平日の昼間で人が少ないとはいえ、この逮捕劇でロビーはざわついた。


 連行した警察官らがいなくなり、ようやく騒ぎが治まると、鋭い眼差しを向けていた彼もやっと気を抜き、椿月のそばに近寄った。


「協力してもらってしまってすみません。怖い思いをさせてしまいましたか?」


 そう尋ねる彼に、椿月は大きく首を横に振る。


「ううん、大丈夫」


 そして、目をパチパチまばたきさせながら、驚いたようにこう言った。


「ほんの少しの会話からこんなことが見抜けたなんて、すごいわね。さっきなんて、まるでいつものあなたとは別人みたいだったわ」


 そして、館長も二人のそばに寄ってくる。


「いや、本当にありがとう、ありがとう。一度だけでなく二度も椿月を守ってくれて。君には本当に頭が上がらないな」


 椿月のことを実の娘のように大切に思っているのであろう館長が、涙ぐみながらそう感謝する。


「まさかいつも舞台を見に来ていたあのおっさんだったとはな。毎日視界に入ってたのに、悔しいぜ。クソ」


 苦々しそうにそう言い捨てるのは、神矢。


 主演俳優にもかかわらず、今日は無理をいって代役を立て、いざという時のためにそばで見守っていたのだ。


「……ま。とにかくこれで色々解決したってことで――椿月、フレンチのフルコースでも食べに行こうぜ」


 ほんの少し前まであんなに苦い顔をしていたのに、あっという間に切り替えて椿月を誘っている。


 これには館長も呆れて苦笑いを浮かべるばかりだ。


 肩にまわされそうになった神矢の手をするりと回避して、椿月はパタパタと手をはためかせた。


「はいはい。あなたへのお礼はまた今度ね。この後は彼にお礼が言いたいから」


 そう言って、「ね?」と、椿月が男の顔を見上げる。


 神矢は肩をすくめながらも、館長の目配せを受けて渋々その場を離れ、二人だけがその場に残った。


 椿月は彼にこう提案する。


「ねえ。この間のお散歩のやり直し、しよっか」


 彼は「はい」と返事した。






 昼下がりの澄んだ空には雲ひとつ無く、小川はいつものように穏やかに流れている。そよ風が、川辺の背の低い草たちを優しくなでていた。


 劇場裏手の人気のない静かなこの場所は、この間は邪魔が入ってしまったけれど、二人がのんびりと話すことのできる場所のひとつだ。


 少し先を歩く椿月の長い髪が、ふわりと風に舞う。


 椿月はそっと口を開いた。


「改めて……、今回は本当にありがとう。迷惑をかけてごめんね」


 椿月は歩きながら振り返って、彼にそう詫びた。申し訳なさがにじんだ声色だった。


 すると男は足を止めて、こう真剣に言う。


「迷惑なんかじゃ、ありません」


 彼女を見つめる目は、何かを伝えたそうに細められている。


「椿月さん。僕では頼りないかもしれませんが、もう少し僕のことを頼ってくれませんか。……頼ってほしいです」


 今まで見たことのない彼の切実な眼差しに、椿月はハッとした。


 そして男ははっきりと告げる。


「貴女に起こっていることを知れないことのほうが、僕はよほど辛い」


 見つめ合う二人の間をゆるやかな風が優しく吹きぬける。彼女の髪がさらりとなびく。


 椿月はびっくりしたように目を見開き、そのあと表情をやわらかく崩した。


「ありがとう……。そう言ってくれて」


 彼女の瞳がうるみ、ほほえんで細くなった目尻をさりげなく指先で拭う。嬉しさに耳の端が赤くなって、それを隠すように背を向けた。


「えへへ……。そんな風に言ってもらえるなんて、私って幸せ者ね」


 そう照れたように笑って、前にゆっくり足を踏み出した時。


 彼女が「あっ」と思った時にはもう、後ろから覆いかぶさられるようにして、彼の腕の中に抱きすくめられていた。


 一気に紅潮する頬。心臓の音が直接伝わってしまいそうなゼロの距離に、椿月は息が止まってしまいそうだった。


「――椿月さん。お願いがあります」


 耳元から伝わってくる、彼の切ない声。


「……神矢さんと二人で食事に行くのは、やめてもらえませんか」


 何を言われるのかと緊張していたのに、まったく予想だにしないことで少し拍子抜けしてしまう。


「どうしたの、急に……」


