第39話 友達

 彼と出会った場所で。彼に恋をした場所で。彼の、目の前で。

 これ以上ない、最期だと思った。



「先に言っとくけど」

 手の中にある果物ナイフの感触を確かめながら、口を開く。

「私は、桐原の記憶に高須賀くんを刻みつける手伝いなんて、する気ないから」

 顔を上げれば、少し怪訝そうな色を浮かべた目と視線がぶつかった。

 窓の外から漏れる光は、もう完全に消えていた。それでも、彼の表情は不思議なほど鮮明だった。

「じゃあ、何するんだよ」

 私の右手に視線を移して、彼は問いかける。

 私は、改めて右手を強く握りしめた。それから、ゆっくりと持ち上げる。

「高須賀くんの記憶に、私を刻みつけるだけだよ」

 にこりと笑う。空っぽな高揚だけが、全身を満たしていた。


 彼との間の距離を、もう一度確認する。きっと充分だ。咄嗟に飛びかかるにしても、一足では手が届かない。出来るなら返り血が届くぐらい近いほうがよかったけれど、途中で止められてしまっては意味がないから、これぐらいの距離は必要だと思った。

 そもそも、彼は止めるのだろうか。ふっとそんなこと考えが過ぎる。また笑いたくなった。


「ねえ」

 懐かしい教室を、目に焼き付けるように眺めた。これが彼の記憶に一生根付く景色なのだと、確認する。たった一つの私との記憶になる、景色なのだ。

「たとえばね、桐原が崖の上にいるとするでしょう」

 出し抜けにそんなことを言い出せば、高須賀くんはわずかに眉根を寄せた。

「それで、桐原の目の前の崖には何人かが落っこちそうになってるの。落ちそうになってるのは、高須賀くんと、園山さんと、例の一年生ね。ほら、図書委員の、桐原と仲良いあの子。桐原が助けられるのは一人だけ。さて、高須賀くん」

 そこで高須賀くんは私の言わんとすることを理解したらしい。ふっと目を伏せ、短く相槌を打つ。私はにっこりと笑って、続けた。

「桐原は誰を助けると思う?」

 彼にとって、それは残酷な問いのはずだった。しかし、答えは思いのほかあっさりとした調子で返ってきた。とくに悩む間もなかった。

「そりゃ、あの一年生だろ」

 ちょっと拍子抜けして、ふうん、と相槌を打てば、「で」と彼はすぐに続けた。

「直紀は、俺らと一緒に落ちるよ」

 あまりに迷いなく言い切られ、一瞬言葉に詰まった。笑い飛ばすにも、少し時間を要した。

「それは高須賀くんの願望でしょ」

 言うと、彼は「そうだな」と、また拍子抜けするほどあっさり肯定した。

「でも」静かな調子で、続く。

「あいつはそういうやつだから」


 彼の言葉にすぐに納得してしまった自分に、途方に暮れた。

 胸の奥にあった何かがまた少し剥がれ落ちていく。身体までひどく軽くなったような気すらした。本当に、私には何もないのだと改めて思う。私と彼の間には、何もない。だからこれから作るのだ。その先のしあわせだけを考えた。

「じゃあ」握りしめた果物ナイフに視線を落とす。ちらほらと現れてきた星の明かりに、刃が誘うように輝いていた。

「園山さんだったら?」

 今度は、考えるような間があった。しかしそれも、さほど長い時間ではなかった。

「……直紀じゃねえの」

 ただでさえ暗闇が塗りつぶしてしまう中、彼の顔は伏せられていて表情が読めなかった。それでも口調は淡々としていた。

「高須賀くんじゃないんだ」

 からかうように尋ねてみる。「家族は見捨てて、桐原のほうを助けるの?」

 また少し間が空いた。その間、彼の伏せられた表情の裏に行き来している感情が、なんとなく理解できたことに、満足した。

「どっちかっつったら、やっぱ直紀なんじゃねえの。あいつなら。つーか、みなのことなんだから俺にはわかんねえよ」

「そうね。所詮、他人だしね」

 それに対して、彼はなにも返さなかった。

 私は、言いたい言葉を探した。「私はね」最後だと思えば、驚くほどするりと唇が動くのだった。

「高須賀くんを助けるよ」

 本当は、ひどくささやかなものだったのかもしれない。

 ふいにそんなことを思った。

 私が願ったことも、欲しかったものも。小さな、けれどたしかにかけがえのないものだったような、そんな気がした。


 高須賀くんが顔を上げた。視線がぶつかる。私は、彼に笑みを向ける。

「ねえ高須賀くん」

 だけどもう、どうでもいいのだ。こうする以外に、私はやり方なんて知らない。

「ちゃんと、見ててね」

 胸の前でナイフを握っていた右手を、今度こそはっきりとした意志を持って持ち上げる。

 最初は、胸や腹や腕をぐさぐさ刺して、なるべくたくさんの傷を作ってから死んでいきたいと思った。出来るだけ惨たらしい死に様を見せつけてやりたかった。でも、時間を掛ければそれだけ失敗する可能性も高くなる。それだけは避けたかった。結局私は、一息に首を切り裂いてしまうことにした。


