5
「椿月にはあんたに黙ってるように言われてたんだけど……今あいつ、ちょっと熱心すぎるおっかけに追われてるらしいんだ」
館長室にある簡易ベッドで椿月を休ませ、館長に事件を報告した後。
明かりが完全に落とされた廊下に、館長室から漏れる明かりだけを頼りに二人の男の姿がある。
「はじめは匿名の熱烈なファンレターから始まって。『愛してる』だとか、『うちに迎え入れたい』とか。まあ、正直そのくらいならよくあるっちゃよくある話なんだ。俺たちはそういう仕事だからな」
開け放した窓辺で、神矢は紙煙草を吸っていた。雨音の止まない窓の外の空気に、煙を吹きつける。
「それからちょっとどうかしてるくらいの量のファンレターが引っ切り無しに届くようになって。その文章もどんどん過激になっていった。『君を連れ去りたい』、『二人でどこか遠くへ行こう』ってな。あまりの手紙の数に手伝いの娘たちも気味悪がっていて」
標的にされているわけでない手伝いの娘たちが気味悪がるくらいなのだから、椿月の心労はさぞつらいものだっただろう。男はそう察する。
「もちろんそんな手紙は無視するんだが、そうしたら『なぜ応えてくれないんだ』『どうなるか分かってるんだろうな』と脅迫めいた文章に変わっていって。今度は、椿月の劇場での挙動を事細かに書かれたりするようになった。まあ、“いつでも見ている”とでも伝えたいんだろうが、こっちからしたら付きまとわれてるってことだから、気味が悪いよな」
彼女がいつも周囲を気にするようにキョロキョロとしていた理由はこれだったのか。今思えばもっと気にしてやれば良かったのだが、その時はそんなに重要なことだと思えなかったにぶい自分が悔やまれた。
「それから、どこでどうやって知ったのか……多分、警備の手薄な旧劇場で、着替えでも覗いたんじゃないかと思うんだが、普段の椿月も追っかけまわすようになったらしくてな。それも手紙に書いてくるようになって。それから劇場でも私生活でも、気のせいかもしれないんだが、いつも遠くから視線を感じるとか物音がするように感じるとかで、出かけるのを怖がってな」
神矢が煙草を吸ってできた間に、男は問いかける。
「警察には?」
「行ってるんだが、その相手が分からないことにはな……」
悔しげな表情で廊下の灰皿に煙草を押し付けると、もう一本取り出して火を点ける。
また一口吸って吐いてから、話を続けた。
「“女優の椿月”が“あの椿月”であると劇場内で正体を知っているのは、館長と、同期の俺だけだ。客や知人友人はもちろん、劇場関係者も信頼のおけるほんのごくごく一部しか、彼女の正体は知らない。だから、館長の頼みで、普段の昼間の外出は館長が付き添って、劇場で帰りが夜になる時は俺が家まで送り届けてたりしてたんだが……」
そこで神矢はちらと男に視線をやった。
「喫茶店であんたと出会った時は驚いたよ。外に出るのをあんなに不安がってた椿月が、館長も誰も連れずに出かけてたんだから」
あの日神矢が自分をじろじろ見ていた理由が分かると同時に、あの時あんなに楽しそうに笑っていた彼女が、実はそんな無理をしていたなんてと、とてもショックだった。
演技の達者な彼女のこと、気が乗らない外出でもにこにことしていられるのだろう。今まで二人で会っていた日のすべてが嘘になるようで、男は悲しかった。
しかし、神矢はこんなことを言う。
「……あんたら、たまに二人で会ってるんだろ? 椿月はよっぽどそれを大事にしたかったみたいだな」
神矢の言葉に男は小首をかしげる。
「自分が変なおっかけに付きまとわれて悩んでいるなんて知られたら、せっかくの二人の外出がなくなってしまうかもしれない。それに、余計な心配をかけたくないから話さない、って」
神矢はフッと片方の口角を上げる。
「あの椿月にそこまで思い入れされるなんて、どんないい男かと思ったんだがな……。ホント、あんたは一体何者なんだか」
男は、今の神矢の話を聴いて、胸の中にじんわりと広がる何かを感じた。
彼女が二人で会うことをそんな風に大切に思ってくれていたこと。そして、それゆえに彼女の胸に秘密を抱えさせてしまったこと。嬉しさ、気恥ずかしさ、悔しさ、悲しさ、色々な思いが入り混じる。
それでも心の一番深いところから、彼女をひどく愛しいと思う気持ちと、彼女を助けたい、守りたいという気持ちがあふれてきた。
「今夜も、送って行くと言ったんだが、今日の帰りはあんたと会うからついてくるなって言うんだ。一応、あんたと落ち合うまで二階の窓から裏口辺りを見てたんだが、まさかあんなそばに潜んでいたとは……」
神矢の表情がゆがむ。それから男に尋ねる。
「顔は見たか?」
「いえ……。暗がりでしたし、すぐに逃げられてしまったので。体格的に、少なくとも女性や子供ではない、ということくらいしか言えないです」
彼の言葉に、神矢は悔しそうにわしゃわしゃと頭を掻いた。
あご先に指をあてがい、男は静かに思考する。
今の神矢の話と、椿月のこれまでの振る舞い。自分が見てきたこと、聞いてきたこと。色々なことを振り返ってみる。
こそこそと椿月を追い回す熱烈なファン――。
外出に付き添う館長と神矢――。
神矢と椿月が恋仲であるという噂――。
その時、黙って考え込んでいた彼の頭の中で、何かがつながった。
「……もしかしたら、その人を捕まえられるかもしれません」
彼の言葉に、神矢の片眉がいぶかしげに上げられる。
「どこの誰かも分からないのにか?」
