美しい嵐

日南田 ウヲ

第1話

 ここ数日、私はこれから語ろうとする物語をどのように書き始めれば良いのか、そう思案すればするほど頭が困惑し、時には叫びたくなるほどの苦悩を抱え、それがために食事が通らぬほど、そのことでほとんど頭が一杯だった。

 しかしその懊悩ともいえる苦しみは或る著作の一節に出会った時、一瞬に瓦解して見事に頭の中から消え去ってしまった。

 おそらく私の中で一瞬にして消え去った理由は、その一節がこれから語る過去の本筋を要約しており、また今思えば私が行った一連の行動も驚くほどすべてがこれに符合していたからだと思う。それはプラトンの『饗宴』『パイドロス』にあって、こう書いてあった。

 “「恋(エロス)」とはつまり、善きもの、美しいものが永遠に自分の物であることを願う欲求のことである。するとでは、それは「いかなる仕方で」これを追求するのか。このソクラテスの問いに対してディオティマは言う。「つまりそれは、肉体的にも、精神的にも美しいものの中で出産することなのです」”

 特に最後の“美しいものの中で出産すること”この一文を見た時・・・まさしくこの一文にこそ、私は存在したと声を出した。

 いや私だけではない、そうあの人・・・彼女もまたそこに存在したのだ、とも。

 美しき人・・。

 私はあなたを渇望した人生であった。

 しかし、あなたは近きにおらず、結局は人生の遠きにあって、私の恋(エロス)で在り続けた。

 瞼を閉じて過去を振り返れば、私がいかに彼女と言う美しいものの中で出産をしてきたかは分かる。

 あなたは遠きにあって、私の文学作品に沢山の恋(エロス)を残した。渇望しても手に入れられなかった恋(エロス)により生み出された言葉が何と私の作品に数多くあることだろうか。それは言い換えれば私の人生の全ての仕事は、彼女の中で出産されたものであることを意味するのだ。

 世間は私を孤独な完璧主義者で恋(エロス)とは無縁の存在として理解している。私もまた過去のある時点まではそう信じていた、あの美しいパンドラの箱を開けるまでは。

 私の孤独な姿は世間を欺いている仮面であったのだ。私は常に内に恋(エロス)を抱え、世間の評価とかけ離れた存在であったという真実に直面したのだ。

 私の長き生にも終わりともいえる死が迫りつつある。

 仮面を被り続け人生の最後を迎えること、それは世間に対して、いやそれ以上に私と共に生きたあの美しき人々に対してアンフェアではないか・・・。

 私は決意した。それは自分の仕事が己一人で完成なし得たことであるという世間の誤解を解き、また真の芸術がいかに先程のプラトンに一説にあるように恋(エロス)の存在を必要にしているのか諸輩等に伝えることを。

 しかしながら孤独な完璧主義者と世間で言われている私が恋(エロス)を語る事の難しさを今直に感じている、想像してほしい・・孤独な存在が春風のような恋(エロス)の存在を語るという困難さを。それがために私は長く懊悩した。だが、それを世間諸輩に伝えることで誤解を招く恐れは、私はプラトンの一節を見て見事に頭の中から瓦解して消え去った。

 そうであったのだ、まさしくそうであったのだ!!と私は心の中で喝采したのだから。

 私はプラトンに感謝する。

 開けられたパンドラの箱の中身を述べることは故人の名誉を損なうかもしれぬ。しかし・・・それでもその災いのなかに希望もあるのかもしれない。

 だからこそ何も隠し立てする必要はない、むしろ隠すことは真実をぼやかすことになる恐れがあるし、それがまた故人の名誉を守る事にもなる事であろうと私は信じてもいる。

 もしくはそれらは私の期待に終わるだけかも知れないが、不名誉は全て私の人生の終わりを持って責任をとればいいことなのだ。

 後世に生きる諸輩に伝えたい。

 これから私が語ろうとする物語、それは私が今のような老齢の歳ではなく、まだ青年の気持ちをもっていた頃の「僕」に起きたことが、やがて人生を終えるだろう私に吹き続けた、それはまるで美しい嵐なのだ。

 邂逅は、年老いた私にはあまりにも過酷な作業であることは分かっている。しかし何故あれ程絵を描くことに夢中になったのか、今思えば・・私、いや当時の僕は理由すらわからぬ程、大阪の肥後橋界隈にある小さなアトリエで開かれる週末のデッサン会に足繁く通っていた。そこで開かれるデッサン会では週替わりに異なるモデルが現れ、着衣の時もあれば裸婦の時もあった。描く人が三十人程あつまり、何処か外国のアカデミーのような場所だった。

 少しだけ当時の自分のそうした行動の理由を考えると、壮年を迎えるにあたり一つの趣味として考えていたのだろうか、それとも何か別の興味があったのか、いや・・僕は首を振る。もし一つだけ確かなことが言えるとしたら、私は「詩」を書くのが好きだった。そう、私は詩人的気質を持っていて中原中也、高村光太郎、海外のボードレーヌを読み、時折ノートの端に自作の詩を書きこんだ。その詩人的気質は芸術という大きなコップに差し込まれた小さなストローとして芸術を吸い込む役割があったのだろう。

 だから私の肉体に潜む精神とも魂ともいえるその詩人的気質が絵画芸術に反応し、やがて絵を描くことを通して芸術の真に寄り沿うもの、それは「美」を吸い取り続けたいという欲望に支配されていったのだろうと思う。

 水面を揺れ動く木の葉がやがて終ぞ一つの水辺にたどり着く、それはしごく当然の事なのかもしれない。「美」ともいう、このとても曖昧で不明瞭ながらも人々を規律させ行動させることに惑わされながらもそれを求めていくのは、聖書で人間の始祖が齧った果実の味を探すような、そんな秘密を追い続ける道なのだろう。

 “戻らない夢が人生に在って、もしその時間を戻せる時計があるのであれば、あなたならどの時間に戻しますか?”

 そう、問いかける誰かの言葉に私はシャツの腕を少し捲り、腕時計の秒針を見た。

 “もし戻れるとしたら、あの頃に戻りたい。そう、小雨の降るあの夏の街を映す窓ガラスの前に・・”

 そう思った時、時計の針が止まった。

 振り子のように針が戻り、私は夏の日差しが照らす窓ガラスの前で立つ自分自身を見た。



( 眩しき夏 )


 デッサン会が終わり、アトリエを出ると薄暗い階段を降りた。しかし外から聞こえる路上を強く弾く音に気が付くと足を止め、屈む様に外を見た。目を細めれば、路上を撥ねる水飛沫が見える。

(雨だ。それも激しく降っている)

 恨めしそうな表情で水だまりを見た。

(朝は晴れていたのに・・)

 それで頭を掻くようにして階段で立ちまると、誰かが僕の背を押し出した。

「失礼するよ」

 初老の男性の声に振り返り、追い越す影の主を見た。画家の古城氏だった。

「瀬田君、傘忘れたのかい?」

「古城さん・・まぁそんな感じです」

 僕はそう言って初老の男性に手を振った。細い切れ長の深い眼差しが空を見て、僕に言った。

「天気予報を見なかったようだね。大阪北部は“晴れ時々雨”だったよ」

 そう言って笑って傘を開くと路上を撥ねる様に去っていった。去っていく人の足跡を雨が洗い流していく。僕は溜息をついて路上に出て空を見た。灰色の空から自分を目指して降りて来る雨粒が見えた。

 僕はそれを手に取ろうとして手を出した。その時、突然空が青色に染まった。それはまるでゴッホが描いた空の様に鮮やかなセルリアンブルーだった。

「天気予報を見られなかったみたいですね」

 その声に僕は振り返る。

 透き通るような瞳が僕を見て微笑んでいる。それは憂いを帯びたようにどこか儚い。

(この女性は・・)

 肩まで触れた黒髪が少し揺れている。微笑みの向こうで、その時僕は初めてその人の顔を見たような気がした。勿論、デッサン会の常連の一人だとは見知っていたが、初めて見たというのは僕の意識の中心で見たのが初めてだという意味だ。

 人はこの世界の多くの事柄を見ている。しかしそのほとんどは無意識の中の風景として流れているだけで、そのどれも記憶に残ることはほとんど無いだろう。その意味では彼女はこの時までは一つの風景でしかなかったと言える。しかしその時彼女という風景が、突如、セルリアンブルーの傘の下で大きく広がり、僕の意識深く、まるでギリシアの地中海を泳ぐ魚群の群れの様に僕を襲い、僕の網膜を突き抜けて行ったのだ。

 ほんの数秒の間、僕はただ茫然としていたのだろう。その人が再び声をかけるまでどんな表情をしていたのか、自分の心に問いかける間もなく、彼女の言葉が水面を跳ねる魚のように飛んで来た。

「もし駅に行かれるのでしたら、ご一緒にいかがです?」

 微笑と共に柔らかい声が僕の意識に水飛沫をかけた。僕は濡れた意識から我に返ると呆けた感じで頷いた。

「さぁ、どうぞ」

 雨が激しく打つ路上に出たその人は先に立ち、僕を傘の下に招き入れた。

 僕は誘われるまま、その人の差し出す傘の中に入った。それはまるでゴッホの青い絵画の世界に引き込まれるような、そんな感じだった。



 次の週末は先週の雨が嘘のように晴れて気持ちの良い天気だった。窓から差し込む夏の日差しを見つめる僕の隣に立つ人が言った。

「瀬田君、今日はさすがに雨・・降らないでしょうね」

 同じように窓から空を覗いて呟く古城氏の横顔を見ながら、「ええ、全く」と苦笑交じりに僕は呟いた。

 そんな古城氏が僕の方をちらりと見て言う。

「あの日、君は濡れなかったのかい?」

「そりゃ、あれだけの激しい雨ですからね。濡れますよ」

 僕は答える。

「相合傘でもかい?」

 まるで答えは知っているぞ、という古城氏の何処か意地の悪そうな視線が僕を見ている。

「まいったなぁ・・」

 僕は頭を掻いて自分のイーゼルの有る席に戻った。微笑を含んだ表情で古城氏も隣の席に着く。僕は鉛筆を削り、何事も無いように絵を描くための準備をする。古城氏はと言うとアトリエをぐるりと見まわして、僕の耳元で小さく囁く。

 “桐島さん、今日は来ていないようだね”

 それに反応して顔を上げた。

「桐島?」

 同じように小声でしかしはっきりと僕は言った。それに驚いた表情で古城氏が僕を見る。

「おや?君知らないのかい。彼女の名前」

 僕の方をまじまじと見て古城氏が言う。僕は頷く。

「おやおや、今の若い人は名前も知らず、また名前も聞かずそれでお互いの交友をしていくものなのかね」

 それには不承不承の表情で僕は居たのかもしれない。「まぁいいよ」と古城氏は言うと僕の画用紙の隅に彼女の名前を書いた。それはアルファベットで、素早く書かれた。

 “NAOKO KIRISHIMA”

「桐島・・ナオコ・・」

 それを反芻するように僕は言葉に出す。ナオ・・ナオ・・それはどんな漢字をあてるのだろう・・そんなことを思い浮かべる内に、モデルが座りポーズをとった。慌てて僕はモデルの方に向き直る。それでゆっくりと鉛筆を動かしたが、先程の事が頭を離れなかった。

(ナオコ・・ナオコ・・それはどんな漢字をあてるのだろう)

 そう思いながら僕は視線をモデルに合わせて、心では違うことを思いながら鉛筆を動かした。彼女の面影を鉛筆がなぞったのかもしれない、鉛筆の先に微かにあの日の雨の滴が落ちて、微笑んだ彼女の輪郭がモデルの輪郭と重なり、美しい放物線を描かせた。

(今度はいつ彼女に会えるだろうか・・?)

 ふと僕はそんなことを思って手を止めた。その時、古城氏が嘆息交じりに小さく呟くのが聞こえた。

「彼女は美しい・・、とても・・」

 僕は呟きの余韻が消えた時間の先で立ち止まった。まるで砂漠の蜃気楼を見ているような氏の呟きだったからだ。それは僕には同意を求めるように聞こえた。同じ蜃気楼を見つめる旅人として。



「瀬田君、君もそう思うだろう?」





 再び彼女に会うまで二週間が過ぎた。彼女に再び会ったその日、僕は地下から地上へと出る階段を上っていた。すると視線の先に白地に黄色の花柄がプリントされたスカートが見え、目を細めて眩しい夏の陽の中を歩く彼女を見つけた。夏の眩しい日差しを避ける日傘の下で揺れる彼女の細くて長い睫毛が見える。階段を上り終えた彼女の唇から細い息が漏れたのを見て、階下から声をかけた。

「桐島さん・・」

 その声に彼女は振り返り、僕の顔を見て微笑した。

「暑いですね、今日は」

 僕の言葉に彼女は微笑を浮かべたまま答える。息を少し切らせて僕も彼女に追いつき並んで歩いた。

「この前は、傘に入れてもらってありがとうございます。おかげで濡れなくて済みました」

 彼女が口元に手を当てて、小声で笑った。

「どうしたのです?」 

 それに彼女が首を振る。

「いえね、古城さんがおっしゃっていたのですよ。瀬田君、相合傘でも濡れたみたいだって」

「いや、それは」

 慌てて僕は彼女の微笑に向かって言う。

「全くの誤解ですよ。古城さんに濡れたなんて言ったのは出鱈目です」

 手を口に当て彼女が笑う。

「参ったなぁ」

 そう言って顎に手をやる僕の顔にビルの窓から反射した陽光が降り注いで眩しく目を細めた。するとその陽光を遮る様に、影が僕の顔を覆った。

「さぁお入りに。今日は日差しがきついですから」 

 僕は頭を掻きながら彼女が差し出した日傘の柔らかい日陰の中に入った。





 始まりのきっかけはいつも些細なことだと、僕は思っている。それは平和であれ、戦争であれ、結婚離婚、失恋も別れも、全ては些細なことから始まる、そうではないだろうか。

 その日アトリエでのデッサンが終わり、自分の道具類を仕舞っていた。その時ふと、誰かが目の前を過ぎようとして手にした小説に目を移した。ほんの数秒だった。僕はその小説の表紙を見たのだと思う。目の前を影が過ぎるその僅かな刹那に響いた美しい声に振り返った。

「コンスタン作、アドルフ」

 僕はその声のする方を見て、その人を見た。瞳の内に宿る柔らかい視線の先に僕が居る。

「桐島さん・・」

 彼女が微笑んでいた。僕はまるで少年が落ち葉の中に隠した秘密を母親に見られたようにはにかみながら微笑む。

「いえね、見知った本でしたから。少しじっと見てしまいました」

 彼女は揺れる髪を手にまとめて後ろに束ねて僕に言う。

「瀬田さんは小説も好くお読みに?」

「はぁ・・まぁ」

 髪を掻く。僕は言った。

「実は・・僕、夢がありましてね。あんまり誰にも言えない秘密の夢が・・」

「秘密の?」

 真っ直ぐと伸びた鼻梁の先の唇が優しく囁く。

「それは・・どんな夢?」

 吐かれる息の先で魔法の呪文のような言葉が僕の首を絞めた。それは瞬時に効果を現わして、僕は絞められた首の喉奥から息を細く吐いた。

「その・・まぁ」

「まぁ?」

 僕は再び髪を掻く。するとその手を彼女が握った。同時に彼女の後ろに束ねた髪がほどけ香りが僕の鼻孔をつくと、それを吸い込んだ。僕は彼女のかけた魔法で再び息が出来なくなった。まるで深い水底に落とされた愚者だと思った。

「教えていただけて?」

 その言葉で僕は水の中で息が出来なくなった。水の中で落ちた先を見上げれば揺らぐ水面に微笑している彼女が見える。

 僕は水に落ちた人が懸命に空気を求めるように、ただひたすら水面に揺らぐ彼女を目指してもがきながら手を漕いた。やがて空気を求めて唇が小さく開くとゆっくり声を絞って言った。

「小説家になるのが・・・・実は僕の秘密の夢なのです」

 僕は言葉を吐くと水面に出て大きく息を吐いた。ゆっくりと真新しい空気を肺に吸い込む。水面に顔を出した僕の前に、どこからか飛んできた蝶々が震わせた羽根を止めて静かに僕の鼻の上で止まった。それは目を凝らして良く見れば細く長い綺麗な人差し指だった。

