第37話 届かない
それ以来、二人と言葉を交わすことはなかった。
二年生ではクラスも分かれたため、顔を合わせる機会すらなくなった。高須賀くんとだけは三年生のときに再び同じクラスになったけれど、やはり関わりはなかったし、関わるつもりもなかった。
それでも定期テストのたび、自分の順位より先に、彼の名前が定位置から動いていないかと確認してしまうのは、知らぬ間に癖のように染みついてしまったもので、卒業するまで変わらなかった。
けっきょく彼の名前が一番高い位置から動くことは一度もなくて、そのたび私は静かに安堵していた。
「三組の渋谷くんがさあ、明李のこと好きらしいよー」
冬休みを間近に控え、そろそろ教室全体に、迫る高校入試の緊張感が漂い始めた頃だった。
友達がそんなことを言ってきたのは、ちょうど園山さんが教室に入ってきて高須賀くんのもとへ歩いていくところだったため、そちらに意識が向いていた私は「ふうん」となんとも気の抜けた相槌を打ってしまった。
「ふうんってあんた」
「まったく興味なし! って感じだねえ」
友達の呆れたような声にようやく我に返って、あわてて「あ、いや、そういうわけじゃないけど」と笑う。
「でも渋谷くん、結構かっこいいよー? サッカーめっちゃ上手いし」
「まあたしかに顔は悪くないけど、でも明李には似合わない気がするな。サッカー馬鹿じゃん、渋谷。明李にはさあ、もっとこう、知的な……やっぱり高須賀くんくらいじゃないと」
ふいに出てきた彼の名前に、心臓が一度大きく波打った。けれど、感情の揺らぎを隠すのは得意中の得意だった。笑顔は崩すことなく、なるべく短く相槌を打つ。
彼のほうへ目をやれば、園山さんと一緒に教室を出て行くところだった。
同じように、友達も二人のほうを見つめながら、声を潜めて「でも高須賀くんってさあ」と口を開く。
「なんか冷たそうだし」そこで二人が教室を出て行ったのを確認すると、声のトーンを戻して
「だいたい、園山さんと付き合ってるんじゃないの?」と続けた。
「違うよ」
思わず強い調子で彼女の言葉を打ち消してしまった。
友達が少し驚いたような顔をしたので
「あ、私、前に聞いたことあるから。ただ仲が良いだけだって」
と、急いで付け加えた。それから、彼の話題が続くのは避けたかったので「そういえばさ」と出し抜けに新しい話題を振ってみる。
「もうしっかり決めた? 第一志望」
「うん、一応ね。明李はやっぱり篠野にするの?」
その問いに私が頷くより早く、「ああ、篠野といえばさ」と別の友人が声を上げた。
「高須賀くん、福浦じゃなくて篠野受けるらしいよー」
無関心を装うことも忘れ、えっ、と思わず心底驚いた声を上げてしまったが、他の友達の「えーっ」という大げさなほどの驚きの声にかき消され、皆の耳に留まることはなかったようだ。
「なんでー? もったいない! 高須賀くん、福浦充分狙えるって言われてたじゃん」
「まあ狙えるって言っても、合格確実ってわけじゃなかったからじゃない? やっぱ福浦は厳しいんだよ」
「えー、でもやっぱりどう考えてももったいないでしょー。充分受かる可能性あったんだから挑戦してみればいいのにねえ」
「あ、それか家の都合で私立は絶対行かせてもらえない、とか。もし福浦落ちたら困るから、安全なとこ受けるのかも。恵の家もそうなんでしょ」
「そりゃ、うちは貧乏だからそうなんだけど、でも高須賀くんの家ってお金持ちらしいじゃん。お父さんが市議会議員で、お母さんは学校の先生とか聞いたよ。私立行かせてもらえないってことはないんじゃないの」
友人たちの話を聴きながら、単語帳を掴んでいる自分の指先をじっと見つめた。すうっと頭の中の熱が引いていく感覚があった。
「ねえ」
指先を睨んだままで、口を開く。
「園山さん、どこの高校受けるか知ってる?」
唐突な質問にきょとんとしつつも、一人の友人が「あ、知ってるよ」と返した。
「多分、篠野だよ。この前の説明会に来てたし……あっ、まさか」
そこでぴんときたらしく、彼女は急に言葉を切ると
「高須賀くん、園山さんと同じ高校行くために篠野選んだって?」
「あー、あり得るかも」もう一人も納得したように頷いた。
「仲良いもんねえ、あの二人。多分そうだよ。それ以外に、わざわざ篠野に行く理由思いつかないし」
「なるほど、それならわかるわ」
答えが見つかったので、その話はそこで終わり別の話題に移っていったが、私はほとんど耳に入らなくなっていた。ただ黙って指先を見つめていた。先ほど聴いた話が、ぐるぐると頭の中を巡る。
