第38話 哀歌

 ねえ高須賀くん。

 たとえば今にも崖から落っこちそうになっている誰かを、一人だけしか助けられないとする。そうしたら、高須賀くんが何よりも大事に思っている二人は、きっとどちらも高須賀くんのことは助けないでしょう。

 私は、高須賀くんを助けてあげる。でも、それだけじゃ多分足りないから。だから私は、あなたを助けたあとに、あなたの目の前であの二人を突き落として、それから、私も死ぬの。あなたの目にこれ以上ない惨状を焼き付けて、一生、忘れられなくなるように。





 世の中には努力をする必要のない人間というのもいて、桐原直紀はそういう人間だった。

 努力をしようともしない人間は嫌いだったけれど、それ以上に苦手な部類の人間だった。優秀な学業成績も抜群の運動神経も、所詮は保険でしかなかったのだ。それを持っていれば、少なくとも皆は一目を置く。邪険に扱われることはなくなる。ただそれだけのものだった。それなしに皆からの好意を掴めるのなら、必要のないものだった。

 私が一番欲しかったもの、これまで死に物狂いで掴み取ってきたそれを、桐原は簡単に手にできた。保険なんて、端から必要なかった。そういう、人間だったのだ。

 だから私は、彼に深く関わる気なんてさらさらなかった。

 あの二人が、彼を受け入れたりしなければ。


 頑なに、二人だけで生きていこうとしているのなら。他の人間が入る余地など微塵もないというなら。それなら、納得することもできたのだ。諦めるしかないと、思えたはずだった。

 だけど、違った。桐原と一緒に笑っている二人を見たとき、気づいた。私は結局、何一つ、諦められずにいた。

 荒波のように襲いかかってきたのは、覚えのある真っ黒な感情だった。ひどく醜い、感情だった。


 最初は、彼らの大事なものを横から奪い取ってやろうと思った。私が築き上げてきたことを、思い知らせてやりたかった。そうして、嫉妬でも憎しみでもいいから、視線をこちらへ向けてやりたかった。

 醜さは、ちゃんと理解していた。でも、それでいいと思った。綺麗なままでいたって、視界にすら入れないのだ。それならもう、醜くても構わない。ただ、無関心だけは許せなかった。

 そのときはまだ、私は冷静さを保てていたと思う。真っ黒な感情が完全に心を満たして、ほとんど正気を踏み外したような冷たい衝動に取り憑かれたのは、桐原が、私を拒絶したときだった。

 もう、怒りだろうと軽蔑だろうと何でもいい。強引にでも、意識をこちらへ向けてしまえ。そう思う心とは別のところで、ただ単純に、桐原が苦しめばいいと、そんなことも考えた。


 どうせ今まで、誰かに憎まれたことなんてないんでしょう。聞こえよがしに陰口を叩かれたことも、憎悪のこもった目で睨まれたことも、どうすれば嫌な顔をされずに済むかと細心の注意を払いながら人に話しかけたことも、一度だってないんでしょう。

 桐原みたいな人間が、何も疑うことなく、心から思っているのだ。私は本当に、誰にでも分け隔てなく優しくて、皆をまとめたり仕切ったりすることが好きで、得意で、だからこうしているのだと。私の能力は、すべて神様から与えられたものなのだと、本気で思っているのだろう。

 だって、自分がそうなのだから。自分がどれだけ恵まれているかなんて、きっとわかっていないから。


 少しは苦痛を味わってみればいい。そして、そこから這い上がろうと足掻いてみればいい。私と同じ苦労を、積み重ねてみればいい。

 だって、不公平でしょう。どうして桐原はいいの。どうして私はだめだったの。

 ねえ、高須賀くん。

 桐原はきっと、何もわかってくれない。高須賀くんの苦しみなんて、何一つわからない。彼からは、あまりに遠いことだもの。苦しんだことなんて、ないんだもの。

 わかってるんでしょう。桐原は絶対に、愛してなんかくれない。



「高須賀くん、覚えてないでしょう?」

 暗い教室の中で、問いかける。

「ここで私と交わした会話なんて、何にも覚えてないでしょう。園山さんは覚えてなかったもの。私と同じ中学だったってことすら、あの子、忘れてたの」

 私だけだった。ここで笑ったのも泣いたのも。彼らの心に、私はいなかった。今も、きっといない。

 だけどそんなの、もう許さない。



 後先なんて考えなかったのは、たしかだ。自業自得だった。嘘なんて、気を抜けばすぐにばれるものだ。そうでなくとも、私はとっくに冷静さを欠いていた。

 すべてを失ったあとの、明日からの日常がどのようなものかということは、よくわかった。手に取るようにわかった。経験してきたことだ。あの頃と同じ、地獄に戻るのだ。よくわかっているのに、そこへ飛び込んでいく気なんてなかった。結局、私は弱かった。

 本当に、地獄だったのだ。ふたたびあの場所へ行くぐらいなら、ここですべて終わらせようと思った。悩む必要もなく、意志は固まっていた。

 終わらせるなら、彼の目の前で。

 ずっと昔から心の奥に横たわっていたかのように、驚くほどはっきり形を成して、その意志もすぐに湧き上がってきた。


 愛されたいだなんて、もう、願わない。ただ、無関心だけは許さない。

 思い切り嫌な記憶でいい。醜い姿でいい。とにかく彼が一生忘れられないよう、出来るだけ残酷なほうがいい。あなたのせいで死ぬのだと、思い知らせてやれればいい。

 最後の最後、園山さんや桐原ばかりが映るその瞳を全部全部私に染めて、彼の記憶に私の姿を一生根付かせる。これ以上ない、しあわせだと思った。地獄に戻るより、こちらのほうが断然いい。それ以外に方法なんてないのだ。

 どうしたって諦めきれない、欲しいものだった。いつだって欲しいものは、死に物狂いでもぎ取ってきたのだから。今回も、そうすればいい。それが私らしい。そうでないと、これまでの私の人生すべてが否定されてしまう気がした。



 ねえ、私があなたのことを愛してあげる。

 だから、どうか、こっちを向いて。

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