「良ければ、その夢、手伝わせていただいても?」

 蝶々は耳元で囁くとやがて僕の鼻の上で小さく軽く指を跳ねて去っていった。




 古びた書籍の匂いが何とも僕には心地良い。紙が長い年月をかけて人の手に渡り、その本を手にした人の生きた時代の空気を吸い込んでいるからだ。文字と共にその匂いを吸い込めば、あとは整然と並ぶ白樺の木々の中を流れゆく霧が現実の時間と共に僕をどこか懐かしい記憶の森へと誘ってくれる。

 その現実とはどこだろう、僕は今手にした本を閉じるとふと横を見る。整然と並ぶ書棚の奥、ヘルマンヘッセの詩集を開いたその影が僕の現実だろうか。僕は自問する。やがて霧は彼女の方へ向かって流れゆき、やがて本が閉じられた。霧はそこで消えた。

 古書街の小さな書店に僕は彼女といる。閉じられた本の表紙に彼女の長い髪が落ちて影に触れた。

「ヘッセでしたか?今開いていたのは?」

 僕は彼女に言った。

「ええ、学生の頃読んだ詩集・・、まさかここで再び見るなんて」

 少し驚きにも似た表情で僕を見て微笑む。

 今日、アトリエのデッサン会が終わると、僕は彼女を「もし時間があれば・・」と誘った。

「どこへいきます?カフェかしら?」

 彼女の問いに首を振り僕は言った。

「古書街へ行きませんか。もしよければ古書の何とも言えない匂いを嗅ぎに」

 この前彼女が、小説の題目を呟いたのを聞いた時、僕は彼女も文学について無知ではないだろうと推量した。どこか冗談のような誘いだったが、彼女は笑顔で簡単に僕の誘いに応じてくれた。僕の推量はどうやら方向は間違えていなかったようだった。

 書店に入るや僕達は距離を取り互いに興味のある書籍を手に取った。彼女は多くの書籍の中からサガンやカポーティ等、幾人かの外国の作家の本を手に取りやがて最後にヘッセを手にしてそれを数ページ捲って読みはじめ、やがて思い直すように書棚に戻した。

「僕の目算通りでした」

「おや、何がです?」

「桐島さん、あなたは大分、文学がお好きな方のようですね、それも外国の作家や詩人の方を・・」

 ふふ、と笑う。

「女性であれば意外と文学とは言わず、雑誌などよく読むものですよ。だって噂話や占い、この世の中の多くの悲劇も喜劇もすべて女性が興味の湧かないものは無いとは言えますからね」

「そうですかね」

 僕は彼女を誘い出して書店を出た。僕達の会話する声が大きくなって会計席に座る老人が睨むような視線を送って来たからだ。

「そうですよ。女性が好むものが何も宝石類のようなものばかりであるとは限りませんよ」

 彼女も僕の背を追うように声をかける。

「そう、それに特に秘密というものは女性が愛して止まないものですから」

 僕は彼女を振り返った。彼女の瞳が夜の闇を射抜く猫の様に見え、僕はこの後カフェに誘うことも忘れて呆然と彼女の美しい相貌を見つめた。



(美しい相貌とその瞳の奥に僕は何を見たのだろう)

 パソコンの電源を落として、僕は眠りについた。 

 やがて微睡みの時間が訪れ意識が消えゆこうとする。

 微睡みのカーテンが意識の中で揺れ動いて、風が吹くのを感じた。風はびょうびょうと音を立てていた。この風はどこから来たのか?その風の行方を僕の意識が追う。風と共に流れゆく意識が消えゆこうとする世界で巨大な穴を見た。その穴は宇宙にある星々を吸い込んでゆくブラックホールだった。轟轟と音を立てて、輝く星々を風と共に吸い込んでいる。

 意識が何を知覚しているのか、それともこれは風が運んできた誰かの意識なのだろうか。僕の意識は風を漂う、名もなき存在であることは間違いない。

(あっ・・)

 小さく僕の意識が震えた。

 宇宙で一つの輝きが闇に吸い込まれて、螺旋状のまばゆい光と共に消えた。しかし、吸い込まれた数秒後には別の空間で眩い輝きを放って新しい星が生まれた。

(ここは・・一体何なんだ?星の消失と誕生が、繰り返されているようだ)

 泳ぐように漂う僕の意識が不意に割れて宇宙に輝いて霧のように広がった。霧状に広がった雲が空間で輝き始め、それが小さな渦になってやがて急速に大きくなり、ゆっくりと確かに物質化していく。

(あれは・・何だ)

 そう思った時、輝きは突如光を放ち星となった。

(星が生まれた・・・・)

 僕は意識を伸ばして星を掴んだ。温かい何かが意識を通じて伝わって来る。

(これは・・)

 笑いはしゃぐ幼児の声が聞こえた。幼児の小さな手を母親の柔らかく大きな手が包んだ。

 懐かしい温かさを僕は覚えている。

(そう・・これは僕自身の記憶が覚えている温もりだ、それじゃこの星は・・僕自身・・)

 この時僕ははっきりと認識した。宇宙に輝くこれらの星々は自分の記憶なのだと。この宇宙は僕のレコード、そう実在しているのかわからないアカシックレコードなのか?しかしなぜ僕の記憶がこうした存在しない世界で漂っているのだろう。何故、こうした啓示のような世界が浮かび上がるのだろう、何の為に?誰のために?

 突然、ごぅという音が宇宙に響いた。巨大なブラックホールがまた星を飲み込んで大きくなったのが、はっきりと意識の中で感知できた。

 僕は意識の目を大きく見開いた。

(じゃあの巨大な穴が吸い込んでいるのは・・星々ではない・・そう・・それは)

 暗闇に輝く僕の記憶達だった。

(過去の記憶をあのブラックホールが吸い込んでいるんだ・・しかし・・何故・・)

 星々は凄い速さで巨大な穴の中心に吸い込まれている。星々・・そう、記憶の流星群は深い宇宙の穴に落ち、最後に眩い輝きを放って消えて行く。

 輝きを失った空は暗黒の暗闇が訪れる。しかし、それも束の間、すぐにどこからか僕の頭上で輝いた。星が一つ消えれば僕の意識からまた一つ宇宙に向かって輝きが生まれていく。

(これはまるで輪廻の世界だ・・)

 星の消失と誕生を繰り返す宇宙はまるで曼陀羅の世界のようだった。

(強く吹く風が観覧車を動かすように僕の記憶が螺旋状の・・まるで風車のように僕の記憶をループさせている・・それは何と美しい記憶の螺旋世界なのだろう)

 人生はかくも美しい世界なのだろうか、そう思った時、僕は自分の側を回る小さな生まれたばかりのような光に気付いた。それはまだ小さかったがすごく温かい体温を僕の意識にはっきり伝えている。

 僕は手に掴んだ。

 手の中で蛍のように輝きを繰り返している。

(これは儚く消えゆこうとする記憶なのだろうか・・、でも僕はこの温かさを知っている・・何だろう・・この柔らかい日傘の影の温かさ・・)

 そう認識した時、風が吹いた。それは突風となってその小さな光を僕の手から奪い去った。驚く僕の意識が宇宙の中を波となって円の様に波状になり広がってゆく。

(どこへ・・、それをどこへ運ぼうというのだ!!)

 風は波状の波間を揺れ動き、やがて黒くて大きな穴に吸い込まれてようとしていた。

(いけない・・それは!!)

 僕は強く意識を伸ばして小さな星を掴もうとした。

 しかしそれは届かず星は深い黒い穴へ流れ込み、黒い穴の中で輝きを放って消失した。

(消えた・・夏の柔らかくて包まれるような日傘の影の温もりが)

 僕は微睡みのカーテンが音も立てず、止まったのを感じた。それは静かな眠りの始まりだった。深い眠りに落ちて行く僕の意識がそのカーテン越しに見える影を見た時、懐かしい母の子守歌が聞こえた。



 不思議と目覚めた時、何も無かった。あれ程の夢を見たらもう少し何か自分自身に大きな変化でもあるのかと僕自身が思っていたのに、何事もなかった。

 何を期待していたのだろう、起き上がり暫くその事への自問が僕の心に重くのしかかった。

 壁に掛かる時計を見た。九時丁度を過ぎている。カーテン越しに降り注ぐ夏の日差しは、僕の心に残る自問を檸檬色に照らし出している。それは甘酸っぱい果実の檸檬色の様にカーテンに影となって落ちている。

 僕はベッドからおもむろに起き上がると乱れた髪を手で直して、部屋を出た。デッサン会は休みだったが地下鉄を乗り継いで僕はアトリエ近くの階段を急ぎ足で上る。何を急いでいるのかわからない。何かに追いつきたいと思っているのか。それとも夢の中で消え去った美しい日傘の影の温もりを探そうとしているのか。

 夏の乾いた風が吹いては止み、やがて僕は階段を上がった通りに面したビルの大きなガラスの前で止まった。何か予感めいたものを感じたのだろうか。僕は辺りを見回した。すると立ち止まった目の前のウインドウ越しに薄い青地に紺色の縦縞のワンピースを着たマネキンが見えた。僕はガラス越しにそのマネキンをじっと見た。マネキンは無表情で僕とは目を合わさず、何処か遠くを見ている。ちらりとマネキン越しに店内を見ると、ガラス向うから服を見つめる僕に気付いた若い女店員が一瞥を送ったが、後は何事も無いように自分の仕事に没頭した。

(何事もない平凡な都会の日常・・)

 眩い太陽の陽がガラスに反射し、目を細め物思いに耽った時、僕の心にのしかかっていた重さが不意に消えた。目覚めてから何かのしがらみの様に纏わりついたあの自分への自問が跡形もなく消え、代りに小さな光が浮かび上がるのが見えた。まるでそれは蛍の灯りの様に点滅し、ゆっくりと浮かび上がった。

(幻覚か・・夢か幻を見ているのだろうか??)

 ゆっくりと浮かび上がった灯りはどこか儚げで、それは楕円を描きながら消えゆこうとしている。

(ちょっと・・まて・・!)

 小さく呟こうとして見た先にワンピースが見えた。

(何故・・そこに行こうと・・しているんだ)

 幻覚だろう、確かにそれに違いないのに僕はマネキンに向かって、いやワンピースに手を伸ばした。

 しかし光はゆっくりとワンピースに吸い込まれて、やがて消えた。

 僕は呆然としていた。

 まるで自分の未来を暗示するかのような神の啓示ともいえる夢の出来事が、こんな街中の何でもないショウウインドウの中のマネキンに掛けられた薄い青地に紺色の縦縞のワンピースに消えたという事実に。

 もっとすべてはドラマチックなのではないのか、物事のインスピレーションは神秘的でこんな猥雑とした俗たるものではないないはずだ、自分に与えられた啓示ともいうべきことが、こうした日常の何とも言えない佇まいの中で起きるはずがない。全ては神のいや、宇宙の意志の中で動かされているものであるはずだ!!

 僕は一歩下がって街路樹の木陰に身体を寄せた。

 寄せてうなだれた。うなだれて僕は大きく息をついた。

「瀬田さん?」

 僕はその声に思わず驚いて飛び上がりそうになった。

「え・・・」

 思わず絞り出して唸るように声を出して僕は声の方を見た。

「瀬田さん・・桐島です。大丈夫ですか?お加減が悪いのじゃ・・」

 そこに彼女が立って僕の方へ寄せて来た。その時、雨粒が落ちて来た。

「あ・・雨が・・」

 彼女の髪に滴が付くのが分かった。

「今日、天気は晴れだって言っていたのに」

 そう言うと彼女は僕に微笑んだ。細く長い手で僕の手を握ると店の中へ連れ込んだ。ドアが開いて先程僕を見ていた女店員が目線を上げたが、何も言わず帳簿に目を落とした。

 彼女は僕の手を引き、ある場所に立った。それは僕が先程ガラス向うに立っていた場所から見ていたマネキンの側だった。

「見て、瀬田さん。私このワンピースが気に入っていてアトリエが休みだというのにここまで出て来たんです・・すると瀬田さんがここに居てじっと見つめているもだからびっくりして・・・実は今日このワンピース買おうと思っていたのですけど・・」

 そこで一息つくと言った。

「似合います?これ・・?」

 少し彼女の頬が朱に染まり、視線を僕から外した。




 夏の日差しはいつから檸檬の果汁のように酸っぱくなったのだろう。僕はそう思いながら照りつける日差しの中、立ち止まっては手をかざして、陽炎のように揺らめくビル影を見つめた。

 巨大な高速道路の梁が弧を描いて都会の首を掴むように見えた。その下に小さな公園があり、そこではしゃぐ子供の声を追いかける母親の声が幾つも折り重なっては僕の耳に聞こえた。

 ふと木々がざわついて風が吹いた。目を閉じて開けると突風に巻き上がり小さな帽子が飛んでいる。遊んでいた子供の誰かの物だろう。それは一度落ちるそぶりをみせたが再び風にあおられて遠くへ消えて行った。

 あの日僕は彼女と初めて夜を共にした。と言っても、別段ただ食事をしただけだ。都会の喧騒から離れる様に中之島の川岸沿いにひっそりと建つ小さなレストラン。そこで僕は彼女と夜を過ごした。

 互いにメニューを見て、食事を注文して料理を口に運ぶ。あとは足りない会話を補うように、ワインを飲む。

 窓から見える川面に月が揺れ動いている。川面を揺れる月はまるでモネが描く印象派の筆致のように優しく、僕達二人の時折できる無言の沈黙を撫でてくれた。

 沈黙にモネの筆が触れた時、彼女が言った。

「瀬田さん、以前お話しした小説のこと、その後いかがですか?」

 僕は口につけたグラスを離して、彼女を見た。

「小説・・ですか」

 頬が火照り、唇に熱が伝わるのが分かる。僕は唇から火照りをゆっくりと吐き出す。

「ええ、少しだけ・・進めました」

「じゃ、お書きになって?」

 ええ、と頷く。

 ちらりとみると彼女の目が光ったように見えた。どこか満足そうに頷いた。

「どのような内容をお書きに?」

 僕は彼女の言葉に照れながら、少し鼻を掻いて答えた。

「じつは・・いまここに在るのですよ」

「ここに?」

「ええ、実は今日バッグに入れているのです。小説の原稿・・」

 彼女の黒い瞳が僕の瞳を真っ直ぐ見ている。まるでそれは魔法の呪文の様で、僕は唯その瞳が伝える意思に従うしかなかった。バッグを開いて原稿を取り出し、彼女に渡した。

 彼女は微笑してそれを受けとると、目を通した。

 沈黙が訪れた。

 僕は窓から見える水面の月を見た。月は揺らぎ僕は沈黙の中に居る。沈黙はピアノが奏でる冷たくも、どこか儚い音楽のように僕の心に響く。情熱は月の孤影に揺らぎ、冷たい水面を流れてゆく。その流れを止めるのは彼女の言葉だけ。

「これ、おもしろいですね」

 沈黙は月の揺らぎの中で僕に向かって破られた。その声の主は微笑を向け、僕の火照る情熱を優しく撫でた。

「そう、思います?」

 頬を掻く。それが精一杯の照れ隠しだった。

「ええ、この小説。凄く昔のことを扱っているのですね。それも大阪が大大阪と言われた時代。そう、美術が沸騰していた時代」

 彼女が窓から外の世界を見る。その黒い瞳にゆれる月が映る。何を思うのだろう。僕はその瞳に問いかけたかった。

「瀬田さんは、ご自分が気付かないけれど・・美をお持ちのようですね」

「美・・ですか」

 そう、と呟く彼女の瞳が僕を見つめる。月の揺らぎは消え、代りに揺らぐ僕の気持ちが映る。

「それは、どういうことですか?僕には・・よく分かりませんが」

 それに彼女は沈黙と静かな微笑で答えた。

 その沈黙と微笑が何を意味するのか、僕は分からないもどかしさのまま席を立った。彼女の視線が僕の瞳を捉えて離さない。僕はその瞳に耐えきれないように立ち上がると彼女に言った。

「桐島さん・・もう、遅いので今日はこれで。駅まで送ります」




 パソコンのキーボードを叩く音と自分の意志とが文字となり、やがて画面に出ては消えて行く。

 小説という作業は勿論、物語を描き書くことに違いなくそれは人間の頭脳から湧き上がる過去の経験や知識、または空想や想像を形にする作業であるが、果たして電子機器にとっては特に何でもない唯の東アジアの日本語と言う文字をアルファベットから一文字一文字に還元する作業でしかないのではないかと思う。

 ふと、僕は彼女が呟いた言葉を思い出した。彼女は確かに僕にこう言った。

 “瀬田さんは、ご自分が気付かないけれど・・美をお持ちのようですね”

(美・・)

 僕は画面から目を離して天井を見た。

(美・・。それは・・)

 僕は再びその言葉を噛みしめるように呟いた。その言葉を知らない訳ではないが、唯その言葉が壁のように自分の人生に直面することは今までなかった。どちらかと言えばそれは遠きにある理想郷のようなもので、自分が人生の内に知らずに終わるものであり、訪ね求めるべきことではないと今まで思っていた。それが彼女の為に急に僕の人生で目の前に立つ急峻な岩の斜面として立ちはだかった。

(桐島・・ナオコ・・)

 僕は屹立する美の急峻な岩肌へ思いを馳せながら彼女の名前を呟いた。

(まるで僕にとっては美と同じ響きだ・・)

 僕はそう思って目を閉じた。数日前見た、夢の世界の流星群の煌きが僕の心に浮かんだ彼女の名前を消していく。

(美はまるで流星群のように煌いて・・やがて消えゆくものなのかもしれない)

 僕は何故かすごく予感じみたものを感じて、再び画面を見た。

 画面にはいつしか“ナオコ”という文字が浮かび上がり、それを検索する言葉が沢山不揃いで並んでいた。

 その横に一文を打ち込んだ。

 “明日、僕は彼女に会えるだろうか?”

