「深沢くん」


 誠一郎が思っていた通り、小峰は起きていた。


「話を聞かせてもらえますか」


 まっすぐに見つめるまなざしに、小峰は聞こえないくらい小さくため息をつく。


「……あなたにこの仕事を依頼したのは、やはり間違いでしたね」


 悔しがるもなく、笑うでもなく。諦めるように肩を落とした小峰は、誠一郎を部屋の中に招き入れた。


 寝床や机といった最低限の家具が備えられた簡素な室内には、卓上電灯だけが心細げに灯っている。光が届かない部屋の隅は闇に落ち、なおいっそう部屋を狭く見せていた。


 小峰は卓上電灯に一番近い椅子に腰かけると、言い逃れることもなく静かに尋ねた。


「……なぜ、分かりましたか?」


 闇に落ちた場所から踏み出し、一歩光に近づくと、誠一郎は口を開いた。


「……不自然な点は多々ありました。強盗がガラスを割って外から押し入ったというわりには、ガラス片は屋外側に多く散らばっていましたし、室内には外履きで踏み入ったと思われるような土や草のついた足跡はありませんでした」


 誠一郎は立ったまま、話を続ける。


「加えて、割られていたのは大人一人が通り抜けるにはギリギリの大きさだったのにもかかわらず、割り落とされず窓枠に残っていた切っ先には、毛髪や皮膚、服の繊維も何も引っかかっていませんでした。あの大きさの隙間を慌てて出入りしたのなら、小柄な人であろうとどこかしらが引っかかってしまうと思います」


 小峰は否定することも、言葉を挟むこともなく聴いていた。


「そして『覆面姿の犯人を見た』と言っているのは、今のところ小峰さんだけです。覆面をしてひらけた中庭から室内に乗り込み、両手が塞がる大きさの壷をかかえて、見通しの良い建物の外に逃げ出し、家などの物陰のないところを逃げたのなら、他のお手伝いの方々が一人も目撃していないというのは、いくつもの偶然が重なったとしてもいささか不自然です。

 強盗犯など本当は居なかったとなると、すべてはその場にいた小峰さんの自作自演ということになります。望月さんと当番を代わり――あの時の望月さんの顔色の悪さからするに、恐らく昼の食事に下剤か何かを混ぜたのではないかと思うのですが――、一人になってすぐ壷を隠し、金づちか何かで窓ガラスを派手に叩き割った。そこにすぐ僕が駆け込んできたのは、少々計算外だったのかもしれませんが……」


 誠一郎の言葉が終わると、小峰はすべてを受け入れるようにこう言った。


「……慣れないことはするものではないですね。この歳になって。お恥ずかしい限りです」


 否定しないことですべてを認めた小峰に、誠一郎は問いかける。


「存在しない強盗をでっち上げてまで、あの壷を盗まれたと見せかけた理由は一体何なのですか?」


 別に糾弾したいわけではない。純粋に、彼がこういう行動をとった理由が知りたかった。


 少し考えるような間を置いてから、小峰は誠一郎に椅子を勧めた。


 彼がそこに腰掛けると、ゆっくりと語りはじめる。


「……この屋敷の旦那様は、庶民に向けた金融業をされています。平たく言えば、金貸しです。私が隠したあの壷は、旦那様がある方からあくどいやり方で奪ったものです。私はその方に、どうしてもあの壷をお返ししたかった」


 細い目をさらに細めるようにして、小峰は何かを思い出しながら語っていた。


「以前より、どうにかあの壷を盗み出すことができないかと考えていました。でも、いつものように私が一人で管理しているときに犯行に及べば、私の自作自演が疑われる可能性が高いと考え、思いとどまっていたのです。今回の離れの展示室の新設は良い契機だと思いました。あなたや望月さんといった屋敷には無関係の人間を巻き込むことによって、強盗の存在に信憑性を持たせ、犯人の正体をぼやかしたかったのです」


「……この町の警察署長の息子である望月さんを直々に呼んだのは、盗難が発覚したのち、警察沙汰にされることを防ぐためですね?」


 その指摘に、そんなことまで読まれていたのか、と自嘲するように弱々しい微笑を浮かべる。


「何でもお見通しなんですね……。そうです。望月さんの性格なら、自分の経歴に傷がつくことを恐れてすぐに父親に泣きつくだろうと思っていました。でも、どう考えても性格や能力に問題のある望月さんだけを見張り役にしたなら、旦那様や周りの方に怪しまれる可能性があります。だから、見張り役としての体裁を整えるためにもう一人、理由をつけてあなたをお呼びしました」


 あんな暇な仕事をわざわざ二人の人間に分担させた理由が、ようやく分かった。それと、あんなに性格に難がある望月をわざわざ雇った理由も。


 小峰はぽつりぽつりと胸中を吐露しはじめる。


「あの壷は……ある未亡人の方の、亡くなられたご主人が大切にされていた形見の品なのです。借金の返済の遅れにかこつけて持っていかれたそうで、借金をすべて返し終えた今も、理由をつけて返してくれないそうなのです」