 あなたのせいで死ぬの。

 そう告げようとしたとき、突然こみ上げてきた言葉があった。

 あっという間に頭を満たしたそれに、思わず笑いが漏れる。苦い笑いだった。

「……高須賀くん」

 四年前のあの日から、何一つ断ち切れずにいた自分に、笑ってしまう。

「言っとくけど私、盗ってないからね。園山さんの財布」

 その言葉に、高須賀くんがかすかに怪訝な表情を浮かべたことに、今度こそ私は声を立てて笑った。空虚な笑いは、静まりかえる校舎にいやに高く響いた。

 馬鹿みたいだ。何もかも、私だけだったのだ。高須賀くんは何も覚えていない。はっきりと突きつけられる事実に、胸の奥に残っていた何かが完全に消え去るのを感じた。自分のものではないような笑い声に包まれているうち、一刻も早く終わらせたい衝動に駆られて、ナイフの切っ先を首筋へ押し当てた。


 最後、彼の目がしっかりこちらを見ているかを確認しようとしたとき

「なあ粟生野」

 にわかに彼が呟いた。それは奇妙なほどに静かで、穏やかな声だった。

 その声が耳に届いたときだった。一瞬、どうすればいいのかわからないほどの激しい混乱が生まれた。手が止まる。その、一瞬だった。


 背中に何かが勢いよくぶつかった。

 それが何なのか確認するより早く、背後から二本の腕が伸びてきて、抱きすくめるように胸の前へ回る。

 驚いて振り返った私の目にまず映ったのは、明るい茶色の髪だった。

 眼前に伸びた手が、ナイフを掴もうと彷徨うのがわかった。その拍子に、刃が手のひらにぶつかる。ぱっと鮮やかな赤がわずかに舞った。同時に、「痛っ」と小さな悲鳴が耳元で上がる。身体に回された腕から途端に力が抜けて、私から離れた。

 瞬間、ざあっと血の気が引く。思わず息を吸った。

「園山さん!」

 その声が自分の喉から溢れたものであることに、気づくには時間がかかった。

 足下で硬い音が響く。手から、ナイフがこぼれ落ちていた。

 振り向けば、園山さんが自分の手のひらを押さえてしゃがみ込むところだった。ぱたりと床に赤い雫が滴るのを見て、ぎょっとした。ひどく混乱して、気づけば彼女の傍らに私もしゃがみ込んでいた。

「大丈夫?!」

 ――そこまで、本当に無意識のことだった。


 顔を上げた園山さんと、そこで初めて目が合う。

 彼女はきょとんとした、なにか不思議なものを見るような目で、私を見つめた。そのとき、途端に現実へ引き戻される。いつの間にか手の中から消えていた果物ナイフを探して視線を飛ばす。

 そのとき、ふっと傍らに誰かが立った。私が床に転がるナイフを見つけると同時に、横から伸びてきた手がそのナイフを拾った。呆然としたまま顔を上げる。桐原だった。

 桐原もすぐにしゃがむと、ハンカチを取り出して園山さんの手のひらを包んだ。思考が追いつかず、呆けたように二人を交互に見つめていたときだった。


「――“高須賀くんは、いいところ、いっぱいあるよ”」

 ふいに、声が聞こえた。

 一度、心臓が大きく音を立てる。

「あれ言ったの、粟生野だったんだな」

 ゆるゆると、顔を上げる。高須賀くんが、まっすぐにこちらを見ていた。穏やかさに満ちた声が、続いていく。

「……覚えてたよ」

 目を見開く。指先が震えた。震えは、すぐに喉までせり上がってくる。

 こんなのってない。心の中で叫んだ。

「なんかあるたび、しょっちゅう思い出してた。多分、すげえ嬉しかったんだろうな、俺」

 何度も、叫んだ。


 瞼の裏に、焼けるような痛みが弾ける。真実の、優しい痛みに途方に暮れた。下を向けば、勢いよくあふれ出した涙が、古びた教室の床に落ちていった。

 思えば、泣くのはあの日以来のことだった。四年前、やはりこの教室で。私はずっと、あの日に立ち止まったままだった。どこへも行けず、立ちつくしていた。だけどもう、今は違う。こみ上げた言いようのない幸福感と、同じだけの寂しさに、私は泣いた。



 ……友達に、なりたかったんだ。


 きっと、それだけだった。

 あの日私が願ったのは、ただ、それだけのことだったんだよ。

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