 答えるはずもないパソコンの画面でその文字だけがどこか錆びついた鎖のように僕の心を縛り付けた。




 想いは風になる。やがてそれが季節をどこかに連れ去った時、再び巡る季節に誰を思い浮かべるのだろう?

 僕は金曜日に痛み出した歯の治療のため、週末のデッサン会を欠席した。歯の痛みを鎮痛剤で抑えながら静かに過ごしているとメールが届いた。

 “今日、いつもの場所で会いませんか”

 この頃になると僕と彼女の間ではこうした暗号のような物事を特定しない語彙で、その場所が分かるような関係になっていた。

 僕は頬を軽く押さえるようにして返事をする。

 “夕方であれば・・、それに・・僕も伺いたいことがあるのです”

 送信して返事を待つ。数秒が過ぎて返信が来た。

 “では夕方五時ごろに”

 それを見て僕は頬を摩る様にしてそっと携帯の画面を閉じた。

 僕と彼女は今お互いが顔を合わせなければ週末を実感できないそんな距離感の中で生きている。

 彼女は僕が書きあげていく小説から浮かぶ言葉群の風を浴びなければ自分の心の熱を冷まし、かつ癒せられないのかも知れない。そう思う程、彼女は僕の小説に夢中であると思っている。作り出す自分以上に彼女は僕の小説に対する興味が深く、時には彼女が僕の描く小説の情景にも細かく注意を促す。まるで僕と彼女の関係は小説家と編集者そんな関係にもなりつつあった。

 何がそこまで彼女を僕の小説に夢中にさせるのか。

 正直、僕にはわからない。

(だからかもしれない、だからこそ僕はその理由を知りたくて会うのかもしれない・・)

 僕は頬の下で熱を感じる治療した歯を押さえながら、窓から空を見た。

 空を行く鳥が見える。鳥たちが遠くの地平線に消える頃には夕暮れに染まるだろう。

 鳥は風に乗り、やがて地平線に消えた。高層ビル群に囲まれたオフィス街の静かな影の有る一角。僕は彼女と待ち合わせのいつもの場所に腰を掛けている。

 週末の忙しい都会の石畳の道を行き交うビジネスマンはもう誰も居ない。彼等も今は遠くの地平線に消え、温もりある家族達の笑い声の中で静かにその身体を横たえているだろう。

 そんなビルの影の落ちる場所に石造りの椅子がある。夕暮れ時のその椅子に座る僕の佇まいはアメリカの画家ホッパーの描く絵画の様にみえるにではないか、そう思った時、彼女が地平線から現れた。

 いつものように僕の隣に腰かけ、覗き込むようにして彼女が言う。

「瀬田さん・・今日はデッサン会・・休まれたのですか?」

 静かに頷いて僕は頬を摩る。

「頬が・・何か?」

 彼女が神妙に見る。

「実は・・昨日の晩から突然歯が痛み出しましてね・・今日は歯医者に歯の治療に・・」

 そこまで言うと彼女が目を細めた。

「瀬田さん・・唇・・」

「唇・・?」

 僕は意外な彼女の言葉に唇をなぞる。

「とても艶めいて膨れ上がり・・とても血色が良い・・」

 彼女の吐き出した言葉に僕は戸惑いと驚きの表情をして、彼女を見つめた。

「きっと・・女性のドクターね・・」

 彼女は呟くと、とても冷たい炎が見える瞳をしていた。僕はその炎の揺らめく自分を見て彼女に言った。

「そうですが・・・どうしたのですか?桐山さん。急に驚く様な・・いや戸惑いますよ」

 彼女の炎が揺らめいた。鋭く彼女が言い放った。

「止めていただきます?その歯医者に行くのは」

 僕は痛む歯の事も忘れて彼女の視線を見た。瞳の奥にしっかりと嫉妬ともいえる炎が見えた。

「だって瀬田さんの唇を・・愛おしむ様に・・・きっとそのドクターは・・瀬田さんの唇を指でなぞったのです、だからそんなに瀬田さんの唇は赤く腫れぼった様になっている・・・きっと・・きっと沢山の愛撫を瀬田さんは知らず知らずの内に唇に受けている・・私・・それが・・今・・無性に許せない」

 僕は彼女の言葉に絶句して、凍り付いた。一瞬にして僕の肉体と魂を、まるで詩人ダンテが歩いた地獄の最下層コキュートスの絶対零度を凌ぐ冷気が風となって僕を精神の意志亡き塊にした。

 呆然とする僕に彼女が呟いた。

「冗談です、冗談ですよ」

 僕は動けなかった。腕を握る彼女の熱が、僕の冷気を奪い去去るまで。

「冗談です。瀬田さん、少し冗談を言ってみました」

 腕を揺さぶる彼女の瞳から炎が消え、夏の夕暮れを吹く熱を含んだ風が僕の心に吹いた。僕は酷く汗をかいたようだった。

(冗談・・)

 首筋に手をまわして汗を拭きとり、意味を図り損ねた自分を何故か恥じるようにして微笑んだ。

「冗談でしたか」

 はにかむように笑った。

「そう・・冗談」

 彼女も僕を見て笑った。

 ビルの隙間を吹き抜ける夏風が僕達の間を吹き抜け、二人の間にあった熱気を空へと運んでいく。

 少しの沈黙と感情の行き交う時が過ぎた。

「瀬田さん、メールにあった“伺いたいこと”とは何ですか?」

 彼女が夏風に揺れる髪を押さえるようにして僕を見つめる。

「ああ・・それですね」

 まだ幾分動揺を抑えきれない僕は胸に手を当てる様にして彼女を見る。

「いえ・・実はいま僕・・、小説の中で女性が眠る時を書いているのです・・そのシーンをクリムトの『ダナエ』を思いながらかいているのです」

「クリムトの・・?」

「そう『ダナエ』・・」

 彼女の瞳の中でゆっくりと炎が揺らめいた。

「どうしてその絵をもとに?」

 僕は頷くと息を吐いた。

「女性はきっと思わないでしょうが・・男性は女性が眠る姿に対してとても神聖で・・何とも言えないそのロマンティシズムと言うものを持ちわせているのです、まぁ勿論全員だとはいいませんが・・・ただ眠るという人間誰もが行う生理現象が男性にとって・・そう、特にとても美しい女性が眠る姿と言うものは・・神々しくて犯しがたい神聖さがある様に感じる時があるのです」

 彼女が目を細める。

 僕は続けた。

「それで、僕・・・小説にも女性が眠りにつく情景を書こうと思うのですが・・その情景を助ける題材としてクリムトの『ダナエ』を眺めていたのです。しかし・・やはり・・その何というか・・」

 彼女を見て、頭を掻く。

「どうも・・現実的描写に弱くて・・それで桐島さんに聞いてみようと・・」

 彼女が吐いた息の音が聞こえた。

「それで私に『眠り』について聞きたくて・・?」

 僕は頷いて、黙った。彼女が言葉を紡ぎ出すのを待つ。

 地平線の向こうに消えて行く鳥たちの影が見えたような気がした僕は、ビルの隙間から夕暮れに染まる空を見て、それを懸命に探そうとした。それは彼女の言葉を懸命に探している自分だろう、そう思った時彼女の言葉が響いた。

「瀬田さん」

 僕はその言葉に鳥の消えた影を見た。

「そうですね・・私が眠る時・・それはまるで宇宙を流れ落ちて行く流星群に包まれて、・・いや自分もその流星群の一つの星となって広い宇宙の果てに・・いえ・・暗い底に落ちて行く感覚になります」

 僕は彼女の言葉を聞きながら、自分が夢を見て落ちて行ったあの時の流星群を感じた。

「肉体は重力の束縛から逃れ、後は魂だけが宇宙を彷徨いながら・・・・」

 僕は無意識に痛む頬を撫でながら、彼女の次の言葉を待った。

「温かさ・・そうですね・・・冷たい宇宙にあるはずもない温かさに包まれるのです」

 彼女が記憶の底から掴んできたその言葉が僕の頬を撫でるのが分かり、無意識に頬を撫でて彼女の言葉に触れた。そこには温かい熱が在った。

 彼女は僕の頬を撫でる指先に目を遣って言った。

「瀬田さん・・私・・」

 彼女は一瞬俯くと、僕を正面から見据えた。

「やはり・・私・・許せない。あなたの唇を撫でる・・私以外の誰かと言う存在が居るということが・・・私・・許せない」

 彼女はそう言うなり突然立ち上がり、手を伸ばす僕を振り切ると、無言で僕の側を離れて消えていった。



 激しい言葉と言うものは何に対して吐かれるのだろう、愛すべき人への尊敬にたいしてだろうか?そう自問して息を切らせながら中之島公会堂の側を足早に過ぎてゆく。この前、彼女が僕に吐いた言葉の棘は抜かれることなく、僕の心に突き刺さったままだ。僕は棘の刺さる傷口の痛みを彼女が去った日以来感じない日は無く、彼女の顔が浮かぶ度、傷が疼いた。

 僕には分かっていた。傷口は浅いように見えるが、しかし切り込まれた傷跡はどこまでも長く、それは魂の殻と言うものをぐるぐる引き裂いて傷口から流れ出る血潮を止めさせない。いや、傷口が止まれば、また別の傷口が開いて血潮を流す。そう、開かれた傷口からはとめどなく血潮が流れ、それはまるで僕の体内に眠る悪質な物を全て吐き出させるまでは続くのだと。聖なる何かが、僕の精神から肉体へつなぎとめる螺旋階段を上り下りして、その階段の途中に眠る邪悪な存在をその聖なるものが外へと追いだすまで。

(すべては彼女が僕に為した事なのだ・・・)

 僕は大きな通りに立って視界が明るい夏の日差しを見つめた。幾台もの車が片側に大きく開いた車線の中を進み、その向うに古い様式の建物が橋向うに見えた。

(しかし・・何故、彼女は僕にこんな傷を負わせたのだろう?)

 手を空にかざして僕は目を細めた。

 変わった信号機を見て、交差点を渡る。すれ違う見知らぬ人達に交じりながら僕は肩にかけたバッグに触れた。

(僕が言葉として吐き出すものは・・)

 信号機が赤に点滅する。

(もしかしたら僕が彼女という存在に触れて吐き出すもの・・)

 渡り切った交差点で僕はもう一度、空を見上げた。

(それは・・・美が生み出すものではないだろうか・・)

 僕は目を細め歩き出す。揺れ動く波間に落ちた枯れ葉が静かに吸い込まれるように、僕は何かを予感じみながら大きく息を吸い込んで交差点を渡り終えた。



(僕は恋をしている。彼女に)


(だからこそ・・)


 空を見上げて思った。

 そう思えば世界が美しく思える。


 僕が受けた傷さえも。



 デッサンはその日によって完成度が違う。人によりその完成度と言うのは様々であると思われるが、僕の場合は対象であるモデルと自分が吐き出した線の数との距離感ともいうべき存在が、完成度と言う自己完結を決めていると理解している。

 夢中でデッサンを続けていた僕は自分の横に立つモデルの存在に気付かず、声をかけられるまで無心に絵を描いていた。

 手元に落ちる影に気付いて、僕は顔を上げた。

 先程まで裸婦として僕の目の前に彫像のように立っていた存在が、生身の温かさを備えた瞳で僕のデッサンを覗き込んでいる。

「瀬田君、良いじゃないこれ」

 古城氏の言葉に僕は目を向けた。虚ろになっていたかもしれない。古城氏の姿が一瞬霞んで見えた。

「これ中々だよ。彼女・・モデルさんのさぁ・・何というか肌の質感と言うかそうしたものが指で擦られた部分でとてもいい質感をしているし・・こういっちゃなんだけどスペインのアントニオロペスみたいだよね、この一枚」

 現代スペインの写実の大家であるアントニオロペス氏を引き合いにだされて戸惑う僕の瞳がはっきりと古城氏の顔の輪郭を捉えた。

「僕もさ・・僕も・・あのレオナルド・ダ・ビンチ作と言われている『美しき姫君』を何回も何回も描いているけど、まだまだ満足できていないんだ。人生で最高の一枚を描きたいと願っているのだけど、、もしかすると君の方が画家の僕なんかより簡単にあの絵を描けるのかもしれないね」

 古城氏はそう振り返り、後ろの影を見た。

「あの絵の横顔は彼女のような美しさをもつ一枚だけどね・・」

 古城氏の小さな呟きの向こうで僕を見つめるもう一つの存在がはっきりと映った。肩まで伸びた長い髪が揺れている。

 僕は彼女から視線を外して、モデルの女性を見た。彼女の二重のはっきりとした瞼の中に潜ませた黒い目が僕の方を見て満足そうに頷くと、僕に言った。

「この絵・・いただけますか?」

 僕は一瞬驚いたが、直ぐに「どうぞ」と言って渡した。

 それだけの事だった。モデルが自分を描いた見知らぬ人物のデッサンを譲り受けた、それはとても小さなことである。

 しかし、それは些細なことではあったが僕にとってはと言うより、彼女にとっては大きな事件であった。

 その日僕は浮かれていた。当然だろう、自分の描いた絵を誰かが欲しがればそれは才能があることの確かなアリバイであり、また自分の・・・いやこの頃少しばかり目覚めた「美」に対する意識を自分で買いかぶることができたからだ。

 有頂天であったと言える。僕はいつもの待ち合わせ場所であるカフェで彼女を待った。

 席に座り数分後、彼女は現れた。髪を揺らして僕の前に座ると、目を細めて僕から視線をずらし、小さく言った。

「瀬田さん、何故・・あの絵を渡したのです」

 その時、僕は彼女の言葉の深い真意を読み取っては居なかったのかもしれない。だから僕の返事は彼女自身の重要な問題に対する回答としてはとても軽く受け取られたのかもしれない。

 それこそが後で振り返れば僕の無知から来た最大の誤りであったことをその時、知る由も無かった。

「いえ、その・・欲しいと言われたので・・」

 その言葉に彼女はずらした視線を僕に向けた。その視線の奥で、揺らめく炎が見えた。

「それだけの理由ですか?」

 鋭い語調の彼女の言葉に僕は目を大きくして彼女の相貌を見た。瞳は薄く閉じられ、その奥で炎が揺らめき、とても深い部分で怒りを閉じ込めているのを感じた。

 それに僕は驚き、彼女に言った。

「いえ、桐島さん・・どうしたのです。ただ、絵を渡した・・それだけですよ・・それがどうして・・」

 そこまで言って僕は発すべき言葉を飲み込んだ。言えば何かを失いそうだった。

(何故・・そんなにあなたは怒っているのですか?)