 恐らく、望月が言っていた“叩けばほこりが出るような”というやり方の一端が、こういうことなのだろう。この豪華な屋敷を築いたのも、きれいなお金でだけではないということだ。


「私はその方の昔のなじみのようなもの……いや、彼女は私みたいな者にとっては高嶺の花のような存在だったので、なじみなどと言ってしまっていいのか分かりませんが……」


 そう慎重に言葉を選ぶ様子から、小峰が本当にその人のことを、その人と昔の思い出を大事にしているのだということが伝わってくる。


「取り上げられた彼女の壷のことを知り、私がこの屋敷の骨董品や展示室の管理を担当しているのは運命だと思いました。こんな私でも役に立てるのならば、何でもいいから、最後にあの方の力になって差し上げたかったのです……」


 遠い日の大切な気持ちを慈しむように、小峰はそう理由を告白した。


 少し間を置いて、ふたたび尋ねる。


「……もし私がしらを切ったら、どうするつもりだったのですか?」


 迷うことなく、誠一郎は即答する。


「小峰さんが隠した場所から、壷を持ってくるつもりでした。屋敷が消灯した後に、展示室から壷を持ち出すだろうと思っていましたので」


 そう答える彼を、小峰は試すようにじっと見つめる。


 盗難の発覚後、望月が部屋中を探し回っても見つからなかった壷。そもそも部屋には展示物の載った台座と、机と椅子があるだけで、隠せるようなところはなかった。


 誠一郎はそれに応えるように口を開く。


「盗まれた壷が飾ってあった、円柱状の台座の中ですよね。あの台座は多分、どこかが開くような仕組みになっているんじゃないですか? 石製の材質らしくなく、叩いたら音が響きました。中が空洞になっているのでしょう。あの壷は細身だったので、十分入るはずです。恐らく窓ガラスを叩き割った道具も一緒にそこに隠してあるのでは」


 小峰はゆっくりうなずいた。その表情には悔しさのようなものはなく、どちらかといえば穏やかなものだった。


 もしかしたら、小峰は心のどこかで感じていたのかもしれない。もう一人の見張り役として誠一郎を呼んだときに、彼にすべてを見抜かれる可能性を。


 そして。


 顔を上げ、小峰は静かに言った。


「……理由はどうあれ、これは窃盗です。覚悟はしていました。どうぞ、ご随意に」


 電灯だけが灯った部屋で、黙って向かい合う二人。


 聞こえるのは、窓の外の闇からもたらされる鈴虫と蛙の鳴き声だけ。


 誠一郎は、小峰を断罪する気にはとてもなれなかった。


 若かりし頃の小峰の気持ちを勝手に想像して、勝手に思いを重ねているだけなのだけれど。


 自分がもし、椿月が大切なものを理不尽に取り上げられて悲しんでいると知ったら。


 仮令(たとえ)誰か他の男の大切な人になっていたとしても、それを取り返してやらないではいられないだろう。自分だけがそれをできる立場なら、なおさら。


 しばしの沈黙の後。


「……いえ。あれは、泥棒が入ったんです。こういう話もあるのかなと、僕が空想しただけです。どうか、今夜の僕の話は忘れてください」


 誠一郎の言葉に、小峰はじっと彼の目を見つめた。誠一郎もまた小峰の細い目を見つめ返す。


 小峰は何も発さぬまま、深く長く、頭を下げた。




――二人の会話はそのまま真夜中の闇に溶け、消えてなくなった。







 翌日。


 約束どおり車で町に送り届けてもらった。


 実に一ヶ月以上ぶりに戻ったこの町。


 誠一郎は自分が町を出る前とまったく同じ状況であることに、改めて深いため息をついていた。


 報酬が一銭ももらえないことに関しては、今さら何を言うつもりもない。そもそも、あんな暇つぶしだけで金銭が発生する方がおかしな話だったのだ。


 あの後、小峰が「あなたは私にだまされたようなものだ。申し訳ないので、心ばかりではあるが私からいくらか謝礼を支払わせてほしい」と言われたが、丁重にお断りした。あんな切実な思いをかかえていた年配の方からお金をいただくなんて、誠一郎にはとても出来ない。


 報酬のことは諦めるとしても。この町を出る前に、椿月に「何か欲しいものはありますか」などと尋ねてしまっている。彼女が忘れていてくれたらいいのだが、忘れていなければ余計な期待を与えてしまっているかもしれない。