――わかるわけ、ない。
納得なんか、出来ないでしょう。
ひどく落ち着かない気分なのに、頭の中は奇妙に冷めていた。まるであの日のような、冷たい感情が膨らむ。
いくら仲が良いからって、同じ高校に行くために自分よりレベルの低い進学校を選んだりする? 恋人だとしても、そんなことしないでしょう。
仲が良いなんて次元じゃない。ずっと見ていればわかる。あの二人は、異様だ。お互いを大事にすることしか見えていない。彼らは意図的にそうしているのだ。二人だけで生きていこうとしている。そうすることでしか、自分たちの望む関係を築く方法を知らないみたいに。
家族。二人が口にしたその単語を反芻する。
急に、何もかものピントが合っていった。
私が彼に対して感じたのは、きっと、シンパシーだった。一方的な感情だったとしても、そんな気持ちを抱くことができる相手は初めてで、だから、どうしようもなく惹かれたのだろう。
彼も、自分の欲しいものに必死に手を伸ばしていた。そのために努力して、自分の力で掴み取ろうとしていた。
兄について語るときの、彼の追い詰められたような声色を思い出す。優秀な両親。年の近い、自分よりずっと出来の良い兄。想像するのは容易だった。私はよく知っている。この世界は、そういうものだ。勉強も運動もぱっとしなかった頃の私には、皆、見向きもしなかったのだから。
翌日の放課後だった。
職員室へ提出物を届けに行ったあと教室に戻ると、高須賀くんが一人残っていた。いつもなら、なにも気にしない振りをしてさっさと鞄を掴み出て行くところだが、その日は昨日聴いた友人の話が頭に残っていて、鞄を掴んだあと、彼のほうへ向き直った。
ねえ、と唐突に声を投げれば、彼の視線がこちらに向く。随分と久しぶりのことだった。
「福浦じゃなくて篠野受けるって、本当?」
脈絡のない質問にも、「本当」と、さらっと答えが返ってきた。そのあとで、すぐに彼の視線は私から外れる。何も変わらない。二年前も、そうだった。
何も変わらないのだ、彼は。
「園山さんのために?」
今度の質問は、答えが返ってくるのに少し間が空いた。言葉を探すような沈黙だった。しかし結局、考えるのが面倒になったように、彼は「そう」と短く肯定した。私は、ふうん、と呟いて視線を落とす。
二人の関係は異様だし、ある意味滑稽だった。
どんなに見かけを取り繕ったところで、実際に彼らの望む関係になれることなんてあり得ない。本当に欲しいものに手が届かないから、別のものをそれらしく仕立て上げようなんて、哀れなやり方だと思った。
それが彼でなかったら、ここまで気に障ることはなかったのだろうけれど。
「……家族になんて」
気づけば言葉が溢れていた。一瞬迷ったけれど、それは本当に一瞬だった。
もう、いいや。投げやりに思った。どうせ彼は変わらないのだ。何も変えることはできない。私の言葉なんて、彼の心には届かない。一度だって、届いたことはない。
「なれるわけ、ないじゃない」
高須賀くんは、ひどく静かな表情でこちらを見ていた。それで余計に吹っ切れたような気分になった。奇妙に冷静な頭が、続ける言葉を選び出していく。
「何したって。所詮、赤の他人なんだもの」
彼の表情は静かなままだった。ふっと視線を外し遠くを見つめる。それから、穏やかな声で「そうだな」と頷いた。少し間を置いて、でも、と続く。
「それでいいんだよ。俺らは」
放課後に交わした会話も、思わずガッツポーズをしてしまったほど嬉しかった「ばいばい」のやり取りも、本当に目の前が真っ暗になった、あの日のことだって、彼らにとっては記憶の片隅にも残らないほどちっぽけな出来事だったのだろう。私と同じクラスにいたということすら、彼らはすぐに忘れてしまうのだろう。私はそういう存在だったのだ。
そう気づくと、どうしようもない虚しさに、逆に笑えてきた。感情の揺らぎなど現れる気配もない高須賀くんの顔を見つめる。すうっと潮が引いていくように、胸の奥に燻っていた厚ぼったいなにかが消えていった。それは、寂しいというより妙に心地よい感覚だった。
彼に笑顔を向けてみる。きっと上手く笑えた。それから、ふうん、とだけ呟いて、踵を返した。
それが、中学校で高須賀くんと言葉を交わした、最後だった。
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