 僕の心の疑問に彼女は強い歎きを嘆息と共に放った。

「瀬田さん・・あなたは分かっていない」

 飲み込んだ言葉を覆う低く冷厳な言葉が僕の心を殴った。

「分かっていない・・?それは・・それはどういうことです?」

 彼女は細めた眼差しをゆっくりと僕から外して夕暮れを迎えようとする川面へ移していく。それはもう帰ることのできない時間を惜しむかのような、歎きに似た詩だった。

 彼女が呟く。まるで川面に揺れる時間を惜しむかのように。

「あなたは・・ご自分のなさったことが分からないのです・・・。それは時に才能のある方に在り得る欠点ともいえるものです。自分がこの世界に創り得たものに対する評価が低いこと・・、瀬田さん・・あなたはもっとご自分の事を理解すべきです。あなたはご自分が何をなさったかというべきことを・・・」

 そう言うや、静かに彼女は立ち上がった。僕はその姿を見上げて呟いた。風が吹くのを心の何処かで感じたのだ。

「桐島さん・・どこへ?」

 僕は狼狽するように言った。

「用事があるのです」

 彼女の眼差しは水面を見ている。

「用事?」

 彼女はそれに頷いて静かに言った。

 それはゆっくりと、はっきりと。

「ええ、恋人が待っているのです。瀬田さん、それではこれでお別れしましょう」

 その言葉に僕は激しい雷鳴に打たれたように瞬時に焦がれ、魂が痺れたように動くことができなかった。彼女がハンドバッグを肩にかけて出て行く。それは影がいつ自分の側を離れたのか分からない程の時間の感覚だった。

 僕を残して去っていく彼女のヒールの音がいつまでも耳に残った。

 そういつまでも・・いつまでも。





(恋人・・)

 彼女が発した言葉が僕をその後何日も渡り苦しめた。僕の苦悩は懊悩となって、日常の所々に現れた。何気なく立ち寄ったコンビニで半日を過ごすこともあれば、深夜に意味もなく街中を歩き続けた。僕は彼女が投げかけた言葉が自分の思いも知らぬところでこれほどの影響を及ぼすとは自分自身思わず、もしかしたらその言葉を投げかけた彼女自身も思いもよらなかったことなのかもしれない。

 彼女はあの日以来、僕の前から姿を消した。

 デッサン会に行っても彼女の姿は見えず、古城氏が僕に「最近彼女見ないね」という言葉に僕は「そうですか・・」といって頷くだけだった。それでも僕は彼女と続けた小説を書いた。小説を書くことを止めることは、彼女とのこの世界での繋がりが一切無くなるようでならなかったからだ。

 蝉しぐれの鳴く日々に背を向ける様に僕は小説を書いた。ただその原稿を読むべき人は僕の見えるところ、どこにもいなかった。

 川面に掛かる石造りの橋を渡り夜の水面に映る中之島公会堂の灯りに立ち止まる。見えるカフェの窓越しの席には過ぎ去りし日々を思う影しか見えない。

 僕は思った。何故彼女が姿を消したのかを。

 惜しむ心で呟く。

(僕達は全てを語りあえたのだろうか)

 夏が過ぎれば、秋が来る。

 僕は夜空を見た。見れば夜間飛行の飛行機の点滅する赤灯が見えた。この飛行機が過ぎればやがて秋が来る、何故かそう思わないではいられなかった。





( 惜しむ秋 )


 秋は過ぎ行く夏を惜しむかのように吹く風がどこか冷めやらぬ熱気を含んでいる、そう思う季節だっただろうか?

 僕は中之島に掛かる橋の欄干に頬杖付きながら、流れる川面に浮かぶ羽を休めた川鳥の白い背を見つめて思った。御堂筋の並木は銀杏の木々で覆われ、ビルの木陰の影は濃くなり、やがて訪れるだろう冬を予感させる。

 結局、あの夏の別れ以来、僕は彼女と会うことは無かった。彼女との繋がりもデッサン会と言う場所だけの繋がりであったこともあり、その後の彼女の事については、何も音信は無く、過ぎ去った時間を刻む時計の針だけが過ぎて去って行った。

 掌を見た。そこに何があるのか?時間の名残だけがあるのだろうか。

 小説は書き終えた。ただ未だ僕の中で大きく鎌首の様にもたれかけている事には答えは出せていなかった。それは彼女が僕に与えた試練ともいうべきこと、大きな謎にも似た言葉・・・、そう、“美”とは、いかなるものか。

 その一節ともいうべき言葉が未だに僕の頭上にまるで髑髏の死神が持つ強大な鎌の様に輝いている。

 彼女の去った後の苦しみ抜いた夏は過ぎた。僕はその苦しみから小説を産み落としたと言ってもいい。

 掌を握り自問する。

 それは自分一人だけでなし得たものだろうか?

 僕は首を振った。

 否、そう答えるべきだろう。

 そう思った時、川鳥が羽根を伸ばして勢いよく空へと飛びあがった。見れば川を上る小舟が川鳥の留まっていた場所を過ぎてゆく。

 見上げる鳥に問いかけた。

 あなたはどこへ行ったのか。

 鳥は風を見つけたのか、見上げる視線の先で数回円を描き、美しい放物線を描きながら中之島公会堂の屋根向うに消えた。

 僕は鳥が過ぎ去るのを見届けると背を丸める様にして橋を歩き始めた。

 秋の空に広がる鰯雲の尾を噛むような心持で、デッサン会へと向かった。




 季節が変われば街も変わると誰かが言った言葉。それは本当だろうか?僕は心の中でその言葉に問いを投げ掛けて、後は唯静かに沈黙した。街の建築物が変わることはない。空へと起立するビル群は、何も変わることなく、いつでも何事も厳しい風雪の前に立っている、それだけなのだ。

 では何が街を変えるというのか?

(それは人間の佇まいだろう)

 季節に合わせて行き交う人々の服の彩りが街の風景を変えるのだ。木々は黄金色を纏い、まるでこの世界への最後の名残を残すかのように、美しい詩の一片を僕達に語りかけてくる。

 夏のあの一枚のストライプのワンピースが今では既にどこかもどかしくも、過ぎ去った夏の名残を僕の心の中に残しつつ、ショウウインドウから消えた。

 背を行く街の名も知らぬ人の言葉も消えた。消え去るべきものは全て去ったのか?僕はジャケットの奥から取り出した葉書を見た。それは今日のデッサン会で古城氏が僕に渡したものだ。

 僕は葉書を裏返した。

 一枚の薄いピンクのパステルで描かれた花の絵の横にこう書かれていた。


 “個展開催の案内”


 絵に指を触れると、僕は葉書に書かれた文字をなぞり、ほんの少し前交わした古城氏との会話を思い出した。


 ―――「瀬田君、実はね・・この前の大阪市のN美術館で開催されたムンク展でね、実は彼女・・桐島さんとだよ・・偶然、彼女とばったり会ってね」

 古城氏が僕の方を見て、笑いながら僕にこれを渡した。

「彼女、ほら夏以来、ここには顔を出してなかっただろう?それで聞いてみたら・・何でも故郷に戻っていたらしく・・まぁその故郷と言うのが瀬戸内の香川の沖にあるS小島とうところでね。どうやらそこに戻って・・自分の絵の個展の準備をしていたらしい」

 僕は無表情だったのかもしれない。古城氏が僕の顔を見て不思議に心の変化を見ようとしているのが分かった。

 古城氏の何処か僕の心を推し量る様な眼差しが見えた後、軽く咳をすると続けて言った。

「・・でね。これを頂いたんだ。よく見ると時期がもうすぐなんだよね、それでさ、実は丁度その頃家内の岡山の実家で法事があるから、足を延ばしてそのS小島と言うところに行ってみようかと思っているんだよ」

 僕は受け取った葉書に書かれてある開催場所を見た。それは確かに古城氏が言ったS小島と書かれてあった。

「彼女、そこの地元の中々の大家らしくてね・・実はそれはその時一緒に居た男性が僕に言ってくれたのだけどね」

 古城氏の視線が外れた。

(男性・・?)

 僕は葉書の中の薄い花弁がひらりと音を立てて舞い上がるのを感じた。どこからか僕の心に風が吹いた。

 古城氏が少し息をつく。

「瀬田君、君は知っていたかもしれないけど・・彼女・・今度結婚するらしくてね・・・その男性と言うのが彼女の婚約者だった。その人物、実は妻と同郷でね。妻が言うにはなんでも有名な人物らしい・・」

 古城氏がどこかすまなさそうな表情をしているのが僕には見えた。

 首を振ると、僕は微笑した。

「古城さん、僕は何も・・」

 古城氏が白髪交じりの頭を撫でる様にして頷いた。

「なんだ・・君たちは恋人同士ではなかったのか・・」

(恋人?・・僕と桐島さんが・・)

 古城氏の言葉に戸惑いがあったのは事実だった。彼女がどう思っていたかは分からないが、少なくとも僕においてそれは・・。

 その問いを遮る様に、古城氏が言った。

「僕もさ・・少し思うことがあってね。ちょっとばかり妻から聞いたことを向うで調べたいと思っているんだ・・」

 何かを睨むような表情をした古城氏が間を置いて言う。

「で、どうするの?君は行くのかい?そこに・・」




 開いた掌を見つめた。そこに掴めなかった時間があった。

 僕は返事をしなかった。唯、目を少し伏せて舞い上がる薄いピンク色の花弁が風に吹かれて飛んで行く先だけを見つめていた。その行先を僕は見つめながら歩いた。現実はコンクリートの路上をジャケットに背を丸めながら肩から下げたバッグに原稿を入れている。しかしその歩みがいつしか駆け足になった。

 何かを伝えたくて。

 それは誰に?

 僕は街角の青山印刷所と書かれた所に急いで入ると、出て来た店員に言った。

「すいません・・この原稿を・・今から本にできますか?」

 一瞥した若い店員の視線にそれは当然だという意思を感じた。

「出来ますよ。時間を頂ければ」

 その回答の後に予想しなかった返事が返って来た。

「それで、お客様。本の表紙のタイトルはどうされますか?」

 僕は風の空洞を抜けて来たその言葉の現実に対して一瞬戸惑った・・しかし、しかしだ・・咄嗟に僕は答えた。

「美・・、いや・・そう、そうです・・タイトルは美しい・・『美しい嵐』にしてください・・風が吹いているのです!!・・今も僕の中に・・そう、それはまるで嵐なんです!!」

 最後の自分に向けた言葉に意味不明の表情をした店員は首を傾げると、唯、黙って頷き手元に引き寄せたメモ紙に手早く、書き留めて僕に渡した。

「『美しい嵐』ですね、では一時間後に取りに来てください。代金は前払いでいただきます」





 ひとつの季節が過ぎ去ろうとしている、枯れた銀杏並木に挟まれた川を見下ろすカフェからそんなことを思いながら、角の折れた葉書をそっとジャケットの内ポケットにしまった。

 中之島へと続いて流れる川面をどこかの大学のボート部が漕いでゆく。漕いだ後に水面に波紋が広がってゆくが、それは川岸の両側に扇状に広がり、やがて浮かぶ落ち葉を川岸の岸壁へ押しやった。波にさらわれるように揺れ動く落ち葉達、それはまるで来たる冬の住処をそこだと宣言された人のように、無言でそれを受け入れて沈黙して佇む人の姿の様に見えた。しかし暫くすると、また別の乗り手が現れて漕ぐ小さなボートがその波紋を消してゆく。その波紋に揺られるようにまたどこかへとさらわれる落ち葉達。来たる冬を過ごす人々はどこまでも波にさらわれて生きねばならないようだ。

 あの日、出来上がったばかりの『美しい嵐』を手にして僕はそのまま郵便局へと向かった。夜の郵便局員の手に渡した僕の小説。それは遠からず彼女の手元に届くだろう。

 それが、僕の古城氏への回答だった。

 夏を通じて交わされた言葉を綴った小説、それは過ぎ去りし過去の季節の影から伸びてきた手。過ぎ去った季節へと連れ戻そうとする影の世界の住人の手かもしれない。

 小説を手にした彼女が何を思うか。

 僕はそれを思うと瞼を伏せた。伏せると夏の夜に見た夢を思い出した。あの流れゆく星雲の彼方へ消えゆこうとする柔らかい温もりの星、それを飲み込もうとする黒い奈落のような闇。

 そう、秋は夏を飲み込んで確実に冬へ歩き出す、それは川面を揺らめいて岸壁の隅に追いやられて生きる落葉達のように無言で、ただ沈黙して。



 冬に生きる僕、

 それは押し寄せる波にさらされるだけの存在なのだ。





( 沈黙の冬 )


 雪が降る。それはごく当然の自然の摂理で在り、人間はそれを拒むことは出来ない。できることといえば唯、降り積もる雪を見つめることだけだろう。その季節にもし来訪者が来るとすればそれはいかなる使者だろうか。あなたに春の訪れを持ち込むべき使者であろうか、それとも未だ知らぬ冬の恐るべき冷たさの中に眠る獣たちの夢の使者であろうか。

 僕は冬の世界に来訪者を得た。

 それは決して自分が招いた客ではない、しかしながらその人物は冬の使者にはふさわしい資格と風格を漂わせていた。僕にとっての冬の使者・・それは僕を川面の波にさらさせる存在以外に何者がふさわしいと言えるだろう。

 僕はその日いつも通りデッサン会を後にしようとした。すると肩を叩く音がして振り返ると背の高い人物が居た。その人物は細面の顎に薄い髭を漂わせ、真っ直ぐに僕を見つめていた。小さな微笑を浮かべると、ゆっくりとしかし断定的に言った。

「失礼ですが・・あなたは瀬田さんですか・・?」

 よく見れば歳はあまり僕と変わらないように見えた。彼の目の奥に自分が映る姿が見え、それが好意的なものであるのを感じると、僕は小さく頷いた。

「そうです、瀬田ですが・・あなたは?」

 彼は僕の言葉に満足するように頷くと少し目を伏せて、一冊の本を出した。僕は本を手に取ると再び男の顔を見た。

「この本、私も読ませていただきました。不躾ですが・・大変良くできた良い小説だと思います」

 冬の使者は沈黙で僕を見ている。波が枯れ葉をさらってゆくその光景が僕の脳裏に浮かんだ。

「それで・・あなたは?」

 彼から受け取った本、それは僕が彼女へ送った紛れもない小説であることは分かっていた・・それを汗ばむ手で握りながら、男を見る。

 その様子を遠くから目を細めて古城氏が見ているのが僕には分かった。彼が顎髭を手で触ると真っ直ぐ微笑して、僕に言った。

「私は・・小磯と言います。小磯淳・・小説家をしています」

 僕はその名前を聞いてああと頷いて驚きを浮かべた。

 彼は若くして優れた小説家として世間で良く知られている。彼の小説を数冊は読んだことがあるが、愛とは何かを見つめ、深い洞察力で作品を書いており、発行された数冊は既に著名な賞を得ている。素晴らしい小説家であり、小説を書き始めたばかりの僕から見れば頂きの上に掛かる雲の遥か彼方に輝くべき星のような存在だった。

 心から驚いた、というのが正直な感想だった。文化人として著名な人物が名も知れぬ市井の一人ともいえる自分自身を訪ねてきたと言うこと・・・

 いや、そうではない・・僕の本当の驚きはこの世界に一冊しかない小説を彼が持っているという事実。それは確かに彼女へ送られたものであるからだ。

 それを彼が持っている。

 何がどうなればこの方程式を解けるのだろう。彼女と僕と彼。

 何か繋がりが無ければと思った。その繋がりとは・・、僕はその答えをあえて聞かず、唯沈黙した。その沈黙に意味を察した彼は僕に静かに言った。

「これを・・ナオコ・・いえ、ナオから預かったのです・・この前彼女の実家に婚約の挨拶に伺った際に・・」

 彼の僕に向けた好意的な微笑が、沈黙を破ることは無かった。僕は沈黙の中に耐えられない重さを感じたが、しかしそれに耐えることが今の自分の義務であると認識した。




 風に吹かれ舞い散る雪が錆びついた格子越しに見えた。空は低い鉛色の雲で覆われ、その下を鳥が飛ぶのが見える。でもそれは本当に鳥だっただろうか?僕は空を過ぎた黒い影に目を遣っただけに過ぎない。もしかしたらそれは鳥ではなく、自分が愛した過去の断片だったかもしれない。