 この町に帰ってきたらいの一番に椿月に会いに行こうと思っていたのだが、なんとなく気が進まない。


 早く、久しぶりの彼女の顔を見たい。でも、何の変化もない自分の現状が憂鬱で。


 劇場へ向かっていた足は、無意識に入り口を避け、誠一郎を裏手側に回らせる。


 劇場の裏口に通じる、これまで何度も椿月と歩いた人気のない小川沿いの小路。


 ここに来ると、彼女と交わした様々な言葉を思い出す。一人で訪れたのはこれが初めてかもしれない。


 ゆるやかな土手に腰を下ろす。


 さて、どうしたものか。誠一郎は考える。


 ふと目を周りにやれば、自分がここに来ていなかった間にもたしかに季節は移り変わっていて、気の早い木々たちは身を色づかせはじめている。


 強い花の香りがすると思ったら、近くで金木犀(きんもくせい)の花が咲いていた。濃い緑の葉の中にぽつぽつと、小ぶりの橙色が見える。


 ぼうっと自然を眺めていたせいで、誠一郎は自分の背後に現れた人の気配になかなか気がつけなかった。


「誠一郎さん……?」


 名前を呼ばれ、振り返って見上げた先には。


 信じられない、という顔をしている椿月の姿があった。舞台の合間に散歩に来たのか、その身は舞台用の漆黒のロングドレスで、上に防寒のための肩掛けを羽織っていた。


 誠一郎と会えない間の椿月も、一人でよくここに二人の思い出をなぞりにやってきていたのかもしれない。


「……ご無沙汰しています」


 まさかこんなところで鉢合わせると思っていなかった誠一郎の口から、当たり障りがないだけの言葉が飛び出す。


 椿月は驚きと嬉しさがこみ上げてしばらく何も言えないままだったが、すぐに彼のそばに近寄った。本当は隣に座りたいけれど、舞台用のドレスを汚してしまう。


 立ったままの彼女の困惑に気がついた誠一郎は、自分の羽織りを脱いで折りたたみ、土手の原っぱの上に敷いた。


 「ありがとう」と悪女の姿らしからぬ風にその頬を赤らめ、長い脚をたたんで遠慮がちにそこに座った椿月。


「用事はもう終わったの?」


 誠一郎は「はい」と簡潔に答えた。


 彼の口数が少ないのは普段どおりのことなのだけれど、椿月はなんとも言えない、いつもと違う彼の様子を感じ取っていた。


「……どうしたの?」


 椿月はそっと彼の顔を覗き込み、尋ねる。大ぶりの耳飾りがきらりと光った。


 久々に近くで見た椿月の顔はやはり息を呑むほど美しく、彼女のかけてくれる言葉はいつも自分の心のしこりを溶解させてしまう。


「すみません。実は――」


 誠一郎は今までのことを正直に話した。


 椿月に贈り物をしたくて、しばらく仕事をしにこの町を出ていたこと。


 いろいろあって、結局その報酬はもらえなくなってしまったこと。


「……期待させるようなことを言ってしまって、すみませんでした」


 話し終えると彼女にそう詫びた。


 椿月は彼の目をまっすぐに見つめる。


 白い手が、あぐらをかいた彼の膝の上にそっと載せられた。


「会えなくなるくらいなら、贈り物なんていらないわ」


 ほほえみを湛(たた)えながらも真剣な瞳で、そう告げる。


 まっすぐ目を見て話す彼女の言葉に嘘はないのだろう。誠一郎には分かる。


 しかし、それでも払拭できない不安が心の内に存在することは、それとはまた別の問題で。


 彼の沈黙の中にまた何かを感じ取ったのか、椿月は改めてこう訊いた。まるで子を諭す時のように、とても優しい声色で。


「ねえ。誠一郎さんはどうして私と会ったり、一緒にいてくれたりするの? 私が女優だから?」


 唐突な質問に、誠一郎はすぐに言葉が返せなかった。


 彼女の顔を見つめ返してから、


「違います」


 とはっきり答える。


 眼鏡越しに見える彼女の端整(たんせい)な顔が、柔らかい笑顔に崩れる。


「私もあなたと同じ気持ちよ。あなたが何者だからとか、何かをくれるからって一緒にいるわけじゃない。それだけじゃ、あなたの不安は消えないのかな……」


 そう話して彼の瞳をじっと見つめた。


 正直なところ誠一郎は、彼女がこうまで言ってくれても、心のわだかまりを完全に消すことはできなかった。


 でも。


 こんな自分にここまで言ってくれる彼女を心から信じないことは、とても悪い気がした。


 最近の自分は、少し先の方を見すぎていたのかもしれない。


 遠くに焦点を合わせすぎて、近くの大切なものが見えなくなっていた。


 だから、今だけでも。どうなるか分からない未来の不安ばかり見つめるのでなく、自分のすぐそばにいる彼女のことだけを見ていようと思った。


 誠一郎は勇気を出して、自分の膝に載る椿月の右手の上に、自分の左手をそっと重ねた。

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