6
誠一郎がこの町に戻った、少し後のこと。
二人は街中に出かけていた。
いろいろな予定や事情が重なり、こうして二人きりで外出をするのは本当に久しぶりのことだった。誠一郎はいつもと変わらない表情の下で、いつにも増して胸を高鳴らせていた。
少し早めに待ち合わせ場所に着いたはずなのに、そこにはすでに椿月の姿があった。誠一郎の姿を見つけると、胸の前で片手を振って駆けてくる。
装いの色合いは秋を意識したのか、濃紺の袴の下にイチョウの葉のような黄色い着物。細かな模様を型染めされた長羽織は、紅葉を思わせる橙色。
それから、普段はよく下ろしている髪を上げてすっきりとまとめていた。細い首筋があらわになっている。
挨拶を交わしたのち、椿月が遠慮がちに「どうかしら?」と尋ねてきたので、誠一郎は「よくお似合いです」と答えた。
椿月が今日髪をまとめてきたのは、以前彼の家に行った際、珍しく髪型を褒めてもらえたからなのだが。誠一郎はそんな理由だとは想像だにしないだろう。それに、あの時は改めて尋ねられたから口に出して「似合う」と言っただけで、普段から椿月はどんな格好をしていてもよく似合っていると心から思っている。
ここしばらく劇場でばかり会っていたので、こうして普段の彼女を見るのは久しぶりだった。
つやめく黒髪。白い肌に薄紅色の唇が映える。
劇場での美しさとはまた違う魅力があった。
現に、椿月はそばを歩く人によく振り返られることがある。遠目では普通の娘のように見えるかもしれないが、近くで見ると普通の娘とは一線を画することがすぐに分かるのだ。
二人はいつものように目的なく歩き、会話を楽しむ。
だが、今日は少しいつもと違っていることがあった。
誠一郎が不意に、ある雑貨屋に入ったのだ。
普段はあまり店を冷やかしたりすることがないので、珍しいなと思いつつ、椿月も素直に後に続いた。
客は自分たちだけの、小ぢんまりとした店内。装飾品や服飾雑貨が多く取り扱われているようで、きれいな帯留めだったり、かわいらしい髪飾りだったり。男子用だと扇子やちょっとしたお洒落帽などが置かれていた。
飾られている品物を見ながら、椿月は楽しそうに「あっ、これかわいい」「誠一郎さん、見て。とってもきれい」などと声を上げている。
いつもは劇場で大人びたふるまいをしていることの多い彼女が、年相応の娘のようにはしゃいでいる姿を見ていると、それだけで誠一郎も楽しかった。たまにはこういうのもいいな、と思える。
すると、仲むつまじい二人の様子を見守っていた店主が、「ふふっ」と笑った。
誠一郎と店主の目が、ふと合う。店主の老婆は優しげにほほえんでみせる。彼は反射的に会釈をした。
店は奥の自宅と繋がっていて、その畳の間から会計など来客の対応をできるようになっている。老婆は畳の間に座布団を敷いて座り、店内を眺めていた。まとめられた白髪は窓からの陽を受けて、銀のように光っている。
老婆は椿月に声をかけた。
「とってもかわいらしいお嬢さんね」
狭い店内に、娘は椿月一人しか居ない。椿月は振り返ると、「いいえ……」と頬を赤らめた。褒められたこともそうだが、誠一郎の前でそう言われたことも気恥ずかしかったようだ。
「これ、良かったら試しにつけてみて?」
そう言って老婆が背後の小さな戸棚から取り出したのは、透き通るようなとんぼ玉があしらわれたかんざしだった。
夕日のような色をした丸いとんぼ玉の中には、金箔と銀箔が練り込まれていて高級感がある。きっと値段も相応の額なのだろう。それでも、派手というより高貴な印象を与えさせる代物だった。
椿月が「おばさまがそう言うのなら……」と遠慮がちにそのかんざしを挿してみる。
服の色合いもあいまって、とてもよく似合っていた。
少し恥ずかしそうに、誠一郎に向けて見せる。
「……よくお似合いです」
さっきと一言半句違わないセリフなのだが、本当にそう思っているのだから仕方ない。