 街の喧騒から離れたカフェで、僕達は小説『美しい嵐』を互いの間に置いて、何かから距離を測る様な面持ちで静かに格子窓から鉛色の空を見ていた。何かとは何だろう、僕は自問する。それは彼女だろうか、それともこれから起こるかもしれない予期せぬ未来に対してだろうか。僕は噛みしめる珈琲の苦みに、何故か苦笑した。

「どうされました・・?」

 彼が僕に言った。

「先程、僕が言ったこと・・あまりお気に召しませんでしたか?」

 彼は憂いの眼差しで僕を見つめた。憂いあるその眼差しの奥に何が去来しているのか、僕はそれを思った。去来するもの・・そう、彼の眼差しの奥に何を推し量ればいいのだろう、それは同じ人物に恋した者への優しさ、叶わなかった恋の敗者への思いやり、如何や恋の勝利者としての持ち得るべき最良の善であろうか。

「違います」

 僕は首を振った。彼の頬に喜色が浮かんだ。

「それでは、N社の新人公募に出していただけるのですね」

 憂いある瞳が僕を捉えた。

「きっと、ナオも喜ぶことでしょう。あなたの才能の事をどれ程、高く評価していたことか。勿論この小説は僕が読んでも素晴らしい内容でした。審査員を務めさせていただくN社の新人公募で是非とも賞を獲らせていただけるよう、他の審査員にも働きかけます。何、僕が言えば彼等なんて簡単だから・・」

「いえ、小磯さん・・違います」

「違う?」

 憂いの中に戸惑いが見えた。

「そうです、先程の話・・彼女、いえ桐島さんと小磯さんの好意は十分すぎるほど良くわかりました。しかしながら・・その話は無かったことにして下さい」

「瀬田さん・・」

 敗者が何を望むというのか、勝利の頂に住まう者に対して。

 僕は言った。

「それはあまりにも都合がよすぎませんか。あなた方お二人にとって、非常に都合のいい結末だと僕は思うのです」

 彼は押し黙って僕を見た。少し瞼を閉じて言った。

「都合の良い・・結末ですか・・・?」

「ええ」

 格子窓を風が叩く音がした。雪が舞い上がり、彼の頬を叩いたように見えた。

「彼女も小磯さんも・・僕を憂いていらっしゃるようだ?違いますか?」

 彼は叩かれた頬の冷たさを確かめる様にそっと指で撫でた。

「憂いなんて・・そんなことはありません・・もし私の態度が悪かったのであれば・・瀬田さん、謝ります。ナオの事が無くても・・この小説は実に素晴らしい、それは間違いがない。もし僕が審査委員で何も知らずこの小説を読めばどれ程素晴らしいと感動することか。そう思えばこそ、瀬田さんの才能をこのまま埋もれさせるのは残念なことだと思い、ナオと二人で決めてこちらに伺ったのです」

「隠されなくても、結構です。小磯さん」

 彼の言葉が終わらないうちに僕は切り出すように言って、続けた。

「これ以上、憂いの真実を隠されても困ります」

「瀬田さん・・」

 僕は僕達の二人の間に置かれた小説に目を遣った。過ぎ去った季節の柔らかい夏の日差しと流星群。僕は、微笑してそっと小説に手を置いた。

「お二人が僕にご用意した結末は・・」

 僕はそこで言葉を噤んだ。何かが胸に去来した。それは嫉妬・・、いや分からぬまま僕は辛辣な言葉を言った。それはこのように・・

「それは愛を勝ち得た者達のエゴに過ぎないのでは?それで幾分かあなた方は心の溜飲が下がるかもしれませんが・・・」

(愛・・・?)

 自然とこの言葉が出たことに僕は驚いた。

(愛と僕は言った・・確かに)

 わだかまりがあるのか?

 それは自分に対して?それとも彼女に対して?

(しかしそれは何故・・?) 

 彼が僕を見つめた。僕は顔を上げて彼を見る。僕は続けた。

「今の僕は・・そう例えるなら冬の水面に漂い、風に吹かれて岸壁の隅に追いやられた枯れ葉、まさにそんな冬の住人です。しかしやがて季節が廻れば、僕も新しい季節の風が吹き、その波に生きることができるでしょう。小磯さん、もし僕にあなたがおっしゃられた才能があるのであれば、僕は・・・それで今は見えない頂上を目指しましょう。そこで・・再びあなた方に向き直り、手を繋ぎましょう」

「瀬田さん・・」

 彼が言った。

「僕はあなたに・・最大の好意を持っています。ナオの事が有ろうと無かろうと・・そう文学的才能もさることながらあなたが持ち得る美に対して。これは敬意です・・あなたはそれを・・同じ文学を芸術として志す者として社会へ提供する義務があると・・違いますか?このままあなたは世間に埋もれてはいけないのです」

 彼の言葉が熱を帯びる。

「あなたはナオに好意を持っている、いやもしかしたらそれ以上の・・感情が・・あったのでは?違いますか?」

 僕は彼の言葉に顔を上げた。

 好意・・それは間違いないだろう。否定はしない。しかしそれが次の次元へと昇華していたかどうか。それはもしかすれば愛だったのだろうか?恋の螺旋階段の最上にあるものは愛であるといえるかもしれないが、果たして僕にとっての彼女への感情がそうであったかどうか。彼女と過ごした日々のなかで吐かれた言葉が蘇る。何を話したか、その時の息遣いまではっきりと・・分かる。そう、僕は先刻彼に言った。それは愛を勝ち得たもの達のエゴに過ぎないと。何故そうしたことを言ったのか。

 わからない・・

 彼女の愛を得なかったことに対する嫉妬が僕を急かしたのか、それとも遥か彼方の誰かが自分にそう言わせたのか。

 僕は首を振った。

「瀬田さん・・」

 彼は呟いてからやがて意思を固めて小さく「残念です」と言った。

 声ははっきりと僕には聞こえなかった。いや、聞こえていたかもしれない、しかし心が聞こうとしなかったのかもしれない。

 僕は鉛色の空を見上げた。そこから一筋の差し込む陽ざしが見える。その陽だまりに誰かが見えた。

 小説『美しい嵐』、

 それは・・

 彼女と僕の間に吹き荒れた夏の嵐、いや恋の嵐だったのかもしれない。

 僕は陽だまりの誰かに別れの挨拶をした。

 冬の何も言わぬ沈黙こそがこの結末に相応しいことを信じて。



 彼は僕の前を去った。冬の来訪者に相応しく重々しく深い沈黙の表情を漂わせ、白く舞い散る雪の中、こちらを振り返ることなく彼は去った。この使者を誰が遣わせたのか、そう思うと僕の心の縁に暖炉へ手をかざした時のような温もりが伝わったが、それも冬の使者が視界から消えると、何処かへとその熱も消えていった。

 佇む僕の髪に空から舞い落ちる雪の一片が、ひらりと落ちた。

 またひとつ、ひらりと。

 泣き出しそうな空だと思うのは自分の勝手に違いない。なぜなら泣き出したいのは自分自身だからだ。

 きっと僕は誇りある死を選んだのだ。彼女とはもう会うこともあるまい。僕の手に残された小説は、自分の喉を突き刺した短剣、そう思えば僕は全てに納得できた。

 彼女は僕に誇りある死を与える為に、最高の使者を遣わしたのかもしれない、そう思うと幾分か心を慰めることができた。それは僕の名誉を守るために、いや彼女自身の名誉なのかもしれない。

 それは「美」の始まりと最後を見届けてそれを永遠に自分達の誇りある名誉として守るために・・「死」という結末を与えた。

 そこまで思うと空から少し陽が差した。差し込む光の先に、地下鉄の階段が見えた。 

 帰れという、誰かの意志なのだと僕は思った。



 時間は自分と言う軸を中心にしか回らない、それならば僕と彼女、古城氏や訪れた小磯氏、其々は何を中心軸として回っているのだろう。

 人生と言う包括的な、捉えようもない時間の概念で穏やかな人生を送る人々、情熱を持って生きる人々。それぞれによってその中心軸は違うだろう。それは人生のそれぞれの節目で変わることもあれば、否応なしに運命的にそれを受け入れて変わる人もいるかもしれない。

 彼女と小磯氏の時間軸は愛の時間軸に生きている。それは穏やかな流れで進んで行きやがて人生の彼岸へとたどり着くはずだ。僕はそれを心から願っている。

 では果たして、僕はどうなのだろう、今は何とも言えない捉えがたい孤独と言うものが時間軸の中心にあるようだ。しかしこの孤独の下に、その孤独を焚きつける炎があるのを感じないではいられない。それが風を呼んでいる、間違いなく呼び込まれた風によって僕の時間軸の時計の針は進んでいるのを感じた。針を進めるその炎はまるで暗闇の野に見える消えかかろうとする野火ではない、まだこれから燃え上がり、暗闇を明るく焦がそうとする炎なのだ。

 炎に呼びこまれた風、その風のひとつひとつの流れが僕の心と手を動かしている。書かれていく言葉の一つ一つに炎が燃え上がり風を呼び込み、やがて風は強く吹いて、ついに嵐になった。

 僕の時間は嵐の中を進んでいる。誰からも問いかけられない孤独な静寂とは程遠い嵐の中を、僕の時間を刻む秒針が進んで行く。

 嵐はびょうびょうと音を立てて僕の側を吹き荒れている。

 しかし僕の精神をどこかへ持っていこうとする意志は感じなかった。嵐の中で僕は自然、超越的な存在で居られた。外の世界は嵐のせいで全く何も見えず聞こえず、何の干渉も受けない。

 不思議だ、

 嵐は吹き荒れている、確かに吹き荒れているが、それは僕を守ろうとしているのではないだろうか?

 僕はいつしかそう思うようになった。嵐は僕の大切な何かを守ろうとして、自ら壁になっているように感じた。僕の大切なもの?それは何なのか?





 不思議だった。僕は自分の才能を信じた訳ではない。この前ふと立ち寄った印刷会社が、僕の原稿を読んだのだ。それで僕に『美しい嵐』以外の作品を書いて欲しいと頼まれ、僕は書き、数冊を出版した。その書いた作品が世間一般に知れ渡ることになり、幸運を得た僕は世間の人々に名前が知られるようになった。それだけでなくこの印刷所が僕の小説を出版したことから事業を印刷経営から出版事業へと変え、中規模とはいえ名の知れ渡る出版社になった。僕はこの出版社を通じて社会へ多くの作品を送り出し、世間の評価を得ることになった。

 僕は頂を目指して書き続けた。多くの作品が嵐の中で生まれ、世に出て行った。どの作品にも孤独を焚きつける炎が焦げる匂いが漂っていたかもしれない。孤高で完璧な磨かれた何かがあるのだと世間は評価した。後年、それが僕の世間の印象となる。やがて僕は小磯氏の誘いがなくとも幾つかの賞を獲り、小磯氏と対をなすような存在となった。

 しかしそんなことは僕には意味はなかった。僕はいつまでも嵐の中で作品を書き続けることだけを願っていたからだ。それは何故か?首を振らなければならない。その時の僕にはまだ分からなかった。その答えを知るにはまだ幾分かの時間が必要だった。ではその時間はいつ来るのか。

 時計が音を鳴らす・・それは時を告げる音に間違いはない。そう、誰にもその時は来る。ミレーの描いた絵画『晩鐘』、その絵画に描かれている時の静謐さの中で祈りをささげる人の眼差しに浮かぶ沈黙に寄り沿う影を見れば、その中で時が告げる許しがたい罪を知るのではないか?

 時が告げる時、

 そう、僕は小磯氏の死を聞いた時、自分の時間を進む秒針が止まる音と鳴り響く晩鐘を聞いたのだ。

 確かにそれははっきりと耳に響いた。


 夏の暑い日。


 その時

 僕は「僕」でなくなり、「私」になった。






( 美しく眠る人々達 )


 暑い陽ざしを避けようとふと立ち寄った馴染みのカフェで私は新聞を開いた。いつもは開かない新聞を開いたことは後から思えば虫の知らせだったのかと思う。しかしそんなことを感じさせない程、私の行動は自然だった。

 小さく文化記事欄に目を遣るとそこには小磯氏の死を告げる記事が書かれていた。

 彼がここ数年体調を悪くしており、良くはないことを噂で聞いていた。だから記事を読みながらそれ程の驚きを感じなかったが、ただどこか遥か遠くの田園に響く鐘の音を聴いたような気がした。それがミレーの描いた『晩鐘』の中で心に鳴り響く、静寂の木霊で在ったのか。

 新聞に書かれた彼の名は私の感情に人間の生命の終という自然の摂理の抗えない宿命と一連の哀情を感じさせただけに過ぎない。では、それが私の何に共鳴して響いたのだろうか。

 私はもう一度、新聞に目を落とした。その時だった。私は目を見開いて大きく驚いた。

 深い静寂の中で何かが動いた音を聞いて驚き振り返る人のように、私は過ぎ去った時間の中で何かが動いた音を聞いて振り返り驚いたのだ。


 “喪主 小磯(旧姓:小栗)玲子”


 私は見開いた目でもう一度、その名を見た。この名前は、自然の摂理に反した人物だったからである。音が一切聞こえない世界で、私は自分の意識が何かを知りたくて沈黙に問いかけるのを感じた。それは正解という答えか、それともどこかで起きた間違いを知らずに生きた自分を責める歎きか。

(彼女・・ではない・・?)

 私は正直、あの冬の一瞥以後、小磯氏の身辺のことは知らなかった。いや、知ろうと思うこともなかった、それは道理であろう、もし誰かが私の人生をのぞき見することができたとしたらどうだろう知りたいと思うだろうか?恋の勝利者の笑顔の向こうを?その問いに対する答えは?

 答えは“否”知ろうとは思わないはずだ。幸せの峠を歩く人の姿を孤独な頂を目指す者が振り返るか?私には嵐が吹き荒れ、その中で何者かと対峙している。外の世界で起きる神羅万象、全ての事から隔離されるように私は自分だけの何かを得て、作品を作り出して生きてきた。

 もし振り返ることができるのならすべてが晴れて空が澄み渡り、その時自分が頂に居れば多くの空に隆起する頂の一つ一つを、心の平穏と共に見ることができるだろう。

 新聞から目を話すと私はカフェの窓から見える街の通りに目を遣った。

(では私は今、頂に立ったのか?)

 新聞を無意識に閉じて、息を吐いた。

 もう一度、喪主の人物の名を心の中で繰り返した。

 驚きは常に波のように人の心を襲うものだろうか、私はおもむろに立ち上がり、拳を小さく握り、声にもならない叫びをあげた。

 その姿に驚いて、店の誰かが声をかけた。

「大丈夫ですか・・瀬田さん??」

 私は小さく大丈夫だと言ったと思う。それ程の驚きだった。

 ああ、彼女の名前・・小栗玲子、そう彼女は私が若かったころ、絵を描いてその絵を欲しがったモデルその人物だったからだ。




 私は葬儀には行かず、後日知人を通じて彼女に連絡を取ってもらい、私邸へと伺った。

 夏のその日、私邸の小さな門を潜ると突然小雨が降り出した。傘もささず私は小雨がズボンの裾を濡らすままにして、濡れた靴先を見ながらドアが開くのを待った。

 コンクリートの打ちっぱなしの壁に無造作に取り付けられた木の扉がゆっくり開くと内から白髪をきちんと後ろに結って整えた夫人が顔を覗かせた。私とさほど歳の離れていないはずだが、夫を失くした焦燥が深く顔に溢れていた。

「失礼します。私、瀬田と言います。小磯さんが亡くなられたと聞き、本日弔問に伺わせていただきました・・」

 そこまで言うと夫人は私の顔を見て、薄く微笑した。面影に昔の姿が浮かぶ。

「瀬田さんですね・・主人からは良くあなたの事は伺っていました。不思議なご縁ですね。勿論、私も・・あなたの事は良く知っているのですから」

 私は、小さく顎を引いた。

「さぁ、ここでは何ですから・・もしよければ中にお入り下さい」

 私はその言葉に引かれるように中へと入った。靴を脱ぐと、居室へと夫人の後を追うように歩いて行った。

「さぁ、どうぞ・・」

 そう言われて入った部屋の中に小さな仏壇があった。中を覗くとそれは仏式ではなく、西洋式の祭壇のようだった。

「不思議でしょう?主人が亡くなる前、知人の彫刻家に自分の祭壇をお願いして作っていただいたのです。外からは仏式に見えるけど、中は自分の信仰である基督教なんです。なんでも生前取材に行った天草、五島で見た隠れキリシタンの礼拝堂を見て、自分もこのような存在であるからもし御霊を祭ってくれるなら、このような形が良いと・・」

(このような存在・・とは?)