男は考えるように足元に視線をやりながら、神矢にこう尋ねた。
「もう一度確認しますが、椿月さんの正体は、そのおっかけの人以外だと本当に館長と神矢さんとごく限られた信頼のおける劇場関係者たち、それと僕しか知らないんですね?」
「ああ。誓って言える。正体を知るわずかな劇場関係者たちが、勝手に秘密を他言するような奴ではないということも、俺と館長が保証する」
神矢は真剣な目でそう宣言する。
「……分かりました」
男は足元から視線を持ち上げ、廊下の先の闇をじっと見つめていた。
きっと本人すら気づいていない、今まで誰も見たことのない彼の鋭い眼差しに、神矢だけが気づいていた。
神矢の紙煙草の灰が、ポロリと落ちる。
そして。
ある日の昼公演に、男はまた足を運んでいた。
彼が見に行く舞台ということは、もちろん椿月が出演する回である。
この間と同じように、平日の昼ともなるとまた客の入りは少ない。
男は前と同じ後列の席に座っていた。
一つ空席を挟んで隣の席には、そこがその人の指定席なのか、前回と同じようにあの老紳士が座っていた。
ここ一帯にはやはりまた二人しか人はいない。
男は舞台を邪魔しないよう控えめな声で、老紳士に話しかけた。
「また会いましたね」
「ああ、君か」
老紳士も男に気づくと、帽子を軽く持ち上げて会釈をする。
「君も何度もこの舞台を見に来ているんだね。若いのにこの劇場の良さが分かるか」
嬉しそうにうんうんとうなずく老紳士。
「ええ、まあ。それよりも、ちょっとお訊きしたいことがあるんですが」
男の言葉に、「なんだね?」と席を一つ男側に移動してくる。
「この間お会いした時に聞いた、あの俳優と女優が付き合っているという噂。確か、夜によく一緒に帰っているのが目撃されているとか。気になって確かめたかったんですが、みんな知らないと言うんです。その噂、どこで聞かれたんですか?」
「うーむ。観客の皆が言っていることだからなぁ。はじめに誰から聞いたかは忘れてしまったよ」
たくわえられた白いひげを指先でなでながらそう語る老紳士に、男は更に踏み込む。
「皆って、一体誰が言ってるんですか?」
「……なんだね急に」
男の声色が変わる。
二人の間の空気が、ピリリと電気を帯びたようになる。
「一人でいいので、その噂話をしていた誰か具体的な人の名前を挙げてください。その人に確認を取りますから」
男は視線を逸らさない。
老紳士は言葉を返さない。
「……嘘ですよね。そんなことが噂されているなんていうのは。それは貴方が、夜によく出歩いている二人を見ているからではないですか?」
舞台の盛り上がりと対照的な重い空気が、ここにあった。老紳士はまっすぐ前の舞台を見すえたまま動かない。
男は追い討ちをかける。
「二人が夜一緒に帰るようになったのは、ある熱烈なファンのおっかけ行為がしつこくなってからだそうですよ」
「違う! お前の言っていることはでたらめだ」
ホール内であることも忘れて声を荒げ、感情的になって言い返す。
「私は本当に人から聞いたんだよ。その二人が夜に町中を出歩いているのを見たという人から!」
「そんなわけがないんです」
男の眼鏡のレンズが白く光る。
ホールの後ろの扉から誰かが入ってきたのだ。
公演中にもかかわらず扉を開けたことで、薄暗い劇場内に差し込んでくる外からの光。
中間列くらいまでに座る観客たちが、一体何なのだと後ろを振り返る。入ってきた人物の姿を見、普通に観客が入ってきただけと分かると、不愉快そうにまたすぐに前に向き直った。
だが、老紳士だけは「えっ、えっ?!」と、舞台とその入ってきた人物を忙しなく交互に見つめている。
男は老紳士に言う。
「何を慌てているんですか」
物語は中盤に差し掛かり、妖しい音楽と共になまめかしい演技をする悪女が現れる。
「えっ、だって、そんな、今、舞台の上に……」
男はうろたえる老紳士の手首を強くつかんだ。眼鏡越しの鋭い眼光が光る。
「一体、何を言ってるんですか」
一言ずつ、強調して言う。
その言い方に、老紳士は意味を理解しハッとした。
扉から入ってきた人物、それは、下ろした長髪に袴姿の普段の椿月だった。
舞台の上に出てきた悪女役の女優は、この間の女優・椿月と同じような衣装だが、喋りだすと声が全然違う。この劇場でこの役を演じているのは椿月だけではない。代われる役者もいる。
老紳士の失敗は、入ってきた椿月を見て驚いてしまったことだ。
多くの観客たちはただの一般人だと思い、無視してすぐに観劇に戻ったのに、老紳士だけが慌てふためいていた。
それは、この袴姿の彼女が、女優・椿月であると知っていなければできない反応だった。普通の観客が、椿月の素顔を知っているはずがないのに。
そしてこれだけの反応を見せてしまえば、言い逃れることはもうできない。
「彼女のこの姿を知らなければ、夜に誰かと帰っているところなど目撃しようがないんですよ」
男がそう言い切ると、すべてを認め、諦めたように老紳士は脱力した。
入ってきた椿月のそばで入り口の係員に扮していた、館長の要請で来ていた警察官が、老紳士を拘束する。
最後に老紳士は一言こうこぼした。
「……すまなかった。行き過ぎていたのは分かっていたが、自分でも止められなくなっていた」
その姿が見えなくなるまで、男は険しく冷ややかな眼差しを老紳士に向けていた。
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