椿月は近くにあった鏡を覗いて、照れたようにほほえむ。
老婆は嬉しそうに、何かを重ねるように目を細め、そのかんざしを挿した椿月と、そばで見守る誠一郎を見つめている。
「ありがとうございます。こんな素敵なかんざしを試させてもらって、嬉しい経験になりました」
椿月がかんざしを外そうとしたところで、老婆は笑顔で思いも寄らぬことを言った。
「そのかんざし、差し上げるわ」
「えっ。そんな、こんな高そうなもの、いただけません」
驚いたのは椿月だけではない。誠一郎も不思議そうに老婆を見つめた。
すると老婆はさりげなく、誠一郎の視線を店から繋がる家の奥へ誘導する。いざなわれるまま誠一郎がそれをたどっていくと、見覚えのあるものがあった。
床の間に鎮座する、高さがあって細長い、白地に青の模様が入った壷。
それを見て誠一郎はすべてを理解し、老婆の意を汲んだ。
突然の厚意に戸惑う椿月に、老婆はにっこり笑って言葉を重ねる。
「彼からの贈り物だと思って、受け取ってちょうだい。ね?」
その発言で、ますます“はてな”が止まらない椿月。
そこに、誠一郎が声をかけた。
「椿月さん。この方のお気持ちです。頂戴しましょう」
びっくりして誠一郎の顔を見上げる。彼の表情はほんのり優しげに染まっていた。
老婆はそのかんざしにまつわる思い出を、穏やかな表情で語った。
「……そのかんざしはね、私が若い頃、大事にしてくれた人からの贈り物なの。家の決め事があったから、その人と結婚はできなかったんだけどね。私にはそれを譲り渡すような子どももいないし、大事にしまっていてもあの世まで持っていけるわけじゃないし。若い人に使ってほしいの」
そう言ってほほ笑んで、一度誠一郎に視線をすべらせてから、また続けた。
「貴女もずいぶん大事にしてもらっているみたいだから、ちょうどいいわ」
紅葉のように赤く染まる二人の頬。
それを見て、老婆はまた幸せそうに笑っていた。
何度も礼を言って、椿月はそのかんざしを受け取った。「必ず大切にします」と約束をして。
椿月が店から出たあと、誠一郎は振り返って頭を下げた。
そして、小峰から届いた手紙に「ぜひ一度、大事な人と寄ってください」と書いてあった雑貨屋を後にした。
さまざまな人の思いが込められた素敵なかんざしを挿した椿月はとても嬉しそうで、その明るいほほえみをたたえた顔はいつもより一層輝いて見えた。
誠一郎がそんなことを考えながら歩いていると、往来の向こうから、どことなく見覚えのある姿が現れた。
人のことを覚えるのが苦手な誠一郎が記憶をたぐり寄せるより早く、相手のほうが声を上げる。
「あーっ!! なっ、君はこの町に住んでたのか……!」
目をむいて大声を上げた目の前の男。ぴっちりなでつけた七三分けの髪に、今日はかっちりとしたスーツに身を包んでいる望月だった。
あの町よりもこちらの方がはるかに栄えているので、「大したことない都会」といいつつ、いざ出てくるとなると気合を入れて身なりを整えたのだろう。
誠一郎に喋る間を与えさせず、望月の独擅場は続く。
「久しぶりだねぇ。僕が今日この町に来たのは何のためだと思う? そう、見合い、見合いなんだよ。君と違って僕には毎月山のように釣書が届くのでね。選び放題なんだ。父さんも、家柄があれば仕事より先に結婚でも別にいいじゃないかと言ってるし、ね……?」
巻き時計が止まる時のように望月の勢いが止んだのは、不意に視線を落とした先にいた一輪の花、もとい、椿月と目が合ったからだった。
椿月はその澄んだ大きな瞳で望月を見つめると、
「誠一郎さんのお知り合いの方ですか? はじめまして」
と、ほほえんだ。
対する望月は挨拶を返せる余裕もなく、彼女のあまりの美少女っぷりに衝撃を受け、ただただ言葉を失っている。首を振るようにして、誠一郎と椿月を繰り返し交互に見てしまう。
椿月は説明を求めるように、隣に立つ誠一郎の顔をさりげなく見上げた。
