込むと、直紀もそれきり口を閉じたのでしばらく沈黙が続いた。
「……なあ」
閑散とした待合室を眺めているうち、ふいに先ほど聞いた粟生野の言葉を思い出して、気づけばそう切り出していた。
「俺とみなとあの一年生が、三人崖から落ちそうになってんの。さて誰を助けますか」
「すげえいきなりだな」
直紀は軽く笑ったあとで
「全員助けるよ、そりゃ」
などと即答したので、呆れて笑った。
「それはなしだろ。一人選べ」
「一人?」
「一人」
嫌な質問だなあ、と彼はぼやいたが、そのわりに答えは案外あっさりと返ってきた。
「じゃあ、白柳」
その答えをするりと呑み込むことができた自分に、少し驚く。
とりあえず、ふうん、と相槌を打てば、で、とさらっとした口調のまま直紀は続けた。
「駿とみなと一緒に落ちる」
俺は直紀のほうを見た。さっきまでと何ら変わらない、穏やかな横顔があった。
なんだか途方に暮れたような気持ちになって、目を伏せる。
なにも欲しくないと思った。この言葉以上に俺が望んでいたものなんて、きっとない。だからこれ以上、こいつからはなにも欲しくない。なにも望みたくない。痛烈に、そう思った。
しばらくして、廊下の向こうからみなが歩いてきた。
こちらに気づくと、みなは笑顔で包帯の巻かれた左手を振った。しかし、直紀に向いていた視線が俺のほうへ移ったとき、ふっとその手は動きを止める。笑顔が強張る。かと思うと、次の瞬間にはぐしゃりと歪んだ。
足を止め、みなはしばしこちらを見つめていたが、やがて弾かれたように駆け寄ってきた。まったく減速することなく目の前まで走ってきたみなは、そのままの勢いで胸に飛びつく。あまりに勢いが良かったもので拍子に少し後ろへよろけた。みなは、しがみつくように背中に回した腕に強く力を込めてくる。すぐに、その身体が小刻みに震えているのに気づいた。
「……みな」
俺の胸に顔を埋めているみなの茶色い頭を見下ろす。みなの肩が一度大きく震えて、同時にくぐもった嗚咽が耳に届いた。とりあえず彼女の頭を撫でながら
「そんなに痛かったのか?」
いつもの調子でそんなことを尋ねてみれば、質問の内容をきちんと理解したかもわからないが、みなはこくこくと何度も頷いていた。苦笑が漏れる。より強い力で抱きついてくる彼女の背中に、俺もそっと腕を回した。
「……ごめん」
呟いて、両腕に力を込める。みながここにいることを確かめるように、強く、抱き締めた。みなもきっと、そうしていた。幼い子どもが縋りつくような仕草で、彼女は、きつく俺を抱き締めていた。
翌日、学校に粟生野の姿はなかった。その翌日も翌々日も、なかった。
結局、彼女は一度も登校してくることのないまま、数日後に転校した。その事実も担任から手短に説明があっただけで、粟生野からの言葉は一つもなかった。
粟生野の行動を、皆は、直紀との一件が彼女の狂言であったことを認めたものだと捉えたようだった。
相変わらず噂の広がりは早かった。瞬く間に粟生野に対する評価は一転して、同時に直紀への風当たりは消えていった。
「みな、粟生野さんは自業自得だと思うし、同情なんかしないけど」
帰り道、冷めた目をしてみなは言った。
「でも」その目がふっと遠くを見るようなものに変わって
「みなね、中学校で怪我したことあったんだ。美術の時間、彫刻刀使って何か作ってたんだけど、うっかり彫刻刀で指切っちゃったの」
突然そんなことを話し出したので、隣を歩いていた直紀がみなのほうを向いた。みなは前方をぼんやり見つめたまま、静かな口調で続けた。
「そしたらね、粟生野さんが真っ先に駆け寄ってきて、大丈夫、って聞いてくれたんだよ。ずっと忘れてたんだけど、この前、急にそれ思い出したんだ。粟生野さんってそういう人だったなあって」
そこで一度言葉を切ると、みなは軽く顔を伏せる。少しの沈黙のあと、小さく息を吐いてから、呟いた。
「それ忘れてたのは、悪かったなあって」
粟生野が転校したという知らせを聞いて、彼女の友人が泣いているのを見た。信頼を裏切られたことに対してではなく、ただ粟生野との別れを悲しんで、泣いていた。中野は今でも俺に会うたび刺々しい視線を向けてくるし、直紀とも口をきこうとしないらしい。
嘘をつかれていたとしても、変わらず、あんなにも粟生野を慕っている人間がいるということも、粟生野は知らないままなのだろうか。みながこう言ったことも、この先ずっと、彼女が知ることはないのだろうか。
ぼんやりと、俺はそんなことを考えていた。
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