 ドキドキで声が震えないようにしながら、そう尋ね返す。


「僕の勝手なわがままだとは分かっていますが、どうしても嫌なんです」


 ぐっと彼の腕に力がこもるのを、椿月は体で感じた。


「今の僕では、貴女をそんなところに連れて行くことはできませんが、これから努力しますから……」


 きつく抱きしめる彼の腕にそっと手を重ね、椿月はふっと笑った。


「……もう、バカね。何言ってるのよ。初めから行くつもりなんてないわ」


 椿月は彼の頭に手を伸ばし、細い指先を彼の髪に触れさせる。そのままなでるように優しく毛先をすいた。


「あの人はいつも誰にでもあんなことを言ってまわってるの。不安にならなくて大丈夫だから」


 彼女はそう笑い飛ばすけれど、彼から見ると神矢はとても冗談で言っているようには見えない。


 彼の心のもやもやを感じ取ったのか、椿月はもう一度言葉を重ねた。


「行かないわ。約束する」


「はい……」


 優しい声色でつむがれる彼女の言葉に、彼はようやく安心できたようだった。


 しかし、まだ彼はその腕を離さない。


「あと……もうひとつ、お願いがあるんですが」


「なあに?」


 彼は意を決して、ずっと気にしていたことを一つ、お願いした。


「……僕のことを、名で呼んでくれませんか」


 彼自身も驚くくらいにずっとモヤモヤと気にしていたこと。神矢と椿月が親しげに名で呼び合う度に、胸がチクチクと刺激されていた。


 彼女もまさかそんなことをお願いされるとは思っていなかったようだったが、


「う……うん、分かった。これからはそうするようにするわ」


 と、どぎまぎしながら小さくうなずいた。


 でも、彼は更に言う。


「できれば、今すぐ、がいいんですが」


「えっ……今?」


 びくっと驚く椿月に、彼は「はい」と答える。


 椿月は、背後の彼に伝わらないようにしながら一度深く呼吸して鼓動を整える。


 そして、口を開いた。


「……誠一郎さん」


 彼女の鈴の音のような声が、彼の――誠一郎の、鼓膜と心を揺らす。


 その余韻を味わうような時間が幾許か過ぎる。


「……ありがとうございます。もう、大丈夫です」


 誠一郎は腕の力を抜き、彼女の体を離した。


「あ、うん……」


 椿月が乱れた髪を整えながら彼に向き直ると、自然と見つめ合うような形になってしまう。恥ずかしくてお互いサッと視線を逸らした。


 つい先程まであんな風に抱きしめられていた、抱きしめていた相手が目の前にいるということが、どうしようもなく気恥ずかしい。


 椿月は心の中でうろたえながら思う。女優の椿月としてだったら、もっと笑い飛ばしたり、からかうことだってできるのに。


 二人の間を妙な空気が流れはじめた時。誠一郎が、眼鏡のブリッジを押さえつつ、うつむきがちに、申し訳なさそうにこう言った。


「すみません……。普通の男性ならきっと、こういうことをもっと上手くやるんだと思うんですが……」


 困り果てた彼が、照れている。


 いつも何事にもあまり大きな反応を示さない彼のその頬が、ほのかに赤みを帯びていた。


 その珍しい光景をとてもかわいらしく思った椿月は、自然と笑みがあふれてくるのを感じた。


「別に、あなたがそういうことに達者な人だなんて思ってないわよ」


 そう優しく言ったあと、


「それに、私はそんなところに男の人の価値を置いてないから。ね?」


 とほほえんで、彼の瞳をまっすぐ見つめた。


 普段の彼女だって十分に悪女だ。無垢な笑顔を見つめながら、誠一郎はそう思った。






 その後。


 誠一郎は二作目として、恋愛を題材にした作品を発表した。


 ごく普通の青年が身の程の違いすぎる人気女優に恋をしてしまい、苦悩したり、彼女に好かれようと努力を重ねるという、どこかで聞いたような話。


 男性作者らしからぬ繊細で美しい心理描写と、恋に苦悩する男性の心理が如実に表現されているということで、特に女性に人気が出たようだった。


 椿月には以前より「読ませる自信がある作品ができるまで読まないでほしい」と約束してあるし、彼女がそういう約束を隠れて破るような人ではないことは分かっている。けれど。