 私は小磯氏の宗旨については勿論知らない。しかしながら夫人が少し重くなった口調で話した“自分もこのような存在”というところに故人の生きた影を感じないではいられなかった。

 私は手を合わせ、一通りの祭祀をして弔問の言葉を夫人に述べた。

 小さく夫人は頷き、目頭を熱くして祭壇へ言葉をかけた。

「あなた・・瀬田さんがお見えになられました。これであなたの長年の苦しみが・・救われるのでは?・・きっと神の恩寵なのかもしれませんね」

(長年の苦しみ・・?)

 私は夫人の横顔を見た。

(彼は・・幸せの頂ではなかったのか・・?)

 私は疑問を持ちながら、目を細めた。夫人はじっと何かを見ているようだった。

(何を見ているのだろう・・)

 私は夫人が見つめる先へと視線を移した。それは板に何かを掘ったものだった。

 目を凝らせばそれが誰かの横顔を掘ったものだと分かった。しかしそれが誰の横顔を掘ったものか、私は分からなかった。しかし、何処かで見たような・・そう思った時、夫人に声をかけられた。

「瀬田さん、もしよければ主人の書斎へいかがですか?そこで少しお話を・・きっと瀬田さんがお知りになりたいことをお話しできると思います」



 瀬戸内だろうか。穏やかな波間を飛ぶ白い鳥の羽の向こうに小さな島が見える。風が吹いているのか、その風に乗って汽笛が聞こえたような気がした。私はきっとそのとき島を出て行く汽船を見送る人だった。その先には一人の男性の姿が見えた。涙に染まっているのか、私が見てるその瞳は霞んで良く見えなかった。しかしその霞む先に見えた人物の姿が男性の姿であることは目を細めれば分かった。

 船は遠く灯台の見える入り江を過ぎ去ってゆく。私は手をいつまでもいつまでも振っている。

 そう、振っている。

 女性の姿になって。

(今の私は誰なのか?)私が自分の意識に問いかけると長い髪が風に吹かれて流れていった。

「主人はいつまでも手を振っている彼女の姿を忘れることができないと言っていました」

 私はそこでゆっくりと夫人を見た。涙で霞んだ視線は、やがてはっきりと夫人を捉えた。

 小磯氏の書斎は机と幾ばくかの書棚があるだけで、後は天井近くに備え付けれた天窓から陽が差し込む余計な装飾など無い、とても質素な部屋だった。

 四面をコンクリートむき出しの打ち付けの壁に囲まれ、天井から差し込む光だけの薄暗い部屋、まるでナポレオンが幽閉されていた牢獄のような世界のようだった。囲まれた壁は外の世界と小磯氏を断絶させる高い壁なのか、天井に備えられた僅かな天上窓だけが、彼の魂が唯一作品を生み出すためのその辛苦から逃れる場所の様に外の世界を繋いでいるのではないかと私は思った。

(ある意味、彼も同じだ。私は嵐の存在が自分と外の世界を断絶させていた。しかし・・私の嵐の壁は・・それはこのような現実の物質ではなく、精神が創り出したもので幾ばくかの精神的な安らぎを自分の中に抱かせた。しかしこの壁は・・・・現実の世界に屹立して彼の精神と肉体を無理に閉じ込めているように感じる。それはまるで敬虔な基督教の修道僧が神との対話をするための厳しい修行場のよう・・)

 そこまで思った時、夫人が盆の上にコーヒーを運んできた。私はそれを受け取ると、薄く瞼を閉じて、カップに映る自分の顔を見た。酷く寂しい悲しそうな顔をしていた。

 夫人がそんな私を見て静かに言った。

「主人も時折そのように酷く寂しそうに悲しい表情をしていました」

 私は、夫人を見た。

 夫人は高い窓から見える空を見ていた。その姿を見て私はフェルメールの絵画を見ている気がした。

 薄暗い室内に差し込む光の先で営まわれる人間の姿の絵画、私はそれを見ている。

 今、はっきりと私は聞きたくなった。

 自分がどこで間違えを起こしたのかを。

 そうでなければ、私は幸せの頂に居た小磯氏の魂と幸福を失った彼女にここで会って居なければならなかった筈だ。

 それが彼女ではなく、別の女性が夫人として私の目の前に居て、牢獄と空を繋ぐ天窓を見ている。

 空を小さな影が横切った。その影が夫人の瞳に落ちた時、口がゆっくりと開いた。

「三十年前、主人は確かに・・瀬田さん、あなたがよくご存じのあの人と婚約していたのです。しかし・・その時、二人の間に予想もできないことが・・起きたのです。それは許されぬ道・・」

 私は反芻した。

「許されぬ・・道・・?」

 影が私の足元に伸びて、それが私の瞳を暗くした。





 間違いというのはどこで起きるのだろう。例えば目的地へ向かう人が間違いを犯すとしたら、それは単に目的地へ行くための最短距離を間違えたことを知った時だろうか、それとも知らない道を手探りで歩きながら結局その方向を間違えたと気づいた時にそう思うのだろうか。

 間違いが起きた時、人はどうしても狼狽し、心のどこかで怒りを感じる。それは自分の期待や希望が予想もしない何者かの力によって違う方向へ導かれたことを許せないからかもしれない。

 では、私はどうなのだろう。

「主人は見送られる船の中で何ともいえない・・怒りを感じて震えたと言いました。それと何と言う人生の奇妙な運命に・・」

 私はそう語る夫人の睫毛が震えているのが見えた。震える睫毛は小磯氏の怒りなのか、それとも愛した故人の封印されるべき過去を話さなければならない自分に対する軽蔑と怒りなのか・・。

 天窓に掛かる雲が切れて、一筋の陽が差し込んできた。それが私と夫人の間に落ちてきて天へ伸びる小さな階段を造った。天へ伸びる階段手を伸ばせが誰もが行けるようなそんな心の距離感が私と夫人を近づけたような気がした。

「御夫人、それで小磯さんは・・そのことを何と?」

 小さく頷く夫人が言う。

「瀬田さん、主人の恋人・・いえ、婚約者だった彼女の事はご存知でしょう」

「・・・はい」

 私は既に遠い時間に消えた彼女の面影を探した。その面影は遥か宇宙の彼方へ流星群に包まれ、初夏の日差しのなかに潜む檸檬色の粒子として消えている。それを私は夫人との対話の中で探さなければならなかった。

「主人とその方は、確かに婚約をされたのです。しかしそれは恋人同士のよくある、ある意味・・曖昧な期限付きの約束です。それは何かの事が起きれば、消え去るそんな儚い恋人同士の約束・・」

(何かの事が起きれば・・?)

 私は夫人のその言葉が心に響くのを感じた。

 響きは私の心の壁を共鳴する。その音が書斎の壁に響いて自分の肉体へ戻って来た時、夫人が言った。

「実は・・」

 そう言って一瞬躊躇した表情をしたが、軽く首を振った。何か禁忌の言葉でも吐こうとするのか、私は夫人の魂の葛藤が終わるのを待った。

 すべては僅かの時間しか要しなかった。しかしながら私はその僅かがすごく長い時間に感じた。 

「実は・・二人は兄妹だったのです・・それも血を分けた実の兄妹・・」

 私はそれを聞いた時、驚きが全身を一瞬にして巡り、激しく狼狽した。耳の奥にとても重い沈黙の響きが伝わり、魂が震えた。

 初夏の檸檬色の色彩、それは何を彩るための色彩なのか。自分の間違いを優しく撫でるための慰めではなかったのか。そう自問したくなった。いや私においてもこれ程の狼狽であるのなら、あの初夏の檸檬色の陽光の中で愛を誓い合った二人には幾ばくの衝撃と絶望であっただろうか?

 いけない、私は一体どこに行こうとして、何を間違えたのだろう?誰か教えてもらえないだろうか?神よ!

 そこまで心が叫んだとき、夫人が沈黙を割って私に向き直り言った。

「神はこの世に居ないのかと主人は思ったそうです」

 苦悶の表情を浮かべる夫人の目はそれでもとても冷静だった。それはまるでそのことから逃れることを避けようとしなった、いや、それを受け止めて生きた人への哀悼の意の為か。

「・・では・・・そのことをいつどこで知ったのか?」

 私は夫人を見つめた。

「実は・・彼女、そう彼女の所に一通の手紙が来たのです」

「手紙・・?」

 私の言葉に夫人が頷く。

「差出人不明の一通の手紙・・・それには何処で入手したのか・・二人の戸籍の写しがあって、そこに確かに・・二人が兄妹である事実が書かれていました」

 夫人はポケットから折りたたまれた紙片を取り出し、私に渡した。私はそれを受け取ると丁寧に広げて目を通した。

「・・これは戸籍の写し・・」

 夫人は話を続けた。

「二人は知ったのです。両親は自分達の幼いときに離婚をして、それぞれ自分達を引き取り、互いにその存在を知ることなく別々の場所で育ったということを。それが時をめぐり、やがて川面に流れ落ちた木の葉が隅へ追いやられて一つの場所に寄り沿うように、二人は運命的に流れ着いて・・・重なり合ったのです」

 最後の部分で夫人の言葉が少し熱を帯びた様に呟いた。それはまるで熱帯の夜の思い出の息吹・・いやもうすでに滅んだ国の異国の言葉で囁かれる秘密の愛の言葉・・まるでそんな呟きだった。

(私は・・どこで間違いを犯したのだろう)

 心の中の呟きが、天窓へ伸びる光の階段を掴んだ。

 怒りはわかなかった。手にした紙片を握りしめて眉間に皺を寄せた。それがせめてもの小磯氏への哀悼の意だった。





「私が主人と出会ったのは・・彼がそんな苦しみの淵に立っていた時です。私達もまた運命的に川面を流れる落ち葉の様に、隅へ追いやられる自然な形で出会ったのです。彼は何故か・・ふと瀬田さんと会った肥後橋の小さなデッサン会場へ行きたくなったそうです。その理由を後になっても彼は思い出せず・・とうとう今では結局、分からずじまいになりましたが・・。偶然にもそこで仕事を終えた私が・・覚えていらっしゃいますか・・あの小さなデッサン会場へ入るための小さな階段を?・・」

「ええ」

 私は頷く。それに対して夫人が小さな微笑を浮かべた。

「そう、その階段を降りたところに主人がじっと階段を見つめて立っていました。・・その時、あまりにもひどく・・寂しそうな表情をしていたので私思わず・・傘を広げて声をかけたのです」

「傘を・・?」

「はい・・・不思議なのですが、階段を降り始めた時・・激しい雨が降り出したのです。それで彼の肩が・・雨に濡れているものですから・・『どうぞ、よければ傘の中に入りませんか』と声をかけたのです・・、それは今でも忘れません。雨空には似合わない・・青いセルリアンブルーの傘でした。私達は不思議な運命に導かれるように・・こうしてこの時までの時間を互いに見つめ合いながら・・・生きて来たのです・・」

 夫人の湿った声が私の耳に響いて、私は過ぎ去った時間を吹き抜ける風が湿り気を帯びて雨を含んでいるのを感じた。それは私自身の経験にも照らし合わせれば対をなすものであった。私も彼女とはそうして出会ったのだ。傘の中に招き入れられるように歩み出した二人の男性と、それを招き入れた美しき木影。

 そう思えば私と小磯氏も時間軸は異なるのが、それはまるで時間軸を境にして生まれた双生児のように、あの場所で同じ体験をして対をなした時間軸でそれぞれの頂を登って行ったのだ。

 私は下を向いて鼻を指で擦った。鼻孔の奥に熱くそれでいて甘酸っぱい苦みを感じたからだ。

 私は去るべき時を来たのを感じた。

 これ以上、私がここで受け取るものは何も無かった。

「御夫人・・いえ・・玲子さん。私は去るべき時が来たようです」

 静かに頭を下げた。

 夫人と小磯氏の魂に。

 私は去ろうとして書斎のドアを開けようと夫人に背を向けた。その時、夫人が私に向かって言った。

「瀬田さん・・主人はあなたの事をいつも、いつも尊敬してると言っていました。互いを分かつものがあった人生でしたけど・・、それは・・『美』を持つ者だけが分かち得る喜びの野に生きる者にしか分からないものだと・・だから私・・・瀬田さんがここに来られた時、主人が生前では叶うことのできなかった最高の人との友情がやっと持てたのではないかと・・死は分かつものだけでなく、繋げるもののもあるのだと直感的に悟ったのです」

(死は分かつものだけでなく、繋げるもののもある・・)

 夫人の言葉が私の心に響いた。

「やっと・・・彼女を挟んで向かい合って苦しんだ主人の魂が救われたのではないか・・・」

 夫人の最後の沈黙に、私は深くうなだれて頷いた。私の心は清々しい気持ちで一杯になった。

 最後に私が小磯氏から・・(いや敢えて今は小磯君と言いたい、小磯君!!素晴らしき友よ)君から受け取ったものは、勝者が敗者へかける心からの慰めだった。

 彼は私の人生において、最後まで勝者であった。





 電車に揺られ夫人からの贈り物に手を寄せると、ぼんやりと車窓から見える初夏の田園風景を眺めた。

 小磯氏の書斎がまるで牢獄の様でもあり、また敬虔な基督教徒が神との対話をする場の様だと私が感じたことは直感めいていたことではあったが、全てを聞き終えたあとに振り返って思えば、まさに彼の書斎は小磯氏の苦悩する魂が邂逅する場にはふさわしいところだったのだと私は思った。彼はそこで限りなく美しい作品を生み出していたのだ。そう、私が嵐の中で静けさに包まれて作品を生み出したように。

 私は夫人の贈り物に手を重ねて、去り際を思い出した。

 夫人は抱えた箱の中からから小さな折りたたまれた紙片と二通の手紙を取り出して、私に渡した。

 これらは夫人にとってはこれからの人生には不要なものだと夫人は私に呟くように言った。

「彼女は・・いえ、あの人はその後どこにいるのか私達は知りません。瀬田さん、勿論私達夫婦にも傷跡を残した・・あの人・・もし、この中に何かそれを探る何かがあれば・・、主人の真なる内に潜む魂の願いをかなえていただけますか?」

 私は夫人を見た。

「つまり・・彼女を探せと・・?」

 彼女はそれには何も言わなかったが、ただ一言・・言った。

「卑怯だと思うのです」

 私は顔を上げた。 

「瀬田さん、だってそうではありませんか?自分だけが身を引き、どこかで安全な場所で何も言わずひっそりと世を送っている。主人は苦しむような魂の邂逅の中で文学を・・いえ、芸術家として誰にも言えない苦悩の中から、作品を生み出し、その人生を全うした。その出産の苦しみと言うのは如何であったか・・」

(出産の苦しみ・・)

 私は夫人の語りかえる言葉の奥に何かが響くものを感じた。

 嗚呼、確かに母なるものの中から全ては生まれる。それは人間という生命体だけではなく、この地球全体に生きる全ての種について言えることだ。全ては母なる胎内で育まれやがてこの世界に生を受けるのだ。

 しかしながら夫人は私にこう言ったのだ。

 創造することもまた、苦しみの果ての母なるものしかなし得ない出産なのだと。

 私は心が湧き上がる羊水で満たされるのを感じた。それは温かく私がこの世界に生きようと感じた時、その小さき指が始めた感じた温度だった。

(小磯氏の母なる胎内は、あのコンクリートの冷たい壁に囲まれた牢獄のような書斎こそがそうであり、私は吹き荒れる嵐の中こそが・・そうなのだろう)