「あ……彼は、この間まで行っていた仕事で一緒になった方です」
うながされて説明するも、非常に簡潔だった。人に話せるような思い出もないので仕方がないが。
「まぁ、そうなの。誠一郎さんがお世話になりました」
話を聞いて、椿月は改めて望月に深く頭を下げる。
「い、いや、とんでもない……デス」
望月の顔は赤面と驚きが入り混じり、今まで誠一郎が見たことのない顔色になっている。それに、誰に対しても偉そうな口を利く彼が、慣れない敬語など使おうとしている。
「あ、の、ふ、二人のご、ご関係は……」
そう尋ねようとしたところで、望月の背後から彼の家の者らしき人が、「ぼっちゃまー!」と彼を呼んだ。すぐに行かなくてはならないようだ。
「あ……。じゃ、じゃあな。ネクラ……じゃなかった、ビン底……でもなくて、深沢クン……」
去り行く彼の姿を見ながら誠一郎は、初めて本名を呼ばれたな、とさほど感動もなく思っていた。
ちなみにこの後の望月はというと、自分が心底見下していた相手に戦わずして完敗した気分で、見合いというのにまったくやる気を出せなかったという。
望月と別れて、またぶらぶらと街を歩き出す二人。
椿月は先程の望月の反応に少し思うところがあったようで、いぶかしげに疑問を口にする。
「あの人、急に挙動不審になってたけど、どうしたのかしら」
たしかに、ものすごく動揺していたし、ものすごい切り替わり方だった。
その疑問に誠一郎は素直に答える。
「椿月さんがとてもおきれいだから、驚いたんですよ」
誠一郎は誰もがそう思うであろう客観的事実を言ったつもりなのだが、椿月は彼の言葉にびっくりして、どぎまぎしながら彼の方をちらりと見上げる。
「……あなたも、そう思ってくれてるの?」
もちろんそう思っているのだが、改めて訊かれるとなんだか照れくさい。反射的に「えっ」と驚いたあとで、恥ずかしさを押し殺し、正直に言った。
「……はい。もちろんです」
そのあと、椿月が何と言葉を返したら良いか分からなかったせいで、二人はしばらく黙って道を歩くことになった。
その間、数組の恋人や夫婦と思われる男女が二人の視界を通り過ぎる。
それを見たからか、ふと椿月が先程の望月の発言と行動に関して、また疑問を口にする。
「ねえ……。私たちって、そんなに似合ってない……変な組み合わせなのかしら?」
少し表現を修正しながら、椿月は言った。
あんなに露骨に交互に見られたなら、口には出されずともさすがに察するところはあるのだろう。最後には二人がどういう関係なのかを問われかけていたし。
この質問に対しては、誠一郎はなんとも答えがたい。釣り合いがとれているとは自分でも思っていないが、「それは当然そうですよ」とはなかなか言いにくい。
何も答えない誠一郎に、横を歩く椿月はおもむろに彼の腕に手を伸ばした。
右手は彼の左腕の内側の袖を、左手は彼の腕の外側の袖をつかみ、悪女役の女優姿の時のそれとは全然違うぎこちない仕草で、そっと腕に寄り添った。
びっくりする誠一郎に、椿月は顔を見上げないまま、恥ずかしそうにこう言う。
「こうしてたら、ちょっとはそれっぽく見えるかな……」
誠一郎から見える、椿月の耳の端が赤い。
声が裏返りそうになりながら、
「は、はい……」
と、なんとか返事にもならない返事をした。
それっぽく、というのはどう言うことだろう。もしかして、もしかすると、恋人のように、ということだろうか。
誠一郎はこれまでの椿月の発言や行動を振り返り冷静に分析してみようとしたが、左腕の温もりと椿月の今の言葉に神経のほとんどを奪われてしまい、今はそれ以上のことを考えるのは無理だった。
見下ろした椿月の髪に、透き通った秋の色をしたトンボ玉のかんざしが、近づいていく若い二人を応援するように、美しく飾られている。
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