「いやー。まっさかあんたが小説家だったとはなー。なぁ、深沢(フカサワ)誠一郎センセイ?」


 目の前で自分の新刊を読んでいる、神矢。


 劇場で椿月のことを待っていたら、急に彼の楽屋に呼び込まれたのだ。


「俺、あんたのデビュー作読んだことあるんだよ。そうしたら椿月にしつこく感想を訊かれて。素直にほめたらニッコニコしてたぜ。ちくしょー、正直に言わなければよかった」


 神矢は見た目こそ常人離れした美形の俳優だが、ささいなことで大げさに喜んだり悔しがったり、中身はごくごく普通の人間であることを、誠一郎は最近になって分かってきた。それに親しみを覚え、最初にいだいていた敵対意識みたいなものもすっかり溶解した。


 だが。


「『私が好きになったのは女優としての貴女ではない。女優を演じる貴女に惹かれたのだ』ね……」


 本をパラパラとめくって、自分の書いた文章を音読される。


 これは本当にやめてほしい。誠一郎は赤面を禁じえない。


 この本の内容も、神矢は「その方が面白そうだから」と椿月には話さないでいてくれるそうだが、これから会うたびずっとニヤニヤされるだろうなということは察しがつく。


「まぁ……色んな意味で、頑張れよ。これからもあんたの本、読んでやるからさ」


 ニヤッといつもの笑みを口元にたたえ、神矢は言う。


 誠一郎はありがたいと思う気持ちと、あまり読んでほしくないなという気持ちが入り混じり、「はい」とだけ答えて済ませる。


 すると、神矢は話題を変えた。


「まー、あれだ。あのおっさん問い詰めてる時のあんた、結構怖かったからな。実は本気で怒らせると怖い人なんだろうから、椿月に手を出したりはしない。安心しな」


 これまで自制心を失うほど怒った記憶などないのだが、神矢がそうしてくれるというのなら、誠一郎は黙ってそういうことにしておいた。


「あ。手は出さないが、飯には誘うけどな」


「えっ。そ、それは……」


 神矢の言うことはよく分からない。それは、誠一郎からすると手を出すこととほぼ同義になると思うのだが。


 誠一郎が戸惑っていると、楽屋に舞台衣装の椿月がやってきた。


「もう、こんなところに居たの」


 待っていたはずの彼がいなくなっていたので、探していたようだ。誠一郎は「すみません」と軽く頭を下げる。


「悪いな、深沢センセイ借りてたぜ」


 神矢が椿月にひらひらと手を振る。


 すると。


「あっ、新しい本!」


 椿月は神矢の手元に誠一郎の新刊を見つけたようだ。


 すぐに誠一郎の腕にひっつく。


「ねえ、誠一郎さん。まだ読んだらダメなの?」


 子猫のような瞳で上目づかいにねだるようにして、甘い声色で自分の腕にすがる椿月。


 目の前でニヤニヤ見つめてくる神矢。


 その手には、自分の心情を思い切り吐露し、投影している新作の本。


 誠一郎は思った。ここから逃げ出したい、と。



 夏雲が覗く開け放たれた窓からは、蝉の音が聞こえていた。








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 私はなぜ彼女に惹かれるのだろう。きっと、明確に定義して口に出せる理由なんてないんだと思う。


 美しいから、優しいから。


 こうだから、という理由を無理につければ、それではそれがなくなってしまったらもう好きではないのかといったら、決してそうではない。


 空気に惹かれる。雰囲気に惹かれる。


 あいまいに感じられるかもしれないが、存在自体に惹かれるということが理由であってもいいではないか。


 好いたあなたが美しく、優しかったのだ。


 好意はそれらの要素に起因することではなく、私にとっては付随でしかない。


 彼女が彼女であることを、一番近くで見ていたいと思う。


 世の中がそれを恋と定義するのであれば、きっと私にとっての恋とはそういうことなのだろう。


(深沢 誠一郎 「恋情語り」より抜粋)


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