 ゴトンと大きく電車が揺れた。私は夫人からの贈り物が膝から落ちないように、大事に抱え込んだ。電車がどこかの停車場に着いた。地元の女学生だろうか、制服を着た一団が私の前を笑いながら過ぎて行く。それはごく普通のことであり、人は誰も関係しない他人を知らないまま生きている当然の在り様だった。

 孤独が笑い声の端で佇んでいる。

 私はその時無性に、悲しくなった。何故か涙がこぼれてこぼれて仕方なかった。




 その年の冬、夫人はこの世を去った。まるで夏の檸檬色の影を追う鳥のように、それは厳しい冬に生きた人の誇りと静かな祈の旅立ちだった。





 私は美しい嵐の中に居続けている。外の世界からは何も聞こえない、そんな美しい時間の中で私は、未だ語り尽くされていない言葉を探していたのかもしれない。しかしそうした多忙と言うことがいかに時間の過ぎて行くことを忘れさせるのかというのを、夫人から贈り物のメモと二通の手紙を開いて読んだとき改めて知った。

 私は小磯氏の私邸を訪れてから多くの仕事をこなした。まるで小磯氏の居なくなった世界にあふれ出て来る彼自身の芸術性に富んだ言葉の潮をせき止める巨大なダムを造っている、そんな錯覚さえ覚えるような仕事を私はしていたのかもしれない。流れ落ちそうな言葉の潮を私は巨大なコンクリートで素早く覆っていく、しかしそれはいつかどこかで瓦解するかもしれない。それを例えるなら、まるで天を目指して煉瓦を重ねる旧約聖書のバベルの塔のようだった。

 神に挑戦しようとした人類の慢心を怒り、天まで届こうとした塔は神によって崩された。

 バベルの塔には終わりがある。

 ――「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。(創世記十一章 1―9節)



 私は夫人から受けとった二通の手紙とメモを見た時、自分が築くバベルの塔の遥か天井から、何かが落ちて来たのを感じた。それは自分が費やした過去と言う時間の質量に違いなく、またその質量をより深く重厚に感じさせたのは自分がこの二通の手紙を何故早く読まなかったのかという悔恨の思いだったのかもしれない。

 私も聖書の人々のように言葉を乱された。夫人より渡されたこの私への贈り物、それを読み終えた私はこのバベルの塔の伝説の様に互いの相手の言葉を理解できなかった。

 過ぎ去った時間の何というもどかしさだろう。



 二通の手紙、

 私はまず彼女から小磯氏に宛てた手紙を読んだ。



『小磯さん・・今はそうお呼びすべきかと思います。互いに出生の秘密を知り得た間柄であればこの手紙が誰かの目に触れることが無いことこそ、私の願いです。

 メールをすればいいのにと小磯さんは思うかもしれませんが、私は自分の思いを伝えるのにあの無機質なデジタルが選ぶ言葉では・・私達のお別れをとても寂しいものにするのではないかと思い、手紙をしたためたのです。

 小磯さん、あなたからの私への親愛なる思いは、これから長い時間を経て深い友情へと変わるのか、それはもはや私達では制御できるようなことではなく、全ては神のみが知る事であろうかと思うのです。

 互いの出生について私達のもとに送られて来たあの差出人不明の手紙・・・、その送り主とは誰か?それが私と小磯さんと愁眉の課題で大事なことではありましたが・・その方は実は意外なところに居たのです。灯台下暗しとはまさにその事でした。手紙に同封した小さな紙切れにその氏名を書き示しておきました。それを小磯さん、あなたがどうされるか、それはもう私の知るところではありません。ご存念にお任せする次第です。

 私の気がかりは、小磯さん、あなたご自身がこのことで大きく気落ちして失望の為にご自分のお仕事ができなくなることです。

 私は良く知っています。あなたは弱い人物です。私達の前に現れた瀬田さんに比べれば。瀬田さんの事を初めて私があなたに話した時、すごく狼狽したのを覚えています。それは私の愛を失うことに対する恐怖か・・それとも彼の作品を読んでその才能に驚いたことなのか。それを今となって私はあなたには問いただしません。

 彼は・・そうですね、あなたとは違い、愛というものには媚びず、決して馴れない人物でしょう。それは彼の小説を読んだとき分かったのです。彼は自分の内面に深く存在する美で物事を観察し、それに・・自分に何者かを問いただす。まるで厳しい律に修行する孤独な仏陀のよう。彼の天性は常にその状態になければ花開くことなく・・そうならなければならない人物です。ですから大変瀬田さんには申し訳ないことでしたが・・彼の私への思いを突然踏みにじることで彼自身の内面は大きく傷を負い、それがより一層猛禽類のような孤独な気高さを彼に与えた筈です・・。それこそが私が彼の美を深く尊敬した証であり、その孤独こそが彼を成長させあなたには負けないような芸術家にならしめることだと信じたのです。それはきっと・・・幾年か過ぎた頃に分かると思います。彼は才能ある人物です。今は野辺の草花としてまだ見えぬ存在かもしれませんが、いつかあなたすら驚くほどの花を咲かせるでしょう。彼には孤独が必要なのです。何にもとらわれない世界でしか育てられない静寂の孤独こそが彼の全て美の源泉なのです。嵐に吹かれて眠る孤独な鷹こそ、彼の姿なのです。

 もう一度いいます、あなたは弱い人です。だからこそ愛という力を得て祝福のファンファーレが鳴り響くその道の中で豊かな才能を育て上げるしかありません。それを失った今、私はそれを切に心配しています。

 あなたは私に言いましたね、「瀬田君を僕より愛しているのかと?」

 それは愚問です。私はあなたを愛している。それ以外にありません。但しそれを私達が生きるこの現実世界では・・・叶えることができなかった。唯、それだけのこと。

 瀬田さんは私の尊敬すべき気高き存在、それは信仰する神と言っても良いのかもしれません。私の愛を得なくても彼は強いのです。

 夫への愛と神への愛、それがどのように違って優れているのか。そのふたつを比べることを女性に問いただすことが、どれほどの愚問であるか・・・わかるでしょうか?


 最後に小磯さん、あなたの祝福をこれから先もずっと心に念じております。互いに道が開ける時、もう一度、握手ができることを私は願っています。

 瀬田さんにも会うことはもうありません。彼の・・恋(エロス)が尽きない限り・・、恐らくそれは無いことでしょうから。

 私はこれからあなた方の遠きにあって、近きに寄り沿う影となって生きていきます。


 さようなら、私の希望の人達。“



 私は次に

 小磯氏から彼女への返書に目を通した。




 “ナオ、君へすまないことをした。最後に謝りたい。僕は・・君から貰ったメモにある人物を訪ねた。彼は僕の前に膝まずいて深く謝罪した。僕は何とも言えない深い憤りの怒りを覚えた、しかし彼もまた君に恋した一人であるのであれば、それは瀬田君と同じ立場であると言える。何ということなのだろう、この人物は君の事を早くに知っており、もっとも近くに居たのだ。そう、ナオ、君をよく見ていたのだから。

 君に恋したこの人物と僕、瀬田君。その誰もが君の愛を得られなかったことはまるで喜劇のピエロのようだ。この話はシェイクスピアにも書けないもっともあまりにも出来が良い悲劇だろう。そう三人は互いにそれぞれの武器で心臓を突き刺したのだから。

 彼は謝罪した。それは君への思いから来たものであると、それは美しいものを奪われたくないという思いからなのだと・・しかしそれは邪心であると察すべきであるのか、未だ苦しんでいる。

 彼は既に老いているではないか?それなのに、なぜこれからの僕達にその秘密を隠しておいてはくれなかったのだろう。もしその事さえなければ僕はきっと天にも近いところでナオ、君の愛を受けて人生を全うできた。そうすれば君の尊敬すべき人物瀬田君にも打つ勝つことができたのかもしれない。僕は君の手紙にあったように弱い存在だ。君が瀬田君を例の公募展で推挙する様に言ったが、何故、わざわざ星空の輝きを手にできる人物を同じ壇上に上げなければならないのか!!ひとつの輝きを僕達が共有することはできないだろうに!!

 最後だから正直に言おう、その時、正直に・・・静かな怒りを感じた。でもそれはナオ・・君への愛の為、静かに押し黙った。

 ナオ、あまり言葉を継ぎたしたところで何も解決ができないことは分かってる。

 それに僕達の別れをこの世への憤懣たる言葉で綴りたくはないから・・・。

 最後にナオ・・君が言った愛を比べることは愚問だという言葉、しかしながら人はそれを問いただすからこそ、人なのではないのだろうか。

 僕は弱い人物のままではいないだろう。失った愛を探すはずだ。いつまでもイカロスのように堕ち続けるわけにはいかないから。

 僕は仕事を続けるよ。そう、君が言った愚問を神に問いただしながら、瀬田君とは違う美を見つけていこう。

 ナオ、僕こそ君の祝福をこれから先もずっと心に念じている。そうだね・・もしも互いに道が開ける時、もう一度、握手ができることを願っている。


 さようなら、私の愛した人 “





 小磯氏からの手紙は恐らく彼女のもとへ届けられたが、きっと彼女からそのまま小磯氏の所へ戻されたのだろう。彼女から小磯氏への手紙があるということはそれを意味している。互いの秘密ともいうべき過去を共有しないという、彼女の意志の表れか・・。

 私は二人の長い手紙を読み終え、小さなメモを見た。そこに書かれている人物の名前を見た時、私は大きく目を見開いた。そう、まさに私はこの時、そこに書かれた人物を見て言葉を乱されたのだ。

 バベルの塔の伝説は私のこの瞬間確かに私の肉体の内に存在し、この喜劇なのか悲劇なのか分からない登場人物たちが話した互いの言葉を全て理解できなくさせたのだ。

 聞こえるのだ、何処かで、分からない言葉の群れを。

(私は感じた)

 風が吹いてる。びょうびょうと、音を立てて。私の周りで嵐が吹いているのだ。

 どこかで、鳥の鳴く声が聞こえた。

 しかし、その鳥が本当にどこへ向かって飛んでいるのか。この嵐の中を、それを問いただすことは、神という存在が人間であるということを証明することにならないだろうか。

(神の怒りは存在するのだ)

 兄妹の禁断の愛、それを天まで届かせることは人間の道徳として許されない。それを届かそうとすればそれは人間の慢心であろう。その愛の形は神の怒りを受けたバベルの塔なのだ。誰も愛を天へ届けることは、できないのだ。

 その神もまた慢心を恨み、それが彼女への愛・・いやこの場合恋ともいえるのだろうか・・年老いた醜悪美ともいえる思いが形となって神として二人の前に現れたのだ。

 小磯氏の手紙にあったようにそう、私達三人は喜劇を演じるピエロのような存在であり、一方では悲劇なのだ。

 私は小さなメモをそっと机の上に置き、自分が多忙の中に過ごしたことを後悔した。

 小磯氏の私邸から戻った時にすぐに読むべきであったかもしれない。死は刻々と生へと襲いかかる。悲劇と喜劇を演じた役者達に容赦なく。

 年老いた彼もまたつい先日息を引き取ったのだ。

 古城氏、彼もまた彼女の美しさに引かれ、小磯氏と彼女二人にとっては招かざる存在であったとはいえ、天上の裁きの神で在ったのだ。





 大体において終わりというものは自分の予期せぬ形で訪れることが多いのかもしれない。

 終わりの結点に立ち、過去を振り返ればその結点へ伸びている一筋の線がどのような形で伸びて、いかに自分がどのように関与したかを感慨深く眺めることができるだろう。

 その結点へ歩む途中の人は初めからその終わりともいうべき結点を見ている訳ではない。

 ただ思うのは多くの人は納得するのではないだろうか?その終わりが自分の人生に関わることがあろうがなかろうが、多大な時間という目に見えない質量の重さが心や魂に深く覆いかぶさり、若く輝いた青春の太陽は傾き、豊穣の秋が過ぎて、冬に眠るだけの人生の時を迎えつつあるのであれば。

 私は書棚から著作を一つ取り出して、織り込んであるページを開いて、そこに在る一節を読んだ。

『「恋(エロス)」とはつまり、善きもの、美しいものが永遠に自分の物であることを願う欲求のことである。するとでは、それは「いかなる仕方で」これを追求するのか。このソクラテスの問いに対してディオティマは言う。「つまりそれは、肉体的にも、精神的にも美しいものの中で出産することなのです」』

 美しいものの中で出産すること、私は・・いや小磯氏も・・彼女と言う肉体的にも、精神的にも美しい存在の中で出産ともいうべき「美」の生み出しを繰り返していたのだ。それは私にとっては吹き荒れるあの美しい嵐であり、彼にとっては固く閉ざされたあのコンクリートの書斎なのだろう。それが彼女を感じる存在、母なる子宮で在ったのかもしれない。

 そうした出産を繰り返すことはまた美しいものが永遠に自分の物であることを願う欲求であった。今思えば私も彼もその欲求が尽きることはなかった。それは彼女が我々の近くになく、手の届かぬ遠くに在ったのがその理由かもしれない。その場所は誰にも分からない。事実彼女は物理的にも心理的にも私の感じ得る全ての距離から遠きに在った。彼女を手に入れようにも、手に入れることができないその距離において、彼女を手に入れたいという渇望が無限の「恋(エロス)」を作り出し、常に「恋(エロス)」に対する欲求が枯渇されないようになっていたのだ。

 ソクラテスはディオティマに対して言った。

「いかなる仕方で」これを追求するのか。

 私はここに於いて誰かに説明させられたようだった。

 ディオティマいや・・勿論それは、彼女によって。

(成程・・)と、私は自分に驚いて感嘆しておもむろに鉛筆を取ると、ゆっくりと手元に在る手帳を開いた。

 紙に触れた鉛筆の先に彼女の視線を感じながら、私は書き始める。

 “そう、「恋(エロス)」が善きもの、美しいものが永遠に自分の物でありたいという欲求の始まりであるのであれば、それは手に入れざるべき遠くになければならない。それは例えれば宇宙の星を手に入れようと願うべき距離こそが常に人類の想像と羨望で満たされているように、星の輝きを手に入れたいと願うその距離を保つことこそ・・・それが善きもの、美しいものが永遠に自分の物であることを願う欲求を尽きさせることなく、「美」を持ち得る者の長き人生にとって美しい出産を幾度と繰り返すことが可能となるのだから”



 書き終えて私は目を通した。しかし読み進む内に何処か釈然としない疑問が浮かんだ。

 彼女の眼差しが見つめている、私の捉えた『疑問』を。

(しかし・・これは「恋(エロス)」を追求する正解の一つでしかないのでは?)

 彼女の眼差しが揺れ動く。

(果たして彼女は私に対して、これ以外の答えを用意していなかっただろうか?)

 遠き存在であるだけならいつか忘れる時が来るだろう。人は悲しくも誰でも時が来て忘れて行く人は存在する。

 では永遠にいつまでも忘れない存在でいるためには?


 “遠き存在であること”


 いや、

 それ以外の存在である事こそ、私の「恋(エロス)」に対する欲求が枯渇されず、いつまでも「恋(エロス)」追求させ「美」を生み続けさせるのではないのだろうか。



 では、その存在の正体とは?





 陽の名残というのは、どの季節においても寂寥感と一抹の寂しさをどこか心の隙間に感じさせてくれる。それは過ぎ去った太陽に照らしだされた思い出が来たる夜の始まりに於いてすべてが消えようとするのだと思う、思慕の念から来る思いかもしれない。

 あなたは今どこにいるのだろう?

 過ぎ去った太陽の中で見える陽炎のような思いに問いかけることができるその時があるとすれば、それはこの時なのかもしれない。

 私は今、海の見える自分の別宅で沈む夕陽を眺めている。大阪湾の南に位置する海を見える小さくなだらかな坂を上った場所に私は夏の間を都会から離れて過ごすための小さな別宅を数年前に造り、その季節になればそこで過ごすようになった。今日私は仕事を終えると不意にその場所で沈む夕陽と来たる夜の静寂(しじま)を感じたくなり、車を一人走らせた。

 部屋に入ると海辺を見渡せる窓の白いカーテンを開け、ゆっくりとロッキングチェアに腰を落とした。広い窓から目の前に広がる海を見渡した。

 遠くに見知らぬ外国のタンカー船が見えた。まだ海は太陽の陰りある色には染まってはなかった。波間の上を風が吹いているのか、それに寄り沿うように海鳥たちが流れている。その海鳥とタンカー船が重なり合った一瞬、海が黄金色に輝いた。それは一日の終わりを告げる警笛の様に一瞬にして私の中で鳴り響き、私を輝く黄金色の世界に閉じ込めた。それはほんの数秒だった。私が黄金色の世界から還ると海鳥はそれでどこかに消えていた。

 私は思った。

 鳥よ、君はどこへゆくのか、

 私の心に小さな疑問を残して。

 穏やかな時が私を包んだ。私は海鳥の去った海の上をゆっくりと動くタンカー船を見つめ、遠くに消えた鳥へ思いを馳せた。微睡みと現実の狭間が交差して視界が消えようとした時、携帯が鳴った。

 現実へ呼び戻そうとする君は誰だ?

 携帯の画面を見れば、出版社の私の担当者からだった。私は少し渋面になりなりながらも電話に出た。

 電話向うで小さなノイズが聞こえて直ぐに消えると、小さな声が聞こえて来た。

「・・先生、瀬田先生・・」

 若い男の声がする。私は少し面倒そうに言った。

「ああ、瀬田ですが、何か、ありましたか?」

 電話向うで若い声が私に言った。

「いえ、先生。あの原稿ですね、まだメールで届いておらず、それで・・申し訳ないですが、ご自宅にお電話しても留守の様でしたので、携帯の方に催促のお電話をさせていただきました」

「おや?メールが届いてなかったかい」

 私は少し前の過去の事を思い出しながら、彼に言った。

「ええ、私の方には届いてなくて・・もし、何かの手違いで在れば、申し訳ないですが、再度、お送りできないでしょうか?」

 私は、少し間を置いて彼に答えた。

「すまないが、今自宅ではないのだよ・・それで急いでも明日の朝になりそうなのだが・・それでもいいかね?」

 無言の沈黙が電話向うに訪れた。私は彼の返事が聞こえる数秒の間、海を見た。先程窓から見えたタンカー船はもう見えなくなっていた。

「先生・・、それでは仕方ないですね・・、少し製本作業が遅れることは・・僕の方からら言っておきます」

 私は電話向うの担当者の顔を浮かべると小さく「すまないね」と言った。

 私はそれで電話を切ろうとした。すると若い声が私を繋ぎとめた。

「先生、それで・・・今回の出版記念パーティどうされます?そちらもご返事がまだでした」

 私は海に目を遣った。少し海が色づき始めているのが分かった。私はこれから始まる時間が潰されるのが嫌になり、どこか億劫になった。

「いや・・・・、そうだね。今回はやめにしたいんだ。私は今少しだけ、心のバカンスに来ていてね。どうにも疲れているのか仕事の事から少し離れたくて・・すまないが・・」

 私の言葉尻から何かを察した若い担当は手早く私に「分かりました。それでは良い時間をお過ごしください」と言って、電話を切った。

 私は携帯の画面からの彼の電話番号が消えるのを確認すると、携帯を脇にやり、変わりゆこうとする海を眺めた。

 色づき始めた海は色濃く変化を早めて行く。もう誰にもこの時間の速さを止めることはできないだろう。人生の豊かな時間は誰にも分からないうちに過ぎて行くものだ。それが人生というものなのだ。

 私の美を生み出す力が失われつつある。私はそれを自分で知っている。出産は若き精神においてこそできることだ。それは肉体ではなく精神の若さであることは分かっている。若々しい精神の中でこそ、美しきものは生まれゆく。そう、私の精神にもやはり時が迫って来ている。精神の若さは失われつつある。彼女が与えた傷を感じなくなっている私は、果たして若いと言えるだろうか?陽の名残りは私の心に訪れようとしている静寂が近いことを分からせてくれているのだ。

 安らかで穏やかな眠りの時が来ていることを。

 私は微睡みながら、壁に掛けてあるレオナルド・ダ・ビンチ作の「美しき姫君」の複写を見た。それは或る人物が描き、私に呉れたものだった。美しい一枚に完成された彼女の表情が室内を染める夕暮れの中で浮かび上がって来る。それは起伏に富んでまるで立体にした仮面のように見えた。

 壁に浮かび上がる横顔――、


「瀬田君、君・・忘れたのかい?」

 古城氏の澱みのない声が聞こえて消えた。


(古城さん??)

 風に吹かれ、透き通る声が響く。


  『ようやくあなたも見つけましたね?私を』



 その声に私は上半身を起こして壁に掛かる絵を見た。

(見つけた・・・だって?一体・・君は・・・誰なんだ?)

 数秒、沈黙の中に居た私はこの時はっきりと思い出した。

(この絵・・そうか、これはあの小磯氏の祭壇でみたあの板絵だ。そうか・・あの板絵は・・これだったのだ・・・・)

 私は暫くじっとその絵を見つめた。この絵はレオナルドのミラノにおけるパトロン、ルイヴィトコ・スフォルツァの庶子ビアンカがモデルだと伝えられている。

(そうか・・)

 私は遠くを見つめるこの絵の美しい乙女の横顔を見つめた。

(庶子と言う存在、それは母親が異なる彼女のことなのだ・・・恐らく小磯氏は手に届かない彼女をいつも思いたくて、それを祭壇に飾ったのだろう・・彼はそこで時折祭壇の前で祈りの言葉を・・呟いたのではないだろうか・・)

 私は彼の事を思うと胸が詰まる思いがした。人目に隠れて自分の信仰を貫く姿は確かに隠れキリシタンのような存在。

(彼は夫人に『自分はそういう存在』であると言っていた)

 私はその絵を見てもうひとりの隠れた信仰の人を思った。

(この絵を私に呉れたのは画家の古城氏だった。彼もまた彼女と言う存在を信仰していた一人であった)

 私は彼の死の直前に訪れたことを思い出した。病院で細くなった手で私を握りしめて、彼は微笑した。

(今思えば、あの微笑は全てを知って何かを託したかったのかもしれない。氏は別れ際に私に言った・・『やっとできたんだよ、瀬田君。この絵は僕の人生で最高の仕事だった。この絵は私の美だ、最高の美だよ・・瀬田君これを君に預かって欲しい・・君こそが私の最高の美を理解してくれる存在なのだから』と・・)

 起こした半身を戻すと私は、再び暮れてゆく海を見た。波は穏やかに染まる陽を照らし出している。

(その時は何も知らなかった。私は古城氏もまた彼女に恋をしていたことを・・、人は笑うかもしれない・・それは老人画家の叶わぬ醜悪で歪んだ恋であろうと・・しかしそれは・・醜悪で在ろうと恋(エロス)なのだ・・善きもの、美しいものが永遠に自分の物であることを願う欲求を氏もまた求め、この美しい一枚を描いたのだ。それもまた一人の名もなき画家がなし得た一つの美なのだ・・)

 今はもう全てを語る事の出来ぬ死人の嘆息であろう。私は震える思いで、古城氏の描いた絵を見た。

 その時、また携帯が鳴った。

 静寂を破る招かざる客人。

 私は鳴り響く携帯を見つめ、手に取ろうかどうか迷ったが、先程の若い担当者の困った表情を思い出して手に取り、相手を確認せずに電話に出た。

 深く息を吸った。

「はい、瀬田ですが・・」

 私が言うと、電話向うで沈黙が在った。私は眉間に皺を寄せ、急くようにもう一度言った。

「すいません、私は瀬田ですが・・」 

 そう言って電話の画面を見た。電話には見慣れない番号が出ていた。間違いではないかと思い、相手に言った。

「失礼ですが・・、御間違いでは?私は瀬田と言います」

 その時電話向うで小さく誰かが言った。

「いえ、間違いではありません」

 はっきりと言う女性の声に私はその声音の人物が誰か、思い出そうと懸命になった。しかし、それが誰か思い出せなかった。

「失礼ですが・・その・・・私にはあなたが誰だか・・申し訳ないですが検討がつきません。どちらのかたでしょうか?」

 その問いに再び沈黙があった。

(誰だ・・?)

 その沈黙が酷く長いように私は感じた。やがて電話向うで小さく息を吐く音が聞こえた。

「私は青山出版社の社長です。瀬田先生が今回当社の記念パーティにご欠席されると伺ったものですから、失礼ではありましたが私からお電話をさせていただきました」

 私はそれを聞いて先程の若い担当者の表情を思い浮かべた。私は居住まいを正して言った。

「それは・・・彼には申し訳ないことをしてしまいました。いや、少し・・仕事の疲れが出たせいか・・どうも人前に出るのが・・億劫になってしまいまして・・」

「先生」

 はっきりとした口調に私は一瞬、緊張した。 しかし次にはゆっくりと穏やかに彼女は話し出した。

「先生・・お疲れでしょうが・・是非、先生の初期作である『美しい嵐』の出版記念パーティにお越しください。先生の初期作である『美しい嵐』を当社で発刊できるのは大変な喜びです。先生とのご縁は昔、先生が若い頃私どもの印刷所にお越しになった時からのもの。そう、先生の持ち込まれた原稿を私の主人が読み・・それから先生の作品のいくつかを当社で本にさせていただきました。そんな先生の初本である『美しい嵐』を出版させていただくのは私ども夫婦の・・いえ、青山出版の長年の願いでもありました。残念なことは先代社長である主人は先生の『美しい嵐』を手に取ること昨年亡くなりました。今回の事は亡くなった主人から私が社業を継いで最初の当社の大きな企画です。是非、是非に・・・先生にはお越し下さいますようお願いします」

 彼女は穏やかにしっかりと言った。その穏やかだがしっかりとした口調に私は何故か懐かしい人々の声を聞いたような気持ちになった。


 “瀬田さん、いや瀬田君、まだ君は為すべきことがあるだろう?”


 それは古城氏なのか、小磯氏その夫人・・いや、それとも過ぎ去った日々の美しい人か。誰かが私にまだ仕事をしろと言っている。終わらないのか?・・私の残された日々は、その美しい人たちの為に。

(しかしもう、私は・・生み出す力など・・)

 彼女の言葉が終わるのを待ってから暫く沈黙していたが、私は思いを続けるようにやがて「分かりました」と言った。

「青山さんとは深いご縁がある事ですから・・伺わせていただきます。

 それで、安堵したのか彼女の大きく吐く息が聞こえた。

「しかし・・その時、社長には少しお願いをさせていただくかもしれません」

「お願い?」

「ええ・・何も、大したことではありませんから」

(私の中で恋(エロス)が尽きようとしている、つまり私はもう美を生み出すことはできないということを)

 電話向うに沈黙が在った。その沈黙が私にはふと懐かしく感じた。まるで彼女がそこに居るように思えた。

 だからかもしれない、

 私は、ふと言った。

「失礼ですが社長のお名前は・・何とおっしゃるのですか?」

 私は言ってから自分が話した言葉に驚いてしまった。



 何故、そんなことを言ったのか?



 沈黙の向こうから彼女は澱みなく、短く言った。

「青山ナオコです」

「ナオコ?・・・失礼ですが、ナオコとはどんな漢字を?」

 その質問に電話向うで躊躇いがあるのを感じた私は慌てて言った。

「いえ、青山さん、・・いえ青山社長。携帯電話に登録させていただこうと思い・・それで伺った次第です」



 本当だろうか?



 その返答に彼女が答えた。

「そうでしたか・・それでは瀬田先生、記念パーティの時にもしよければ私の名刺をお渡しします。それでお控えくだされば・・」

 私も答えた。

「そうですね。いえ、そうしましょう。何故だか分からないですが、どうも・・・反射的に聞いてしまいました。どうか、ご無礼をはたらいたことお詫びします」

 相手に対する返事がどうも私の心の上辺から出た様に感じる。まるで相手に真実を悟られぬように。



 しかし、それは何故だろう?



 彼女の笑い声が電話越しに聞こえて、彼女が言った。

「それでは、失礼します」

 私がその声で電話を切ろうとした時、向こうで声がした。

「瀬田さん・・」

 慌てて私は電話を耳元に寄せた。

「あの美しい日々の事をお話しできるのを楽しみにしています」

 そう言うと電話が切れた。

 彼女の声が消えると同時に、私は自分が今まで生きて来た過去が何か音を立てて切れるのを感じた。



 あなたは去ったのではないのか?

 私の手の届かぬところに・・・




 椅子へ深々と腰かけた私は

 全身から力が抜け、

 やがて

 その場に佇む影になった。






 地平線の向こうに夕陽が沈む様子を私は抜け殻になった身体でロッキングチェアに揺られて眺めている。空は変わりゆく、私の心に構いなく。時の流れは、何かを教えてくれる。償いも慰めも本当は人生には意味をなさないことを。

 遥か遠くに一番星が見えた。私の横にはいつ訪れたのか彼女が居る。彼女は変わらない、あの夏の檸檬色の柔らかい木陰の中で見た瞳のまま、私の側で窓から外の世界を見ている。

 その黒い瞳に揺れる月が映る。その瞳に何を思うのだろう。

 彼女は私に振り返った。

「瀬田さんは、ご自分が気付かないけれど・・美をお持ちのようですね」

 懐かしい言葉に私は彼女を見た。彼女の瞳を見ながら、私は現在に居て過去に居るのだと思った。

 幻か現実なのか・・

 私は・・・いや、『僕』はその過去の美しい瞳に問いかけた。

「美・・ですか」

 そう、と呟く彼女の瞳が僕を見つめて振り返った。月の揺らぎは消え、代りに揺らぐ僕の気持ちが映った。

「それは、どういうことですか?僕には・・よく分かりませんが・・」

 それに彼女は沈黙で答えた。

 その沈黙が何を意味するのか、僕は分からないまま席を立った。

 過去の僕が立ち去る。

 しかし現実の私は、いや僕は立ち去らなかった。

 そう、

 僕は振り返ると、彼女の手を取って言った。

「でも・・・僕は、あなたのおかげでそれが何だったのか分かったのです」

 その答えに驚いた彼女は、しかしゆっくりと僕に微笑した。

 美しい微笑だった。

「僕は・・僕はね・・分かったのです・・桐島さん、あなたのおかげで・・美が何かということを」 

 僕は彼女の手を取り、やがて顔を覆って言った。

「ありがとう」

 声に涙が混じる。

 僕はもう一度言った。

「ありがとう」

 彼女は微笑みながら、しかしどこか寂しそうに言った。

「はい、瀬田さん」

 私は顔を覆ったまま、ゆっくりと泣き出した。 

 咽び泣くような声で、誰にも憚ることなく。





 夜の帳が下りた静寂(しじま)に、私の泣く声が響いていたかもしれない。しかしそれは遠くに聞こえる波の音にかき消され、誰にも私の鳴き声は聞こえなかっただろう。

 私は孤独な完璧主義者で居なければならない。いつまでもいつもでも。そう、私はあの美しい嵐の中で残りの人生が尽きるまで美を生み出さなければならない。

 そう私は出来すぎた、美を生み出すにはあまりにも出来すぎた完璧な人生だった。だからこそ私は今喜びに咽び泣いているのだ。

 桐島さん、あなたは知っていたのだ。

 私があなたから恋(エロス)を得るための方法を。

 それはあなたを撃ち倒すこと、それこそが私があなたから恋(エロス)を得ることが出来る唯一の方法なのだと。ソクラテスの「いかなる仕方で」と問いかけるディオティマの答えを、あなたは知っていたのだ。

 しかしあなたはまた最後に於いて私に痛烈な一撃を与えた。人生の最後においてまで私に苦しむ傷を与え、もがきながら美しい嵐の中で果てる事の無い美を生み続けさせる為に。



 諸輩に伝えたい。

「恋(エロス)」を求めなければ美は生まれない。


 ありがとう。

 そして、さようなら、

 美しき人よ。




 あなたは人生において私が最も恐れた美しき敵でした。

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美しい嵐 日南田 ウヲ @hinatauwo

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